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zoom RSS 米国で活躍したブルガリア移民者達

<<   作成日時 : 2012/04/09 13:07   >>

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   昨日は、ブルガリア、その他の旧共産圏諸国において、体制変換に伴う経済混乱期に、生存本能を刺激されて、多くの有能な人材が、マフィア(その一部が、筋肉系暴力団)となって、未だに「犯罪産業」を、或いは正業と兼業する「灰色産業」を経営している旨ご紹介した。特に、移民者達が西欧にて「犯罪産業にて荒稼ぎして、国内に送金し、自国経済を部分的には支えている」とも指摘した。

  上記のような記述ぶりだと、ブル人移民達が、皆ATMカード詐欺などを繰り返す厄介者と思われる可能性があるところ、他方で、昔から、ブルからの移民者(或いはその2世達)は、そのたぐいまれな才能を開花させて、例えば米国などで、大活躍している、という、別の側面を見逃してしまうこととなる。
  ブル人移民者の活躍に関しては、既にシルヴィー・ヴァルタン(アルメニア系、仏ロック歌手)、ディルマ・ルーセフ(現ブラジル大統領)という二人の女性に関してこのブログで紹介済みだが、今日はブル人、またはブル系男性移民者の活躍に焦点を当てたい。

  ちなみに、小生の目を最近引いたのが、米国における最初の経口避妊薬ピルを開発した化学者に関する記事(下記1.)である。

1.Carl Djerassihttp://www.novinite.com/view_news.php?id=138135):経口避妊薬の父
(1)ブルには良い記憶、墺には悪い記憶  
  このNovinite.com紙記事によると、カール・ジェラシという避妊薬の父は、ウィーン生まれのユダヤ系ブル系アメリカ人だが、墺に関しては、ナチスによる墺併合後国外追放された(1938年)という悪い記憶しかない由。
  他方で、父親が元来ブル人だったことから、ユダヤ系であるにもかかわらず、暖かく歓迎してくれたブルガリアでは、平穏に暮らし、しかも、ソフィア市に所在したAmerican College(米語高校、1年以上在学)における教育のおかげで、英語の習得にも成功し、同人は母親と共に米国移民(1939年)後は、2学年をスキップして、すぐに大学に入学を許された由。すなわち、ブルに関しては、良い記憶しかない、という。
  なお、父親は1948年になって、ブルから米国に移民して家族再会を果たした。

(2)Wikiの記述http://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Djerassi
カールは、1923年10月29日ウィーンにて生まれた。母親はAlice Friedmannという元来はGalicia*にルーツを持つアシュケナージ系ウィーン在住のユダヤ人(歯科医)で、父親はDr. Samuel Djerassiというセファラディ系ユダヤ人(ブルガリア国籍)である。父親は、性病特に梅毒治療を得意とする内科医であった。ソフィア市で父親は、数名の富裕なブル人患者にのみ限定して治療し、稼いでいた由(既存のヒ素系薬剤を使用して、数年をかけて治療するやり方)。
     (*注:ガリツィアは、現在のポーランドとウクライナにまたがる地域で、墺領だった。中心地は、現在ウクライナのリボフ市であり、アシュケナージ系ユダヤ人が多かった地域。)

   父母の離婚に伴い、母親とカールは、ソフィア市を離れ、ウィーンに移住し、有名なフロイドもかつて学んだギムナージアムで14歳まで修学した。1938年の墺併合(Anschluss)後、ユダヤ人弾圧が強まったので、父親は母親と短期間「偽装」再婚し、家族をブルに連れ帰ることに成功した。

カールは、1951年、メキシコ人のLuis E. Miramontes とハンガリー人の George Rosenkranzと共に新薬開発に従事し、progesterone(黄体ホルモン)関連のnorethingrone(経口避妊薬として用いられる一種の黄体ホルモン)を発見した。このホルモンは、後に他の研究者らによって動物実験、人体実験を経て、経口避妊薬として有効性が証明された。もっとも、このホルモン剤開発に従事したカールらの意図は、元来避妊薬としてではなかった:「全く想像すらしなかったことなのだ」という。とはいえ、最近のインタビューでは、カールは、避妊薬が無くとも、現代社会の少子化傾向は止められない社会現象だっただろう、と述べている。
   なお、カールは、幾つかのSF小説の作家でもある。

2.Botyo Tachkov
  この人物に関しては、4月8日付のNovinite.com紙記事(http://www.novinite.com/view_news.php?id=138319)で、ソフィア市に溢れる野犬集団(総計では、恐らく1万匹もの野犬がソフィア市には存在しているという。ソフィア市の人口は、現在約150万人と言われる)に襲われ、結局死亡した88歳の元米国在住著名経済学者と紹介されている。上記のカールと年齢的には同じだが、この人物は、下記の記述から、社会主義時代のブルから米国に亡命したらしい。

Tは、恐らく米国で現在最も著名なブル人である。Pernik市生まれ、ソフィア大学卒の経済学者で、米国に1962年に移民し、1968年からは米国証券業の聖地Wall Streetで活躍し、米国投資銀行の会長にまで出世したことがあるという。
  その後は、米国務省、国連、或いはインドネシア政府経済顧問として勤務した他、米、独の諸大学で講義してきたという。同人は、最近、平穏な隠退生活をするために、ブルに帰国した由。6カ国語に堪能という。
     (注:もっとも、この人物に関し、検索してみたが、wikiでは扱われていないので、本当はさほど有名ではないのかも知れない。
★追記:ちなみに、4月9日付Novinite.com紙記事(http://www.novinite.com/view_news.php?id=138350)によると、Tachkov教授の二人の姪が、bTV局の番組に出演し、「タ教授は、自然と動物を愛する人物で、自分が野犬にかまれて死亡したのは皮肉なことではあるが、他方で、自分の死亡事故を理由に、野犬対策として大量殺害されるような事態は、決して望まないはずだ」として、むしろ野犬たち達の生命が尊重されるよう主張している由。
   野犬対策に関しては、03年当時小生がソフィアにいた頃も、ドイツの女性大使が「動物愛護論者」で、野犬狩りを嫌い、ソフィア市長室に怒鳴り込んだりしていた。このように、欧米における「動物愛護団体」などの、影の圧力もあり、安楽死、とか、毒入り餌とかの方法が採れず、せいぜい「去勢手術」での対応となり、効果が出てこないのだ。市民の間では、徹底的な野犬狩り、安楽死を支持する声も大きいはずだが、市当局もお手上げ状態が続いている
。)

3.その他の著名ブル人
(1)John Vincent Atanasoff
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Vincent_Atanasoff
  ブル系アメリカ人、コンピュータの父、1930年代、40年代にIowa State Collegeにて世界初の電子式コンピュータAtanasoff–Berry Computer(ABC)を開発した。
  父親Ivan Atanasoffは1876年、Yambol県Tundzha郡Boyadzhik村生まれ。
本人は1903年10月4日NY州Hamilton生まれ。1995年6月15日(91歳で)Maryland州Frederickにて死亡。

(2)Assen Jordanoffhttp://en.wikipedia.org/wiki/Assen_Jordanoff
  1896年9月2日ソフィア市生まれ (正式名はAsen Hristov Yordanov)、1967年10月19日NY州White Planeにて死亡。
  ブルガリアの航空機デザイナー。米国移民(1921年)後は、テストパイロット、デザイナーとして、数多くの新型機開発に関係し、操縦マニュアルなども作った。
  特に、B-29爆撃機、DC-3旅客機の開発にも参加した事で知られる。

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コメント(9件)

内 容 ニックネーム/日時
30年以上前に ある女性が離婚して外国旅行途中に知り合ったというブルガリア人の男性を連れて帰りすぐに結婚しました。
その男性は、ブルガリア人だけどマケドニア人と言って 一度名刺をもらったら名刺の肩書は、五学講師と記載してあり 英語 フランス語 ロシア語と書いてあり 弁護士とも書いてあり外国人が日本の弁護は、出来ないのにと思いました。
英語も習いに行った人が アメリカンでもないイギリスでもない変な英語だったとか 言ってるし フランス語もおかしいしまともなのは、ロシア語だけだったそうです。
日本人の奥さんは、いるのに若い女性を取り換え引っ返に歩いてるし 不良のような外人で 30年前は、携帯電話がなかったので 見かけると 始終公衆電話で何時間も話してました。
ある人は、ソ連のスパイだとか言ってるうちに 違う女性と駆け落ちして関東近県にいるという 話です。
ブルガリアというと私には、謎の国で日本にブルガリア大使館もあり イベントもあるようです。
リリィ
2012/04/10 20:08
リリィさん、こんにちは、
 30年以上前、と言うのが少し不思議です。ブルガリアにおける自由化革命は1989年10月、実質的にブル国民が自由に外国に出られるようになったのは、1990年以降ですから、まだ20年ほどです。しかし、ブル人だけどマケ人と言った由ですから、恐らくは、旧ユーゴのマケドニア出身者だったのでしょう。旧ユーゴは、ソ連圏から離脱した「孤立社会主義国」だったから、国民に海外での出稼ぎの自由を認めていたので、結構沢山の人が海外に出稼ぎに行きました。
 日本人でも、組織的に外国人と結婚を奨励していた「統一教会」の信者などで、マケ人と結婚して、スコピエで暮らしていた人々が居ます。
 ともかく、出稼ぎは、本当は、外国でお金を稼いで本国に送金するのが勤めなのですが(つまり、大家族制の中で、青年達が外国に行き、送金する)、やはり若い人ですから、中にはその大家族への義務を離れ、放蕩する連中も居ます。
 英語、仏語が怪しくて、ロシア語しかまともに出来ない、というのも、十分なインテリではない、単なるマケドニアからの出稼ぎ青年だったからでしょう。
 ともかく、そういういい加減なバルカン半島出身の青年と結婚した日本人女性には気の毒なことですが、早く離婚した方がよいでしょう。
室長
2012/04/11 15:52
自称 ブルガリア人と名乗る男性は、九州に来ていて その当時40歳前後のようでした。
弟だと言って連れてたこともあり ある大学で英語を教えてたり 私は、共産国からよく来れたと思ってましたけど カトリック教会に復活祭には、来るし ギリシャ正教の信者だと言ってました。
何だか 謎ばかりの外人でした。
リリィ
2012/04/11 20:35
こんにちは、
 バルカンの人は、老けて見えるから、40歳に見えても、20代、30代はあり得ます。小生の経験では、ソフィア大学1年生で、ほぼつるっぱげ(当時は、今のように頭を剃るのは流行でなかった)まで居ました。年を聞いたら、まだ20歳と言ったので、たまげました。
 マケドニア人は、歴史的にはブル人だし、セルビアにもブル系人が存在します。彼ら(本当はマケ人、或いはセルビア人でも)が外国で悪事をするときには、入国管理官など旅券提出の時以外には、ブル人と名乗って、ブルに悪事の汚名を着せた方が気が楽、ということだったかも。
 カトリック教徒は、クロアチア、スロベニアなどの元来オーストリア・ハンガリー帝国領だった部分には多いけど、旧オスマン帝国領部分のセルビア、マケドニアでは、ごく少数で、ギリシャ正教が普通です。もっとも、悪事を平気でするようでは、既に信者としての信仰など怪しいとおもう。
室長
2012/04/12 09:02
共産国は、報道も少ないですけど どこの国も謎ばかりです。
東京に朝鮮大学があり 以前は、近くで仕事してましたけど学生も謎ばかりで 私もお国柄 怖いことばかりの報道が多いので聞きもしませんでしたけど近隣の人も 声かけても返事もないと言ってました。
リリィ
2012/04/13 16:21
こんばんは、
 えーと、もうブルガリアも、旧ユーゴ諸国も共産圏ではなくなりました。北朝鮮のような、奇妙な国家では、既に無くなったのですが、未だに日本ではよく知られていないですよね。
 このブログでは、ブルガリアの色々な側面に光を当て、紹介してきました。今はまだ、共産圏からの離脱、経済混乱期を経て、少しずつ正常化しつつある段階です。07年からEU加盟国として、欧州の一員となり、多額の経済援助ももらえるようになって、少しずつ経済水準も向上しています。
 未だに、個人所得では、日本の1/5程度だと思うけど、また、未だにEU圏内では最低の生活水準ではあるけど、小生から見れば、首都ソフィアは立派になってきたし、ショッピングモールなどは、益々華やかです。社会主義時代には、レストランですら、不味くて、どうしようもなかったけど、今はおいしい食事も楽しめるようです。ワインもおいしくなってきました。
室長
2012/04/13 23:58
中国は、思想や政治は、昔のままで経済を開放したから 街並みや商売も変わってきたようですけど ブルガリアは、国家全体が変わったんですか ロシアが崩壊してから世界でも共産国が消えて行き 日本への観光も多くなりましたけど 20年前に崩壊前のロシア船籍が東京に来ると 自転車やオートバイ 中古の自動車を船に山積みでした。
ある劇団がロシアに行くと お土産は、靴下や女性用の化粧品を沢山持って行くと言ってました。
リリィ
2012/04/14 14:18
室長様、こんばんわ。始めましてお世話になります。よろしくお願いします。

