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zoom RSS 偉人百選:ディミータル・ペトコフ

<<   作成日時 : 2014/10/03 15:27   >>

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  51番目の偉人は、あの「ブルの大久保利通(19番目の偉人)=Stefan Stambolov」の忠実な家臣と言える人物です。幕末の維新期に相当する、ブルのトルコからの解放闘争にStambolov同様に実戦参加した、幕末の志士たちに匹敵する政治家でDimitqr Petkovといいます。現在の地図で言うとルーマニア東部Tulcea(トゥルチャ)県(ブル亡命家族が集住していた地区の一つ)の出身者ですが、親分のStambolovにぴったりと寄り添い、ソフィア市長として都市計画に従事すると、土建屋との癒着で利権が得られることに目覚め、政治資金を確保し、国民リベラル党の実質的指導者にもなり、最後は首相にまで出世しますが、親分のStambolov同様、暗殺者に射殺されました。
  しかし、DPの遺産(土建屋利得の一部)の恩恵を受けた2名の子息は、Al.Stamboliyski(26番目の偉人)の農民党(BZNS)運動に参加し、政治家としてそれぞれ活躍しました。特に二男のNikola Petkovは第二次大戦後の共産党政権による独裁強化に最後まで立ちはだから、抵抗した人物として尊敬されています。

51.ディミータル・ペトコフ=ブルにおける土建屋政治家の元祖(1858—1907年)
   
    Dobri Ganchevの言葉:「我々の世代は、重要で、偉大な出来事を経験したし、ある意味では栄えある時代であった。そしてこれらの出来事とか、名誉ある時代は、その現場から遠く離れた場所にいて見物するには愉快なことだったのだが・・・、例えば、数世代後にこれらについて読むなどと言う場合には、痛快なのだ。実際にその時代の現場での出来事とか、人物とかは、現代から見れば、結構卑劣で、気味悪いことも多いのだ。特に、近くからこれらを観察する機会を持った人々にとっては、そういうことも多かったのだ」。
   (原注:Dobri Ganchev(1854--1927年):追想録『王国時代の記憶』の著者で、この本は、Ferdinand公統治の初期の時代を扱っている。)

  Dimitqr Petkovは、新生ブル国におけるなかなかユニークな人物の一人だ。長い、激動的な政治経歴を踏んだし、自由ブル国家の建設者の一人でもある。19世紀末から20世紀初頭と言う二つの世紀にまたがる時代に生きた、波乱の人生であったとも言える。そして、この時代の政治家として、国家建設者としての意気込みと、自己の目的追求に際しての非妥協性…時としては野蛮なほどの一貫性と、そして、資本主義初期に典型的な初期資本の蓄積と言う意味での強欲性、更には決断力と、日和見主義も見える。

  DPは、48歳までしか生きなかったが、その間に、教育程度の低い官僚から、博学の政治家、国家指導層、首相にまで出世した。背は低く、がっしりとした体格で、頭は大きく、権力者としての威厳と、鋭い眼光を持ち、野性的な雰囲気すら漂わせる人物であった。

(1)出生、経歴
  Dimitqr Nikolov Petkovは、1858年10月21日、現在ル-マニア東部に所在する「北ドブルジャ地方Tulcea県Babadag町のBashkyoy村」に生まれた(http://en.wikipedia.org/wiki/Dimitar_Petkov)。

  (注:亡命ブル人が多く居住していたドナウ河口部付近のワラキア公国領では、Tulcea、Braila両市がブル人集住地だった。このTulcea県のBabadag(トルコ語名)町近郊の村に生まれたということ。このほか、ロシア領のBessarabia地方、Odessa州西部にBolgradと言う町もあり、この町もTulceaからそう遠くはない。19世紀半ばだから、この頃には、ワラキアの首都Bucurestにも、多くのブル人が居住していた。)

  DPは、1876年(18歳)のセルビア・トルコ戦争には、Panayot Hitov率いるchetaに参加した。次いで、1877--78年の露土戦争時には、ブル義勇軍の第1大隊に所属した。Shipka峠攻防戦(1877.08.9--14)における英雄*であると同時に、左腕を負傷するという災難にもあった。
   (*原注:この攻防戦で、DPは左腕を失い、この故にのちには「片腕(Cholaka)」との綽名を貰った。このShipka峠の戦闘は、写真で永遠に記憶されることとなったが、実はこの写真は、後世ソフィア市の写真館で、模造されたものであるという疑惑が強い代物だ
   小生注:政治家として、自己宣伝の必要性があり、スタジオで背景画などを使用して、それらしく撮影させたものらしい。)

  アレクサンダル公退位後の摂政府時代(1886--87年)、及びStambolov内閣時代(1887--94年)には、DPはその政治的、新聞記者的活動をStefan Stambolovのために捧げ、側近、忠臣として過ごしただけではなく、1895年にStambolovが暗殺された*のちも、Stambolov派を率いて活動し、自らも1907年に暗殺された。
  (*原注:DPは、暴漢の斧がStambolovを襲った時も、側に随従していたのだ。)

(2)ソフィア市長としての功績:近代的首都としての都市計画で、今日まで続くソフィア市の景色を決定づけた
  今に至るも、ブル人の生活にDPの業績が大きな痕跡を残しているのは、同人がソフィア市長をしていた時代の仕事だ。現在のソフィア市の景色の大部分は、DPが市長だった時代に創られたと言ってよい:@トルコ時代の田舎風の小都市としての古い街並みを破壊、整理し、A公園としてのPipinierataを設計した(その後、Boris王時代に更に整備した、現在のBorisova gradina=ボリス公園)、B種々の公共建築物の建設。

  1887年秋、DPはソフィア市議会議員となった。その初回会合(1887年12月1日)で、Nikola Daskalovが市長に選出され、DP自身は副市長に選出された。翌1888年秋、Daskalov市長は年金生活入りし、DPが後任の市長となった。そして、DPは1893年に公共建築物・道路・通信大臣に選ばれるまで、市長を務めた(つまり、副市長1年、市長5年の計6年間ソフィア市の行政を引っ張ったのがDPであるということ。)。

  DPが市長を務めた期間に、ソフィア市は、小さい、泥だらけで、人口も少ないオリエント風の田舎町から、近代的で堂々とした欧州風の首都へと発展した。そして、DPには、計画的で、近代的な首都建設の基礎を築いた人物と言う功績が与えられよう。

  市長職にあった5年間、DPは倦むことなくソフィア市の刷新、と言うか、新ソフィア市の実質的な創建者として働いた。同人こそが、現在に至る主要街路、主要な道路、そして広場などを決め、基本的な町の改善・整備を断行したのだ。広場としては:Sv.Nedelya(Nedelya教会)広場、Narodno sqbranie(国会)前広場、Narodniya teatqr(国立劇場)前広場、など。二つの美しい橋:Lqvov most(ライオン橋:市北部)、Orlov most(鷲の橋:市東部)。また、ソフィア市墓地、市内の公園なども場所が決められた。要するに、同人の意向で、次の世紀にまで続くソフィア市の景色の多くが決められたのだ。

   (注:ちなみに、42番目の偉人Hristo Danov(教育関連出版事業で、国民の啓蒙活動に貢献した人物)が、ブル第2の都市Plovdiv市の都市整備・計画事業に「晩年を捧げた」のに比し、DPは30--35歳と言う「壮年期に」Sofia市の都市計画に邁進したことになる。)

  DPが市長時代に成し遂げたこととしては次も記憶すべきだ:Vasil Levski記念碑(Nevski教会と国立図書館の近く)、上水道網、下水網、公衆浴場、電気照明。

  ちなみに、Sofia市の都市計画に関しては、DPは頑固に自分の意見を貫き、St.Stambolov首相(当時Sはほぼ無限と言えるほどの権力を保持していた)からの命令すら無視した。この件に関しては、上記のDobri Ganchevが一例を記録している:Stambolovが、自らの親戚の要請に応えて、ある旅館の倒壊については、Petkovに対して厳しく禁止命令を出したのだ。しかし、この旅館(Han・・・トルコ時代の旅館兼レストラン、現在はレストランだけの場合が多い)は都市計画上どうしても邪魔となる存在だった。Petkovは消防隊を使ってこの旅館を壊そうとし、他方で、Stambolovは警察を動員して消防士たちを追い払わせた。しかし、数日後Petkovは真夜中に消防士たちを送り込んで、旅館を破壊させた!

  (小生注:Hanを破壊すべきか、否かで、両名が争った年を仮に1890年とすると、このときStambolovは36歳、Petkovは32歳だ。双方とも若いし、頑固で一本気だ。親分のStambolovもたった36歳とPetkovより4歳年上と言うだけだから、血気盛んで、この「反逆」には頭にきたであろう。それでも、Petkovが信念を貫いたとすれば、ある意味DPも立派だ。やはり、明治維新の志士たちと同じ気風で、「親分子分関係が明白」な相互関係だから、こういう我儘も実行できたのだろう。結局は、理解してくれると親分を信じての決断だったであろう。痛快なエピソードと言える。)

(3)汚職もやった:土建屋と癒着し利権とした
  さて、真実をきちんと記録しておくべきであろう。DPとその側近たちは、ソフィア市の資産、不動産などを再配分する過程で、或は、建築規制措置、敷地再編などの都市計画過程で、相当巨額の個人的利得も得たようなのだ。DP自身がどれほどの金額を収得したのか、きちんとしたデータは無いが、その子弟たち(遺産継承者たち)が、その生涯を通じて、ほぼ1日たりとも働くことなく暮らすだけの資産があったということだけでも、相当巨額なものだったと言えるであろう。

   (小生注:ソフィア市副市長となった1887年から1893年までの6年間首都の公共工事を牛耳ることでDPは、大きな利得も手中に収めたらしい。更に、閣僚・首相を務めた1893--94年の1年間と、1903--07年の4年間、合計5年間も、公共建築物・道路・通信省を所管し、公共工事を担当し続けたのだ。ある意味、土建屋と結託しての利権の甘みを知り、これを進んで握った政治家としては、田中角栄を想起させる政治家でもある、とも言える。)

(4)産業革命を加速させ、経済成長で得られた歳入増で軍事費を充実
  DPが活躍した20世紀最初の10年間は、ブルの社会、経済が一本調子に発展していた時期に相当する。要するにブル国では、産業革命と言ってよい過程が進行中だった。そしてこの過程を加速化する上で、DPの役割は中心的なものだった。1903年DPは内相だった。1906年から1907年の暗殺時まで、同人は首相だった。1903--07年の期間、国家予算規模は年率平均6.11%と言う数字で順調に伸びていた。そして歳入の増加の大部分は、ブル国軍の軍備費として投入された。要するに、第2次Stambolovist政権と呼ばれるDP統治期には、ブル民族統合のために、国軍兵力を着実に増強していたのだ。
 
   【注:26期政府(1903.05.6--1906.10.22)は、首相がgen.Racho Petrov、内相がDP、戦争相がMihail Savov大佐というNarodnoliberalnata partiya(国民リベラル党、Stambolov派の政党)政権。本来DPこそがこの党の党首で実力者だったが、Ferdinand王が嫌って代わりにPetrovを首相に据えたという。
   27期政府(1906.10.23--1907.02.26)も、同じく国民リベラル党によるいわゆる「第2次Stambolovist政権」の継続形で、今度こそはDP自身が首相兼内相、更には公共建築・道路、通信省担当だった。

  ちなみに、『ブル政府百科事典』の第15期政府(第一次Stambolovist政権、1887.08.20--1894.05.19)の項に記されているDPの略歴を下記に記す:
1858年10月21日:Tulcea県Bashkyoy村生まれ。
1875--76年:ルーマニア亡命者家庭出身の若者として、Pnayot Hitovのチェタに参加、更には、ブル義勇軍の準備にも参加。Shipka峠攻防戦に参加し、片腕を無くした。
1879--83年:リベラル党(Liberalnata partiya)党員。

1885--1907年:『Narodono sqbranie (国会)』紙、『Nezavisimost(独立)』紙、『Nov vek(新時代)』紙、『Nezavisima Bqlgariya(独立のブル)』紙、『Svoboda(自由)』紙、などの編集者。Narodnoliberalnata partiya(国民リベラル党、リベラル党分派でStambolov系の政党)党員。

1887--93年:ソフィア市長(注:1887年は上記の通り、ほんとうは副市長)。
1892--93年:第4期大国民議会議長、第6期・第7期普通国会議長。
1893--94年:公共建築物・道路・通信相(Stambolov内閣で)。
1899--1907年:第10期、11期、及び13期普通国会国会議員。

1903--06年:内相、公共建築物・道路・通信省担当。(1903年=44—45歳。)
1906--07年:首相兼内相、公共建築物・道路・通信省担当。
1907年2月26日:ソフィア市内で暗殺された(48歳)。】 

(5)暗殺された
  Petkovは、ソフィア市の「Tsar Osvobocitel(解放者皇帝)」大通りで、解雇された精神不安定な元官吏Aleksandqr Petrov*によって射殺された。(*注:Petrovについては、証明されていないが、マケ解放運動の一派との関係が疑われるという。Stambolov派は、国家建設を優先し、マケ解放運動は後回しにする政策であったから、VMRO系運動諸派からは嫌われていたはずだ。)

  DPは、二人の子息を残した:Petko(当時16歳)とNikola(14歳)。彼らはその後、政治家として大物となった。
    (注:兄弟共に、パリの大学で法学部に通うなど、父親の遺産で留学費にも苦労しなかったようだ。@兄のPetko Petkovは農民党員となり、Al.Stamboliyski政権で活躍したが、1924年には死亡(33歳)
   A弟のNikola Petkovも兄に倣って農民党(BZNS)運動に参加。第二次大戦中に祖国戦線にも参加した。第二次大戦後の祖国戦線内閣閣僚だったが、政府を去り、BZNS「Nikola Petkov派」を結成して、共産党独裁に反対、1947年(共産党政権強化時)に国会議員職を剥奪され、死刑となった(54歳)。Nikola Petkovは、共産党に隷従する道を選んだ他のBZNS党員らと違い、最後まで民主主義を主張し、共産党に抵抗した「自由の戦士」として、英米など西側では大いに尊敬された。小生自身も、Nikola Petkovについては聞いており、知っていたが、逆に父親のDPについては、これまで知らなかった。)

  1907年3月2日、1万人の首都市民らが、DPの埋葬行進を見送った。DPは、StambolovとGrekov(Dimitqr Panayotov Grekov、Stambolovistで、Stambolov死後国民リベラル党党首)の墓の真ん中に埋葬された(注:Sofia市中央墓地に埋葬されたのだ。)。
  ともかく、DPは、新生ブル国の基礎を築いた世代の政治家なのだ。

    (注:現在は人口120万人以上を誇るソフィア市も、当時は15万人程度の人口ではなかろうか。1万人が見送ったということは、元ソフィア市長としていかに尊敬されていたか、どれほど多くの人の懐を潤したのか、と言うことであろう。公共工事と汚職というと、マイナスイメージだが、今の日本を見ても、多くの人々に職場を与えるし、道路の整備、上下水の整備などは、住み心地を格段に良くしたはずで、皆に感謝されたのだ。)

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