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zoom RSS オスマン帝国衰退の教訓

<<   作成日時 : 2009/06/06 14:20   >>

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 最近、鈴木董(ただし)著『オスマン帝国:イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書、1992/04第1刷、07/06第27刷)を読了した。最近の原理主義テロなどから、イスラム教は異教徒に対し非寛容で、狂信的な宗教というイメージがあるが、元来のイスラム系諸国家は外に開かれた開放的な世界であるし、征服した民に対しても、その地の民を「啓典の民」(キリスト教、ユダヤ教は神による啓示の書物を持ち、唯一神を奉じる、近しい宗教と見なすこと)として丁重に扱い、宗教別の自治を許したし、税を支払う限りは、ズィンミー(被保護民)として保護したという。宗教的自由、言語・出版の自由、教育の自由などの寛容な体制で、多様な民族、多様な宗教を柔軟に国家体制に組み込む知恵が、イスラム系国家の特徴であったという。
 この著書に関し、若干のコメントを試みる。

1.ズィンミー制度
  著者は、上記のような開放的なオスマン帝国のシステムを、イスラム的世界秩序感に基づいて説明している:@「イスラムの家」、A「戦争の家」。@は、イスラム法の秩序が成立した世界、Aは、異教徒の支配下にあり、イスラム法の秩序が確立されていない世界。「ジハード」とは、Aを@にするための不断の働きかけであり、言葉による平和的折伏も含まれるが、武力行使も含まれる。ただし、強制的な改宗は禁じられている、という(すなわち、「寛容な聖戦」と著者は言う)。よって、@のイスラムの家は、ムスリムと非ムスリムが共存する世界として想定されているという。
 また、非ムスリムは、「偶像崇拝主義者」と「啓典の民」に二分され、前者は「コーランか剣か」という選択を迫られるが、後者は「コーランか、貢納か、剣か」の三択の余地を与えられる、という。貢納を受け容れれば、ズィンミーとして保護され、自治的な生活を保障されるという。実際には、「偶像崇拝主義者」として、討伐対象となったのは、アラブ世界の偶像崇拝者達のみで、アラブの大征服が進展するに伴い、マニ教徒、ゾロアスター教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒も「啓典の民」に準じて扱われたという。
 更にこの本で、小生が目を開かれたのは、いわゆる「ミッレト制」という用語は、近代西欧で、オスマン帝国の異教徒に対する取り扱いぶりを説明するために採用された言葉であり、オスマン側の史料には一切登場しない言葉であるという。著者は故に、いわゆるミッレト制なるシステムは、実際には、オスマン帝国以前のイスラム世界にも存在した、ズィンミーに対する寛容なイスラムの制度を指すので、ズィンミー制度と呼ぶべきと言う。

2.スルタン・カリフ制の否定 
  この本で更に刮目させられたのは、オスマン朝の同時代歴史書では、セリム一世が、マムルーク朝庇護下のカリフからカリフ位を禅譲されたというようなことには、言及してはいない、という。すなわち世俗的権力者としてのスルタンであると同時に、宗教的権威であるカリフでもあった、というような、オスマン朝君主の「特徴」などは、元来そういう観念はなかった、伝説に過ぎないという。「ミッレト制度」の否定に次いで、またもや定説を否定していて、面白い。
 オスマン朝が使用した「カリフ」、または「地上における神の影」という称号は、アッバース朝衰退後、イスラム各地の君侯達が、「聖法シャリーアの守護者という意味で用いたカリフ称号」という意味くらいしかなかったらしい。
 オスマン側が、スルタン=カリフ的な議論を始めたのは、18世紀末にロシアのクリミア進出に伴い、クリミア汗国への宗主権を失った後、クリミアのムスリムに対する影響力を残すための努力として、主張され始めたのだという。

3.イスタンブルはギリシャ語
  もう一つ刮目させられたのは、オスマンによるコンスタンチノープル征服後、エディルネから遷都して、イスタンブルと改称されたという言い方は事実ではない、ということ。オスマン帝国の首都となる以前から、イスタンブルという名称が使われたこともあったし、元来この名称は、「町へ」を意味するギリシャ語「イス・ティン・ポリン」に由来するのだという。イスタンブルという言葉がギリシャ語由来で、確かにオスマンの帝都となって以降イスタンブルという名称がより頻繁に使われたとはいえ、その後も公文書、貨幣などで、「コンスタンティニエ」の名称が使用されているという。要するに、コーランの中で、コンスタンティニエという表現が使用されているので、そのまま借用して使っていたという(ローマ皇帝コンスタンティヌスの都という意識での使用ではない)。
 ちなみに、ブルガリアなどスラヴ系の国家では、今でも「ツァーリグラット(帝都)」と呼んでいて、イスタンブルという用語は余り使用されない。また英語では、Constantinopleのまま、今日まで呼ばれている。

