ブルガリア研究室

アクセスカウンタ

zoom RSS 偉人百選:イヴァン・ゲーショフ

<<   作成日時 : 2014/09/18 14:36   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 2 / コメント 0

  45番目の偉人はIvan Est. Geshovという英国で経済学の教育を受けた人物です。帰国後最初は東ルーメリア自治州を第2のブル国として発展させることに精力を注ぎ、同時に1876年の四月蜂起に際しては、その西欧的感性と英語の能力を使って、米国人総領事、記者、及び独人記者の3名の国際アンケート委員会に対して、トルコ軍による蜂起鎮圧時に起きた残虐行為を告発し、自らも英紙Timesに7回の報告記事を送付するなどの活躍で、欧米世論、外交界に対して「ブルガリア問題」を提起することに成功しました。この告発はトルコ当局の注意をひき、最初はPlovdiv市内牢獄に投獄され、死刑判決を受けますが、在帝都(Istanbul)英米大使による圧力行使で減刑され、帝都に家族ともども軟禁されましたが、露土戦争終結後には政治的に免罪され、帰国できました。

  帰国後は、東ルーメリア自治州の政界で活躍し、統治者としての経験を積みます。しかし、IGは1885年9月の南北合併を待たず、1883年には北側のブル公国に移住して中銀総裁となりました。中銀総裁として、中銀法、郵便貯金法を国会に提案し、1885年にはこれら2法の制定に成功してブル国の資本主義的発展の基礎を固めました。
  1886年には、セルビア・ブル戦争の後始末をつけるため、ブカレストに出張し、セルビアとの講和条約に署名しました。

  1894--97年にはKonstantin Stoilov内閣で、蔵相兼商業・農業省担当大臣として産業振興策、税制改革、農業への国家支援、など経済専門家としての才能を発揮して活躍しました。
  1901年以降は、政党党首として19年間務め、議会政治の安定に寄与し、2度国会議長職も務めました。

  1911--13年の期間には首相として「マケドニア問題」解決に邁進しましたが、2次にわたるバルカン戦争に敗北し、「外交下手」として批判を受けました。

  国家目標であった「マケドニア地方のブル民族統合」という夢を無残に水泡に帰してしまった責任を取り、その後は慈善事業の方に主力を置くようになりました(とはいえ、1923年まで政党党首を継続した)。1924年(75歳)ソフィア市で死亡し、生涯を閉じました。

  経済専門家として、ブル国の資本主義的発展への貢献は大ですが、政治家としては第1回目の国家破滅をもたらしたという責任もあるので、功罪半ばする人物としてブルの歴史に記録されています。

45.イヴァン・ゲーショフ=ブル国家に資本主義経済体制の基盤を築いた男、マケドニア領土を永遠に失うという失策に責任がある首相でもある(1849—1924年)
    Ivan Evst. Geshovの言葉:「ブルガリアの唯一の救済は、その精神の再生、その子孫たちの知恵の文化、及び心の再生、彼らの原則と世界観からの飛躍のために働くことだと確信する。そのために自分は奉仕してきた・・・・」。

  多くの政治家たちの仕事は、伝説的な栄光に包まれたものばかりではなく、結構日常的な、魅力に乏しいような、音さえも立てないような、そういう中で静かに実行されていくものだし、しかも大物政治家らの業績は、たった一つの過失でも、全てを台無しとすることもある。この故に、現代ブルを建築した偉人に関しても、その評価は難しい場合も多いのだ。
  Ivan Geshovは、ブル・ブルジョアのエリート階層に所属する人物の一人で、その経験、或は教育においても一流であったが、同時にその資産も多大で、自由なブル国の創建に参加した。

(1)出生、教育
  Ivan Evstratiev Geshovは、1849年2月8日Plovdiv市生まれ。父親は裕福な商人のEvstati (Evstrati)Geshov、母親のHaritina Neshovaは著名なKoprivshtitsa 町人Nesho Chalqkovの娘。
  教育は、Nayden Gerovが創設したPlovdiv市所在のブル学校「Sv.sv.Kiril i Metodi」で受けた。
    (注:38番目の偉人N.Gerovの項で、Plovdiv市の「主教区学校」建物を立ててくれたのがChalqkov家とあった。つまり、IGの母方の祖父にあたるNesho Chalqkovが「Kiril i Metodi」学校の創建を財政的に支援したのだから、自分の祖父が寄進して建てた学校に孫が通って教育を受けたということだ。生まれた時から名門の子弟とも言える。

(2)英国に在住
  1865—72年(16--23歳)は、父親と共に英国のManchester市に在住した。同市では、Owence College*にて財政学、政治学を専攻し、卒業した。
   (*注:Wikiによると、Owence Collegeは1851年創立、1904年にはVictoria University of Manchesterとなったという。19世紀の段階で英国に留学できたブル人は珍しいというべきだ。)

(3)帰国、四月蜂起のトルコ軍による野蛮な鎮圧を海外に宣伝することに成功
  ブルのPlovdiv市に帰国(1872年、23歳)後は、父親の会社で勤務すると同時に、社会運動、文化活動に参加(「図書室」議長、母校である高校の理事)し、特にブルの解放運動に参加した。また、解放後は、ブル民族の統合運動、及び新生ブルにおける行政組織の構築に参加した。

  解放以前、IGはブルの社会問題解決についての革命活動を信用せず、むしろこれに反対する立場の人間だった。すなわち、政治的立場としては、全てのリスクあるイニシャチブには慎重だったが、他方で愛国主義の心情ゆえに、ブル民族とブルの大義に関しては、決断力もあり、迷いもない人間となっていた。この故に、四月蜂起に際して、同人がトルコ軍による残虐行為を世界の世論に知らしめるための活動を行ったし、その功績は大であった。

  1876年7月25日に、Plovdiv市に米国外交官のEugene Skylerと言う総領事兼在Istanbul米国大使館書記官が赴任してきた。同人とJanuarius MacGahan (1844–1878、米国人記者、戦争特派員 )及びSneiderの両名(米Daily News社と独ケルン新聞(Koelnisch zeitung)の特派員)は、四月蜂起鎮圧に際して、トルコ当局が否定したような残虐行為があったのかどうか、その信憑性を調査しに来たアンケート委員会の会員だった。この3名の委員たちは、Plovdiv市でIGと出会い、IGを介することで、トルコ当局から残虐行為を受けた犠牲者たちと初めて直接コンタクトできた。これらの人々は、そうでなければ、西欧で知られることは無かったであろう。

(4)トルコ当局の残虐行為が世界に知られ、「ブルガリア問題」として国際問題となった
  上記のように、アンケート委員会に直接情報提供できたことで、いわゆる「ブルガリア問題」が、欧州外交の優先事項に浮かび上がったのだ。それまで欧州外交界では、このように新聞社が騒ぐまでは、「ブル人達は(独立して自前の発展をすることを)願ってもいないし、そこまで(民族的な自覚は)育っていない」と見做されていた。

  Skylerの説得に応じて、IGは英Times紙の臨時特派員となり(1876—77年、27--28歳)、列強による「Istanbul会議」の期間中に7本の報告書(記事)を送付した。
  このようにトルコ当局の残虐性を暴露した廉で、IG(及びIGの従兄弟)は裁判にかけられ、死刑を判決された(1877年、28歳)。しかし、英国大使Layard(及び米大使)が、明白な圧力をオスマン政府に行使したので、数か月でIstanbul市での保護観察(Geshovi家3家族、合計22名が帝都で警察監視下におかれた)へと減刑され、露土戦争が終わった1878年3月には政治的に免罪され、帰国できた。

(5)東ルーメリア政界で活躍
  露土戦争後の新生ブル建設において、東ルーメリア属州(オスマン帝国内の自治州)の首都Plovdiv市在住のIGは、州議会では国民党(南北合併を主張)党首(1878--83年)であったし、『Maritsa』紙編集長(1878--85年)であった。また州議会議員兼初代議長、州議会常設委議長兼財務局長(1879--83年、30--34歳)だった。

  IGは、南ブル社会の組織化、特に「体育協会(gimnasticheskite druzhestva、複数形)」中央委員会の仕事に励んだ。この協会は、将来の東ルーメリアとブル公国の合併という大義に向けて奉仕するものであった(注:44番目の偉人D.Nikolaevの項で述べたように、この「体育協会」が「市民軍」の基盤となった)。

(6)ブル公国(北ブルガリア)で経済専門家として活躍、中銀総裁となったし、郵便貯金も創設
  1883--86年の期間(34--37歳)、IGはブル国民銀行(BNB、中銀)の総裁であったし、BNBは通貨を発行するようになった。中銀総裁として、Geshovは第3次ブル王国の将来の金融面での構築と言う側面で、最重要な貢献をしたのだ。Mihail Tenevの協力を得て、同人は第4期普通国会(4.ONS)に対して、BNBが資本金1千万Lvの国営金融機関となる旨、かつ、銀行券を発行し、或は国債を発行できる独占的な権限を持つ機関となる旨の法案を提出した。
   (注:中銀(BNB)法、及び下記の郵便貯金法の両者(特殊銀行二法)は1885年に制定された。

  もちろんこのような権限を持つ中銀は、ブル経済発展に対する重要な梃子となるし、国内資本を蓄積して予備とできるし、また、国内の私的資本に対する統制を行使できることともなる。更には、現存する全ての予備資金のBNBへの集中との思考から、IGは郵便局が貯金を集めるよう発案し、これによって小規模の預金者も、相対的に安心して資金を貯めることができるようにした。

(7)政治家としても活躍
  1886年IGは、南北合併、セルビア・ブル戦争の結果を肯定し、その後始末を付けるためのブカレスト会議に交渉官として出席し、セルビア・ブル二国間のブカレスト講和条約に署名した。

  約30年間(注:1894年以降を念頭に入れている模様。1883年以降と考えれば40年となる)にわたって同人は、ブルガリアの運命を指導する主要人物として存在し続けた:
  1883—86年:ブル中銀(BNB)総裁、
  1886年8月26日--11月18日:蔵相、
  1894年5月19日--1897年8月26日:Konstantin Stoilov内閣で蔵相兼商業・農業省担当、
  1901—20年:Narodnata(Narodnyashkata) partiya党首、
  1901年:第9期普通国会(9.ONS)議長、1913年:第15期ONS議長、

  1911—1913年:首相兼外相、公共建築物・道路・公共建設省担当、バルカン同盟結成時に、ブル・セルビア条約、ブル・ギリシャ条約に署名、

  1911—24年:BAN(ブル科学アカデミー)議長、
  1920年:Obedinenata narodnoprogresivna partiya(統一国民進歩党)党首、
  1923年:民主合意(Demokraticheski sgovor)に参加、
  1924年3月11日:ソフィア市で死亡(75歳)。

(8)国内産業振興政策を開始
  IGの功績としては、ブル最初の経済学者で、祖国の税制改革、産業振興策(地場産業保護法を含む)を開始した人物という点を挙げうるであろう。同人は商工会議所(Sofia、Plovdiv、Ruse、Varnaの4都市)の創設に貢献したし、農業基金の近代化にも貢献した。同人のアイデアは、7つの金融関連法律、14の商業、農業関連法律として実現されたし、基本的には数十年間継続施行され、祖国の近代化に寄与した。

  上記のような貢献を一言で言えば、解放後のブルにおいて、いかなる出来事、新規イニシャチブに関しても、IGが関与しなかった事例は存在しない、と言うことだ。

(9)政党党首でもあった
  1901年以来、IGはNarodnata partiya(国民党)党首として20年間も政治に関わった。敵対者たちも、同人が政治家として誇りを持ち、権威を保ったことを認めざるを得ない。

  また、党首であった国民党党首の座を捨て、同党とNarodnoprogresivnata partiya(国民進歩党)との合併に同意し、Demokraticheski sgovor(民主合意)という大政党を生み出したことも、ブルの政党党首としては珍しい決断だ。

(10)バルカン戦争時の首相として大失敗
  ブルの国運を大いに左右した1911年3月16日--1913年6月1日の期間(第32期ブル政府)首相(外相を兼任)を務めたことも、IGの政治活動における頂点と言えるであろう。

  バルカン半島諸国が、バルカン同盟を締結し、しかし、この同盟において、これまでIGが厳しく用心してきた「小政治、党争の泥にまみれ」、「一番リスクの大きい外交的合意」であるセルビア王国との友好・同盟条約に署名したのだ。この条約の最大の過失は、「マケドニアの分割を許容した」事にある。

