ブルガリア研究室

アクセスカウンタ

zoom RSS 英国旅行2011年(その四)

<<   作成日時 : 2011/12/17 15:03   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 4

さて、いよいよ英国旅行シリーズの最終回である。

12月6日(火)早朝屋根にうっすらと雪、晴れ、曇り
  昼食後、ウエストエンドPiccadilly Circus駅付近のロンドン一の本屋Waterstone'sへ。ブルガリア関係の本は、例の昨年末から年初に書けて小生がこのブログで紹介したCrampton著の歴史書(A Concise History of Bulgaria)しかなく、残念。しょうがないので、バルカンの近・現代史の本1冊と、Tim Judah著の『The Serbs』(Yale University Press、初版1997年、第3版2009年)を購入。また、同著者、同じ出版社の『Kosovo』という本(2002年第2版)も、買った。

 「The Serbs」は、英国滞在中に初めの部分のみを読んだが、そこには、中世セルビア王国は、Stefan Dushan王(在位1331--55年)時代という、ほんの短期間「領土的には大帝国としての偉容」を達成したが、その後はすぐに衰退したという、はかない歴史でしかない*のに、後のセルビア人は、数々の美しいepic(長文叙事詩。これらは単なる神話というか、事実に基づかない空想物語が多い)を創り上げ、これをジプシーの吟遊詩人らが歌い上げるなどして、田舎の祭りなどの度に、皆が夜遅くまで聞き惚れる、という伝統が生じて、民族主義的「誇大妄想」に陥り、結局ユーゴスラビア解体時における悲劇的な内戦が導かれた、というようなことが主として書かれている。
 (注*:ブルガリアの中世史なら、第一次、第二次王国という2回にわたり、「大領土の帝国」を達成したのだから、むしろブル人の場合は、「大ブルガリア主義」という史観が生じて当然と言えるが、あまりに短期間な「帝国」時代しか持たないセルビア人が、「大セルビア主義」などという誇大妄想を持つのは、そもそも異常な空想史観なのだ。)

 上記視点は、まるで最近小生が、図らずもセルビア人気質に関して書いた(http://79909040.at.webry.info/201110/article_4.html)のと、趣旨が全く同じだ。もっとも、セルビア人が、このように、物語でしかない捏造史観に酔い痴れる民族感情を、「コソヴォ平原での敗戦」*以降、ずっと温めてきた、という、じつはその夢想主義史観が、他所のどの国よりも根深い歴史と伝統を持っているらしいことを、この英国人ジャーナリストが、4年間(91--95年)にわたるベオグラード在住経験から発見し、この書にまとめたということ。セルビア人の夢想史観が、チトーの時代の捏造史観ではなく、ずっと昔からの根深いものとは、小生も今回初めて知って驚いている。
  (注*:コソヴォの「敗戦」というのは、Judah氏によると、実は必ずしも正確ではなく、むしろコソヴォの前の、ブルガリアのPlovdiv近辺での「Maritsa川の敗戦」が、オスマンのバルカン制圧、対キリスト教陣営への攻勢においての巨大な画期をなした戦争らしい。コソヴォの戦いでは、むしろ総合的には、勝負は引き分けであったらしいが、結局はセルビア及びキリスト教勢力の分裂、衰退を導き、他方で、オスマンの方は、すぐに国家体制を立て直して国勢が強化されたという。)

 客観的に見て、最近の韓国に関しても言えることだが、ありもしなかった、或いは歴史的事実として極めて根拠が弱いことでも、ウソを皆が信じ込み、歴史教科書を作文し、色々な作家、映画人が、美しい歴史ドラマ(TV映画)を創り上げている。夢想史観が大手を振るっており、これが国民の中に真実から離れた盲信を生み、却って民族的な失敗を導きかねない、という教訓だ。民族主義的に、強すぎる自己愛のみを涵養するということは、極めて危険だということを、この元来がジャーナリストらしい著者も、言っているのだ。
 戦前の日本も、神国日本とか、過剰な脚色的史観がなかったわけでもない。戦後、米占領軍による過剰な自虐主義史観への誘導があったとはいえ、現在の日本が過剰な自己愛から免れてきていることは、それなりに進歩であると自己評価すべきだろう。

さて、セルビアの歴史について脱線が長くなって恐縮だ。この日は、本屋の後で、近くのFortnum & Mason(Piccadilly Store)に行き、同社の素晴らしいTea(fruits tea、その他)を買った(妻は英国旅行すると何時も、Harrodsとこの店のフルーツティー、Tea類を買う。断然美味しいのだ)。また、店内2階のCafe(google検索した同社HPによると、First Floor<日本風では2階>所在のThe Parlour Restaurantであるらしい)で、美味しいケーキとコーヒーを頂いた。娘はアレルギーで、ケーキがダメだから、アイスクリームをオーダーしたら、アイスクリームが3本ものコーンでどさっと大量に来た。しかも美味。日本と違って、欧州では普通、写真でのメニュー紹介がないから、商品が運ばれてきて初めて、実態が分かるから、このような驚きとなる。このアイスクリームは、妻と小生も手伝って食べた・・・美味い!!
    
画像

    大量のアイスクリーム・・・おいしい!うれしい!

East Finchley駅に戻り、スーパーで牛挽肉を買い、夜はハンバーガーを作って食べた。タマネギなどの他、クミンをかなりたっぷり入れて、ブルガリアのキョフテのような風味のハンバーガーにした。手作りのトマトソースをたっぷりかけて、美味なり!


12月7日(水)晴れ
 この日は、上記の「The Serbs」を読書した他は、午後に駅前のスーパーに出かけて、日本に持ち帰るチーズ類を買い込んだほか、ギリシャ系のパン専門店で、2つの美味しそうな丸パン(一つはライ麦系、一つは全粒粉系)を買い込んだ。英国のパンは、多くが最高に美味しいのだが、やはり専門店で、自分の店で焼いているのは、益々美味しい。
 夜はチーズフォンデュを楽しんだ。英国製チェダーチーズの上等なのを200g+白ワインを使ったので、実に美味なり!パン屋のパンも、フォンデュで益々美味しかった。
   
画像

   ギリシャ系パン屋の自家製の美味なライ麦パン。  

12月8日(木)曇り、雨
 午後15:30娘に別れを告げ、婿の運転する日産マーチ(現地名Micra)でヒースロー第3ターミナルへ。約1時間20分ほどかけて空港着。トランク2個と、布バッグに本を詰めて、3個の荷物(合計50kg弱、日本からの衣類の他、チーズ、お茶、チョコレート、菓子などの「戦利品」を日本に持ち帰ったので、重くなった。確か一人30kgまでは大丈夫)をチェックイン。

 ちなみに、搭乗手続きは、07年の時と比べて、かなり近代化されている。成田では、インターネット予約+クレジット支払いした時の証拠書類を持って行って、空港では全日空社員が少し手伝ってくれるが、基本的にはATMのような機械を窓口として、名前などを書き込み、切符を印刷して貰う方法だった。荷物のみは、従来の窓口的なところで受け取ってくれる。
 他方、ヒースローでは、全日空現地職員の英国人女性が窓口にいて、当方が名前を告げるとPCで検索して、切符を発行し、旅券を確認し、そして荷物もチェックインしてくれる。つまり、成田の方がよりロボット化されている。驚いたのは、ヒースローでの出国時旅券審査が、実はこの全日空カウンター以外ではなかったことだ。

 夜19:00発のNH202。成田到着は、翌9日(金)の15:55と約12時間の飛行。
 なお、上記でも触れたが、ヒースローでは、何と出国時旅券審査は、航空会社の窓口のみであった。すなわち出発ロビーでの検査は、テロ対策の携帯荷物検査と、身体検査(金属探知機)のみで、旅券審査が一切無かった。一種の合理化らしい。入国にはうるさくとも、出国は歓迎で、うるさい手続き、審査はゼロと言うことか??


 ★なお、今回の英国旅行で不思議に感じたりしたこと、その他追記したいこと、を以下に並べる。

1.公道への駐車
 今回初めて気付いたことだが、英国では路上駐車がほとんどの住宅街で、公然と認められていて、何らの規制もないということが、注目された。

 確かに、敷地の広い1戸建て地区では、敷地内駐車が普通だが、長屋地区では、長屋に付属する庭という、日本なら当然自前の駐車場とする敷地部分があるにもかかわらず、普通は前庭、または裏庭は、庭として、家庭菜園などに使うせいか、駐車は家の前の公道にするのだ。このせいで、長屋街区の公道部分は、多くの場合、通過可能な道路は、公道の真ん中部分一車線のみ、という狭さで、すれ違うには、一方の車が路肩に待機して待つ、ということがしばしば起きる。日本なら、こういう不便さを避けるために、家庭菜園などは潰せ、ということを警察が指導すると思うが、全然そう言う意識がないようだ。

 小生二女の家も、前庭が歩道とは垣根で隔てられていて、全く菜園としか意識していないから、冬の今でも、若干の野菜が採取できるほど。この前庭は、恐らく20坪ほどはあり、日本ならやはり、公道駐車が許されても、貴重な(盗まれたくない)車を安全に入れ込むスペースとして使うだろう。ところが、英国人は、庭の方が大事で、車などは公道駐車で十分という考え方だ。面白いというか。

2.住宅は狭い
金持ちが住む一戸建ての、敷地も少なくとも200坪ほどはありそうな豪邸街は別として、普通の庶民が暮らす長屋住宅は、1軒の長屋に、二女宅の例では、6世帯が分譲購入して暮らす。つまり、1階部分に3世帯、2階部分にそれぞれ3世帯と、合計6軒の家族(独身、或いは夫婦のみが多いらしい)が住む。
 2階部分の分譲住宅は、屋根裏の物置部屋を改造して、もう一部屋居室を作れるので、ある意味より広いスペースを得られるから、少し分譲価格が高いかも知れない。

 詳しく計測しては居ないが、どうもさほど大きくはなく、各世帯の分譲部分は基本的には60u強というところかと思う。屋根裏物置を改造して創り出した屋根裏部屋を約30平米(隅っこの方の一部は、高さが足らないから、頭をぶつけて少し怪我をしてしまった、という欠点があるし、ロフトと考えれば、建物面積に入れてはいけない部分かも知れない)として、併せて90平米ほどしか無いのが二女の家だ。これでも、6年前に購入した頃の為替レートでは、4千万円近くの高額で、何十年ものローンとなっている。もっとも、今のレートで考えれば、2千万円弱と安い!!

 一戸建てだと、すぐに1億円を超えると言うから、ロンドンの不動産は基本的には、高い。
 更に娘に言わせると、地区が問題で、この地区は泥棒も少ない良い地区だが、悪い地区だとすぐに車を盗まれるし、泥棒が多いから、安く住宅を買えても、結局は却って高いコストを支払うことになる、という。このEast Finchley地区は、日本人の住民も相対的に多く、安全性が高いという。

3.母親同士のつきあい
 娘は、元来が帰国子女系というか、英語の方が楽だし、これまでの職場でも、他に日本人はおらず、よってこれまでは、日本人社会とのつきあいがほとんど無かったが、ハーフの子供が出来たので、子供の遊び相手とか、将来の友人作りも意識して、最近は、日本人女性(英国人と結婚した女性で、最近母親となった人々。娘によると、まだ英語が弱い人が多いという)が作っている、仲良しクラブ(会合、集会の際には、近所の教会の施設をレンタルして使用)に入会して、毎週一度はこれら日本人女性とつきあうようになったという。日本人社会とのつきあいが始まったことは、我々親としては、何となく嬉しいことだ。
 他には、英国人以外の外国人女性の参加者も多い、幼児と母親の体操・スポーツ教室(一種のコミューニティー・センター、地元自治体経営、ここには日本人は少ない)にも通っている。こちらも週1回ほど。

4.クレジット・カードの強み
 最後に、英国旅行のご参考までに強調したいことは、海外旅行中の支払いには、現金よりもクレジットカードの方が、レート的には有利と言うこと。
 今回の英国旅行では、成田空港の銀行で両替した場合、ポンドは、通常交換レートで1ポンド=120.9円ほどが、131円と、約10円も多く取られる「買いレート」となる。
 ところが、帰国してクレジット支払いのレートを調べてみると、1ポンド=122円とか123円程度(すなわち両替の「中間搾取」は2円程度)である。

 要するに、現金を日本で手に入れたり、或いは恐らく英国で円紙幣をポンドに両替しても、10円ほども「中間搾取」されるのに、クレジット支払いだと、2円ほどしか「中間搾取」されないから、得だ、ということになる。

 もちろん、クレジットカードは、東南アジアとか、中国など、カード詐欺が蔓延している(??小生実態は知らない、偏見かも)国では、危険性もあるかもしれないが、英国の場合、PIN番号の入力は、完全にスーパー店員などは見えないような機械のシステムになっているから、安全と感じられた。安全な国なら、なるべく現金は持たずに(それでも、現金支払いの店もあるから、現金も必要と思うが)、カード払いとする方がレート的に得なのだ。

 なお、中国人専用の銀聯カードが、英国でも使えるようになっているようで、どこだったか詳しく記憶にないが、「銀聯」と大きくレジの所に書かれていたので、驚いた。

 今回の旅では、シーズンはずれで外国人の姿は必ずしも多くはなかったが、Windsor城を始め、我々が出会った東洋系の観光客では、9割方以上が中国系で、もはや日本人が欧州観光地で大手を振るう時代ではない、と感じた(もっとも、年末、年始の休暇時期には、日本人がどさっとロンドンにも押し寄せるはずで、季節はずれを狙った今回、日本人客に遭遇することがあまりなかったのは当然なのだが)。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは、室長さん。

 お嬢様はアレルギーのためケーキはダメでも、アイスはOKなのでしょうか?それにしても、画像のアイスのこのボリューム!日本では何処にでもあるサーティワンの倍以上はありそうな量です。これまでの食事の画像だけで、英国に行きたくなりました(笑)。これでは英国人に太目も少なくないのでは?

 紹介された英国人ジャーナリストによるセルビアの報告は興味深いですね。「物語でしかない捏造史観に酔い痴れる民族感情」は、中世以来の根深さだったとは!もちろんこの手の夢想主義史観はセルビアに限りませんが、下手するとブルへの対抗意識も中世から?冷戦中、何かとセルビアがブルを目の敵にしたのも、何となく理解できるような気がしました。

 日本では何故かセルビア贔屓が多いようで、私はその原因を言論界にクリスチャンが多いためと思っていました。しかし、それ以外にも反米左翼の知識人が多いこともあるのかもしれません。セルビアを空爆したのが米国を中心とするNATO軍だったため、セルビアを殊更庇ったのやら。ありえないことですが、セルビアを空爆したのがロシアなら、彼らはさほど批判しなかったかも。
mugi
2011/12/20 22:08
mugiさん、こんにちは、
 娘のアレルギーは卵、魚、柑橘類です。ケーキには、普通卵が使われるけど、アイスクリームには卵は使われないので、大丈夫です。F&Mのおこのれすとらんは、おいしいと評判らしい。もちろん、英国は、米国と共に、肥満大国としても有名。肉、野菜、パン、ヨーグルト、皆おいしいし、今の為替レートなら、日本人にとっても、安い。太らない方がおかしい?

セルビアの民族意識には、宗教も大きく関与しているとTim Judah氏は言っています。ドゥシャン王が「セルビア帝国」を興した当時、逆にビザンツ帝国は、十字軍の侵攻で衰え、更にはオスマン帝国の勃興で衰退していたから、セルビア総主教座の独立を承認しました。
 その後、セルビアの総主教とか主教とか、高僧達は、セルビア人を率いて、元の総主教座のあったコソボから北上し、ドナウ近辺、ハンガリーの南部に移動し、墺帝国から「国境地帯警備隊」としての特権を色々認められて、対オスマン国境警備部隊として活躍しました。
 同じく、墺帝国の辺境を守護したクロアチア人は、セルビア人とほぼ同じ言語でしたが、カトリック教徒として、セルビア人とは宗教的な対立があり、別民族意識が育まれてしまいました。

 また、今日のクロアチア領「クライナ(辺境を意味する言葉)」地方の住民だった、多くのヴラフ達(複数形:ヴラシ、ワラキア人の意味)は、元来の言語などからは、ルーマニア系のはずですが、宗教は正教(オーソドックス)だし、言語もセルビア語化していたので、結局いつの間にか、彼らもセルビア人に取り込まれていて、ユーゴ解体時の紛争では、クライナ地方のセルビア人として、クロアチア人部隊と対立したし、クロアチア兵から虐められました。

 
室長
2011/12/21 14:54
(続) 
  セルビアの特異な民族意識は、この正教僧侶達の、ムスリム嫌いに
徹した、一斉逃亡扇動とか、そしてコソボなどの故地から、自ら逃亡
しておきながら、叙事詩で延々と恨み辛みを歌い上げ、何時までも復
讐、故地への帰還などを希求し続けた民族の歴史に育まれた、と見る
べきでしょう。

 既に18世紀頃には、セルビア人民族意識は、すっかり叙事詩の暗唱などで凝り固まり、排他的となっていました。だから、ギリシャ北部のアトス山地域(正教の修道院が並ぶ、正教の聖地)のHikendar修道院(この寺院は、元来セルビア正教の所有)で学んでいたPaisiiは、同僚のセルビア人僧侶達から、「俺たちセルビア人には偉大な帝国をなしたという、偉大な過去がある。他方おまえ達ブル人には、何があるのか?」と嘲笑われ、激怒して、これまでブル人の知識から消えていた中世ブルガリア王国の歴史を、各地の歴史書をあさって、そのブル国家の歴史を、知識として復興したのです。
 要するに、オスマン時代、帝国の首都コンスタンチノープルに近いブルでは、オスマン臣民意識が芽生えていて、中世に2度も、バルカン半島を制覇する大帝国を樹立していた、という記憶が消えていたのです。つまり、しつこく叙事詩、僧侶の説教を通じて、中世の「短期の帝国」を歌い上げ、民族意識を強化していたセルビア人に比べ、ブルでは、民族意識も薄くなり、過去の栄光も忘れられていたのです。
 
室長
2011/12/21 15:11
(続)
 Paisiiが「スラヴ・ブルガリアの歴史」という書物で啓蒙し(もっとも、この歴史書も、書かれた18世紀半ばには、普及せず、19世紀に入ってからようやく再発見され、啓蒙書として、印刷、普及された)、更には、19世紀にフランス革命の影響を経て、ようやくブルでは、ブルガリア語文法の制定、ブル語による近代教育、また歴史の再認識へと進んだけど、セルビア人の民族覚醒は、それに比べると1世紀ほどは早かった、ということでしょう。

 他方で、セルビアの欠点としては、国民国家形成時に、カラジョルジェヴィッチ家とオブレノヴィッチ家という二つの「王家」が形成され、ことごとく相対立してしまった、と言う風に、何時も内紛を繰り返す、と言う体質です。
 それに比べると、ブルガリアの方が、最初のバッテンベルク候は追放されたけど、その後はドイツ系の王家ですが、サックス・コブルク・ゴータ家という王朝で、まとまった。王家が二つあって、しょっちゅう内紛を抱えて動揺する、と言うことはなかったのです。
室長
2011/12/21 15:21

コメントする help

ニックネーム
本 文
英国旅行2011年(その四) ブルガリア研究室/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる