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zoom RSS 大臣病を廃して、適材主義を!

<<   作成日時 : 2010/11/22 10:55   >>

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 柳田法務大臣が、遂に辞職を決意したと報道されている。とはいえ、何故このような不適格な人物が、しばしば日本国では「大臣」という要職に上ることになるのか、何故初めから、この職務にはこの人しかいない、というほどの人物が、大臣とならないのか、そのことの方が、我が国にとっては問題なのではないか?という視点で、少し論じてみたい。

1.末は博士か大臣か? 
  明治維新の成果は、これまでの身分制度には関係なく、平民でも国家の要職に就きうるという、四民平等の新しい概念を「国民国家」という形で実現したことだ。坂本龍馬のように、土佐藩の上士、下士の身分差別が厳しい藩からの出身者が、四民平等の「日本国国民」を形成する新しい、近代社会を目指したことにも明らかなように、士族という限定した身分の人材のみでは、近代国家として新しい政治、新しい国策は生まれ得ないと見ての改革が、明治維新であった。
  そして、新制度の中では、種々の奨学制度、或いは無料の官学などを通じて、全国から秀才、有意の若者が中央(東京)に結集して、新国家の近代化を推進した。
他方で、そのような社会においては、秀才達が故郷を出るに際して、親も、友人らも、末は博士か大臣か、と言って、出世主義の競争を、心理的に煽った。

2.大臣の粗製濫造 
  皆が、出世の一つの到達点を「大臣」という職位に置くから、政党政治の中で、組閣に際しては、新大臣を次々に誕生させ、目新しさを競うこととなり、また、その際に、今度我が党として、或いは我が派閥として、大臣に昇格させるべきは、誰々、と言う風に、真の適材適所と言うよりは、次に「大臣職」を与えられるべき「順番」の人物は誰であるか、という発想になり、適材ではなく、単に出世コースの一つの「報奨」としてこの職位が与えられるようになった。

  ただでさえ、総理職すら、1年くらいしか持たず、内閣が次々と交替し、その上、大臣の顔ぶれも、新鮮味を重視して、次々に交替させるのであるから、適材主義などは貫かれ得ない、ということとなる。これが、不適格で、「選挙区に帰っての、地元への報告会の演説などで、放言して、舌禍事件を引き起こす、お粗末な大臣の頻出」という結果を招くこととなる。
  「党内での功労人事」として、大臣を粗製濫造して、「舌禍事件」を頻発させたのは、自民党政権時代もほぼ同じだったのだ。
  つまりは、大臣職を、本当にその職位に相応しい、専門知識と、品位を兼ね備えて、国会の論戦の中でも、皆を唸らせ、黙らせるほどの見識を示すような、そういう人材に与えてこなかったことが、日本の政治史における汚点、問題点として、今回も再度浮かび上がった、ということであって、何ら目新しい現象ではないことこそが、嘆かわしい。

3.真のエリート主義を! 
  役人の世界とか、学問の世界では、少しくらい欠点があっても、その社会の中で真に実力がある人材というのは、結局、いつの間にか頭角を現していくし、周囲もそれを認めるから、尊敬され、何らかの「失言」があっても、やはり人材は組織の中で守られ、昇進していくという、常識が通じるように思う。しかし、それは、その世界では、そのように若干の欠点があっても、務まる、という状況があるからだろう。

  他方で、政治家となると、1回の失言、一つの逸脱ですら、世論の強い反発、絶望を招くことがあるので、それこそ、役人、学者の世界より上の、より高い適性というものが求められる。
  もっとも、人間に欠点、うっかりはつきものであり、普段から、尊敬され、その知識、実行力などを買われている政治家は、やはり、普通は今回の柳田、或いは前任の赤い法相千葉などとは違い、マスコミも、世論も、より慎重な評価を与えることとなるべきなのだろう。しかし、今回のような低レベルの政治家・大臣が頻出すると、そういう世論の慎重さも、マスコミの忍耐も、期待できなくなるし、真実国家にとり貴重な人材すら失ってしまう危険性も増える。

  英米という、民主主義国家の先輩国を見ると、四民平等という原則はあっても、エリート主義という別の側面で、適材主義を担保しているように見える。○○大学の○○カレッジに入学を許可されるには、単なる才能ばかりではなく、家柄とか、親の職業とか、色々な側面からも選抜のメスが入るようだ。こういう英米のエリート校では、国籍も種々雑多な要素を入れるべく、考慮されている。つまり、世界の最高レベルの人材(留学生)を集めて、学内での論争、弁論を通じて、人格・弁論術を鍛え上げ、将来の指導層として、養成していく、という視点が貫かれているのだ。

  だから、米国などでは、最良のエリート達は、銀行、企業、中央政府、シンクタンクなどの要職を渡り歩く。天下り、天上がりという規制すらなく、一部のエリート達は、官界、民間、学会などを渡り歩いて、国家に貢献していくのだ。その場合、例えばある人物は、外交専門家(しかも、対日外交などと、専門地域を持つ)で、国務省、国防省、シンクタンクなどを行ったり来たりするが、常にこの人物は、例えば対日外交、に関しては、何らかの形で関与し続けているのだ。中国問題専門家も、韓国問題専門家もいるようだ。何れにせよ、彼らの専門知識が買われて、民主党、共和党の何れの政権かには関係なく(もちろん、政権政党によっては、採用されない献策も多いが)、意見を聴取される。

  米国の大統領、大臣、などは、そういう米国の超エリート専門家達の意見も踏まえて、政策調整機関(省庁間合意形成会議など)を通じて形成された政策に従い、行動していくのだ。とはいえ、大臣自身の知的レベル、エリートとしての専門性も重要で、そう簡単には、他の人材では代替できないだけの、皆にリスペクトされるような、安定感を持った人物が選ばれるのだ。彼らは、米国の場合、国会議員ではない、ということも米国流の適材主義哲学に裏打ちされているのだろう。

  欧州の場合は、大臣職は、国会議員である場合が多いと思う**が、その地位はやはり安定感がある。つまり適材適所であり、皆がその専門性につきリスペクトしているから、マスコミによる揚げ足取りも少ないし、交替も少なく、政策に永続性がある。
**注:ブルガリアでは、大臣職を拝命した代議士は、代議士職を辞任し、代議士には、同じ政党の次点落選者が繰り上げ当選となる制度である。逆に、現職首相のBoyko Borisov氏の場合、自分自身は政党党首として、総選挙を戦ったとはいえ、初めから選挙区選挙戦には出馬せず、自党の代議士達からの推薦で首相職を得る、という新手法で注目された。すなわち、当選→大臣→辞任という手続きを踏まずに、初めから選挙区出馬を避ける、というやり方で首相職に就任したのだ。勝利を確信していたので、(敗戦の場合を考えて、その場合には野党指導者として活躍するために、代議士にいったんなっておく)、という代議士出馬の手間を省いたのだ。

  「その道の専門家、エリートである人物」というのを、国家として養成していく、内閣総辞職しても、再び再任されることが自明、というような、外交専門の大臣、財務専門の大臣、国防専門の大臣、などが育っていかないと、日本国の政治は、何時までも幼稚な水準にとどまるのではないだろうか?そもそもの発想として、功労人事として、大臣職を決めるような習慣は、止めるべきなのだ。
  民主主義社会にも、エリート主義、エリート養成、という概念を残して、国家を指導する真実のエリート達を育成していかないと、国際社会の厳しい競争の中で、生き残れないのではないか。大臣職を、出世競争の到達点として、順繰りに政党内の年功序列で与えていくという、悪しき慣例は、即刻止めて欲しいものだ。
  

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
 記事を興味深く拝読致しましたが、仰る通り「舌禍事件」では自民党もあまり変わりありませんでした。この原因を貴方は真のエリート主義がないことに求められていますし、私もそれに同感します。
 ただ、これは民主主義の欠点や「舌禍事件」を面白おかしく取り上げるマスコミにも問題はありますが、横並び志向の異様に強い日本人の気質にも起因していないでしょうか?

 日本では政治家のみならず、メディア側もプロ意識に欠ける素人同然の記者が専門家面して論評することも珍しくない。その結果、底の薄い評論家が専門家としてまかり通っている有様。芸能人も一発芸のお笑いタレントばかり登場し、芸を磨くといった姿勢が感じられない。
 エリートを忌み嫌うのは庶民も同じではないでしょうか?エリートよりも一般に受けの良い調整型が人気を集めることからも、「大臣病」は重傷ですね。同調性を重視する日本人の気質がある限り、真のエリート主義は難しいのでは?
mugi
2010/11/22 21:40
mugiさん、
 横並び主義、或いは「異常な嫉妬心」というのは、実は社会主義時代のブルガリアでも聞いた話です。誰かを尊敬する、そういう心情が消え失せ、自分が、自分がと言う我欲ばかり強くて、他人の足を引っ張ってばかり、というのは、確かに日本社会の通弊のように見える。しかし、同じように、他人が少し偉く見えたり、成功したり、良い車を持ったりすると、すぐに嫉妬してけなす、と言う傾向は、ブルガリアでも同じで、皆がそういっていました。社会主義の平等至上主義という概念が、ある意味でそういう、さもしい、自らを客観的に評価できない、妬みばかりの嫌らしい品性にしてしまったように思う。すなわち、共産主義思想の一つの弊害と思う。日本も左翼思想が強すぎるのです。