  この十分考察されていなかった、不完全で、明白ではない、そして非現実的な同盟は、現実的には国家的破滅をブルにもたらした。この政治的判断をしたことで、一部研究者たちは、ブルの才能に欠けた国家指導者たちの長いリストの中にIGを入れざるを得ないと言う。この政治判断こそは、ブルガリアに対して、是正不可能な敗北と損失をもたらしたのだ。

  1912年2月29日のセルビアとの同盟条約*と同年5月16日のギリシャとの同盟条約で、バルカン戦争への外交的な準備は整ったが、マケドニアに対するブルの大義はむしろ極めて不安定な、否、結果として判明したように、実は極めて弱い基盤に置かれてしまったのだ。

   (*注:この条約では、セルビアはSkopje市とOhrid湖までの現在のマケの最西部地域のみを取り、ブルがShtip市、Prilep市、Ohrid市、Bitola市、Strumitsa市、Doyran市、Solun市(テッサロニキ)などマケ領の大部分を取ることが密約されていた

   結局は、第1次バルカン戦争後の第2次バルカン戦争で、セルビア、ギリシャ、ルーマニア、トルコの4カ国が、総がかりでブルを攻め、ブル軍は敗北し、ブルのオスマン帝国からの獲得領土はPirinマケドニア地域のみで、更にルーマニアには南ドブルジャの土地を奪われた。収支決算では、ブルの獲得領土は2.4万平方キロメートル分の増加となった。)

  (注:2度のバルカン戦争全体としての結果では、セルビア、ギリシャがマケドニア領土の8割を取得し、ブルには2割弱程度しか残らなかったほか、第2次バルカン戦争時に「火事場泥棒」を働き、対ブル参戦したルーマニアに南ドブルジャ領土を奪われる、と言う惨状を呈した。この時のマケドニア領土の損失を取り戻すべく、第1次、第2次大戦においても、ブルは悪い方(ドイツ側)に与してしまい、領土回復の夢は遂に実現しなかった。もっとも、第2次大戦中の外交努力でルーマニアから「南ドブルジャ領」を奪回したことは、領土面での不満を若干緩和してくれる要素となった。

(11)慈善事業で貢献
  1898年から死ぬとき(1924年)まで、IGはブル科学アカデミー(BAN)総裁職を務めたほか1908年には、BANの前身である「ブル文学(書籍)協会(BKD)」の不動産資産として12万Lvを受領した。総裁時代にBANは、各研究部門を支部として設置したり、科学発展に寄与した。

  また、IG自身が、自分の資産を犠牲にして、ブル社会、及び国家的大義のために、多額の寄進を続けた。慈善事業も、IGの人生で大きな割合を占めた仕事であった。43番目の偉人Evlogiy Georgievが巨額の遺産(2300万黄金レフ)を委託したのも実はIGであり、この内600万黄金レフは最初のブルの総合大学(ソフィア大学)の建設資金として提供された。

  IG自身も、この「Georgievi兄弟基金」に対して、24万5520黄金レフを寄進した。1926—27年には、IGの資金で建設された「Ivan i Mariya Geshoviの家」が完成し、約100名の学生が無料で寄宿できるようになった。赤十字社(IGが25年間総裁を務めた)は、IGのおかげで病院1軒と看護婦学校1軒、及び身障者と病気の看護婦用の救護院も受領した。

  総じて、IGのブル歴史に対する影響力と存在感は、議論の余地がない。然るに残念なことに、同人の功績と、新生ブルの繁栄を願った善意にもかかわらず、外交政策面での不成功に関しては、重い責任を背負わねばなるまい。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(2件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
22-24.四月下旬から5月上旬の祝祭日
   今回は、4月20日の四月蜂起記念日から、5月6日のGergyovdenまでの3つの祝祭日をまとめました。 ...続きを見る
ブルガリア研究室
2015/02/11 18:35
42-47.9月の祝祭日
   今回は、ブルにおける9月の祝祭日6件を一括まとめました。 ...続きを見る
ブルガリア研究室
2015/02/25 13:48

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
偉人百選:イヴァン・ゲーショフ ブルガリア研究室/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる