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<<   作成日時 : 2010/12/09 15:13   >>

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さて、最近の世相は、尖閣諸島問題(中国漁船の横暴への対応など)とか、朝鮮半島における北朝鮮による民間人居住地区への砲撃とか、我が国の国防に関し重大な関心を示すべき時なのに、いつの間にかマスコミは、海老蔵事件など、どうでも良い小さな事件にばかり報道枠を割き、菅直人内閣の迷走ぶりでさえも影が薄くなるほどで、もはやまともな報道が成されていないという情けない状況だ。小生も腹が立つが、何しろ私事の方も色々あって、きちんとしたブログ記事を創案している暇もない。そこで、これ以上ブログを放置するのも、一部の読者に申し訳ないので、以前に書きためた「ブルガリアの歴史」の原稿を引っ張り出して、お茶を濁すことでご勘弁願いたい。
  今回の「歴史」連載の、最初の項は、実は何と07年11月に書いた「ブルガリア前史」(http://79909040.at.webry.info/200711/article_4.html)であり、これからの記事は、右記事との連続と言うことで、読んでいただきたい。


★★「中世のブルガリア(紀元後681年〜1393年)」@
1.概観 
 新興のブルガリア国家が直面した問題は二つ:国境線の画定と、国内の主要2民族、すなわちスラヴ人と、ブルガール人の融和・統合。後者は、徐々に達成され一つの新民族ブルガリア人が形成されることになるが、前者は、中世のみならず近・現代に至っても、なかなか実現し得ないこととなった。

 ブルガリアの北側、特にドナウ川を越えた平原地域(今日のウクライナ南西部、ルーマニア、ハンガリー領)には、次々とアジアから新しい民族の侵攻があった他、西側(今日のセルビア、クロアチア領)には、絶えず新たな国家が勃興した。然るに、ブルガリア国家の指導者にとっては、常に最大の課題は、南の大国である隣国(ビザンツ帝国、後には、オスマン帝国)との関係だった。

2.カーンが統治した時代(681年〜852年)
(1)建国(681年)後の約1世紀強
 
  681年の建国(第一次ブルガリア王国)以来1世紀間、ブルガリアはほぼ成長期を経験。特に716年のブルガリア・ビザンツ間条約では、トラキア州北部をブルガリアに割譲することが確定した。7世紀半ばまでに、西ではブルガリアはモラヴァ(Morava)川流域、北においては今日のモルドヴァからルーマニア南部に領域を広げたが、他方で、ブルガリア国家は海軍を発展させることはなかったので、黒海はビザンツ帝国の内海のままに留まった。また、貨幣も自ら鋳造せず、ビザンツの貨幣を使用した。

 海軍を持たないブルガリアは、西へと版図を拡張する道を選ぶしかなく、北西ではアヴァール(Avar)王国の崩壊に乗じて、ティサ川ほとりのハンガリー平原、トランシルヴァニアまでも併合し、更には8世紀末南西のマケドニア地方(ビザンツ領)にも侵攻したが、後者への侵攻はトラキアの一部を(ビザンツ側により)奪取されるという代償を支払っての侵攻となるなど、困難を極めた。

(2)クルム(Krum)カーン(803〜814年)時代 
  クルム・カーンは、811年、最近ビザンツが城砦を堅固にしたばかりのセルディカ(今日のソフィア市)を奪取したほか、黒海沿岸のネセーバルの町を奪取した上、コンスタンチノープルの城壁にまで迫った。本件戦闘では、ビザンツ皇帝のニケフォラス(Nicephorus)が、戦死した(ビザンツ皇帝自身が戦死した例は、過去5百年において初めての例となった)。クルムは、ニケフォラス皇帝の頭蓋骨を銀箔で覆い、杯として戦勝を祝った。