4.遊牧国家としての視点は? 
  多様な民族への寛大な措置、これら広範な人民の各層から人材をリクルートする柔軟なシステム、君侯達が王権を制約する、分権的な西欧の体制に比べて、早々と中央集権的な君主による専制体制が確立され、強大な常備軍を保有した、などの「オスマン帝国の先進的な性格」が本書によって強調されている。しかし、著者の視点は、イスラム世界にのみ限定されて、各種の制度、体制をイスラム法に基づくとしてのみ見ているために、モンゴル帝国以来の遊牧民国家が保有していた「開放的で、一人の指導者(ハーン)に権力が集中する」という特性が、オスマン帝国にも共通していたという視点が足りないような気がする。

 多様な民族を包含する大帝国を樹立し、広大な国土を自由に移動できるキャラバンによる自由な交易空間を整備・拡大して、商業に基盤を置く税制などで、巨大帝国を構築、維持するノウハウを確立したのがジンギス・ハーンであるといわれる。オスマン帝国の多様な民族を統治し、広範な自治権を容認しつつ、多様性、多宗教、多言語の社会を、柔らかい専制体制で統治するシステム、中央官庁において、皇帝の奴隷(小姓)出身の高官が、帝国全土に文書で指令して統治する体制・・・などなど、小生としては、オスマン帝国の体制は、モンゴル帝国、大元帝国、キプチャック汗国などのモンゴル系の帝国のシステムを多く模倣、採用しているようにも見えるのだ。
 通商重視、この故の開放的体制は、オスマン朝臣民だったバルカン半島のキリスト教徒達が、18世紀後半頃から西欧に自由に留学できたことを意味したし、結果として西欧からナショナリズム思想を持ち帰り、オスマン体制を揺るがすようになったことなど、その後の展開にも関わってくる。イスラム法の体制・体系が開放的で寛容だという視点の他に、遊牧国家の伝統、統治手法が開放的なものだった、という視点も欲しいように思う。

5.組織の肥大と財政赤字
  本書は、主としてオスマン帝国の発祥から盛期までを扱っているが、16世紀末以降の衰退期も巻末で若干触れている。そこで指摘されていることは、組織の肥大と財政赤字の拡大という、現代社会における病根と同じだ。同時に、「魚は頭から腐る」という諺も紹介されている。まさに今日の日本にとっても、耳の痛い言葉ではないか!!

(1)常備軍団の肥大
  「16世紀初めには、せいぜい1万人前後に過ぎなかったイェニチェリ軍団は、17世紀初頭には4万人近くに膨れあがった。これが財政赤字を恒常化させた。」と著者は言う。
イェニチェリ(歩兵)以外の常備軍団、すなわち、騎兵軍団、砲兵軍団、砲車兵軍団なども、もちろん肥大化していった。
  (注:そういえば、現代のトルコ共和国でも、冷戦期に対ソ連国境を抱える前線国家として、50万の大軍部を維持したために、トルコでは財政赤字が恒常化して、毎年インフレが激しかった。ちなみに、トルコの軍部は、世俗主義国家としてのアタチュルク以来の体制の擁護者という役割も有していて、イスラム主義者達の政治への関与、政界への進出に絶えず睨みを利かせてきた。然るに近年、冷戦体制解消という世界情勢の変化もあり、軍部の力が弱まり、イスラム主義者達の政界への進出がより加速化されている。)

(2)支配機構も肥大
  スルタン自身は、徐々に支配組織の頂点から後退して、権威のシンボルと化した。大宰相も、個人の力量に頼る政治家から、組織の中の官人へと変化した。書記達の官僚組織が益々肥大化した。要するに、パーキンソンの法則で警告されているような、官僚組織の自己肥大の法則が、オスマン帝国でもあったらしい。
  当初は、スルタンが自ら主催する、人数限定の「御前会議」が、帝国の決定機関だったのに、その後大宰相が帝国の政務全般を担うようになり、しかも独自の大宰相府という官庁組織に肥大した。更に、公文書行政を取り扱うための大宰相府事務諸局が誕生した。また、財政面では、財務長官傘下の財政組織があり、また地方財務官の組織を系列下に保有していた。更には、イスラム法官達による司法組織が、中央から地方に至るまで張り巡らされていた。

(3)一番深刻なのは、「魚は頭から腐る(トルコの諺)」現象
結局、軍部の肥大=軍事費の負担増大が、財政危機を生じ、徴税請負制度という制度変革を産んで、徴税率の改善を試みたが、社会の構造変化まで来してしまった。また、官僚機構の肥大は、スルタン、大宰相などの元来が統治の主役であるべき最高指導部の質を低下させたという。
  もちろん、根本的には、西欧における技術革新で、軍事技術における西欧とオスマン帝国の間の較差が増大したことが、オスマン帝国衰退の主要因ではあるが、それ以前の状況でも、組織が発達し、精密化するのと反比例して、政治指導部、最高幹部の政治・軍事的資質が低下していったのだ。



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オスマン統治下のブルガリア@
「ブルガリアの中世」@〜Bに引き続き、今回からは、 「オスマン統治下のブルガリア」を連載します。今回はその@です。 ...続きを見る
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内 容 ニックネーム/日時
 この新書、私も以前読んでいます。個人的に「イスラムの寛容」という神話を強調しすぎる傾向があると感じましたが、オスマン帝国の歴史をコンパクトにまとめた書でした。
 実際には「偶像崇拝主義者」となれば、立場は微妙ですね。個人的にゾロアスター教に関心がありますが、イスラム興隆以降は受難の歴史と言ってよい。インドに亡命した集団が栄え、人口も本国を上回っている事実だけで、やはり「偶像崇拝主義者」は住みにくいのは確かです。もちろん西欧のキリスト教社会よりはずっと寛容でしたが、ヒンドゥー、中華圏に比べれば寛容度は完全に劣ります。オスマン帝国はヒンドゥー商人を排斥したこともありました。なお、マニ教は異端としてしばしば迫害を受けることもあったそうです。かつては世界宗教だったにも係らず、現代は消滅した宗教であり、オスマン帝国が栄えた時代にはもう下火になっていたはず。
mugi
2009/06/06 21:57
mugiさん、貴重な情報をありがとうございます。やはりこの新書は、中世から近代初期の頃とはいえ、「イスラムの寛容」を少し誇張している感じがするのですね。もっとも、その当時のキリスト教の不寛容ぶりは、先に書いた裏面史によれば甚だしいので、イスラムの方が元来寛容なのでしょう。
 その理由は、なにしろ、イスラム社会、或いは遊牧系の国家は、薄く広く徴税しつつ、支配領域を広げるという「商売人的才覚」があった体と思う。バルカン半島でも、在地のキリスト教系の領主達は、高税率だったのが、オスマンが進出してきたら、低税率になって庶民は喜んだそうです。イスラム法官による裁判も相対的に公平だったようです(ただし、キリスト教徒間の裁判は、オーソドックス教会=ギリシャ正教会が裁いたはず)。デウシルメも、独立後の神話としては、息子をとられて母親が泣き叫ぶなどの映画があるが、当時の感覚としては、スルタンの奴隷となれれば、高官への出世の道が開けるし、イェニチェリ兵士になっても、それなりに昇進となるのですから、強い抵抗があったかどうか怪しいです。
室長
2009/06/07 17:03
 イスラムは何しろ教祖が商人、その腕を見込まれ、金持ち未亡人に求婚されたほどです。コーランには細々と商売の規則が記され、あるイスラム学者も「商人貴族によって始められた宗教」と書いています。
 オスマン帝国進出後、バルカンでは低税率になったとは知りませんでした。ムガル朝インドだと、ヒンドゥーなどの異教徒にはジズヤ(人頭税)をかけられたので、これは強い反発を招いています。イランのゾロアスター教徒にかけられたジズヤも負担は重かった。

>デウシルメも、独立後の神話としては、息子をとられて母親が泣き叫ぶなどの映画がある

 私が見た唯一のブルガリア映画「略奪の大地」など、このシーンが何度も出てきますね。泣きながら母親が息子に駆け寄ろうとする場面が、息子の回想というかたちで映される。いかにトルコがひどいことをしたのか、反トルコ洗脳映画に思えました。ブル式愛国教育?
mugi
2009/06/07 22:26
オスマン時代末期には、ブルガリアの有産階級の子弟が、西欧とかロシアに留学して、ナショナリズム・革命思想(フランス革命の思想)などを学んで帰国し、国語(ブルガリア語)の復興運動なども盛んになります。他方で、経済的には、バルカン諸国は、西欧のような産業革命はなかったものの、マニュファクチュアリング段階とはいえ、イェニチェリ軍団などの軍服の製造業、アフリカにまで販路を広げたブルガリアの絨毯製造業、バラ油製造業(バラ油は香水原料で、今でもグラムあたり金よりも高価)、イスタンブル、エディルネにまで生きたまま運び込んで稼いだ養羊業(羊の大量飼育)など、産業は発達史、農業もブルガリアでは大地主は少なく、農民が小地主として自立していたなど、生活面では、それなりに安定し、一部の「革命家」達が、ナショナリズムを煽っていた割には、対オスマン悪感情も少なく、政情も安定していた。
 すなわち、ロシアの扇動、裕福なブルジョア階級子弟の「革命運動」などの主として外部的な要因さえなければ、オスマン朝の下、ブルガリアは安定していたはずです。
室長
2009/06/08 09:25
お初にコメントさせていただきます。

>ヒンドゥー、中華圏に比べれば寛容度は完全に劣ります
最近大流行の多神教優越主義ですか?日本や中国、朝鮮で行われた
キリスト教徒への迫害や、日本でのキリスト教徒への強制改宗や虐殺は
“自業自得”として処理なさいますか?

