伝統社会と競争社会

 90年代初めに、アイルランドで暮らしていた頃に感じたことなどを今日は書いてみたい。ベラルーシもブルガリアも、社会主義時代においては、伝統社会を徹底的に破壊した側面があり、社会の支配層に躍り出ていた人々も、共産主義者という特殊な人々で、彼らは伝統社会から言えば、下層階層の出自が多かったらしく、それが故に極端な社会主義政策を強行できたようだ。

 これに反して、大きな革命を必ずしも経験せず、漸進主義的な改良、改革が主体であり、かつ、超保守的で、伝統社会である大英帝国の一部であったアイルランド(アイルランド国は、1920年代から徐々に英国から独立したとはいえ)では、日本同様に伝統社会が根強く、特に首都ダブリンという大都会を除くと、各地方ごとに成立している村社会では、伝統的な生活スタイルが残る保守的な土壌(もちろん、地方によっては、「革新的な労働者階層の伝統」を誇る場合もあり、伝統社会であるから全ての地方で保守系政党が強いとばかりは言い切れないが)が顕著だった。

 伝統社会と、これまでの伝統とかは無視する革新的・成長重視主義の社会(能力主義社会)では、人々の考え方も、社会のあり方も、大きく異なるので、その差異を考えることは、資本主義と社会主義という対比とは別の意味で、各国の国情とか、その国での社会生活のあり方、などを考える上で、興味深いであろう。もちろん、「ブルガリア研究室」としては、中心的な考察対象は、ブルガリアであるべきだ(よく脱線してしまいますが)。

1.伝統社会に関する考察
 まず、伝統社会の特徴ということを概論したいと思う。小生は、典型的な伝統社会の一つとして、閉鎖的な島国である日本と英国、アイルランドが、大いに当てはまるような気がする。もちろん、何千年もの歴史と伝統を誇る中国やインドも、基本的には伝統社会といえるだろう。

 日本でも、英国でも、おのおのの田舎には、それなりに旧家、名家といわれる家族が現存し、これら名家の声望とか、地位というものはその地域の中で確立されており、たとえ当主が少しくらい先代に比べて能力的にも、人望の面でも劣るとしても、同人のしめる社会的地位にはほぼ変わりがない。従って、同じ村社会の中で、名家の当主に比べて、能力的により有能な人材がいたとしても、その対抗馬の人間は、階層的に低い家柄の出身なので、村社会そのものの中では決して名家の当主より高い地位にはつけないし、信用もされ得ない。つまり村社会では、競争原理が働かない。例えば、名家の当主が経営するスーパーが村に1軒あったとして、対抗馬の人間が同じようなスーパーを開店しても、また品揃え・価格などで工夫しても、恐らく村人らは、名家が経営する店にしか行かない。対抗馬の店に行くと、先代以来名家から受けた恩義に反して、恩知らずな行為と見なされるからだ。ともかく長い村の中でのつきあいに基づき、できあがった人間関係の秩序を守る、これが伝統社会の論理である。突然この秩序を乱すような、何々家独占の村の中における商売を阻害するような、新しい競争相手の出現を許さないのだ。

 もっとも、現代社会においては、村社会外部から大きな資本が、巨大店舗で進出してくることが起きうるし、そういうような大都会から来た大手資本の店ならば、その地域内の旧来の店舗を駆逐するようなことも最近は起こっている。しかし村の論理としては、同じ村の中の、より低い地位にある誰かが、名家に挑戦するような形で、対抗的な店舗を出店しても、まず成功する可能性はない、これが一種の法則である。

 また、村社会では、この地域での代表である政治家に関しても、伝統的にこの村では誰を支持する、ということが決まっている場合が多い。日本や、アイルランドでは、何代にわたりこの選挙区の何々村では、何々家に投票する、と決まっていることが多い。アイルランドでも、日本同様に、2世議員、3世議員は当たり前である。

 アイルランドで、そのように、市民が使う商店とか、投票する候補者が決まっているのは、伝統社会で、家柄というものが確立、固定されているからだ。アイルランドでは、極端に言えば、同じ村の中でも、酒場(パブ)の店が2--3軒あることが多い。客の多いパブもあるし、比較的客数が少ない店もあるが、それぞれは固定客を持ち、決して倒産しない。それぞれのパブには、伝統的に、その店にしか行かない固定客があり、そこに通う人々は友人同士、仲良し同士である。ちなみに、教会とパブを共有する人々が、同じコミュニティーに属する人々である。同じ村に住んでいても、宗教の宗派が違い、別の教会に行き、別のパブに通い、別の親戚関係、友人関係を持っていれば、別のコミュニティーに属すると言うことになる(この点日本では、同じ村に住む者は、全住民が同じコミュニティーに属すると単純に考えられているが、アイルランドでは、コミュニティーの基本は所属する教会である)。もちろん、彼らは、投票する候補者も異なってくる。隣人同士で、その関係からある程度(道ばたで挨拶するくらい)のつきあいがあっても、教会が異なり、パブが異なると、考え方、思想、信条、ある意味全てが異なる異邦人として、外部の人間として、見なされる。

 要するに、伝統社会とは、排他的で、少しでも違う要素がある人間は排除する(村八分にする)、閉鎖的な価値観のことでもある。要するに英国、アイルランドなどの村社会は、伝統を重んじる、伝統文化を尊重する、などと前向きに評価する場合もあるが、欠点も数多い。その社会内にどっぷりつかった人間にとっては、相互に助け合うし、親代々のつきあいで気心も知っており、子供の頃からの友人同士で、いつも安心して住める心地よい環境であるともいえるが、他方では、いくら努力しても周囲の評価が変わることはない(個人としての能力ではなく、何々家の誰、という目で見られるので)し、社会的に上の階層に移るチャンスも少ない、住みにくい社会ともいえる。

2.競争社会、能力主義社会
 逆に、歴史の新しい、新社会。例えば、日本では北海道とか、世界では米国のように移民から成り立っている国では、伝統的な村社会は存在せず、常に新しい移民が来て、能力を競うので、流動性の高い競争社会が出現する。

 アイルランドで市民達が言う言葉で、信じがたかったことは、「俺たちだって、アメリカに移民すれば、大金持ちになることも、大統領になることも、さほど困難な大きな夢ではないが、この生まれ故郷のアイルランドで、幼友達らとともに楽しく生きる幸せには代えられない。貧しくとも、地元のパブで飲み、みなと会話を続けて、のんびり生きていくのが幸福」という言葉。

 アイルランド人は、米国ではケネディー、レーガンなどのアイルランド系移民の2世、3世から大統領が誕生したし、豪州、NZ(ニュージーランド)でも、アイリッシュ系の首相が相次いで誕生したりして、そのことには喜んだものの、他方では、自分たちがアイルランドの田舎に住み、昔通りの教会、パブに通っていることをむしろ誇りに思い、喜ぶという気風が強かった。ケネディー、レーガンといっても、先祖は所詮、何々村の何々家の出であり、要するに名家の出身ではない、移民の子孫であり、たいしたことはない、という感覚である。逆に、自国の政治家として、2世議員、3世議員を務める何々の方が、伝統社会から見れば、偉い人なのだ。

 それでは、アイルランド人は、なぜ本国ではダメ人間で、怠け者なのに、外国に行くと元気になり、よく働き、競争に打ち勝って出世するのか?これについては、従来は、カトリックとプロテスタントの教義の差がよく説明に使われていた。プロテスタントの教義では、各個人が直接神と向き合い、個人は神から直接観察されているので、逃げ道はなく、人間は努力して、よく働いて、向上心を持って稼ぐべき、という資本主義精神に通じる。
 他方でカトリックの教義では、神様と直接向き合い交渉してくれる神父様が個人と神の間に立つので、聖書の教えに関しても、厳しくこれを守ると言うほどの道徳心は必要がなく、なるべく神父様の命令を守り、教会には日曜日ごとに通って、ある程度教えに忠実に行動するが、少しぐらい間違いを起こしても、神父様に懺悔すれば、神様に適当に言い訳してくれるので、のんびり生きればよい、というメンタリティーになる。

 従って、カトリック教徒は、気分屋で、その日の気分が向かないと、約束を破って仕事をしない(アイルランドでは、例えば洗濯機の修理に、明日の何時に来てほしいと修理屋と約束しても、この何時とか、明日とかあさってとかの日付すらも、守られないことが普通であった。即ち、ビジネスとか、約束とか、そういう感覚が希薄で、気分屋が多かった。少なくとも、90年代初めまでは、それが普通だった)。

 ところが、アイルランド人がよく移民する米国、豪州、NZなどでは、住民の多数派がプロテスタントの英国系であるから、ビジネス感覚が発達していて、時間を守るべきという掟とか、借金をしたら金利を支払って期限内に返すとか、サービスがよい会社に注文が来るとか、そういう近代社会として当然の社会であるから、新移民のアイルランド人としてもそういうビジネスの常識とか約束を守るようになる。また、アイルランド人は、村社会に生きていた関係で、人間の序列にはうるさいから、新しい移民先の社会では、元いた村社会よりもずっと上の階層にのし上がってやろうという、そういう野心が強く働き頑張るようになる。更には、元々、村社会にいる間は、自分でも気付かなかった金儲けの才能、ギャンブル的な投資における度胸、などの自らの才能に目覚めることも多く、移民後10年もたてばどんどん金儲けの速度が増して、大成功をする、という場合も多いらしい(もちろん、そういう自慢話が喜んで流布するのであり、失敗例も多いのであろうが)。

 日本人の場合、英語系の米国、豪州などにいっても、最初は語学とか、人脈などで苦労することが多く、商売に成功するまでには時間がかかるような気がするが、アイルランド人、スコットランド人、などは、英語で困ることはないし、米、豪、NZなどには、アイリッシュ系、スコティッシュ系の社会が大きいので、商売をするにも、人脈を探すにも、それほど大きな苦労はないはずだ(人脈は、だいたい教会で見つかる)。むしろ少し上昇気流に乗れれば、その後は、関連の業界にいる自国系の人脈が集まってきて、支援してくれるのである。

3.ブルガリアは、競争主義社会になった
 さて、本題のブルガリアであるが、1944年9月にソ連軍が侵攻してきて共産主義政権を打ち立ててからは、それまでの伝統的秩序とか、価値観を全てぶちこわして社会主義社会に改造していったので、競争主義、能力主義には足手まといとなる要素は、45年に及ぶ社会主義の時代にほぼ一掃されている。
 現在存在するのは、完全な実力主義である。この「実力」の中には、社会主義末期に政権側が育成したと言われる「赤い資本」系統(武器製造業界、マスコミ、燃料関連など)も少しは残っているが、またコストフ政権が育成したタバコ密輸に関係するマフィアとか、自力ではい上がってきた麻薬、売春系のマフィアもある。しかし、最近は、本当の意味での技術力(ファッション関連、IT関連、飲食業など)、商才(不動産業、観光業など)、競争力を持った資本家も育ちつつあるようだ。

 何しろブルガリア人は、自分たち自身でも自認するように、「組織に所属する人間としてはダメだが、個人としての能力には優れた人材が豊富」であるので、ビジネスに関してほとんど何の制約もなくなった今のブル社会では、のし上がってくる人材が多数いるようで、「今日の金持ち、成功者100人に関する本」などという本が出版されているほどである。90年代に既に、JPモルガン、メリル・リンチなどの米国金融業界で大活躍した人材がいたほど。これからも、ブルからは、世界的に見ても、成功する人材が輩出し続けるであろう。

 他方で、主として年金生活者らが、生活防衛を選択して社会主義社会の継続を選んだベラルーシでは、新たな独裁者ルカシェンコ大統領が、自分のお気に入りの若手を登用しているとはいえ、旧来の共産党の名士らも一部温存されたし、特にKGB、内務省などの官僚機構は前よりも羽振りが良くなったほど。従って、一部の個人商店主が出現して、私営業も生まれてはいるが、社会全体としては、成長率の低い、貧しいままの経済、社会が存続してしまっている。

4.結論 
 上記の範囲で見る限り、ブルガリアに関しては、明るい未来が見えてきたという程度の話になって恐縮であるが、最近2--3年間に関しての小生の現地体験がほとんどないし、材料不足のせいもあるので、ご勘弁願いたい。

 一言追加したいのは、日本の場合は、地方の伝統社会と、東京、名古屋、大阪などの大都会における競争・能力主義社会が両輪となって、それなりにうまく世界の変化などには対応している気がする。

 唯一の気がかりは防衛の分野に関し、皆が忘れていることだが、海洋国家として、陸地で他国と接していない利点を利用して、今後も日本の安全が保たれることを祈願するしかない。国民の大部分が、軍備とか防衛力とかによる国家の安全に関して、あまりに無関心、無気力、無責任なことに呆れるしかないのだ。

 日本国内の議論で一番不思議な議論は、「戦争は良くない」という、主語不明で、何も考えていない議論が多いこと。もしも、日本という自国を守る手段が、自衛戦争という手段以外にないのなら、戦争も避けがたいではないか。他国が侵略してきても、戦ってはいけない、などと言う不思議な教育を日本国では誰がしているのか?どこの国民でも、戦争は良くないという議論をする場合、その意味は明白に「外国が仕掛けてくる戦争は良くない」という意味である。「自国が無謀な戦争を外国に対して仕掛けることが心配」だとして、自国の自衛隊が危険だという議論を何年たっても主張し続けている(実際には、主語隠しで、自衛隊が危険と明言しないことが多いが)のは日本の一部のおばちゃん党首の政党だけだ。自民党の政府が、侵略戦争をまたやりたい、などといつ声明したというのか?

 もっとも、今日のブルガリアが、兵隊の人数を1/4ほどに削減し、防衛費も実質大幅に減額して、経済面で改善しているので、短期的には軍備にかける費用は少ない方が良いに決まってはいる。ブルガリアの場合は、NATO加盟を目指しているし、EU加盟国にもなれたので、基本的に現在は防衛面での心配はほぼ何もないのだから。

 しかし、日本の場合、竹島を不法占拠する韓国、国民を不法拉致して返さない北朝鮮、尖閣列島とその領海をねらって仕掛けを繰り返している中国、北方領土を不法占拠し続けるロシア、というように、単に日本側の一方的な忍耐で何とか発火を食い止めている隣国ばかりだ

 理不尽な隣国に取り囲まれている日本が、アメリカが戦後に作った憲法の「きれい事条文」に縛られて、自衛戦争まで放棄し続けていて、安全がこれからも維持できるかは疑問なのである。また、自衛戦争という場合でも、友好国との集団安保体制、集団的自衛権の行使、という形をとらないと、国際的な支持が獲得できないし、不利になりうるであろう。

 ちなみに、隣国の大部分が核兵器を持っている日本周辺で、日本側が核を持つ隣国に対し、先制的に武力行使することなど、あり得ないし、先方がそういう危惧感を持つこともあり得ない。要するに、日本自身が悪者となっての侵略戦争など、どういう風に推理してもあり得ないのであり、社民党のやかましく言う「日本発の戦争」など空論も甚だしいのだ

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