 他方で、民主主義とはいえ、ジェントルマンとか、英才達のリーダーシップを重んじる英米社会では、エリートが国家を正しく、強く導くべきと言う、英雄崇拝的傾向があるように思う。
 大衆の民度が意外に低い英米社会と、大衆の知的レベル、能力が意外と高いけど、ほんとうのエリートとしての指導力、リーダーシップ、弁論・闘争能力などを欠く日本社会!・・・そういう社会のあり方の違いというのも、関係するのでしょう。非エリートの小生が、エリート主義を称揚するのもおかしな話ですが、そうしないとほんとうに、今後の日本の将来性が見えてこない。やはり、英雄待望論になってしまうんですよね。最近の政治家が、あまりにもお粗末に見えたから。もっとも、そういうあら探しばかりが、マスコミの使命みたいになっている、そのことも困ったものですが。
室長
2010/11/22 22:22
 実は私自身嫉妬心が強く、「自分が、自分がと言う我欲ばかり強くて、他人の足を引っ張ってばかり…」など、まるで私の欠点を並べられたようで、耳が痛かったです(笑)。それにしても、日本人と違い自己主張が強いブル人もすぐに嫉妬してけなす、という傾向があったとは意外でした。

 私は英米で暮らしたことがないので現地事情は不明ですが、あちらのマスコミも性的モラルに関しては清教徒で苦笑させられます。不倫したタイガー・ウッズの謝罪記者会見など不可解ですね。かなり前、フランス大統領ミッテランがある記者に、「貴方には隠し子がいるそうですね?」と問われ、「それが何か?」と言ったことを憶えています。晩年の彼はその子と堂々と歩いていたから、隠し子とは言えないでしょうし、葬儀には愛人と隠し子も参列していました。英米なら考えられませんよね。
mugi
2010/11/23 22:37
mugiさん、
 クラス全員に均等に分からせ、落ちこぼれを生み出さない、と言う日本の近代教育の理念は、平均的に良く訓練、教育された、工業社会に適した国民を生みだし、更には、兵隊としても良質な国民を生み出したのだと思う。
 他方で、英米社会が重視した教育とは、国家、或いは社会の中でリーダーとして皆から一目置かれる人材を育てる、という方向性があるように思う。クラスの授業も、ディスカッション重視で、皆をうならせる名演説を出来るかどうか、皆を巻き込むような感動的メッセージを伝えることで、リーダーたり得るかどうか、常にそういう観点で、クラスの議論が進行していくようです。結局、1年ほど経過すると、クラスのリーダーは誰か、と言うことが誰の目にも明白になります。先生方も、そういうリーダータイプの人間が育つことを、大いに喜ぶようで、その間、クラス内で落ちこぼれ、ダメ人間となっていく人間がいても、そのことを余り気にしないような気がします。
 もっとも、そういうきれい事を上手に並べ立てて、リーダーになる人間の中には、裏表のある、嫌な人間も含まれるはずです。
 他方、ラテン社会でも、同じようにディスカッションとか、演説能力が重視されることは、古典ギリシャ時代以来の伝統で、同じとは思うけど、ラテン系の場合は、男女の関係に関して、つまり恋愛に関して、異常な情熱を示す社会風潮があり、キリスト教的道義、倫理に違反しても、恋愛の方が重要というような、直情的なところがあり、日本的に言えば、「下半身の道徳は、厳しく責めない」という社会風潮だと思う。イタリアのベルルスコーニ首相が、色々ゴシップにまみれながらも、「自分は別に聖人君子ではない」と開き直って、未だに世論調査でも支持率がさほど落ちないのは、イタリア人が、政治家は、政治面で能力を発揮すれば、それで十分と考えているからでしょう。
  
室長
2010/11/24 17:11
(続)
英国もだんだん宗教的道徳には、こだわらなくなってきていると思うけど、米国は相変わらず、建前とキリスト教原理主義が主流だから、「下半身の道徳は問わない」という風には割り切れないようです。もっとも、2代目か、3代目のジェファーソン大統領が、黒人奴隷の女性に子供を産ませていた、ということが最近判明したとか、どこかで読みました。米国社会にも裏表があるようです。

ともかく、自分より偉い人間、リーダー的資質のある人間が存在すると考えるか、俺が俺がで、嫉妬深く他人の足を引っ張るのか、そういう社会のあり方が、国家の運命にすら、何らかの関係を有しそうだ、と思えてなりません。日本社会も、再び英雄を育て、リーダーの下で結束して対外的競争に取り組む、そういう必要性も出てくるのではないか、と言うのが、今回の視点です。独裁者の誕生を望むわけではないのですが。
室長
2010/11/24 17:12

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