>当時の感覚としては

大日本帝国時代、社会の建前では出征は“名誉”でしたが、実際は
それを忌み嫌ったり、内心で泣いた人がいます。
確かに、社会の建前としては、奴隷になるのはスルタンの宮廷で栄達する
近道であり、それを“名誉”と取った人もいたでしょうが、内心子供との別れを嘆き悲しんだ人間が少なくなかったことは、人間本性に照らせば容易に理解できるでしょう。

>泣きながら母親が息子に駆け寄ろうとする場面が、息子の回想というかたちで映される。いかにトルコがひどいことをしたのか、反トルコ洗脳映画に思えました。

もちろん、そういう面はあるでしょう。しかし、これがまったくの嘘ではないことも留意すべきでは?オスマン朝がいかに“寛容”であっても、それは所詮上から目線の“寛容”に過ぎず、ブルガリアの住民にとって、ナショナリズム抜きでもある程度までは確実に“屈辱”であったのは事実だし、いかにスルタンの宮廷で栄達できるチャンスでも、子供をとられてしまうことがいかに
悲痛なことか(まさか、身近な人に対する情愛まで、“西洋近代”とやらの幻想に過ぎないとはいいますまい。これは生物学的に根拠のあるものですよ。)
を考えれば、確かに一面だけを取り上げすぎているという批判はあれ、完全否定はできないと思います。
abduluzza
2009/09/19 14:08
 abuduluzzaさんへ、
 宗教に関しては、貴殿がどの宗教に属するのか知りませんが、mugiさんがコメントしたように、シナ、インドという多神教国家の方が寛容な側面があったというのは、恐らく正しいと思う。日本におけるキリスト教徒迫害というのも、当初は歓迎したが、だんだんカトリック教会側・宣教師達が、植民地化するという意図などもある危険な連中であることが判明してきたので、徳川家康も断固たる処置を執ったという側面を忘れてはならない。
 デウシルメについても、もちろん母親などは、子供が遠くに行くことを歓迎するはずもないけど、昔の日本で「出征兵士」を見送るように、秀才男子の出世への出発として、皆が喜んで送り出した、というのが真相のようです。「奴隷」という言葉の響きで考えても、スルタンの「奴隷」出身者がオスマン朝の高官に出世できた事情(スルタンの王子達の中で、数多い異母兄弟の中、一人の王子のみが生き残れるシステムだったから、スルタンが死亡したら、一番早くイスタンブールの宮殿に駆けつけて、即位した者勝ち・・・この即位した新スルタンは、当然子飼いの奴隷を一番使用できるので、彼らを高官に起用する)からみて、ある意味当然のシステムでもある。奴隷という言葉は、少しきついけれど、実際には日本で言えば、小姓というか、ご学友というか。
 ともかく、簡単に反論せず、ご自身も歴史書をよく読んで、ご勉強なされてから、反論とかなされるよう、お勧めします!
室長
2009/09/20 16:10
 上記コメントで、「奴隷という言葉の響きで考えても」とある部分は、舌足らずでした。「奴隷」という言葉の響きに、あまり惑わされてはいけません、と書くはずだったが、途中で来訪者があり、うっかり舌足らずとなりました。訂正します。
室長
2009/09/20 16:16
 他にも間違いがありました。「子飼いの奴隷を一番「信用できるので」、彼らを高官に・・・」と訂正します。
 なお、キリスト挙国が、異教徒に対し、いかに残虐な行為をしたかは十字軍の所行を見ても分かるし、また既に小生が紹介した「キリスト教暗黒の裏面史」においても、キリスト教がいかに魔女狩り、その他の残虐行為を自国民に対しても行ったか、またその理由は、単に僧職者達の利害、場合によっては金銭的利害、のみであったことなどを、詳述してあるので、お読み下さい。
 現代感覚のみで、物事を判断してはいけません。昔は、キリスト教国は、アジアより遅れた後進国だったのです。また、最近の欧米諸国では、多くの人々が反キリスト教徒というか、キリスト教を否定していなくても、教会に行くのを止めている人が数多い、無神論的な社会になっている場合も多い。一昔前までは、北欧はポルノ天国だったし、ビートルズは、キリスト教も、王室も、何でも糞食らえ、という怒れる若者が出発点でした。
室長
2009/09/20 16:28

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