旧共産圏には非常に関心を持っています、なぜなら戦後、かつて軍国少年だった祖父がシベリアの収容所を生き延びて舞鶴に引き上げたからです。冬には氷点下20−30度は当たり前の非常に厳しい環境で、食事もままならなかったと聞いております。粗末な黒パンとスープくらいで風呂に入れず、あまりの空腹さに松ぽっくりを食べて腹痛になったりしたそうです。もう80才を超えた老人ですが・・・。

冷戦終了直前に誕生したため、過去は分かりません。ただ少なくとも、ヨーロッパは政治的に自由になり、人々のファッションもカラフルになって、表情も明るくなったそうですね。何より海外旅行が自由になり、情報が行きかうようになった事が大きいです。

恥ずかしながら、ブルガリアについて何もわかりません。ただギリシャやトルコと国境を接し、最近EUに加盟した事くらいです。ただ旧共産圏のスロベニアやチェコは急激に発展したそうで、ブルガリアも経済力でギリシアに追いつけると思います。
Alexander Magnus
2012/04/14 22:08
Magnusさん、こんにちは、
 小生の叔父も、昭和25年頃にようやくシベリアから帰国できたと思います。母がリンゴの皮をむいて出そうとしたら、勿体ないと、皮ごと丸かじりしました。食糧事情の厳しさが分かります。
 なお、慣れると、黒パンは、それなりにおいしいものです。日本の松ぼっくりには、松の実が入っていないことが多く、小生は日本で松の実をとったことが未だに内のですが、シベリアの松ぼっくりからは、松の実が豊富に採れるそうで、日本の捕虜がシベリアの厳しい食糧事情を乗り切れた要因の一つに、松の実を探して食べられたことがある、とどこかで読みました。
 海外旅行、或いは出稼ぎの自由は、自由化後の旧共産圏が豊かに成れた一番大きな要因と思う。冷戦時代も、旧ユーゴは、海外で稼ぎを自由とすることで、国民の不満を軽減していたし、外国からの送金で、自国の外貨不足を補い、何とか国家経済を運営していた。だから、ブルガリアでは、バナナ、珈琲、チョコレートなどが食べられないのに、ユーゴに行くと、これらが食べられた。特に飲み物の珈琲、或いはオリーブの漬け物などが欠乏するようになって、ブル人の不満が大きくなった。社会主義が行き詰まったのです。
 外国人の我々から見れば、自由化後には、西欧から新しい生産技術が入ってきて、ビールも、食用油も品質が向上し、その上、コカコーラとかも、いつでも入手できるようになったのがありがたかった。
室長
2012/04/15 08:25

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