(3)オムルタク(Omurtag)カーン(814〜831年)時代 
  814年、オムルタク・カーンは、ビザンツとの和平協定で、トゥンジャ渓谷地方の一部(今日のヤンボル県付近)を版図に加えたほか、西部では、ベオグラード(Singidunum)地方一帯も版図に加えた。
  9世紀の第2四半期、ビザンツ帝国・東方正教会が、聖像破壊者(iconoclast)論争に明け暮れ、更には、小アジアへのアラブ人勢力の挑戦に没頭されている隙をついて、マケドニア地方(主要住民はスラヴ人)に侵攻し、現地住民から、ギリシャ人支配の排除として、歓迎を受けた。9世紀半ばまでには、マケドニア地方のオフリド(Ohrid)、プレスパ(Prespa)地域、及びアルバニア南部の一部もブルガリア王国の版図に組み入れた。オムルタク・カーンは、単なる戦争大好き人間ではなく、クルムに引き続き法制を整えたほか、811年に火災で焼失したプリスカ(Pliska)の町を再建するなど、建設面でも多くの偉業を成し遂げた、ブルガリア国家の功労者であり、じつはブルガリア王の中で最も碑文での献辞が多い王である。

3.ボリス王統治期(852〜888年)とキリスト教への改宗 
  30数年という長期の在任期間を誇り、ブルガリア国民に多くの変化をもたらしたボリス(Boris)王への記念碑での献辞が、オムルタクより少ないことは、実は驚くべきことかもしれない(注:キリスト教への改宗が、同時代のブル人には不評だったからかもしれない)。
 ボリスの対外遠征面での業績は、先輩の王達に比して引けをとるものではないが、一番の同人の偉業としては、ブルガリア国家のキリスト教への改宗という業績とされる。

(1)改宗の理由 
  キリスト教への改宗の動機には、種々の側面があるが、まず第一には、既にその頃、欧州の大部分=文明世界部分は、キリスト教に改宗済みであり、欧州の列強の一つの地位を確保するには、キリスト教徒の文化・文明の一部となる必要性があったのだ。その上、改宗によって、国内の二つの民族集団であるブルガール人とスラヴ人とを融合し、一つの民族とすることが期待できた。当時既に、言語面ではスラヴ語(Slavo-Bulgaria)への統合が終了していたが、民族・習慣上は未だに一つになっていなかったのである。

 キリスト教は、実はローマ帝政末期には、バルカン半島にも根付いていた。スラヴ人達が6--7世紀にバルカン半島に定住を開始したときには、彼らは支配下に置いた原住民(注:ローマ人・トラキア人・ギリシャ人の混血が主流か?)からキリスト教を受け継いだ。然るに、ブルガール人、特に王国の支配階級となっていたブルガール人貴族達は、キリスト教に改宗することなく、それまでの自然崇拝的宗教を堅持していた。このように、ブルガリア王国では、支配階級がシャーマニズム、兵士の多くを構成したスラヴ人がキリスト教徒、という宗教構造であった。このことは、当時現実的には、何らの支障もなかったのであるが、やはり潜在的には、敵に利用される恐れもあり、解消しておくべき課題であった。それに、トラキア、マケドニア地方の領土拡大とともに、スラヴ人・ギリシャ人キリスト教徒の住民数が拡大したので、少数派となったブルガール人と多数派のスラヴ人という王国臣民間の宗教面での相違は、早期に埋めておく必要性があった。更には、クルム時代の戦争で、多くの捕虜がブルガリア領内にもたらされたが、もちろん捕虜達はギリシャ人キリスト教徒であった。

オムルタクは、伝統宗教に固執して、キリスト教徒への迫害を続けたが、自分自身の子息の一人がキリスト教に改宗するなど、既にキリスト教の勢いは反転不可能となっていた。因みに、オムルタクは、ブルガール人貴族達=ボヤール(boyars)(注:boyar=トルコ語、ブル語では=bolyarin/bolyari)の伝統的権利を剥奪して、政治権力をカーンに中央集権化することを望んでいたが、実は、ビザンツ帝国の東方正教会は、まさに中央集権、専制政治の見本的思想基盤を提示していた。ボリスが、キリスト教に改宗した動機としては、この中央集権実現への意図が重要な要素であった。

 864年ボリス王は、自らとブルガリア国臣民全体が、キリスト教に改宗する決断を下した。ボヤールboyars貴族のかなり多数が、伝統宗教とこれに基づく非集権主義を固持すべきとして、断固反対したため、52名の貴族達が処刑された。

(2)改宗の不利益部分
(ア)東方正教会の傘下に置かれた

  改宗は、ボリスにとって満足のいく結果ではなかった。何故なら、ブルガリアの教会は、ビザンツ帝国の東方正教会の一部とされ、ブルガリア国家として独自に総主教座を持ち、司教達を任命する権限を有することは許可されなかったからだ。これは、ビザンツ帝国の道具と見なされていた東方正教会が、ブルガリア国家に内政干渉したり、政権転覆の道具となりうる、との潜在的危険性をはらむものであった。

 ボリスは、この故に、ビザンツに敵対するローマ法王の元に使節団を派遣して、カトリック教会は、ブルガリアの教会により良い条件を付与するつもりがあるかを問いただすこととした。然るに、ローマ法王庁も、総主教、司教の任命権をブルガリア王に与える用意があるのかどうか、との質問に関して言えば、ビザンツ同様に否定的で、独自のブルガリア総主教座の設置にも同意しなかったほか、総主教、司教らの任命権も世俗権威への従属を否定して、法王が握ることを明示した。法王が同意したのは、ブルガリアが独立の大主教(archibishop)座をもつ(ただし任命は法王が行う)ことくらいであった。要するに、条件は、ビザンツ皇帝(東方正教会の長でもある)が示したのと同じであり、この故に、ボリスは、既によく知っている相手(ビザンツ皇帝)とつきあっていくことを決意した。

 なお、870年に東方正教会の会議で、ブルガリアの教会は、コンスタンチノープル東方正教会が任命し、その指揮下にある、一人の大主教が統括することが決まった(ブルガリア大主教座の設置)。

(イ)敵であるギリシャ人が宣教師 
  改宗におけるもう一つの不利益は、ブル人に教義を教える立場の宣教師がギリシャ人であったこと。送り込まれてきたギリシャ人の宣教師の人数が十分でなかったほかにも、ブル人達は過去2世紀にわたり、戦場でギリシャ人達(ビザンツ兵士)と戦ってきたのであり、同じギリシャ人から宗教教育を受けることに抵抗感が強かった。その上、教会僧侶の大部分、特に上層部では、ギリシャ人ばかりが教会にのさばっていることにも、反感を持った。多くのブル人がギリシャ人僧侶への反感、猜疑心が強く、故に改宗後も、正しい教義の普及は遅く、この故に、ブルガリアでは正統教義から離れた異端の信仰が広まり、根を下ろす傾向があった。

(3)改宗の利益:ブルガリア人の形成 
  上記のように、不都合な部分も多くあったが、他方で、改宗はブルガリア史の分水嶺となり、スラヴ系住民(一部はギリシャ系キリスト教徒)と、ブルガール人との融合、一体化は進展した。かくして、両民族の共存状態から、10世紀までには、ブルガリア人という単一民族が誕生した。

(4)スラヴ文字の誕生! 
  スラヴ系言語のブルガリア人にとって、改宗とほぼ同じほど重要な意味を持つのが、9世紀末に登場したスラヴ語用のアルファベット、すなわちキリル文字である。この文字の誕生のきっかけは、当時のモラヴィア(Morava)王が、フランク王国のゲルマン人の影響を避けるために、862年にスラヴ文字を作ってほしいと要請し、これにテッサロニキ(英語名=Salonika、スラヴ語名=Solun)生まれの僧侶であるキリル(Cyril)、メトディアス(Methodius)兄弟が答えて、この文字ができたらしい。もっとも、キリル文字の成立に関しては、多くの疑問と、多くの学説があり、詳しいことは解明されていない。
ともかく、キリル文字の創設は、ブルガリア人のギリシャ、或いはフランクによる吸収を防いだし、その上、自らの文学さえも生み出した。
 (注:クリメント=Kliment、ナウム=Naumらのキリル・メトディアス兄弟の弟子達が886年冬ベオグラードに到着、その後ボリス王に面会して、Pliska、Ohridの2カ所を拠点として、神学、その他の学校教育を展開することを決めた由。これにより、キリル文字が普及したという。ちなみに、ブルガリアの史書では従来、キリル・メトディアス兄弟が創設したのは、グラゴール文字と呼ばれる、より複雑なアルファベットで、クリメント・オフリツキーとナウムらの弟子が、ギリシャ文字をより多く取り入れて創案したのがキリル文字である、と説明されてきた。)

