ブルガリア研究室

アクセスカウンタ

zoom RSS 虚構の計画経済@

<<   作成日時 : 2009/12/29 18:56   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 的場氏の『マルクスならこう考える』という本を、前回ご紹介しました。改めて感想を述べれば、マルクスという学者は、成熟期の大英帝国の資本主義を詳しく分析研究し、その上で資本主義の将来を占い、やがて行き詰まってしまうから、未来は共産主義社会しかあり得ないと予測したと言うところでしょうか。しかし、マルクスの生存中には、生産力の過剰と言えるほどの増大、その後の「欲しいだけ消費物資は手に入る」という夢のような世界は到来しなかったし、死後においてもそうはならなかった。
 ただし、資本主義が、どんどん大量生産の方向に向かうし、供給力の拡大により、物質的に豊かな世界を創り出していくという予測そのものは正しかった。皮肉なことは、生産力の飛躍的増大は、「搾取の拡大」とか、「労使対立拡大」をもたらすことはあまりなかったことである。
もちろん、資本主義も色々修正を重ねないと、欠点が多いことも自明である。特にそれは、バブルというかブームというか、ある一定方向に投資が過剰に向かって、矛盾に突き当たってバブル崩壊とか、不況とかを引き起こし、景気循環という極めてやっかいな現象で、人間社会に害をもたらし、失業、倒産などのラッシュが起きて、市民を苦しめることがあるという点にある。
 他方で、小生が現地にいて感じた社会主義経済の欠陥は、より多くの人間的に罪作りな、破廉恥な、倫理観を踏みつぶすような、滅茶苦茶な現象を産んでいた。このことに関しても、少しは、教訓として皆様にお知らせしておくべきであろう。間違っても、社会主義に理性、合理性があったなどと誤解しないために。以下は、ブルガリアにおける社会主義経済の欠陥の有様、その原因、それがいかにしてマフィア組織の出現を導いたか、などに関する小生の観察記録でもある。

1.計画が容易で、相対的に上手くいっていた部門
 さて、ソ連式社会主義では、国家計画委員会(ゴスプラン)が最上級官庁で、5カ年計画、年次計画によって、国家の投資資金の配分計画、生産のための資源の調達・配分計画、食糧の需要予測と充足計画、その他あらゆる資金と物資の流れを予測し、計画する。
(1)化学産業 
例えば、黒海沿岸にある、ソ連からの技術・設備供給で建設された石油精製工場では、ソ連との間の原料(石油)輸入計画(5カ年、年次)に基づき、毎年例えば900万tの原油を輸入して、これからガソリンを00t、重油を00t、ディーゼル油を00t、それぞれ精製製造するという計画を立てる。基本的には、冬場の黒海が荒れ模様でタンカー船の運行がスムースに行かないから、冬場には、ソ連からの原油輸入量が減少することがあり得ると、事前に予測できるし、ブルガス市の精油所には、原料貯油タンクも揃っているから、夏場の天候の良い時期に、ある程度多めに輸入し、貯油しておいて、年間を通じての規則正しい精油所の稼働を図ることが可能だ。また、石油化学工場は、装置産業であり、各種機器に故障とか、事故が生じない限り、計画生産が可能である。すなわち、石油化学産業は、通常最も計画経済に適した産業であろう。
 ソ連が原油供給拡大をけちるために、70年代に東欧向けに供給を開始した天然ガスも、冬場の集中都市暖房の熱源、化学肥料原料、などとして、重宝な存在だった。価格的にも当時ソ連は、今日のロシアと違って、西欧に天然ガスを輸出していなかったせいもあって、極めて安価な価格で東欧に供給したので、東欧圏は大歓迎して、ソ連からのガスパイプライン建設への投資資金を惜しむことなく70年代半ばに、そうとう短期間にこの建設が完成したと記憶する。パイプライン用には、日本製のステンレス・シームレスパイプなども、大量に輸出されたはずだ。

(2)電力産業
 ドナウ川沿岸、ブルガリア北西部のヴラツァ県コズロドゥイにある原子力発電所は、ソ連製の軽水炉型原子力発電設備(年産44万kwh)があり、同じ型の原発4基が稼働して、国内電力の4割近くを賄っていた。更に増設された5号炉、6号炉は100万kwh型軽水炉だったと思う。これも一種の装置産業で、西側基準に比べて、安全性維持面での不安はあったが、それなりに事故も少なく、計画通りに電力を供給していた。
 また、スターラ・ザゴラ県南東部に存在した泥炭露天採掘場に隣接して設置されたマリツァ・イーストク(東)火力発電所も、安価な石炭火力発電所として、電力需要の多くを賄っていた。しかし、この泥炭発電は、極めて低品位の泥炭(湿気も多い)を無理矢理燃やすため、猛烈な大気汚染という公害問題を生んだ。日本のような石炭排気ガス浄化装置はゼロのため、硫黄分と粉塵がまき散らされて、このトラキア平野東部の町や村に大公害の被害をもたらしたのだ。
 社会主義政権は、公害対策のための投資資金をけちったので、問題は何ら改善されなかった。(公害除去技術は、日本から輸入すれば、簡単に問題解決できたのだが。)
 ともかく、社会主義体制は、計画通りの生産増を毎年達成しようとしたので、いくら公害をまき散らそうと、電力生産のノルマは重視され、昼間の工場への給電が確保された。しかし、一般家庭の需要に関しては、重視されず、夜間の家庭電力の需要ピーク時には、しばしば停電が起きた。節約のための計画停電と言うことで、ソフィア市では、順番に地区停電が実施された。A地区で1時間、次いでB地区で1時間、その次はC地区というように停電が回されるのである。
 
(3)鉱業 
 石炭採掘、非鉄金属鉱山からの鉱石採掘、精錬、或いはソフィア市郊外にあるクレミーコフツィ製鉄所は、それなりに上手くいっていた。社会主義は、国際市場の相場によって受ける打撃、影響が国家という緩衝材により緩和されるので、また、計画数量の確保が優先される数量主義だから、この部門も計画経済に向いていた。坑夫達、精錬所、製鉄所の工員、職員の賃金水準も、きつい、汚い産業として優遇され、高めに設定されているので、かれらの生活水準は、相対的によく、恵まれていた。
 もっとも、公害という側面から見れば、製鉄所、鉛・亜鉛精錬所、銅製錬所のいずれにおいても、極めて深刻な公害を撒き散らしていた。

2.計画は、計画通りに行かない、ダメ部門
(1)農業
(ア)畑作

 農業は、伝統的産業部門として、元来が恵まれた地位にある部門と見なされ、社会主義時代には、農業よりも工業で、より大きな国富を築くべきと言う社会主義思想であったので、農業部門からは「搾取」して、工業部門への投資資金を搾り取る政策がソ連型社会主義の特徴である。
 個人農は、生産手段共有という社会主義精神の敵として扱われ、農地の集団化が強行された。集団農場方式となると、一種の農業法人として、農場官僚達が上意下達で、個々の「農業労働者」に対して仕事を割り振る。農場官僚達は、農業大学卒の農業技師ではあるが、本当の農民であった経験もなく、畑作の現場における経験に基づく知恵を欠いていたが、彼らの命令は絶対で、旧来個人農として、より実践的な経験を持っていた農民達(現在は「農業労働者」という従属の立場)にとっては、納得のいかない指示が多くなる。

 実際には、1960年代までは、村社会ということもあり、また、大卒の農業技師も少なく、現場の農作業指導者らは、農民として優秀な人々が起用されていて、こういう大卒農業技師による経験無視の、理論にばかり走った指導に基づく弊害も少なかったらしいが、70年代半ば頃から、旧来の農民達が老齢化して、引退し始めると、また逆に大卒農業技師が増えた頃から、現場の畑作は上手くいかなくなっていく。更には、農業労働者の給与が、食糧はタダではないか、という社会主義的考え方から、低めであること、農業の単純労働者として新規に採用されるのは、教育程度の低いジプシーとか、ブル人から差別されていたし、農村部に人口が偏っていたトルコ系の人々で、それも徐々に人数的には少なくなっていって労働力不足が深刻化した。
 また計画では、農業の機械化、農薬の多用で、人力作業は減るはずだったが、実際には、農業機械は故障ばかりしたので、人力作業は必要だった。また、農薬と化学肥料の多用は、農地の地力を奪い、生産高に悪影響をもたらした。

 要するに、農業の収穫量は、毎年減っていき、計画を満たせなくなったし、手間がかかるから、作付けする農作物の種類は、中央からの計画は無視され、初めから手間がかかる作物は敬遠されて作付けされなくなった。更には、闇の市場で良い値段が付き、売りやすい豆類とかジャガイモなどは、自宅周辺の自留地(各農民、或いは都市住民に食糧自給用として許容された2反ほどの面積の畑)で作付けされるが、集団農場の作付け面積は減っていった。公有農地の作物は、農場労働者達自身が夜間とかに、こっそり盗んでしまうから、値の張る作物を植え付けても、結局収穫量は少ないのだ。

 結局、集団農場(後期には、郡単位に集団農場は統合され、一つの県に平均して九つほどの農工複合体=APK(アペカ)へと集約されるようになった。これは、実質的には工業部門はほぼ無く、大規模集団農場というべき)での作付けは、小麦、大麦、トウモロコシの3種類(農機での種まき、収穫が容易)が大半となった。しかも、これらの収穫高は、適切な農業的ケアをしない粗放農業方式に陥っていたから、年々悪化した。以前にも指摘したが、農作物に愛情を持ち、工夫する「農民」(篤農)ではなく、「農業労働者」の産業として農業を軽視した社会主義政策の敗北である。

 (北朝鮮での農業崩壊が、飢餓問題を生んでいるが、社会主義国では、農業を集団化しなかった(民営のまま許容)ポーランドとユーゴのみが、農業部門の崩壊と食糧問題を免れた。北朝鮮で農業が崩壊し、飢餓問題が深刻化しているのは、北朝鮮が相変わらず社会主義方式の農業(集団農場方式)に固執して、個人農方式(民営化)を実施しないからだ。中国は、人民公社を小規模な単位に分割するとか、最後には、家族単位での耕作を許すとかして、農業生産を再生させた。)

 他に、伝統的な農産品として、トルコ系住民が多い県では、タバコ葉が広く栽培され、これは国営工場でシガレットに加工されて、ブルガリアからソ連への最大の輸出品の一つとなった。タバコ葉生産は、労働集約的な産業で、手作業が多く、本来は集団農場体制には向かない産業だが、トルコ系の人々は、村の長老の下に団結する「部族的」社会で、村人総出の作業などもスムースに組織されたし、また、少数民族として多産で家族の成員数も多かったので、タバコ葉生産部門は、衰退を免れえた。また、ソ連圏へのシガレット輸出をほぼ独占して、ブルガリアのコメコン貿易において花形産業だったので、それなりに葉たばこの買い付け価格は優遇され、トルコ系の人々も、一応生活水準を維持したまま人口を増やすことができた。

 野菜・果物では、スイカ、メロン、トマト、キュウリが作付けされ、特にトマトとキュウリは、缶詰、瓶詰め製品として対ソ連輸出品として重要視された。またトマトとキュウリは、冬場は大規模温室でも生産され(重油を炊いて暖房するエネルギー多消費型)、冬場にソ連に輸出された。

 ところで野菜と果物の国内市場への出荷、或いは外国への輸出においては、一つどうしようもない問題が毎年立ちはだかった。それは、包装・梱包資材不足、輸送力不足だ。畑で収穫した作物を都市の市場に運搬するには、トラックの荷台にそのまま積み込んでいけるスイカ、カボチャ、パプリカは別として、メロン、トマト、キュウリ、サクランボ、リンゴ、などは箱詰めにする必要があるが、その段ボール紙・板製の箱とかが、適時に、十分農場の畑の現場に供給された試しがないのだ。恐らく、これら梱包用資材を製造する工業部門への投資不足とか、段ボール・板資材の供給が、低価格で採算が取れないので、誰もやる気がしなかったからだと思う。

<<闇経済が発達して、マフィア組織を生み出した社会主義体制の物資欠乏という欠陥>> 
 社会主義経済では、国定価格で全ての商品の販売が義務づけられているのだが、常に物資欠乏社会であるから、闇市場というものが流行ってしまう。少し頭の良い工場長なら、梱包資材なども、ゴスプランの司令通りに「定価」で=公式ルートで農場に販売するよりも、袖の下まで支払ってくれるスマート(ずる賢い)な農場長に、非公式ルート(闇)販売する方が得なのだ。スマートな農場長は、袖の下を支払った分は、やはり闇市場で稼ぐしかないから、裏技で入手した梱包資材を使って、多くのトマト、キュウリ、サクランボ、黄桃などを自由市場(闇市場に近い)である農産品パザールで、他の競争相手が少ない中で、高値で売りまくる。これら野菜・果物は、公定価格で、国営の食品加工工場に売って、瓶詰め、缶詰にすると、農場側には利益が出ないことが多い。他方、都市の市場(パザール)で、農場直営の店で高値で売れば、儲かるのだ。

 ちなみに、ずる賢い農場長が活躍するためには、自分の県内の小都市の市場で野菜・果物を販売するよりは、遠方でも大都市の市場で売る方が、高価格で利益が多いから、自前の遠距離輸送部隊が必要となる。大小のトラックを、中古も含めて農場の所有物として買い集めたり、働き者ですばしっこい運転手を、闇給与で優遇しつつ確保しておかねばならない。また市場で、上手に短時間に売りさばく「販売上手」な売り子(やりての女性など、彼らにも闇給与をはずむ)とか、そういう補助的な人材も必要だ。結局、「抜け目のない農場主」は、周囲にマフィア的な、親分子分の関係と闇給与で結ばれた連中を抱えることとなるのである。

 これらのすばしっこい、法律を回避し、警察の道路上における検査(闇の品物の動きなどを摘発する役目)を賄賂を使ってでも切り抜ける才覚のある、若くて、やり手の連中(彼らは一応アペカ(集団農場)○○という、公的農場の看板で、トラックも動かすし、農産品の販売もする。しかし、いつの間にか、市場で売る野菜・果物の多くは、農民達が、温暖なブル南部地方(すなわち自らのアペカ以外)の自留地で作った品物であったりするようになった。季節前の、高値の頃に、市場に出荷して儲けるには、個人の農地(ブル南部でのビニールハウス栽培)からの産品に頼るしかないのだ)は、80年代になると、闇商人として、やがては農場長からさえも自立していく。自前のマフィア組織となっていくのである。何故なら、警察組織そのものが腐敗していって、マフィア達とは顔なじみとなり、賄賂を支払ってくれるマフィア達を、警官達はむしろ、進んで庇護するようになるからだ。

 これらのすばしこい、倫理観より金を尊ぶマフィアの人材には、ブル人の他に、一部の頭の良いジプシーも、トルコ系も含まれていて、80年代後半には、小生も一部のジプシーがやたらに大金を所持していることに目を見張った。何れにせよ、これらの金の臭いに敏感で、素早く儲かる商品に目をつけて、非合法な闇商売を展開する連中が、警察組織、秘密警察とも結託して、大都市周辺などに非合法市場を開設するなどして、更に巨大なマフィア組織として成長していった。扱う商品も、トルコから密輸入する衣料品、その他の消費物資(雑貨類)、或いは個人が商品として飼育を開始した犬、猫、金魚、熱帯魚、などのペット類へと拡大していった。80年代の末頃には、実質的に、自由化後に更に拡大するマフィア組織の多くの萌芽体が、誕生し始めていた。
 どうやら、こういった闇市場の拡大、充実という現象は、同時期にソ連でもあったらしい。ブルガリア当局は、ソ連で許される程度に、自国でも闇市場を育てる実験をして、国民の物資欠乏への不満のガス抜きを図ったと言うことでもあろう。

(イ)果樹
 ブルガリアは、春にサクランボ、夏に黄桃、梨、秋にリンゴを大量に生産して、一部はジャムなどの瓶詰めにしてソ連に輸出した。しかし、天候に左右されるし、手作業が多いので、学生を動員して収穫に当たるとはいえ、収益性が低く、徐々に衰退した。それに、果物(梅、ブドウ、黄桃、リンゴなど)はブルガリアでは、自家製のラキーヤ(果物焼酎)の原料でもあるから、公的農場の果実は、常に大量に盗まれる運命にあるのだ。公的部門での果樹栽培が、成功し得なかったのは当然とも言える。

 他方、ワイン原料のブドウに関しては、ワインが対ソ連輸出品として重視され、病気に弱い伝統品種の作付けは減ったが、仏から入れたカベルネ・スヴィニョン種、メルロー種(共に赤ワイン用)の作付け面積が増えた。しかし、対ソ連輸出では、品質は重視されず、そもそも低価格品として、数量のみが重視されたので、大規模なワイン製造工場が多く建設されたものの、樽はコンクリート製とか、ブドウ液には大量に砂糖と水が混ぜられて醸造されるなど、全くの「化学工業」的手法が多用された「偽ワイン」が実情だった。

 要するに、果樹部門の中ではワイン工業は、社会主義経済の中で、一応は、「化学的手法」で計画値を満たせる優良部門ではあったが、品質的には情けない部門となった。もっとも、80年代まで、日本の安物ワインの品質も哀れなものであったので、日本に帰ってみると、ブルガリア製の中級ワイン(外貨店で、1本1ドル程度と安価だった)に比べても、国産ワインはひどく不味かった。

(ウ)畜産 
 畜産も、社会主義経済体制との相性が悪く、どんどん縮小していった部門だ。
 まず、羊に関しては、湾岸諸国などでの需要が大で、生きたままを船で輸出して外貨を稼いだのだが(注:アラブ諸国では、お祈りをして、血を流す手法で屠殺しないとならないので、ブルガリア、ルーマニアからの羊の輸出は、生きたままが原則だった)、農民、農場の方には外貨もわたらないし、余り利益が出ないシステム(国家買付価格設定の問題でもある)だったから、徐々に飼育量が減少し、計画値を満たせなかった。
 
牛:日本のような柔らかい牛肉の技術はなく、元来が牛肉価格は低めで利益が出ないので、肉用牛の生産量は徐々に衰退した。計画が上から示されても、現場の農場で生産意欲がなくなっては結局計画値は無視された。
 乳牛部門でも、ブルガリアはヨーグルトの国として喧伝されていた割には、国家の価格設定が低めであったらしく、牛乳の生産量、或いは羊乳の生産量も徐々に衰退して、また、乳業企業が買い付ける牛乳、羊乳の数量も徐々に衰退していって、ダメになっていった。チーズ、バター、ヨーグルト、牛乳、何れの生産量も年々減少し、80年代には、クリスマス時期に、西欧からチーズ、バターなどを大量輸入するようになっていった。小生は、クリスマス、新年などに、首都ソフィア市には、大量のバター、ゴーダチーズ、エダムチーズなどが販売されるので、大いに喜んだものだ。もっとも、ブルガリア製のバターも、時折は供給されたし、その味も02年頃のベラルーシ製のバターよりもよほど良かった。しかし、60年代、70年代初頭頃のブルのバターは、もっと味が良かったし、もちろん西欧製のバターの品質には、全く及ばない。
 なお、ブルガリアでは、政府の方針上、国民の必需品であるヨーグルトと白チーズ(フェタチーズのこと)、黄チーズ(カシュカヴァールと呼ばれる種類、日本では最近カチュカヴァロと呼ばれ、北海道で生産開始されている)は、生産が続き、何とか市場に出回っていた。ビニールパック入りの牛乳も、品質は悪くなりつつも、何とか供給が続いた。これらの供給が何とか保てた裏には、西欧から安価な脱脂粉乳を輸入して、工場の原料牛乳に大量に混ぜて、なんとか生産を維持したというからくりがあろう。

 なぜ牛乳が十分生産されなくなっていったのか?それはやはり、国家買付価格が、元来が低めの上、社会主義国でも実質的には、毎年インフレが起きていて、各種のモノの価格が高くなっていくのに、農産品の場合、価格上昇を低めに制約されて、生産コストが高くなっているのにこれが反映されず、農場での生産意欲が減退したからだ。
 それに、農場現場では、益々引退者が増え、若い農民が就職してこないので、人手不足が深刻となり、畜産においても重要な、意欲ある労働者が減り、無責任なジプシーしか、牛舎で働かなくなり、彼らが手抜きするし、死んだといっては、勝手に屠殺して食べてしまうし、結局牛不足、牛乳不足が深刻化したのだ。
 農場現場では、計画値満了を装うために、牛乳に水を混ぜて出荷する有様で、工場側は当然対価の支払いを拒否するなどのトラブルが続出していた。そもそも、冷蔵車、冷凍車なども普及が遅れ、社会主義圏では、出荷段階でまともな牛乳を送り出しても、工場に着く頃には腐っているなどというトラブルさえ頻繁に起きていた。牛乳を運ぶタンクローリーも老朽化したり、ボロ車が多いから、牛乳を積んだまま故障で立ち往生すれば、夏にはすぐに腐ってしまって当然だ。




テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
虚構の計画経済@ ブルガリア研究室/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる