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zoom RSS 共産党統治期のブルガリアD

<<   作成日時 : 2011/02/16 10:42   >>

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「共産党統治期のブルガリア」(1944-89年)のDです。


3.ジフコフの独裁期:1965--81年
(1)1971年版憲法体制:再引き締めの時代
 1965年、ブルの指導部は、一連の改革を実施し、より現実主義的な経済部門の運営方式を導入した。例えば、「下から上への計画手法」では、各地の企業現場の経営陣が、自ら生産計画数値を計算して、主導権を握り、その代わりより大きな責任を担う、というやり方が採用された。
 しかるに経済改革ムードは、1968年のチェコ事件後の、社会主義規律強化運動の中で消され、停止された。党は経済面でオーソドックスな手法に戻ったし、政治的統制を強めたのだ。中央集権主義とイデオロギー的一貫性が再度強調された。これらが、1971年版の「新憲法」、及び「新党綱領」にも反映された。
 1971年憲法では、新たな国家機関として、「国家評議会(Dqrzhaven sqvet)」が設置された。国家評議会は、立法権と、行政権の双方を併せて保有する、と規定*。更に、国家評議会議長は、国家元首(Dqrzhavna glava)となることが規定されていた。もちろん、右議長で、新たな国家元首とは、Todor Zhivkov自身である。

  (注:国家評議会議長が国家元首ということとなって、形式的に損したのが、Georgi Traykov(1898.04.08--1975.01.14)である。同人は1948.10.30の農民党会議(VS na BZNS)で、「社会主義建設の目的におけるBKPの主導的役割を承認」する決議を採択し、共産党への従属路線を確定した功労者。1947--74農民党書記(党首のこと)、1974--農民党常設評議会議長(同じく党首)。1964--71年国会幹部会議長=国家元首だったが、71年以降ジフコフ国家評議会議長にこの「国家元首」職務を奪われた。

【注:*国家評議会が設置された後も、立法権の主たる担当は国会(Narodno sqbranie)であり、行政権の主たる担当は閣僚評議会(Ministerski sqvet)であることには、変更がなかった。もっとも、社会主義国では、立法権、行政権の双方共が、そもそも共産党の「指導下」にあるのであり、その意味では、国家評議会とは、共産党本部の中の最高者、すなわちジフコフ自身とその秘書官達に、共産党本部の建物から出て、隣にある、より近代的に新装した国家評議会の建物で、共産党本部時代と同じような、或いはそれ以上の権限と権威で、全てを統治することを意味した、とも言える。
  この故に、一般民衆の間の陰口では、要するに米国のホワイトハウスに倣って、一種の「大統領府」を作って、より威張りたいだけ、より独裁権限を強化しただけ、と理解された!ちなみに、大統領を気取ってみたかったという点は、英訳で国家評議会議長職をPresident of the State Councilと訳させ、しかも通称としてブル語でもPrezident(議長)と呼ばせることが多かったことからも、その意図が透けて見える(なお、ルーマニアのチャウセスクの場合、はっきりと「大統領」と呼ばせていた)。
  ジフコフは、米国大統領が国家元首であると同時に行政府の長ではあるが、米国のシステムでは、議会が行政府をも掣肘しうる「立法府」として独立しているし、更には、真実の民主主義制度では司法府が独立して、3権独立の原則が貫かれていることを理解していなかったと思われる。何しろ、ジフコフは高校しか出ていない、非インテリの印刷工だった人物で、教養のレベルは高くなかったのだ。社会主義の制度では、行政権、立法権、司法権の3権共に、共産党という社会の中の「前衛」によって指導される下部機関でしかない。こういう民主主義社会の権力の分立、相互牽制のシステムに関して、社会主義諸国では、本当に理解している人々は、ほとんど居なかったのが実情である。そういう民主主義の根本理念、仕組みに関しては、共産圏では全く情報が流れることはなかった。小生も、ブル人学生らと議論して、その事実に気付き、唖然とした記憶がある。】

国家評議会は、更に、行政機関に対する一定の監督権を行使することと規定されていた。このような行政に対する監督権は、普通の東欧諸国では、共産党機関そのものの責任範囲である。同時に公布された党の新綱領では、ブル共産党(BKP)の指導原理は、引き続き1956年の「四月路線」であるが、既に社会主義は建設し終えたので、「成熟(段階の)社会主義」を建設するプロセスにおける、新規の戦略が必要だとしていた。それは、都市部と農村部の生活を融合させる(平準化させる)ことであった。成熟社会主義の建設には、外延的成長ではなく、内包的な成長が必要で、要するに科学技術革命による生産性向上が必要とされた。
 党の綱領は、1980年代半ばに大幅に変更されたが、憲法そのものは、1971年憲法が、共産体制崩壊まで存続した。

(2)ジフコフの対ソ連完全従属路線 
 何れにせよ、1971年に規定された種々の変化も、現実にはジフコフ体制にほぼ何らの変更ももたらさなかった。ジフコフ路線の基本は、ソ連邦へのほぼ完全な従属だった。特に外交方針の面でそれは顕著だった:1973年ジフコフは、「ブルとソ連は、同じ肺で息をし、同じ血管で栄養を採る一つの体のように行動する」と述べたほどだ。

 ジフコフの対ソ連献身の意気込みは凄まじいもので、二人のソ連指導者に対し、ブルガリアをソ連邦の一つとして合併してくれるように要請したほどだ:
 @フルシチョフは、ジフコフがこのように言うのは、こうした方がブルの生活水準引き上げがたやすいと考えているからだろうと疑い、この申し出を拒否した。
 Aブレジネフは、外交的諸条件から見て、この申し出は実行不可能と見て拒否した。
  (注:ブルがソ連邦の中の一つの共和国となったら、国境を接するトルコ、ギリシャの2カ国=NATO加盟国は、より脅威を覚えて軍備を拡張するし、ユーゴもより強く警戒して、西側との関係を深めるだろうし、ソ連とは仲が悪いルーマニアのチャウシェスク政権も、より西側への傾斜を強めるであろう・・・・など、必ずしもソ連にとっては得にならない。その上、国連におけるブルの1票も失うし、ブルを通じての中東工作とか、色々な外交上の利益も失いかねないので、ソ連にはあまりメリットがなかったのである。)

(3)ジフコフの積極的な対西側外交 
 何時もソ連に忠実なようで、そうは言ってもジフコフは、ソ連圏の国家としては、対西側外交に積極的だった。
 ブルが立ち後れている科学・技術面でのハイテク技術を獲得するには、西独、日本の企業との提携を模索するしかなかった、とも言える。

@19966.10ジフコフは、非共産圏への最初の外遊として、パリに行き、ドゴール(General de Gaulle)大統領と会談した。同人は、極めて保守的だったが、他方で、反米的気質が評価できたから。(注:西欧諸国の中で、仏大使館のみは、商務部を大使館本体とは別途、別の建物を借りて運営し、ブルに対し積極的に、プロジェクト輸出などを働きかけていたが、技術水準、価格の双方の競争力で、西独、日本にかなわない場合が多く、政治力の割には、商談成功率が低かった。ブルの技術者達が、独語修得者で、仏語に弱いという欠点もあった。)

A1973.12にブルは西独と完全な外交関係を樹立した。もっとも、ブルは、それ以前から、西独との間に、かなり大きな貿易関係を築いていた。
  (注:対西独貿易額は、対西側貿易額の中でいつも突出して大きかった。実は、ソ連の工業規格も、ドイツの工業規格を採用している場合が多く、また、ブル自身も戦前からドイツの工業規格に基づく機械類、電気製品類などを使ってきたし、ブル技術者の大部分がドイツ語を習得してきたし、結局は、ドイツ製の機械、技術系統が理解しやすかったのだ。ブルでは仏語も盛んだったとはいえ、仏語履修者は文系で、理系ではなかったし、仏の工業技術は独に比べて低い、というのがブル人の評価だった。イタリアに関しては、石油化学系などで、見積もりを取ったり、商談したこともあるが、イタリア人の気分屋的で信用ならない行動ぶりとか、技術水準への疑惑から、価格が安くとも、プロジェクトをイタリアに委せると言うことは、ほとんど無かった。ブル人が信用したのは、ドイツ人と日本人だった。)

B1973.06ジフコフはヴァチカンを往訪して、法王Paul 6世と会談した。同年末に、ブルは、帰一教会系の司教らをブル国内に任命すること、ブル人カトリック信者の団体がローマに巡礼すること、をそれぞれ許可した。1979年までに、1940年代以来のこととして、ブル国内の全てのカトリック教区に司教が置かれた。

C忘れるべきではないことは、ジフコフは、極東の国日本に特に強い関心を抱き、大阪万博の1970年に初来日(首相として)したほか、1978年(国賓として)、1985年(筑波科学万博視察を名目として)にも国家評議会議長(国家元首)の肩書きで来日した。国家評議会議長という国家元首職をわざわざ自らの手に入れたのも、外国訪問の際に西側諸国(及び日本)から受ける接遇基準が、首相、或いは共産党書記長ではプロトコル(儀典)上格下となることを実感し、大統領並みの国家元首職が一番有利なことを知ったからでもあろう。
  (注:なお、ジフコフは来日時に、特別機に秋葉原でまとめ買いした日本製家電製品を満載して帰国するのが通例だった。自分の家族、及び部下である最高級の幹部達にのみは、日本製家電を楽しむことを許したと言える。また、娘のリュドミーラ・ジフコヴァも、父親とは別の機会に、数回日本に来訪している。)

(4)対第三世界関係 
 1960年代初頭以来、アフリカ諸国から留学生が受け容れられた。もっとも、彼らはソフィアにおける待遇には満足できず、1965.04に市街をデモ行進した事件が発生した。他方、60年代末頃から、多くのブル人医師、教師、エンジニア達が、アフリカに派遣された。1981年には、リビア1国のみで、2千名を超えるブル人医師が存在した。
  もっとも、これらのアラブ、アフリカ諸国に行った医師、エンジニア達の主たる目的は、「外貨稼ぎ」でもあり、彼らは1970年代から80年代にかけて、一時帰国などしてバケーションを楽しむとき、社会主義時代の、少し貧相なレストランなどで、よく豪勢な食事をする姿が見られたものだ。

(5)国内抵抗勢力はほぼ不在
  この時期のブル国内での生活はどうだったろうか?国民の大多数は、それなりに満足するか、或いは、無感情な生き方をしていた。もちろん、時には少し不満を言う人々も居たが、ポーランドのような大規模な反体制派の存在は、ブルでは考えられなかった。ポーランドのカトリック教会のように、選択肢的な忠誠の対象となるべき中心が、ブルには存在しなかった。ブル人の性格としては、政治が気にくわない場合には、無感情と内向的生活に閉じこもるのだ。ある意味ボゴミール教徒的な伝統が根強かったと言える。
  ジフコフは、反体制派という言葉を1977年まで使ったことがないし、その数年後に、ある文学専門誌に、謎文字仕掛けで(詩文の頭文字だけを読む方法で)、「Todor Zhivkovを倒せ」という文章が掲載されたときも、「自分の政権は一握りの詩人らによって倒されるものか」、と笑ってすませたといわれる。

(6)社会主義経済における成長路線の相対的成功  
  なお、1960--70年代のブルガリアが、相対的な安定を保ち得たもう一つの重要な理由としては、大多数の市民らにとって、生活状況は、徐々に改善されていたことが挙げうる。1940年代の末頃〜50年代には、政治的テロが頻繁に起きて人々を恐怖に陥れていたが、この時代には、時折はっきり意見を言う者とか、口汚い連中に対して、警察が出向いて対応するという程度の治安対策で十分事足りるようになっていた。
  1972.12に、党中央委総会は、これからは消費財の供給、教育、住宅などの社会的側面にも、より多くの注意を払う旨約束した。もちろん、生活状況の改善は、迅速ではなかったが、西側の人間で1960年代後半、1970年代後半と2度にわたりブルを往訪して、視察した者は、生活環境が、疑いもなく、総体的に改善されていた、と証言している。

  【注:小生自身、1967--73年、1977--79年とブルガリアに在勤したので、この時代の「それなりの生活水準の向上、改善」を見ている。ソフィア市では、住宅建設が活発で、続々と団地が増えたし、プロヴディフ市、或いはその他の県庁所在都市でも、団地の増加は顕著であった。また、上下水道、幹線道路、温水暖房、などの社会的設備も、どんどん拡充されていた。 自家用車の所有も、60年代にはまだ稀だったが、70年代には徐々に多くの市民が自家用車を私有するようになり、ソフィア市などでは、週末市民が別荘に出かける際、或いは日曜夜に帰宅する際、などに幹線道路がラッシュ状態を呈するようになった。
 ブルガリアは、ソ連から安く石油、天然ガスなどを供給され、これらを元に化学工業を発展させ、輸出して儲けていた。国内の原料でセメントも増産して、安普請とはいえ、どしどし住宅を建設していた。これら住宅には、徐々に温水暖房が入ったのだ。ソ連の天然ガス、及びソ連製原子炉の原発のおかげで、電力と暖房が供給できていた。

 つまり、ブル市民の「都会に住みたい」という願望にも、何とか答えを出していた。共産圏では、都市居住権と農村居住権による差別、都市への移住規制制度が存在したが、また、ブルでは特に首都ソフィアでの生活への憧れが強かったが、ジフコフ政権は、ソフィア市に巨大団地を建設しつつ、これら地方から首都への人口の移動希望を、何とか受け容れるように努力したのである。

 もっとも、地方での農業の崩壊は徐々に深刻化し、食糧の生産には暗雲が漂っていたが、まだこの頃は、食糧不足はなかった。食糧不足、或いはあまりにも画一化された低品質食品ばかりで、市民らが「何を食べても不味い、多様性が無さ過ぎる」と非難しはじめたのは、また、時折基礎食品ですら商店の店頭から消えて、食糧不足が徐々に深刻化したのは、86--89年頃である。】

(7)コメコン経済圏のおかげで、市場を確保し、原油も安く入手
 ブルにおいて、経済が徐々に改善されていた一つの理由は、60年代初めに導入されたソ連主導のコメコン体制が、ブルに利益をもたらしていたからだ。
 ソ連とブルの間の1965年締結の貿易協定では、@ブルはソ連で生産された自動車、トラックなどを国内で組み立てる(もっとも、乗用車の場合は、ソ連、東独などで完成品にまで組み立ててから輸出され、ブル国内での組み立てはなかった)、Aブルは、鉄道車両、造船、フォークリフトに専門化して生産する、となっていた。1975年頃になると、ブルの工業生産品目の1/3は輸送部門に専門化していた。また、その頃には、ブルは東欧共産圏向けに、Bコンピュータ用の磁気ディスク、その他のコンピュータ関連部品を生産していた。

 もちろん、コメコン体制での貿易協定は、ブルを益々東欧圏、及びソ連の顧客企業と強く結びつけるものではあったが、他方では、ブルの「低品質工業製品」にとっては、売るのが簡単な市場を提供してくれた。また、より重要なことは、この協定で、ソ連の原油が国際市場価格より低い価格で入手できたこと。更には、これより少し後の時代*になると、ブルは、このソ連の安い原油のかなりの部分を国内で使わずに、国際市場でこっそり売って外貨を稼ぐことが出来たのだ!
  【注:*ブルガリアが、ソ連から輸入した原油をブルガスの精油所で精製後、一部の石油製品(ガソリン、ディーゼル油など)を国際市場に流しはじめたのは、恐らく1973年の第一次石油危機の頃で、更にその後には、場合によっては、原油のままでも横流しして、国際市場に流すようになったらしい。政治路線、特に外交では、ソ連に絶対忠誠を誓う一方、経済というか、金の面では、ソ連から安く仕入れた原油を活用して、こっそり金儲けしても、良心の痛みは感じないという、バルカン的現実主義である。この「商業的現実主義」をジフコフは、「本当のことを言えば、ソ連がブルガリアの『植民地』なのだ」と秘かに豪語していた!ジフコフは、こういう「裏話」を、ドイツ、日本の政治家に述べて煙に巻くことを好んだ。】

(8)巨大農場方式で一時的には合理化に成功 
 1970年代初頭〜70年代半ば頃には、食糧生産が一時増大したことがある。まず、1969年にVratsa県で7つの集団農場(TKZS=テケゼセ)を、一つの緩やかな連合組織「農工コンプレックス(Agro-Industrial Complex、ブル語の略語:APK=アペカ)」へと統合する実験をした。3.87万haの土地と、合計勤労者数4万人という、巨大規模の農場の誕生である。1970年には、中央委総会でこの方式は承認され、全国的にこの方式を採用することとなった。APKは、少なくとも従業員数6千名、耕地面積では2万〜3万ha規模とすることとなった。 
各APKは、現地の土壌と気候に適合する農産物2--3種類に生産を集中させ、更に畜産においても、1--2種類の家畜に集中する、という方式で、生産体制を合理化した。この方式による合理化で、70年代前半には、食糧生産高も上向き、このことからも、ブル市民が将来を楽観視出来たのである。

【小生所感:確かに、70年代前半頃は、農場幹部らの間では、集団農場の利点である、重量級農機の大量導入で耕作、収穫を合理化、また、農薬・化学肥料などの化学品の大量使用などで、病気を削減し、収穫量も増やす、という方向での「合理化」にかなり自信が見られた。しかし、やがて明らかとなったことは、APKという大規模農場を設立した理由は、政府が農機、化学肥料などへの投資資金を削減し、大型農場となったAPK自身の大きくなった財布で、自前で全てを賄え、ということ。更には、従来食品工業系企業に任されていた、缶詰、瓶詰めなどの食品製造も、南部の野菜、果物生産の多いAPKなどでは、自前の工場で賄い、コメコン圏への輸出品も生産せよ、などと、APKに対する責任押しつけが増えた。
  他方で、APK内部では、ブル人系の優秀な人材がどんどん退職して年金生活入りし、農業労働力の補充は、トルコ系、ジプシー系などが増え、彼らは、生産計画という数値には無関心で、しかも、農場にある現物を適宜勝手に夜中に収穫して、自分の家の食糧庫ばかりいっぱいにする傾向があった。
  また、80年代になると、マフィア企業(まだ共産主義時代だから、闇の企業)が増えて、APK農地から、盗まれ、こっそり収穫された農産物を都会の自由市場で売り捌くようになっていた。もはや、APKという巨大農場方式は、現場に監視の目が行き届かない、泥棒達に盗まれ放題の、ダメ農場となってしまった。
  恐らく、今日のように、携帯電話が普及し、PC技術も発達していれば、このような大規模農場も効率的に管理し、労働力も適切に配分出来たろうが、80年代のブルの技術レベルでは、輸入品のファクス程度しかなく、適切な労働配分、資源配分などで、合理化の利益を確保することは難しかった。】



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 ジフコフの対ソ連完全従属路線は興味深いですね。悪く言えばソ連のポチでも、実は自分の権力強化と国益を重視した面従腹背的な政策だったのでしょう。ソ連もジフコフのラブコールには応じないから、双方したたかです。そして日独の政治家に、「ソ連がブルガリアの『植民地』なのだ」とうそぶくジフコフ。
 彼が日本に強い関心を抱いており、日本人を信用したというエピソードも、日本人からすれば嬉しい。一方イタリア人には、あまり評価が高くないようで。ドイツ人よりもイタリア人の方が、ブル人気質に近いように思えるのですが…

 ブルの学生が3権独立の原則を理解していなかったというのも、社会主義国ゆえでしょうか。ネットでも日本は社会主義国と強調する意見を見かけることがあります。しかし、この類は左派と名乗らずとも総じて観念左派であるのが分かる。社会主義も資本主義も理解していないのでしょう。
「勤勉で誠実な人達による平等な社会」「社会が安定して善意に満ちた人々で成り立っている日本のような社会」などの書込みからも、まるで人間社会が分かっていない。観念と願望の区別もつかぬ連中です。
mugi
2011/02/18 21:53
ジフコフが日本に公式訪問(国賓)として来た1978年、ジフコフは愛知県の豊田市でトヨタの組み立て工場、三重県鈴鹿市のホンダの工場と立て続けに二つの自動車工場を視察しました。コメコン貿易での乗用車の利益が大きいことに目を付け、あわよくばブルも、自動車生産国となりたかったのです。
 しかし、発想が貧困で、例えば、モデルチェンジした旧型の技術を、そっくり生産設備込みで安く譲って欲しい、とか、トヨタ、或いはホンダのブランド名を残して売りたいとか、日本側にとってはあり得ない提案ばかりでした。旧型フィアット車の技術を安く入手した、ソ連のジグリ車の模倣という発想でしかない。しかし、低品質の旧フィアット車を更に低劣なソ連技術者が製造したジグリは、ソ連圏でこそまあまあ新技術で、市民も歓迎したけど、西欧への輸出などは、当然無理だった。
 日本側にしてみれば、ブル製のトヨタ、或いはホンダが、出回って技術面、品質面で評判を落とすということは悪夢であり、とんでもない話!
 なお、二つの工場を見て、小生はすぐに、トヨタのすごさを感じたけど、ブル人は見る目が無く、ぴかぴかの新工場であるホンダの鈴鹿工場を褒めていた。小生は、一部のブル人に「とんでもない。鈴鹿は大勢の労働者がラインに張り付いていた、他方トヨタでは、工場は古く、油臭かったけど、ほとんど無人で機械による自動化が進んでいて、いかに安く、自社技術で自動化が進められているかが分かった」と説明してやって、初めて、彼らも「なるほどトヨタの方が凄いのか」と分かった様だ。もっとも、ブルの偉いさん達(ジフコフ自身も)は、ぴかぴかの、しかし人海戦術のホンダを凄いと思ったようで、小生の説明してやった下っ端のブル人なども出る幕はないようだった。
室長
2011/02/19 09:29
(続)
ブル人学生達、或いは、恐らくは政治家達も、洗脳教育のせいで、やはりほんとうの自由とか、民主主義に関する理解力はほぼゼロでした。
 まず、共産圏でも、選挙、投票があるから、民主主義と思っている。日本は記名式で特殊だけど、しかし、ボックス内に白紙があり、ここに自分の選ぶ候補者名を鉛筆で記入する、と言う制度と説明すると、皆があまりの違いにびっくりする。複数の政党があり、複数の候補者がおり、しかもボックス内で鉛筆を取って、各人が記名する!!・・・共産圏では、一枚の紙(候補者名が印刷済み、選択肢はなく、右枠の□内に、気に入らなければne=noと書き込む)。しかし、投票用紙は普通封筒に入っており、封筒を受け取ったら開封もせず、そのまま投函するやり方で、封筒を開き、ボックスに行って、ボールペンで何かを書く行為は、もちろんneと書くしかあり得ないから、「反対意見」者は、いくら記入後封筒に入れても、その行動パターンだけで、反対意見=反体制派とばれるので、投票所を出たらすぐに尾行がつき、逮捕されてしまうのです。
 
室長
2011/02/19 09:50
(続)
だから、選挙を公正なものと、誰も思っていないから、複数候補で、選択肢があり、本物の選挙をする、と言うことが何かとか、立法府の議会が、行政府(政権)をチェックできるとか、裁判所が国の行政についても、善悪を憲法、他の法律に照らして判断できるとか、そういう仕組みは、決して理解できないようでした。やはり西側社会に長く住んでみて、初めて理解できることのようです。
 王制時代にも、やはり完全な民主主義はなかったけど、共産主義になったら、もっと悪くなったと老人らは感じただろうけど、そういう老人らも、子供達が学校などで、下手な発言をして苦労すると思うと、うっかり昔はこうだったとは、教えられなかったと思う。もっとも、ほんとうは、昔の方が良かったんだよ、と言う程度のことは、聞いていた学生らもいた。
室長
2011/02/19 09:51

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