 916年に死亡した、Kliment Ohridski(ソフィア大学は、同人の名称付き学名となっている)と数名のその弟子達は、3千名以上の学生達を育成して、神学その他を含む巨大な学派を形成して、キリル文字に基づく学問を普及させた。キリル文字は、世俗的な法律を書面に記すことにも役立ち、右はZakon Sudnii Liudimと呼ばれた。もちろん、行政を組織する上で、自国語用の文字の存在は不可欠であった。(注:キリル文字を手中に収めるまでは、ブルガリア国家は、敵の言葉であるギリシャ語で文章を書いていたらしい。)

 特に重要だったのは、宗教面で、ブルガリア大主教座は、Klimentの指導で、以降ブルガリア語によって典礼を行いはじめ、ギリシャ語・ギリシャ人による支配から免れることとなった。 893年、ブルガリア語が、ブルガリア国家及びブルガリア教会の言葉であるべきことが、ブルガリアにおける貴族会議(Pliskaで招集)において宣言された。(注:この会議でのブルガリア語宣言に関しては、ブル学者作成の「年表」には、記述がない。年表によると、同年、Kliment Ohridskiが、ブルガリア大主教に選出され、初めてブルガリア語で典礼を行った由。因みに、「年表」によると、同会議では、889年に修道院に引退していたボリス王がこのとき一時復帰して、貴族、軍隊の支持を得てクーデターを敢行してVladimir- Rasate王を退位させ、投獄した後、シメオン(第3子)を王位につけ、首都をプレスラフ(Preslav)町に移転すると決議した由。)





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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
 中世のブルガリアを描いた実に濃い記事を、興味深く拝見させて頂きました。スラヴ人とブルガール人の融和・統合にキリスト教の功績があったというのは納得させられました。宗教というものは民族を統合させる力があります。

 私はこちらのブログを見て、やっとブルガリアの歴史をいささか知ったという有様ですが、地政学的にこの国は絶えず東方の大国の影響を受けていますね。今回は登場していませんが、ビザンツのバシレイオス2世など、俗に「ブルガリア人殺し」で知られています。日本人からすれば、捕虜の目を潰すなど仰天させられますが、中東世界でも敵への目つぶしは珍しくありません。権力闘争に敗れ、目をつぶされたカリフや王族も多い。処刑よりは軽い刑でした。

 日本のマスコミが国防に関し重大な関心を示さないのも当然でしょうね。海老蔵事件に報道の多くを割くのは、国民の目をくらます目的だろうと見るネットユーザーもいますよ。日本の国防がお粗末であればあるほど、隣国はもちろん米国も好都合ですから。もはやマスコミに期待するのは無駄だと私は考えています。
mugi
2010/12/10 21:21
mugiさん、
 ブルガリアの歴史に関しては、実は余りまとまった、面白い書籍が少ないのが残念なところ。専門的で細かすぎたり、ナショナリズムの偏見が入ったりしますから、ブル人の歴史書も、つまらないことがおおい。
 小生が書いている文章のネタの多くは、実はR.J.Cramptonという英国人の研究者の書物『A Concise History of BULGARIA』(Cambridge Univ. Press 2007)です。とはいえ、この書物は、その「評価、流れの解釈」については、小生も同意できることが多いのですが、細かい歴史事実に関しては、やはりブル人学者の年代記(「年表」)で検証しないと怪しい部分が出てくるので、「年表」で確認しつつ、小生が注釈を多く追加しました。評価についても、納得できない部分は採用しないようにしました。
 以前に書いた文章ですが、改めて改訂しつつ、連載していきます。オスマントルコ政府のブルにおける施策が、結構善政だったこととかも、これから出てきます。ご愛読下さい。
室長
2010/12/11 10:29

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