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<<   作成日時 : 2010/12/23 13:49   >>

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「ブルガリアの中世」@〜Bに引き続き、今回からは、
「オスマン統治下のブルガリア」(1393--1878年)を連載します。今回はその@です。


1.ブルガリアの土地におけるオスマン帝国の統治:総論  
 オスマン帝国時代に関し、英国ヴィクトリア(Victoria)朝期のクリスチャン達は、暗黒の5世紀という印象を有していたが、これは間違いだ。他方で、オスマン時代を「多文化共存の理想郷」のように見ることも賢明とは言えない。
 総じて言えば、オスマン帝国は、その全ての臣民に対し、宗教的帰依の如何を問わず、安定と良き治安を保証し、また、相当程度の繁栄をも実現したのである。

2.オスマン帝国の社会と行政  
 オスマン帝国のキリスト教徒達は、平和と、相対的な繁栄を享受したとはいえ、ムスリム達と平等な地位を得ることはできなかった。オスマン帝国は「祭政一致」の政体を特徴とする国家であり、国家元首のスルタンは、同時に宗教上ではカリフ(caliph)と呼ばれる「神の地上における代理人」であり、イスラム教義に関しての最高の宗教的権威を保持していた。要するに、西欧風に言えば、法王と皇帝を兼ね備える人物なのだ。

 非回教徒達は、次のように差別を受けた:ムスリム達より税率が高かった。キリスト教の教会は、モスクより高いことを許されなかった。キリスト教徒達は、聖なる色彩である緑の衣服を着てはならなかった。ムスリム達を改宗させようと布教してはならない。場合にもよるが、ムスリム達が向かいの方向からやってくるとき、クリスチャン達は下馬しなければならない。クリスチャン達は、武器を所持してはならない。皮なめし業に従事してもならない、何故ならこれはモハメッドの職業だったのだから。一番肝心なことは、イスラム法が常に、その他の法律より上位にあること。

(1)ミッレト制 
 オスマン帝国では、世俗における行政組織すら、宗教的基盤を原則に形成された。オスマンがコンスタンチノープルを陥落させた翌年1454年に導入されたシステムでは、住民達を信仰によって別のグループに分別することとなった:宗教的帰依に基づくグループ即ちミッレト=milletが、それぞれの信徒による自治的共同体を形成することとなった。これは単に、宗教面での生活に留まらず、教育、所有権法、家族法なども、millet毎に独自のシステムを持つことが許された。
 milletの長は、それぞれの宗教グループの長であり、自らの共同体を代表して、スルタン並びに帝国政府(英語:the Sublime Porte=Ottoman government、ブル語:Visokata porta=Portata)に対し責任を背負った。同人はまた、ミッレトからの徴税、場合によっては徴兵して帝国陸軍、海軍兵士を提供すること、共同体メンバーが悪い行為をしないこと、などに関し責任を背負った。実は、大きな都市で、異なる宗教グループが共存している場合にも、それぞれ別のミッレトに分かれて自治体を形成することが当たり前だった。要するに、一つの行政単位内に、異なる自治組織・法体系が存在することも許容されたと言うことである。
  (注:09年6月の記事( http://79909040.at.webry.info/200906/article_2.html)で紹介した鈴木董(ただし)氏の説では、オスマン側ではミッレト制という言葉を使用しておらず、しかも基本的にはムスリム側による異教徒政策として、オスマン朝以前のムスリム政権にも存在した、異教徒への寛容な扱いとして、「ズィンミー制度」と呼ぶ方が良い、と説明されている。要するに、この制度自体は、ムスリム側の対異教徒統治政策として、普通に採用されてきた、伝統的なシステムであるということらしい。もっとも、普通の西欧系の歴史書には、オスマン朝のミッレト制として記録されているし、また、オスマン朝末期には、西欧列強からの要求で、カトリック・ミッレト、プロテスタント・ミッレトが創設されたりしたらしいので、特にこの用語を排除する必要性は無いとも思う。)

ミッレト制度導入時には4つのミッレトが存在した:@ムスリム、Aオーソドックス(東方正教会)、Bアルメニア・キリスト教、Cユダヤ教。(ユダヤ教は、1454年から機能はしていたが、公式に承認されたのは1839年であった。)なお、ムスリム以外のミッレトにも自治が認められていたが、ムスリムが上位にあり、例えばムスリムとオーソドックスの間の法的論争は、ムスリム法によって裁かれた。

 ミッレト制の意味したことは、普通は、キリスト教徒らが改宗を強制されることはあり得ない、ということでもあった。当時西欧でもしばしば起きていた、宗教に基づく非寛容な迫害事件、ということは、むしろオスマン帝国ではほとんどなかった、少なくとも公式の政府政策ではなかった。同時に、政府公式政策として、エスニック(民族的)概念というものは、存在しなかった。

 民族という概念がないことから、トルコ人側は、オーソドックス・キリスト教徒の全てがギリシャ人ではない、ということを理解しないと言うことでもあり、ブルガリア、セルビアそれぞれが、自前の教会組織を持ち、自立している、ということを理解してくれない、ということでもあった。オスマン帝国時代の大部分の期間、ギリシャ人がオーソドックス教会を牛耳ったので、非ギリシャ人達は、オーソドックス・ミッレトにおける2級市民となってしまった。

(2)封土制(ティマール制) 
 スルタンは、spahi(英語、ブル語ではspahiya、或いはtimariot、トルコ語ではsipahi=スィパーヒー)と呼ばれる騎士(武士)階級に封土=timarを与え、spahi達は、戦時には招集に応じて、封土の広さに応じて帝国軍に相応の人数の従士を率いて参加した(スィパーヒー達の出征義務)。spahi達は、平時においては、租税徴収、治安維持、農業生産管理などの地方の行政任務を預かった。
なお、スルタン、或いはスルタンの家族、帝国高官らはtimar以外の土地を所有しており、これらの荘園=hassを小作として耕作するキリスト教徒、ムスリム達は、普通全ての(或いは大部分の)税金を支払う義務から免れた(その代わり、地主に地代をとられていた)。
   (注:「東欧を知る事典」p291:ティマール制では、封土は小さい方から、@timar=2万アクチェ(銀貨の単位)以下の租税額の封土、保有者はスパヒ、Azeamet=2--10万アクチェ、保有者はアライベイalaybeyi、またはスバシsubasi、Bhas=10万アクチェ以上、保有者は、サンジャクベイsancakbeyi(県軍政官)、またはベイレルベイbeylerbeyi(州軍政官)とされている。即ち、元来はhasも軍事封土制の封土の大きい場合の呼び名であり、timarと基本的には違わないこととなる。スパヒ達は下級武士で、大規模封土を管理する上級司令官レベルの大官達の部下として参戦した。)

 もう一つ、イスラム教神学校などの慈善団体用にヴァクフ=vakufという土地が認可されており、これらの土地からの収益は、これら慈善団体の所得となった。当初は、vakufはムスリムのためだけだったが、後には、キリスト教会、修道院なども右の所有を認可された。(注:ブル語ではvakqf=宗教団体用の寄進された土地、とブル語辞書で説明している。寺社領とも訳せよう。)

(3)キリスト教徒らに課せられた税金 
 上記のような免税特権を有しない村落に居住していたキリスト教徒らには、主たる税金としてまず人頭税=poll taxがあり、次いで軍事税(軍隊へのサービスに関わる税金)があった。

(4)血税=デヴシルメ  
 もう一つ有名な税金として血税=デヴシルメdevshirme(トルコ語=デウシルメdevsirme)というのがあった。右は、1--7年間の間隔をおいて定期的に徴収された税金で、7--14歳のキリスト教徒の少年で、身体強健、頭脳明晰な者が選ばれ、彼らは家族、或いは村落から連れ去られて、イスラム教に改宗の上、厳しい教育・兵役訓練を経て、イェニチェリ(トルコ語:yeniceri;英語:janissary)=常備軍団兵士となった。(注:特に眉目秀麗、容姿端麗、頭脳明晰な少年は、はじめから宮廷吏僚として選抜され、他の者達からは分離された)。

 イェニチェリ軍団兵士らは、結婚を禁じられており、コンスタンチノープル陥落以降の約2世紀間、高度に訓練され、規律の厳しいオスマン兵士として、帝国軍政の要として機能した。また、兵士らは、帝国行政組織の中でも、重要な役割を果たしており、高官となったかつてのキリスト教徒少年は、自らの故郷に恩恵をもたらすことすらあった。この故に、一部の村落からは、将来このような恩返しが村に帰ってくることを期待して、デヴシルメを賦課するようにと要請する書簡が帝国政府に届いた、との記録文書も残っている。もっとも、基本的には、この「血税」は、オスマン帝政における畏怖された部分であり、17世紀末頃まで、継続した。ブルガリアにおけるデヴシルメの最後の賦課は、1685年であった。  

3.オスマン統治下のブルガリア人
(1)相対的なブル人人口の減少

 オスマン帝国によるバルカン半島制圧直後、キリスト教徒のブル人は、半島における帝国全住民の約1/3を占めていた。もっとも、正確な人数は計算できない。なぜなら免役特権のあった荘園hassの村々に関しては、納税していないので、記録がないから。然るに、16世紀初頭には、半島におけるキリスト教徒ブルガリア人は、人口の8%を占めるのみにまで減少した。
 理由:@オスマン帝国が、他のバルカン地域、及びハンガリーに至るまで領域を拡大し、この故に相対的にブル人の比率が低下した、A一揆などの反乱行為に基づき、迫害、鎮圧によりブル人人口が減少した、B病気、感染症によるブル人人口の減少、C一部ブル人のムスリムへの改宗。

(2)ブル人の改宗 
 上記最後の改宗に関しては、論争点が多いものの、@ブルガリアの土地は、半島内のどこに比べても、トルコ人、回教徒人口が多く住み着いた、Aブルガリアは、帝国の欧州部分の中枢部を占めており、故に中欧への帝国の軍事ルート、商業ルートがブルの地を通過しており、Bまた、首都イスタンブールの防衛のための外壁でもある、などの要因から、ブルガリアの土地にいたキリスト教徒ブル人達に、改宗への無言の圧力が最も強かったと見られている。

 その他に、ブル人地主の中には、自らの土地所有権を護持するために、征服者側の宗教を受け容れた者もいたことは間違いない。もちろん制服直後に、大貴族達の土地は没収されたのだが、下級の貴族達の中には、生き残って、徐々にspahi達の間に溶け込んでいったらしい。一部のキリスト教徒の村社会は、税率の低さに目をつけて、集団で回教徒になったであろう。その上、一部のキリスト教徒の村落では、教会とか修道院の財産を簒奪する自由を与えられて、改宗するように勧誘されたケースが存在する。

 もちろん、一部には強制的に改宗を迫られた、暴力的なケースもある:ロドーピ山中の村落では、17世紀の第3四半期において、このようなケースが多発したようだ(今日ポマックと呼ばれる、ブル語を話す回教徒の村が、この地域には多い)。この時期に、何故、強制的な改宗が実行されたか、その動機は不明な部分が多いのだが、この時期には、帝国軍がウィーン征服のための軍事行動を再開するなど、イスラム主義の熱意が強化されたから、とも言われる。より冷めた分析では、帝国の軍事計画者らの頭には、ロドーピ山脈を通過する通路を、非ムスリム達の手中におくことを懸念するという戦略的意図があったとも言う。もっとも、合理的に見れば、帝国財政が困窮しつつあったこの時期に、納税基盤を弱体化するような、大規模集団改宗が強行されたとの理由を見つけることは難しい。

 何れにせよ、改宗者で、地主だった者達は、ほぼ完全にムスリム社会、トルコ人社会に同化していった。他方、村毎集団改宗した例では、ブル語が維持され、民俗習慣などの伝統は、ブルガリア文化のままに維持された例が多い。これらブル語を維持したムスリム達は、ポマック(Pomaks)と呼ばれるようになった。

(3)村の生活 
 ムスリム、キリスト教徒の如何を問わず、ブル人の大部分は、村落部に住んでいた。大部分の村落は、人口が150--200名の小規模集落だった。1648年の時点で、人口が2500名を数えたコーテル(Kotel、スリーヴェン県北東部)のような大規模集落も存在したが、まれであった。

 村では、長老達の集会で、村長としてクメット(kmet)、または時にはクニャス(knyaz)と呼ばれる官吏が選出された。
 また19世紀になると、地方の名士達(成り上がり者の金持ち達が多かった)は、若干軽蔑的なトルコ語に基づく単語でチョルバジー=chorbadzhiiと呼ばれた。彼らが、村のリーダーとなっていた。
 (注:ブル語百科事典(Gaberoff社版)によると、chorbadzhiya(単数形)=@イェニチェーリ軍団の小隊長、Aオスマン期のバルカン半島における村の長老、との二つの意味が掲げられている。他方、chorbaはトルコ語でスープを意味し、小生もブル人から、当時はスープを食べることは贅沢であり、スープをしょっちゅう食べられる旦那衆との意味合いがある、現代語で言えば、小ブルジョアだ、と説明を受けた覚えがある。)

 オスマン帝国の官吏達は、ほとんどブル人の村には来なかった。彼らが来るときは、徴税か、デヴシルメのためであった。免役特権を有し荘園(hass)という資格を持った村には、完全な自治が許されていた。もちろんこれらの村では、スルタン、または高官達への地代などの支払いが必要であったが。これらの特権村のいくつかには、軍隊、商人の山の隘路における安全な通過を保証すること、などの特別の責任も課された。ある村には、スルタンの鷹狩り用の鷹を供給する義務が課された。Dedovoという村には、近くの町Plovdivに、毎日2樽の水を、村内の泉から汲んで供給する義務が課された。これらの特権村において蓄積された自治の経験が、19世紀におけるブルガリア民族復興期に、学校、その他の機関を組織する際に役立つこととなった。

(4)町の生活 
 17世紀においては、キリスト教徒ブル人の50名に一人の割合でしか、町の住民は居なかった。これはオスマン帝国における征服の当初、町の住民達は安全を求めて町から逃亡したためでもある。山間部の村落の場合は、むしろ相対的に安全と考えられ、ブルガリア人キリスト教徒としての生活を継続する例が多かった。

 オスマン社会の発展とともに、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人達が商業面で活躍し、ブルガリア人達も17世紀には商業を営むようになり、トランシルバニア、その他の遠隔の土地にまで進出した:もっとも彼らはギリシャ人(商人)と呼ばれたし、自らもギリシャ人と自称することが多かった。 

 オスマン帝国の都市の中心部には、行政機関、軍隊の建物が多かったが、その周辺部はmahallaと呼ばれ、マハラ(部落)は、民族別、職業別、或いは時として双方に基づき形成されることが多かった。例えば、大都市には、キリスト教徒の靴屋部落、ムスリムの靴屋部落、が別々に存在した。マハラの中では、通りは狭く、家屋は道筋に向かって面していることは少なく、むしろ内庭に向かって建てられていた。

都会では、エスナフ=Esnafと呼ばれた同業者ギルド(guild)が、経済活動の主役であった。(注:「百科事典」によれば、オスマン帝国では18世紀に出現した職人集団で、1773年に公認された。Esnaf内部では、親方=maystori(英語ではmaster)、熟練職人=kalfi(journeyman)、弟子=chiratsi(apprentice)の3つの階級に分かれていた。主要な機関は総会(londzha)であった。)
このesnafは、西欧のギルドとよく似た構成であったが、大きく違ったことは、自立的要素が低く、地元行政機関の官吏から内部干渉される度合いが大であったこと。

 なお、全てではないが、多くのesnaf組織は、構成員にキリスト教徒、ムスリムの双方を抱えていた。また、多くのesnafは、教会その他の宗教施設のパトロンとなって、その修復、或いは建設に力を発揮した。ソフィア市の例では、有名な市中心部所在のSaint Petka教会は、「鞍職人」のギルドが(古くからあったこの小教会を)再装飾したものである。因みに、ブル人達は、繊維職人として知られ、ソフィア市のesnafでは、衣服製作ギルドと頭巾付きマント・ギルドが有名である。


4.オスマン支配の総括 
 多くのブルガリア人ギルドが繁盛したとはいえ、オスマンの支配は、ブルガリア語とブルガリア文学をほぼ滅亡の縁にまで衰退させたし、国家は消滅し、教会もコンスタンチノープルの東方正教会に従属させられて独立性を失った。特にブル語は、中世において一時は、ギリシャ語、ラテン語、アラブ語、と並んで、文明化された欧州の主要言語の地位を占めており、聖書関連、宗教関連書籍のみではなく、世俗的文学さえも生み出していたのに、すっかり滅亡寸前となっていた。

 例えば、エカテリーナ大帝が18世紀後半に、世界の言語、方言279を収集せしめたとき、北米インディアン達の言語すら含まれていたのに、ブルガリア語に関しては、何らの言及もなされていないのだ。スラヴ言語学の父と言われるJoseph Dobrovskyの著書「Safarik's history of Slavic languages」ですら、ブル語に関する説明は短いし、間違いだらけである。

 にもかかわらず、実際はブル語はオスマン支配下においても生き残っていたし、ブル語文学もやがて再興されるのである。
 ブル語が生き残った理由は、ブル人達が、小規模で孤立した、かつ普通は民族的に均一な村落で暮らしていたことにある。このような田舎の村では、日々の経済生活、或いは商業活動のためにギリシャ語を使う必要もなかったし、政府官吏達とつきあうためにトルコ語を使う必要もなかった。故にブルガリアの村では、ブル語を維持したし、ブルガリア名で命名したし、ブルガリア古来の民話・伝説を伝えたし、家族制度も、祭りも、祝日のあり方なども、伝統を維持できた。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
 いよいよ、オスマン帝国が登場となりました。やはりブルより、私としてはこちらに関心があります(笑)。
「オスマン時代を「多文化共存の理想郷」のように見ることも賢明とは言えない」というのは正論です。どうも日本の一部イスラム学者の中には、「多文化共存の理想郷」のように持ち上げる者もいますが、これは贔屓を通り越し不正確にちかい。

 現代のような人種や宗教を問わず平等という理念からはかなり隔たっていたのがオスマン帝国でした。もちろん世界のどの地域も当時はそれが当たり前でしたし、オスマン帝国でもユダヤ人はキリスト教徒と同様の扱いを受けています。たとえ正当防衛でも異教徒がムスリムを殺した場合、改宗しなければ死刑だったはず。

 ムガル帝国でもこれは同じだったし、あるムスリムがパールシーに「不信仰者!」と謗ったら、「不信仰者はそちらだ」と後者が言い返した事件がありました。この町のムスリム裁判官は異教徒がムスリムを侮辱するのは許されない、と結論を下し、改宗か死刑か、パールシーに迫りました。このパールシーが選んだのは後者でした。結局彼は斬首されましたが、1701年頃だったと思います。
 もちろんムガル帝国も多文化共存だったし、寛容度ではオスマン帝国よりよかったでしょう。それでも時にこんな事件があったのです。
mugi
2010/12/24 21:47
 ブル語でギャウーリンgyaurin、英悟でもgiaourジャイアーという言葉があります。これはムスリム達が、不信者、異教徒(特にキリスト教徒に対し)として罵った言葉らしい。
 ブルの歴史小説などでは、トルコ人兵士がブル人を虐殺するときなどに発する常套文句です。
 ムスリム統治下のムガール帝国でも、そういう事例があるようということは、裁判所で対立した場合、ブルにおいてもキリスト教徒に勝ち目はなく、ギャウーリンとして、より厳しい刑罰に服せ占められたのでしょう。
 とはいえ、これから後の記述になりますが、オスマン帝国末期に、ブルではむしろ治安が回復し、帝国政府の軍政改革なども追い風となって、手工業段階ながら、工業が、商業が繁栄し、山間部のブル人専用の小都市(複数)には、豪商達の豪邸(今日のブル観光における目玉となっている建築物)が、続々建てられたそうです。
 職人、商人ギルドが繁栄して、彼らがキリスト教会、修道院などの改築、再建などにもどんどん寄進して、立派な宗教施設も増えたようです。本国の帝国政府は、衰退の兆しを見せていたのに、ブルの土地では、経済ブームに沸いていて、商人達は、オスマン帝国の広い商圏を利用して、どんどん外国にも進出していた!歴史とは不思議な生き物です。
室長
2010/12/25 10:38

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