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zoom RSS 偉人百選:ペータル・ドゥーノフ

<<   作成日時 : 2014/09/01 13:32   >>

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  さて、今回37番目の偉人は、19世紀当時としては全く珍しいことですが、米国留学して米国式の思考方法を身に着けて帰国し、帰国後は若干オカルト的な新興宗教を開発し教祖となった人物です。信仰内容そのものは、キリスト教系の新興宗教と見えます。とはいえ、同人自身は謙虚な人柄で、極めて常識的な人間観を持っていたようです。オカルトと言うには極めて常識的な、あまり極端ではない、むしろ現代的な思想を布教していたような気がします。また、米国で世界最先端の知識を得たこともあり、現代知識、科学に対する信奉心もありつつ、ポスト・モダンの先駆け的な考え方も持っていたらしい。

  しかし、共産党が政権を取ると、宗教に対する不寛容政策が始まり、ボリス王を惑わしたRasputin的な僧侶(濡れ衣です)としての役割を背負わされ、でっち上げの裁判が用意され始めていたらしい。そういう嫌な時代になって、危険な環境の中、1944年12月に80歳の年齢でドゥーノフは、むしろ幸いにも死亡し(死亡原因は不明らしいが、自殺の可能性がある)、でっち上げ裁判が本格化することは無かったようです。

37.ペータル・ドゥーノフ=米国で教育を受け、新興宗教を創始した人物(Petqr Dqnov、1864--1944年)
   Petqr Dqnovの言葉:「ある日ブル人達は、自分が彼らの友人だったということを理解するであろう。しかし、自分が死んだのち、いかなる記念碑も望まないし、もしそういうものが建てられたとしても、自分がこれを破壊するであろう」。

  ブル人で、全く新しい宗教的教義を創設したり、宗教的学派を形成したりした人物はそう多くはない。その上、今に至るも、この学派を信奉する人々がおり、その哲学的命題とか思想が、本当の評価を待っているような人物のことだ。こういう稀な人物の中に、実は、St.Kliment Ohridski、Pop Bogomilと並んで、Petqr Konstantinov Dqnovの名前も挙げられるのだ。

(1)出生、教育
  PD(宗教名はBeinsa Douno)は、1864年7月11日に、Varna県Suvorovo郡Nikolaevka(当時の旧名はHatqrcha)村――この村は、Silistra県中心のLudogorie地方(森林が多い)とDobrich県中心のDobrudzha(ドブルジャ)地方の平原との境目に存在する――に生まれた。父親はKonstantin Dunovskiで、この地方最初の教師、更にのちには僧侶となった。また、教育は、Varna市のクラス式小学校と、VT県Svishtov町の米国Methodist派の「科学神学学校」を卒業(1886年)した。
   (注:wikiでは、英語なら、Peter Deunovで調べると詳しく出てきます。)

  1888年8月(24歳)に米国に留学し、1895年(31歳)まで滞米。最初は、NJ州Madisonの神学校で神学を学んで卒業(Drew Theological Seminary in Madison, New Jersey 、1888 -- May 1892、4年間)。1892年には、Boston市に移動し、ここで神学大学の正規の学生となった(Boston University School of Theology)。1893年(29歳)に卒業し、更に1年間ボストン大学医学部(School of Medicine of Boston University)で学んで、1894年には医師として開業する証明書を受領した*。1895年に帰国(7年間米国に滞在した。当時これほど長く米国に居住し、帰国したブル人は珍しいと言える)。
  (*注:この百選の著者らは、医師(内科医)としての開業許可書としているが、たった1年でそれは無理と思う。wiki英語版では、単に「学んだ」としていて、許可証に言及していない。恐らくは、何らかの証明書を得たとしても「看護師」程度のはずだ。)

  また、この時期同人は、「薔薇十字団(ドイツ語:Rosenkreuzer)」に入団したようだ。しかし、この宗派をエキゾチックな(いかがわしい)セクトと思ってはいけないようだ。この宗派は、ドグマに陥ったキリスト教を、正しい、生命にあふれた、新鮮なものとしようという運動だった。ともかく、青年期の滞米期間が長かったこと(7年間)が、PDと言う人間の形成に鍵となったようだ。そして後に、Beinsa Douno(宗教者としての名前)と呼ばれる宗教家の精神を生み出した。

(2)ブルに帰国、宗教論文を発表
  帰国後の1896年、PDは博士論文『Nauka i vqzpitanie(科学と教育)』を書き、この論文を通じて、聖書類の中から「隠された思想を探求する」というアイデアに関し、多くの信奉者を得ることができた。

(3)宗教家としての活動
  また、1897年(33歳)には、「悟りを開いた、奥義に達した」という兆候を感じたという・・・同人の言葉によれば、「神の約束を実行する日」だという。この年、PDは有名な『Hio Eli Meli Mesail(神の魂が語った・・・何語なのか小生には不明、ブル語ではない)』を出版した。また後に、『Zabetqt na tsvetnite lqchi(彩色光線の信仰告白)』、『Sedem razgovora(7つの会話)』も出版した。

  1900年(36歳)には、PDは有名な『besedi(講和)』を行うようになった。この「講話」(主として日曜)は、十数年にわたって、同人の信奉者たちに、自分の思想を発信し続けるものであった。計算したら、この「講話」は約7000回*に及んだという。約半世紀以上もPDは自分の信者たちの間で仕事したので、同人の仕事の全容を把握することは難しい。
   (*注:wiki英語版では、講話回数は約3700回・・・・1914--44年だという。また、これらの講和は速記記録者が記録して、刊行物となっていったという。PD自身多数の著作も発表していて、出版量ではブル人として有数の多さだという。なおPDは、健康体を維持するための体操、息の仕方、などのヨガ的な教えも説いたし、菜食主義を慫慂したという。生き物たちに対する残虐行為を嫌ったからだという。)

(4)PDの教義
  PDの遺産を総合すると、3つの基本的概念に統括できるであろう:@愛・・・これは繁栄と完璧な人生をもたらす、A知恵・・・これは完ぺきな知識と光をもたらす、B真実・・・これは完全、かつ、境界線の無い「自由」を与える。

  PDの現代知識の本質と展望に関する思考も興味深い:「影は、光の結果だ。偉大なことを否定することは、原因を否定することだ、然るに影と言う結果を受け入れることでもある。現代の人間科学は、結果に関する科学で、要するに影に関する科学だ。影を生まない光もある、しかし、影は光無くしては存在しない」。

  ブル人が言うところの「白い兄弟関係の教え(Uchenieto na Byaloto bratstvo)」とは、教会でも、セクトでもない。彼らの教えは、むしろ学派と呼ばれるべきで、哲学的側面と同時に、現実主義的な方向も存在する。「白い兄弟関係」は、宇宙を巨大な有機体と捕える。この中では、巨大な分子も、極小の分子も、一つの創造的総合的精神と呼ばれる世界観で統一されているという。
  (注:wikiでは、「Universal White Brotherhood」として紹介されている。PDは、独特な音楽に合わせるダンスも発案したようで、フランスなどのこの教団の信徒が、Rila山頂付近にある7つの池の湖畔で、夏季に、朝日の来光を浴びながら白装束でダンスしている様子が、自由化後のブル紙に掲載されたことがある(Paneurhythmy dances at the Seven Rila Lakes Resorts)。白装束の集団が、高い山の上の池の側で踊るのだから、何となく不気味だ。ヨガと言い、奥義を悟ることを目標として、黙想する・・・何となく仏教的にも思える側面もあるようです。)

  PDは、「新時代(水瓶座の時代)」につき語り始めた先駆者の一人だ。要するに、欧米諸国でいうところの「Post-industrial society(工業化終了後の社会)」、或はNew Ageと言う概念で、人生そのものに神聖な意味を与えようという潮流の先駆けなのだ。

(5)1920—40年代に栄えたが、共産党に弾圧された
  PDの教えとオカルト的な学派は、22年ほどにわたって繁栄した(1922--44年)が、多くのドラマチックな事件を伴っていた。PD信者の一部が、政界上層部と繋がっていたということに関しては、既に多くの記事が書かれたが、未だに真相は定かではない。

  PDに対する予審捜査、或は人民裁判の期間を通じて、検察側は、何としてでもPDをBoris3世王の側近として活動した露のRasputinに相当する役割を押し付けよう、暴露しようと努めた。Dqnovist(ドゥーノフ信者)だったLyubomir Lulchevの名前は浮かんできたが、しかし、PD自身のボリス王に対する影響力なるものは、あまりにも誇張された話だった。

  Lulchev自身は、ボリス王との面会数について、正確な情報を(検察に)提供した:1938年に30回、39年は31回、40年は16回、41年は22回、42年は13回だ。Lulchev自身は何度もBoris IIIに対して、PDと会うように勧めたが、いつも「お前と会うだけで十分だ。」と言って会おうとはしなかったという。その上、Lulchev自身も、ボリス王の非公式の助言者となって以降は、すぐにこの宗派の運動からは身を引いたのだ。

(6)共産党政権が布教の自由、信仰の自由などへの規制を強める中で死亡
  いずれにせよ、これらの上層部との関係というよりも、共産党革命以降におけるイデオロギー的な異端に対する不寛容性のゆえに、Dqnovist(ドゥーノヴィスト、ドゥーノフ学派)に対する迫害、排除が共産党により徹底された。

  PDは、1944年の冬から「講話」の実行を止め、同年12月27日にこの世から消えた(80歳)、次の言葉を残して:「一つの小さな仕事が終了した」。
  PDの死に関しては若干の疑惑が付きまとっている・・・自殺だったのか、殺害だったのか、自然死だったのか??いずれにせよ、同人の墓場は、「朝日が昇る公園」*(現在のソフィア市の「Izgrev(旭日、朝日)」区内に所在)で見られるし、五角形の墓碑には次のように書かれている:「神の意志の遂行のためにこそ、人間精神の力は存在する」。

   (*注:この墓は、現在のIzgrev団地内・・・・Dragan Tsankov大通りの西側で、Frederik Zholio Kyuri通りからやや南、ドイツ大使館とベトナム大使館に近い地点にあるはずです。小生も昔、この小公園の墓の近くを散歩していて、墓を守っていたDunov信徒の老人たちに、警戒的な視線を投げかけられて当惑した記憶がある。

  ソフィア市の当時は郊外だったこの地区Izgrev(朝日、旭日)にドゥーノフが住み、1921年には、いわゆる「Izgrev community(朝日共同体)」を結成して、「講話」を行い続けたという。従って信徒の多くもこの周囲に住むようになったという。1930年からは、ここで、朝日が昇る前に講話を開始し、広く宗教、音楽、地理、天文学、哲学、奥義科学(esoteric science)、などを論じたという。

  ちなみに、Izgrev区=Rayon Izgrevは、ソフィア市の下部行政単位で、Izgrev団地も含みますが、Izgrev区役所そのものはIztok(東)団地内にある。すなわち、区役所自体は、Dragan Tsankov大通りの東側に所在します。また、このIztok団地内には日本大使館も存在します。ちなみに、ロシア大使館は、Izgrev団地内で、この辺りには結構社会主義時代から多くの大使館が建てられました
。)


 ある意味、直接的、あるいは間接的に、PDはブル国民の運命と共に生きたと言える。PDが善行の人たれと呼びかけ、知恵のある関係性を重んじ、目的を持った人生、健康な家族、及び知識を持つように努力せよと呼びかけたことは、ブルのみならず、世界の何千人もの信者によって歓迎されたのである。
   (注:wikiではPeter Deunovとして掲載されています。白装束集団のRila山らしき場所での奇妙な踊り+音楽は次のサイトで見られます、仏語です:https://www.youtube.com/watch?v=QTv1k5qmm8o
   また、信徒団体のHPもあります:http://www.beinsa-douno.net/
)。

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