ブルガリア研究室

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zoom RSS 社会主義時代の方が良かった?

<<   作成日時 : 2009/03/05 18:29   >>

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 小生が、社会主義圏脱出12年後のブルガリアに戻ったとき、旧知のブルガリア人達の多くが、「何が民主化だ、社会主義時代こそ皆が豊かだった、今は皆が貧乏だ」と口々に不満を述べていました。他方で、もちろん一部には経済的な成功を収めた人々も居て、その人達は一応自分自身には満足していたのですが、彼らも社会全体としては、失業の増加、物価の高騰などで、皆の生活が破壊されたと嘆いていました。そういう声があまりに多いので、「おや、あの不自由で、集団主義で、自分自身の自然な意見すら、全て隠して体制におもねる発言しかできなかった時代、物資欠乏症が激しかった時代を懐かしむなど、一体どういう了見か?」と驚いたものです。今回は、この不可思議な「昔は良かった」発言の真意を探ってみたいと思う。

1.没個性、集団主義が強制された社会主義時代
  前々回「個性尊重の罠」の記事で、米占領軍と戦後の日本の左翼は、戦前の日本の病根として「集団主義、没個性、滅私奉公主義、軍国主義、天皇崇拝」などを挙げ、戦後教育理念としては、「個性尊重、造反有理、権威への抵抗、伝統・歴史への懐疑主義、革命への参加意識」などを植え付けようとしたと書きました。

  他方で、社会主義圏に長らく生活し、社会主義、共産主義の社会のあり方を観察してきた小生としては、社会主義圏の実体こそが、「集団主義、没個性、体制迎合主義」でしか生き残れない怖い社会、すなわち「自由な意見、真実の感情」など一切許されない社会であると思い知りました。すなわち、小生の教育過程で遭遇した、「教室の中で革命思想の吹聴、革命参加の勧奨」しかしていなかった日本共産党員(本人も自認していた)教師の育てようとした、「個性豊かで、造反好きの生徒達」こそは、革命の段階では役だっても、革命後には真っ先に淘汰・粛清される(共産主義用語で、「政治犯収容所送り」を意味する)はずの人々でした。その意味でも(社会主義社会でも集団主義、没個性の従順な人間が好まれる)、そういう類の「個性強調」教育が、普通の社会に不要な「変人(革命家)」を育てる教育理念でしかなかったことは自明です。

2.健忘症
  ここで、冒頭部分の「あの不自由で、モノ不足の社会主義時代を人々はどうして懐かしがるのか?」という疑問に対する回答を試みたいと思う。一言で言えば、健忘症だと思う。
  人間は、あまりにも悲惨な過去に関しては、心理学的にこういう記憶を消そうとするものらしい。健忘症の論証は、以下に徐々に展開します。

3.品質低下のメカニズム
(1)ブルガリアの共産化は、赤軍による占領結果(1944.9.9の「自主革命」<社会主義時代、公式の教科書、歴史書での主張>ではなかった)
  ブルガリア旧体制の政府は、1944年9月8日にソ連赤軍がドナウ川を渡河して自国領土に侵入し、国土を占領される前に、既にほぼ自壊していた。まともな人々は、戦略的に赤軍の進軍を止めることは不可能という現実を直視して、政権を担う意欲も既に無く、また亡国の指導者として戦後に見せしめ銃殺の憂き目に遭うことを怖れて、政府閣僚にもなりたがらなかったし、赤軍が渡河したらすぐに白旗を揚げ、むしろ大歓迎して迎えるしかないと覚悟を決めていた。
  第二次大戦中、賢明なボリス王は、ナチスの圧力に抗して、対ソ宣戦布告をしなかったし、対ソ戦線にブル国軍を派遣することも拒否して、対ソ中立を保った。ブル軍が戦った相手は、第二次バルカン戦争、第一次大戦でマケドニア地方の多くの領土を「ブルから奪った」ユーゴとギリシャだけだった。それでも、所詮は、ドイツ、トルコと同盟を締結した「枢軸国側」と断定され、英、米両国は、ブルガリア旧政権側からの「ソ連の占領だけは受けたくないので、ブルガリアを英、米両国が占領して欲しい」という嘆願を退け、無視した。そもそも、ヤルタ密約でチャーチルは、スターリンに対して、「ブルガリアはソ連の勢力範囲」と約束していたのだ。
  その結果、1944年9月から1989年12月までの約半世紀、ブルガリアは共産圏陣営内に入り、ソ連の僕(シモベ)となることを運命づけられ、経済的自由も、思想的自由も奪われたのである。

(2)私営企業の全面廃止=競争条件の喪失とともに、サービス低下、品質低下が甚だしくなった
  社会主義体制の「深化」とともに、私営企業はどんどん廃止され、工業、商業、農業のほぼ全てが国営企業によって賄われることとなった。もっとも農業のみは、宅地の一部とか、別荘(実体は父祖伝来の田舎の家屋敷である場合が多かったが、他にも都市近郊の山村など、集団農場の農地に適さない小区画の農地なども別荘用地として分譲販売された)に付属する小規模の土地における自家菜園が許可された。
小生自身の経験では、60年代末期、あるいは70年代初期まで存在した、「コーオペラティヴ=組合企業」名目の実質私営のパン屋、喫茶店、自動車修理屋、洋服仕立て屋、靴修理・製造店、レストラン、などが70年代半ばになるとほぼ全て消滅して、国営一本槍となった。「組合企業」という形態が直ちに消滅したわけではなく、小売り商店(小規模食品販売店)、瓶詰め・缶詰製品製造業、などの小規模商業・工業企業が「組合企業」として存続したのだが、それでもこれら組合企業は、組合組織の全国統括組織(TsKS、ツェーカーセー)に従属させられて、自主的経営権を欠く下部組織ということになり、結局はほぼ全ての経済組織は、共産党官僚によって支配された。

(3)商品の多様性排除、品質低下で儲けを増やした
全ての経済組織が官僚統制下にはいると、企業は全て、官僚達の利益に合致する活動に重点を置くようになる。要するに、利潤率が高く、原価が低いほどよいということになる。ソーセージは、多くの品種・商品が存在したのが、年を追う毎に品種数が激減し、しかも中身に占める肉類の比率が年々減少し、大豆による偽の肉、デンプン類、脂身などの混ぜモノばかりが目立ち、肉としては安価な鶏肉(ブロイラー)ばかりという、驚くほど低品質で不味いウインナーソーセージ(krenvirsh=クレーンヴィルシュという名称。今でも小生はこの名前が大嫌いだ)が出現し(腸詰めのはずなのに、ビニール詰めとなった)、これ以外のソーセージ類は商店の棚から殆ど見あたらなくなった。レストランなども、実質私営の時代には、それなりに味がよい食品も提供されていたのに、国営時代になると同じメニューでも味は数段まずくなった。自動車修理屋も、私営企業が消えると、実際には高級官僚達の公用車を修理する大型の修理工場しか残らず、しかもこれら国営工場は我々外人の顧客からは高額の修理費と袖の下ばかり欲しがるが、実際の修理技術はお粗末という、とんでもない存在に堕落した(注:小生は、国境を越えてユーゴまで行くと、個人修理業者が残っていたので、これを利用することもあった)。靴職人も、小生の足形をとって履き心地のよい革靴を作ってくれた職人の店は、その存在を知ってから1年ほどで姿を消し、国営店で買った靴は、値段が3倍ほど高くとも品質は悪く、履き心地も最低で、しかもすぐにかかとの部分の縫い目が破れ、使い物にならなくなった。この靴は、ブル人の平均月収の1/2弱(約5千円)と高価だったのに(ブル人達は、その価格の1/4ほどの粗末な靴を買っていた)、その程度の品質で、小生はその後ウィーンのブランド店の靴しか買わなくなった(値段は更に高いが、5年ほどの耐久性があった)。

(4)集団農場の統合・大型化が農業の自滅を早めた
  村単位だった集団農場が、一つの国営農場と数個の集団農場を合体してAPK(アーペーカー、農工コンプレックス)という、ほぼ郡単位の大型農場に統合されたのは、1970年代後半だったと思うが、その頃から農業は益々非効率となり、生産力が低下していった。大型化は、農業部門に回す投資資金不足、農業労働者数の低減(農民の老齢化)を克服するためには、経営本部を統合化して投資資金を集約する、また、農場の事務部門を縮小・削減して、現場労働者数を増加するという、机上の空論から生まれた構想だったようだ(ソ連におけるAPK方式実験の成功という宣伝に乗せられた面もある)。現実には、現場における作業と作業指示する本部との距離が開きすぎ、農民はいくらでも農作業をさぼれるようになった。また現実に現場の農民があまりにも老齢化してきつい勤労は出来なくなっていたり、あるいは農民がジプシーばかりで勤労意欲も、農作業知識もないものばかりで、いい加減な作業しかしなくなったので、結局は机上では農作業の各段階を踏んでいるつもりでも、現場の農場は、まともな耕作も、作付けもされなくなって、農業は自滅した。農業を「篤農」による産業であると自覚せず、農業さえも「労働者による産業」と考えた社会主義理論の過ちでもあった。(中国では、数千万人の餓死者を出した後ようやくこのこと=農業は家族経営でしか再生できないこと=に気づき、実質個人農制度を再生して、ようやく農民の生産意欲を再構築できた。その後の一時期、中国では食糧自給が実現した。)APK本部は中央に対して、毎年、天候異変とか、旱魃とか、肥料不足、農業機械不足などの、あらゆる言い訳を報告するようになった。もちろん部分的には、肥料不足、機械不足、或いは燃料不足などもあったが、実際には、単に計画数値を達成できない言い訳に過ぎなかった。事実は、現場で既に「農業」は行われていなかったのだ。

  APK時代の畜産は、更に悲劇の度合いが濃かった。殆どジプシーしか残らなくなった畜舎の中で、乳牛はいい加減な世話しかされず、乳量は低下し(APK本部の官僚達は、乳業工場向けに牛乳を出荷する際に、牛乳に大量の水を混ぜて誤魔化したので、牛乳やヨーグルトは、毎年品質が低下していった)、更には病気にかかって死亡する比率が毎年増大していった。羊は外貨獲得を重視するようになって、アラブ諸国向けに輸出される頭数が増えたのに、飼育される頭数は年々減少した。輸出企業は儲けても、APKには外貨収入はゼロ、現地貨収入もたいしたことはなく、儲からない仕組みだったからだ。かくして、養牛、養羊の二つとも、産業としては年々消滅していった。(注:今日の北朝鮮農業の崩壊ぶり、工業部門を含めた経済全体の自滅ぶりは、80年代末期のブルガリアと比べても、更に悲惨ではあるが、根本的、理論的には、上記の小生の社会主義制度の歴史的推移から見て、殆ど同質と思う。恐らくキューバでも、経済縮小のメカニズムは同じ。他方で、資本主義圏で現在起きている大恐慌も、経済縮小と言うことでは似た面もあるが、社会主義における経済全体の崩壊ぶりに比べれば、未だに傷は浅い。)

(5)工業部門も、外貨獲得能力はゼロ
  羊の現物輸出(アラブ諸国に到着後、ハラルの形式に沿って屠殺)で一時は儲けたが、それも先細りとなり、乳業部門も年々国内供給数量を満たせなくなって、クリスマス時期(当初、その後は年中)などには、西欧からバター、チーズを輸入する羽目になっていたが、農産物以外に外貨を稼げる産物としては、覚醒剤(amfetamin)・武器の密輸しか方法はなかった(注:共産圏内のコメコン諸国間貿易では、ワイン、タバコ、トマト、キュウリ、フォークリフト、蓄電池などの輸出品があったが、コメコンの貿易制度は兌換通貨としての外貨収入を生まないシステムだった)。

(6)西欧のシステムを利用して、何とかバター、チーズを輸入
  共産圏内における、競争のない工業製品(極めて低品質)しか作れないという虚弱な工業製品品質だったから、工業部門で僅かに外貨獲得できたのは、武器輸出と覚醒剤(密輸品)、及びソ連石油の転売(ブルガリアは、ソ連から安価に輸入した石油、天然ガスから製造した石油製品、化学原料品を一部西側市場に転売して儲けていた)のみ、という惨状だった。

  結局、農業崩壊が深まった80年代、バター、チーズも自給率が低下して、EC(今日のEU)諸国の過剰農産物を極めて低価格で輸入できる制度(ECの輸出補助金に依存)を利用して、西欧、日本などから借金した外貨でこれらを輸入する以外に、国民の不満を宥める手段もなくなっていた。(注:小生自身は、80年代後半、品質の良いドイツ製のバター、フランス・オランダ製のチーズなどをほぼいつでも購入できて嬉しかった。他方北朝鮮の独裁者には、市民のために不足するバター、チーズなどの必需品は、輸入してでもある程度は供給するというブルガリア独裁者並の「仁政」の志はないようだ。そもそもブルガリアでは、不味くはなっても、「パン」が市場から消えたことは一度もなかった。ちなみに、パンの供給義務など最低限の仁政を守ったトードル・ジフコフ書記長は、隣国ルーマニアのチャウセスクのように変革時の混乱の中銃殺されることはなく、裁判も老齢、病気を理由に中断、釈放されて、孫娘の看病下に、孫娘の家で死去することができた。国民も、銃殺するほどは憎んではいなかったのである。チャウセスクは、80年代後半の経済危機の中でも、対外債務返済と大宮殿建設という、国民生活無視の悪政を繰り返して国民を塗炭の生活苦に追い込んだので、政変後直ちに銃殺されたのだ。)
  
4.なぜ人々は、思想統制の不愉快さ、物資欠乏の貧乏性を忘れるのか?
  社会主義時代、大学生となっても、コムソモール(共産主義青年団)に強制的に所属させられ(幼稚園、小学生の時もチャヴダール、ピオネールという共産党系の組織に強制加入させられる)、集会では上層部の説教とか、命令を拝聴させられ、自由な発言は一切許可されず、指導部の選挙でも既に上層部で作成された幹部名簿をそのまま承認させられた。また、市民となってからも、国会議員選挙などでは、共産党政治局作成の名簿のままの投票用紙に何らのチェックも入れずにそのまま投函する(ペンを使って誰かの名前を消そうものなら、投票所を出たとたんに拘留され、尋問を受け、場合によっては強制収容所送りとなる)という不自由きわまりない、形式的な「民主主義」を強制された。こういった政治的自由の欠如に、市民は憤慨していたはずだ。思想面でも、宗教的自由を否定され、個人の思考の自由すら殆ど許されず、思考停止を強制されていた

  物資、サービスの欠如、欠乏ぶりは上記3.で詳述したとおり。mugiさんがどこかで述べていたように、昔NHKの討論番組で、ソ連から来ていた学生達は、日本人の左翼かぶれ達を「おいしいビールを飲んで何を脳天気な」と叱咤したそうだ。確かに社会主義時代のブルガリアでも、ビールは「文字通り馬のションベン」だった(ソ連の場合更に不味かった)。アルコール分はあるが、全て500mlの瓶入りで、何遍洗い直し、リサイクルされたか分からないほど痛んだ薄汚いガラス瓶入りの「ビール(pivo、ピーヴォ)」なる代物は、大麦だけではなく、トウモロコシが主原料とも噂され、普通レストランでも冷蔵されることもなくテーブルに出され、不味いことこの上もなかった。冷蔵しても、味は全然改善され得ない代物だった。ソ連からの(同じくブルガリアからの)学生が、日本のビール、パン、食品の全てが美味なのに吃驚したことは当たり前だ。そういえば、ブルガリアの少し高級なレストラン(国営時代)では、ブル製のビールは普通置かれておらず、ハイネケンとかが高値で提供されるので、小生は国産のワインと決めていた。ワインなら、それなりにおいしい場合が多いし、値段も安いから。

  上記のような、思想面、物資面での不満は、常に強烈だった。多くの市民が、日本製のテープレコーダーとか、ステレオ、トヨタ、ホンダの自動車を保有することを夢見ていたし(ブル人と話すと、すぐにソニーだの、東芝だの電気製品の話題ばかりとなり、欲しそうな顔をされて小生は辟易することが多かった)、ドルショップ(外貨店)では、日本製の家電製品がずらりと並んでいた。タバコも、国産品が不味いので、マルボロなどの米国製品が外貨店でよく売れた。外貨を獲得するためには、リビア、イラクなどに建設技師、医師などとして単身赴任したり(時には家族連れでの赴任も許可された)、医師として夏休みに西欧に出稼ぎに出ることが手っ取り早かった(それ以外に、普通の市民には外貨を手に入れて、外貨店に並ぶ良質の商品を買う方法はなかった)。

  自宅には、本当に必要最低限のモノしかなく、文明、文化を感じさせるようなモノ(例えば、良質なコーヒー豆とか、ウイスキーとか、洗剤、パンストなど)が一切無く、トイレットペーパーですら、ごく稀に中国製品が売られる程度で、この故に人々は何と「小さく切った新聞紙」をトイレで使用し(終戦後一時期、我が家でも使っていた)、これは水洗便所で流れないので、尻を拭いた後は籠に入れ、週に一度まとめて回収用のゴミ箱に捨てていた。小生は、ブルガリアでの生活の初日、このトイレの中の籠の存在理由が理解できず、その後その使用方法を知って、この籠が不潔に見えてたまらず、家主に撤去して貰った思い出がある。ユーゴ、ギリシャに車で出かけるたびに、トイレットペーパー、キッチンタオルなどを大量に買い込む、これが社会主義時代のブルガリア在住の日本人達の生活様式だった。不味いビールに、トイレットペーパーも、ティシューも、パンストも、何もない生活。月給は平均値で1万円ほど。結局、田舎にある別荘で週末農業をして、野菜、果物、ラキーヤ(焼酎)、ワイン、漬け物、野菜・果物の瓶詰め、などの食料品を自給する。これが大部分の市民の生活の知恵であり、かつ店頭からあらゆる野菜も、果物も、肉も消え失せる冬期に、飢え死にしないための工夫であった(パンだけは安価で、市民も大量に買って鶏の餌にするくらいだったから、東欧圏の社会主義は、餓死者を出さず、中国、北朝鮮よりはましだった)。

5.健忘症と嫉妬
  上記のような社会主義時代の貧乏きわまりない生活実態を今日の資本主義化して、商店には冬でも野菜、果物が溢れかえり、日本人好みの大根、マッシュルーム、ミカン、メロンなどまでが、普通に近くの店で買える時代になって、人々はなぜ文句ばかり言うのか?
  答えは簡単。昔は皆が欠乏の中で生き、お金があっても買うモノがなかったが、今はお金が足らないからだ。欲しいモノが溢れていても、それらを買うお金は有限だし、多くを稼げる人は限られている。工場も、企業も倒産し、多くの人々が失業状態か、就職しても低賃金で、十分なお金に恵まれる人は、限定的だ。

  とはいえ、本当は、社会主義時代に比べれば、トイレットペーパーも、キッチンタオルも、タンポンも手にはいるし、もちろんパンストが不十分・高価で、つぎはぎだらけのパンストをはいていたりした社会主義時代とは違い、今ではこれらの面では文明化した。また、窓ガラスは、アルミ製のサッシに交換して隙間風が減ったし、冷蔵庫、洗濯機、カラーTVなども品質の良いモノが家の中にはある。しかし、毎日おいしい食べ物をスーパーで買うほどの余裕はないし、何時失業するか分からないという不安も大きい・・・・(今は、息子がマフィア系企業に勤務して、高給取りだから、援助もしてくれているが、いつまでそのマフィア系企業が倒産しないで存続できるか、不安だ)・・・・など。停電も、断水も、社会主義時代に比べると、頻度は減っている。
  つまり、本当に社会主義時代に比べて、大きく貧乏になった人々の数は、少数なのだし、大部分の人々の生活内容は、文明的になってきているのだ(携帯電話を持っているし)。それでも、失業などの危機という将来への不安が増えたし、隣の誰それが羽振りがよいのに比べれば、自分の家族は貧しくて、安価な近所の中華料理店に食事に出かける回数も、「普通の市民」に比べると自分は少ないし、未だに自分の乗用車はジグリ(旧ソ連製)だ・・・。

  結局市民達は、過去の生活における日々の不安(思想統制に由来する不安、不愉快、物資欠乏)などはすっかり忘れていて(健忘症)、逆に将来に対する不安がむしろ強まって、更には、隣人の一部があまりに裕福になって(某はBMWを乗り回している)、不公平だと感じるので(嫉妬)、本来はより幸福感を持つべきなのに、幸福感に浸れないのだ

  この結果、「昔はもっと豊かだった。マフィアなどの裏稼業でボロ儲けした奴らが、のさばっては居なかった。共産主義の方が公平だった」などという事実無根で不条理な愚痴になる。自分自身が、競争社会の中で能力を発揮できないこと、その故に家族からも頼りない父親と見られていることに我慢がならないのだ。従って、責任を「マフィアだらけの今のご時世」に転嫁する。

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共産主義時代のブルガリアの実態のお話、またしても面白く拝読させて頂きました。
まだゴルバチョフ時代、来日したロシア人留学生が「朝まで生テレビ」で、「日本の共産主義者は日本で美味いビールを飲んで、共産主義の夢を語っている」と冷ややかに言い放ったことが、未だに忘れられません。
あなたに狂犬のように噛み付いていた某ブロガーなど、共産主義体制が確立したら、真っ先に労働矯正収容所送りですね。その方が本人のためにいいかも。レーニンは自分達に協力した知識人を影で、「役に立つ愚か者」と嘲っていたそうです。また彼は、新聞記者など全て殺せ、とも吠えていたとか。

ところで、共産主義時代のブルガリアで少数民族の扱いはどうだったのでしょうね。トルコ系住民への差別的待遇により、トルコと不和だったと聞いたことがあります。もちろんトルコもアルメニアやクルド人の問題を抱えていますけど。
mugi
2009/03/07 15:45
mugiさん、またコメントありがとうございます。
4.で触れたmugiさんのブログにあった話は、「朝まで生テレビ」の話だったのですね。小生の記憶違いですが、この欄で訂正ということで、読者の皆様にお詫びします。
社会主義時代の対少数民族待遇は、2月9日の小生記事(キューバの社会主義もうまくいっていないという話)の4.において、主にトルコ系の話として「再生過程」という、過酷な強制措置が行われたことを書きました。改姓改名はもちろん、モスクを破壊し、トルコ系住民の村に睨みをきかせるために戦車を動員したりしました。それまで細々と認められていたトルコ語教育とか、コラーン学習塾とかも禁止。
室長
2009/03/07 16:55
自由化後は、トルコ系はドガン氏率いるDPS党が、日本における公明党のように、連立与党として守るので、国内における政治的地位、立場は強化されている。
 ブル語を話すがイスラム教徒のポマック(少数民族)達も、改姓改名を強いられた。彼らは南部ロドーピ山中に多いが、自由化後はコラーン学習熱などもインターネットなどを使って強まっているらしい。ポマックは人数が少ないし、政治的要求はあまりない。
 
 ジプシーに関しては、自由化後、就職口(農場、工場)が倒産し、経済的に貧困となった家庭が多いようだが、社会主義時代にも差別はあった。しかし、彼らは政治闘争をしないし、いつの時代も法律を守る気がないし、なんとか柔軟に生き抜いている。自由化後一部のジプシーは富裕化して、豪邸に住むが、ジプシーは氏族制社会なので、氏族が違えば、お互いに助け合うと言うことも少ない。
 結局出産率の高いジプシーとトルコ系という少数民族の人口比率が、今後もますます増える可能性が大。現在は、トルコ系10%、ジプシー系8%程度の人口比率と思う。
室長
2009/03/07 17:03
室長様、丁重に教えて頂いて、有難うございました!

件の「朝まで生テレビ」で、ビールのことで発言したのとは別のロシア人留学生は、出国前に山ほどの書類にサインさせられた、日本女性とセックスしてはいけない、とまでクギを刺されたと言っていました。すかさず司会の田原総一郎氏が、「日本共産党員でもダメ?」と質問、会場は笑いに包まれました。若者に性行為するな、と言うのがすごいと思いましたね。

私が見た唯一のブルガリア映画が『略奪の大地』。反トルコ主義が全面に出ていて、重い内容でした。
mugi
2009/03/08 20:03
mugiさんへ、
『略奪の大地』という映画は、小生は見ていないと思う。トルコ帝国がバルカン半島でキリスト教徒住民の弾圧に乗り出したのは、フランス革命の影響、ロシアの帝国主義がバルカン諸国のキリスト教徒の間に「民族主義」運動(革命運動とも称した)を発生させ、反乱が生じ始めたから。ブルガリアにおける反乱なども、後世の歴史家は重視するが、当時の国民の大部分は無関心で失敗を重ねたが、オスマン帝国政府は、カルジャリと呼ばれる私兵軍団などのならず者を投入して、残酷な弾圧、略奪、放火、強姦などを容認したので、恨みが後世にまで残った。
室長
2009/03/09 15:27
(続)バルカン半島には、多くの民族が混住しているが、普通は居住区はある程度分かれていて、毎日鼻つきあわせて暮らしているわけでもないし、お互い嫌い同士であるが、相互に無視して何とか共存している。相互不干渉と相互無視が、共存の知恵だった。無理に相互理解とか、仲良くなろうと努力しない方が、人間にとっては自然かもしれない。オスマン時代長らく、民族ではなく、宗教の相違ということで、居住区も分けて(同じ町の中でも別の地区に住む)、共存していた。職業とか、商売も、互いに違う面を担当した。エスニック間の対立は、昔からあるが、大きな闘争は少ないのがバルカンでした。第二次大戦中のユーゴにおける民族浄化、90年代の民族紛争というのは、長い歴史の中では、かなり異質な部分に入ると思う。
室長
2009/03/09 15:30
映画『略奪の大地』は17世紀後半のブルガリアを描いた作品です。
私はとかくトルコを中心に歴史を見ていたので、私兵軍団カルジャリのことは初めて知りました。ブルガリアからのトルコという視点はとても参考になります。

>お互い嫌い同士であるが、相互に無視して何とか共存している。
>相互不干渉と相互無視が、共存の知恵だった。

多民族、多宗教国家インドも似たような情況でした。そして一旦暴動に火が付けば、地獄となります。
戦後日本の“進歩的文化人”の唱えた「相互理解」が、いかに世界から逸脱していたのか分りますね。そもそも連中って、日本にこもっていながら、共産圏を讃えていた者達だし。まさに存在自体がガン細胞。
mugi
2009/03/10 21:56
大変興味深くブログを拝見させていただきました。今回の記事に関しては、外国人から(ブルガリア人ではないという意味で)の視点ではごもっともな意見だと思います。ブルガリア人の視点からでは違うかもしれません。共産党主義の時代の方がよっぽど良かったという声は一理あると思います。それを健忘症や嫉妬かというとそうでもないと思います。室長様は自分自身が体験されたブルガリアでの不自由な生活に様式に対して いろいろと意見を書かれておりますがブルガリア人からしてみると 室長様がおっしゃってる、『不味いビールに、トイレットペーパーも、ティシューも、パンストも、何もない生活。月給は平均値で1万円ほど。結局、田舎にある別荘で週末農業をして、野菜、果物、ラキーヤ(焼酎)、ワイン、漬け物、野菜・果物の瓶詰め、などの食料品を自給する』が当たり前の生活であってそこに不自由を感じているわけではなかったのです。

ロザ
2009/03/24 04:26
もちろん、豊かな海外の生活を垣間みれる様な環境で生きていた共産党幹部、出張に行ける身分の(医者など)の人達に取っては共産党時代を不自由に感じたかもしれないがそれはブルガリアの全人口において主にソフィアに集中するごく一部の人間でありそれ以外の一般庶民のブルガリア人に取ってはその不自由な生活こそが普通の生活であったわけです。室長様がおっしゃるまずいクレンヴィルシュもあのパンも私達にとっては物心ついてから食べて慣れた食べ物であって今でも美味しいと感じるわけです。
ロザ 続きです 2
2009/03/24 04:28
長年トルコに支配され、その後にロシアとほぼ自己の主張を自由にする事をしてこなかった私達にいきなり目の前に訪れた自由は戸惑いでしかありませんでした。社会主義崩壊後のあの生活の厳しさを室長様も日本人の立場ではなくブルガリア人の一般庶民として生きていたのならあの時代が良かったと思う事も出来ると思います。今のブルガリアはモノポリーが激しくマフィアの力も強く社会主義崩壊後、本当の資本主義というものを間違った方に捉えて突っ走っている状況です。どんなに知恵があっても、お金とコネがないと生きていけません。今のブルガリアは、人々の心が満たされてないので、気持ちに余裕がありません。皆自己中心的になり、自分たちだけが良ければいいという風になってます。道徳もあったもんじゃありません。正直に生きる人程損をする弱者の立場になる今のブルガリアでそういった意味では、あぁ、昔は良かったなと思わざるを得ないのです。
長々と失礼しました。
ロザ 続きです 3
2009/03/24 04:29
ロザさん、コメントありがとう。上手な日本語ですね。
さてしかし、あのとても食べられるものではないようなクレーンヴィルシュを本当に思い出しながら「おいしい」と言われるのは、正気とは思えないのです。本当にもう一度同じものが目の前に出てきて、食べられますか?
ドブルジャのパンは、自由化後にも似たものをまだ売っていたし、まあパンダから何とか小生でも、食べれますが、毎日あれしかないのではねー。そういえば、ベレンコというソ連の空軍パイロットが、冷戦時代(1971年頃か)最新式のソ連のジェット戦闘機で、札幌に亡命してきたとき、日本の警察の拘置所で食べた食パンに涙して、こんな柔らかくておいしいパンは生まれて初めてだと感激したので、日本人は驚きました。
本当はベレンコ氏は、自国の馬のションベン(小便)のようにまずいビールと比べて、日本のビールはおいしくてもっと驚いたはずですが、それは日本の新聞では書かれていなかったです。そう、あなたも、昔のブルガリアのビールの味を思い出してください!
室長
2009/03/24 21:37
(続き)もっと嫌だったのは、本当に感じたこと、思ったことを簡単には口に出せない不自由で、思想統制の厳しい社会雰囲気ではなかったでしょうか?自分の周囲の友人も、いつあなたを裏切って共産党とか、党員にたれ込むか分からないという不安感は感じなかったですか?
資本主義社会が理想的と言うつもりもないけど、あんなひどい独裁体制よりは、よほどましではないのですか?今は、あなた自身、どんなコネが無くとも努力次第ではいい職業に就けるし、高い給料も稼げるという希望があるのではないですか?
室長
2009/03/24 21:40
そうですね。室長さんのいう通り社会主義時代のあの独特の状況が今でも続いていたらそれこそ大変だと思いますし、今の資本主義社会で希望がある事方がいいですね!けれど、社会主義から資本主義へと時代は簡単に変わっても、人はなかなかかわれませんね。今のブルガリアの状況はけして素晴らしいとは言えないですから。政府が、国民がきちんとしていないからだと思います。これから、何十年か後にやっと 一人前な資本主義の国になるのかもしれません。それまでは まだまだ時間がかかりそうです。あとは、面白い話ですがクレンベリシュは今でもブルガリア人には人気はありますよ。アメリカではブルガリアの食品がネットで買えますが、皆クレンベリシュを買いますよ。肉の原価よりハムなどの加工品の方が値段が安いのは明らかに何かを混ぜて安くコストを済ませてるからですが、それでもみんな食べていますね。慣れなんですね、きっと。あと、最近はシレネやカシュカバルを作ってる会社のほとんどは原料に牛乳を使っていない事が判明しました。食べ物の質は社会主義時代と変わっていないのかもしれません! 

ロザ 
2009/03/25 05:27
マフィアだらけの資本主義社会が、すぐにうまくいくものではないですが、それでも、元マフィアのBorisovソフィア市長が、今年6月の総選挙で首相になったとしても、それほど今よりブル社会が悪くなるとも思えない。共産党独裁者と元マフィア(あるいは今でも、少しはマフィア)の選択肢で、どちらが結局投票で選ばれるか?
しかし、クレーンヴィルシュが未だに人気があるとは、不思議。88年、89年頃の、混ぜものばかりのクレーンヴィルシュとは違い、今のはそれなりにおいしくなっているのでは?小生も、日本の魚肉ソーセージを偶には食べますが、それでもやはり本物のウィンナー・ソーセージの方がおいしい。
室長
2009/03/25 09:57
(続き)特にドイツ、オーストリーで食べたWurst(ヴールスト)の味は、忘れがたい。日本のWurstに似たソーセージ類もそれなりにおいしいですが、中身の豚肉は、オランダとか外国から輸入している模様(日本製の豚肉よりは価格が安いけど、安全性は少し心配)。ブルの肉製品も、昔より品質はよいけど、最近もアイルランド製の危険豚肉に関する記事がinternet記事であった。まだ品質検査には、問題があるようですね。
ブルガリアが、市民が自分の知恵と努力を生かせる資本主義の下で、発展し、豊かになることを祈っています。また、コメントしてください。
  (このWebryのシステムはコメント500字制限があるので、本当に面倒ですね。)
室長
2009/03/25 09:59
横レス、失礼致します。

>室長様

ベレンコ中尉の事件は1976年9月です。ミグ25事件といった方が知られているかも。私はまだ子供時代でしたが、領空侵犯しながら恫喝する旧ソ連の姿勢を憶えています。日本の美味しいパンのエピソードは初耳で、驚きました。


>ロザさん、初めまして。

日本語がとてもお上手ですね。まるで、日本で生まれ育った人みたいですよ(笑)。
右でも左でも祖国なのは変わりないので、共産主義時代にノスタルジーを感じるのは人間として当然の情です。しかし、「道徳もあったもんじゃありません」「政府が、国民がきちんとしていない」のは、資本主義国もあまり変わりないのではないでしょうか?そのような発想に共産主義的残滓を感じました。特に道徳を持ち出すところに。
古今東西「きちんとしている」人間は少数だし、嫉妬は人類の永遠の病です。
mugi
2009/03/25 22:38
mugiさん、ご指摘の通りミグ25事件=1976年が正しいですね(小生の勘違いです)。しかし、柔らかいパンというのは、当時の新聞記事として、記憶にあります。あなたがまだ子供なら、小生はその頃既に結婚してブルから日本に帰っていました(自分の老いた年を感じさせてくれますね)。77年にまたブルに行き、そこである人物から、親父(ブル軍幹部)はこの事件の時に、ソ連からの要請で、札幌(新千歳?)に行き、現場で日本側の動き、ミグ25機体の監視(なにを日本側が調べているかなどだと思う)などしていたと告白されました。ソ連共産党は、ブル軍幹部(GRUの系列下?)を使って、日本の現場に直ちに送り込んだ、というわけです。ベレンコは米国に亡命したはず。不味い食品、かっこうわるい家電製品、日本製バイク、自動車へのブル人達の満たされ得ないあこがれ・・・これが社会主義の哀れな現実だった。
室長
2009/03/26 09:11

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社会主義時代の方が良かった? ブルガリア研究室/BIGLOBEウェブリブログ
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