2番手支配民族の心理

 再び、ベラルーシ、アイルランドなどにおける小生の体験を元に、「帝国の2番手支配民族の心理」というテーマで、論考してみたくなった。1番手支配民族とは異なる、2番手支配民族の、「帝国」解体後の心理は、複雑である。この心理に注目すると、国際政治に関しても、それなりに新しい視点で切り込めるような気がする。
 今回も少し突飛な発想と見えるかもしれないが、おつきあい願えれば幸いである。 

1.北アイルランド問題=「民族紛争」という正しい認識を持つべき
(1)大英帝国の支配民族 
大英帝国の支配民族=イギリス人、というのが日本人の誤りの元だ。ブリティッシュというイギリス人に近い言葉はあるが、ブリティッシュという場合、香港系、印パキ系、西インド系などの、最近の英国籍市民も含む概念である。要するにイギリス人という民族名はない。イギリスという国名も、正式には連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)である。

 イングリッシ(アングロ・サクソン族)、スコッツ、ウェルシ、アイリッシ(これら3つの民族は元来ケルト系の民族)の4民族が大英帝国の支配民族であった。
これらの内アイリッシのみが、独立を果たしたが、北部アイリッシの居住地=北アイルランドのみが、大ブリテン島本土からの占領民・移住民が多すぎて、英国の中に残る形での「不完全独立」であったため、未だにアイルランド「全島完全分離独立」を「正しいアイデオロジー」と考えるIRA(Irish Republican Army)などの民族主義者による運動が続き、紛争が終わらない。要するに北アイルランド問題は、民族紛争、領土紛争であるが故に、いつまでも終わりが見えない闘争となっている。

(2)「宗派間対立(sectarian conflict)」、「二つの伝統の間の衝突(conflict between two traditions)」などの説明は、「民族紛争」という実態をごまかすための用語 
北アイルランド問題は、「民族紛争」であるという正しい認識を極力拒否して、プロテスタントとカトリックの間の「宗教紛争・宗派間闘争」であると誤魔化しているのが英国政府であり、これにある程度同調している「正しくないアイデオロジー」(全島独立ではなく、北アイを残すという妥協による独立を選択してしまった)に軟化してしまったのが、アイルランド政府である。
 英国には、北アイ問題に関して、二つの「文化・伝統」の間の対立、というごまかした表現方法もある。然し、宗教、文化・伝統というレベルの紛争が、現代の欧州においていつまでも有効であるはずがない。民族紛争、領土紛争という「正しい認識」を持つことが北アイ問題理解の鍵である。

2.ソ連帝国における支配民族
(1)ベラルーシ人とアイルランド人(アイリッシ)の心理比較 
ベラルーシを考える場合、ベラルーシ人には、ソ連帝国における支配民族としての輝かしい過去が未だに近い過去としてあることを忘れてはならない。

 因みに、アイリッシにとっても大英帝国時代の「支配民族」の一つとしての輝かしい過去が、未だに首都ダブリンに「ロイヤル・ダブリン・ソサイエティー=RDS」なる不思議な協会とその施設を残している。英国国王に反旗を翻し、自ら独立して共和制を採用したはずのアイルランドの中心部に、「英国王」を意味する「ロイヤル」の形容詞を冠した協会が存在する不思議さに、小生は「何故共和国として独立したこの国で、この形容詞をすぐに捨てる動きがなかったのだ。なぜ同じRDSで略称を変える必要もないRepublicanという形容詞を使わないのだ」と質問して、RDSの広報官を困らせたことがある。5分ほども説明があったが支離滅裂で、さっぱり理解できなかった。いわく「会員の郷愁、特に変えるべきと云う意見がない・・・云々」。

 要するに、大英帝国の支配民族として7つの海を制し、活躍した頃の栄光、官吏として、軍人として、或いは実業家として成功したときの栄誉に「国王、或いは女王から爵位または勲章」を受領するのが、最高の栄誉であり、生き甲斐であった時代の名残が消えていないのだ。更には奇妙なことに独立後の今でも、一部のアイリッシには女王からの勲章は垂涎の的なのだ。そういう俗物的な、社会の上層部にいるアイリッシには、ロイヤル・オナーは捨てがたいものなのである。故に、そういう上層部が集うRDSの会員には当然女王からの叙勲者もいるし、祖先が女王から叙勲されたことが自慢という人もいる。ロイヤルの形容詞を外すという発想は出てこない。

 その上リパブリカンの形容詞は、IRAがテロ組織同然の団体となり、すっかり汚らわしい用語になった面もある。因みに、英国政府、英国製の百科事典(ブリタニカ)はアイルランドの国名を「Republic of Ireland」として譲らないが、アイルランド側は自国憲法に基づき「共和国」を付けない単なる「アイルランドIreland」と主張する。この名称論争は、全島という意味での「アイルランド」という地理名称をそのまま国名としたいアイ側と、北アイ部分は自分の領土であるから単なるアイルランドという名称は許したくない英国側との間の「領土紛争」とも関係がある。IRAとの関係でリパブリックという用語を嫌うという次元の話ではない。

 独立を果たしたが、北アイ問題を抱えてしょっちゅう英国に腹を立てつつも、アイルランドのハイソサエティーは、RDSの名称変更を考えない。それほど「帝国時代の栄光」は、心理的に捨てがたい魅力を湛えている。敗戦後「帝国大学」が、ただの国立大学になり、大日本帝国という意識を簡単に捨て得た日本とは、欧州人は伝統へのこだわりが違うのだ。保守的で変えないのが欧州の魅力であるし、神髄だ。

(2)ベラルーシ人の民族感情に占める「ソ連」帝国支配民族としての感情 
さて、再びベラルーシに話しを戻そう。ソ連帝国の支配民族は、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人だった。中でも一番少数のベラ人にとっては、ただの小国、ポーランドの3千万人に比べても小国である1千万人の「貧乏弱小国」の地位に甘んじるのは、心理的に抵抗感がある。それでは何故、ロシア連邦の中に戻らないのか、という疑問も当然出てくる。

 ルカシェンコ政権が、過去のソ連時代に固執し、ソ連時代の制度をなるべくそのまま残そうとするこだわりの中に、ル本人の進歩しない頑固さを見ることは簡単だし、その要素が濃いことは確かでもある。然し、単純にそう言い切るには、多くの一般国民がルを支持し、かつ、社会主義的手法に必ずしも反対しない理由の真相を見逃す愚を犯すことになろう。

 上記のアイリッシの例を参考にすれば理解可能である。
 独立してしまえば、その実体を再び変えることは、やはり民族感情もあり、できない。然し、帝国ソ連としての誇り、栄光を失ったことへの「喪失感」、「権威の減退感」には耐え難い面があるのだ。「郷愁」という言葉では簡単に言い表せない焦り、これまで同国人、同格であったロシア人が急に大きく、尊大になり、同じスラヴ人としての連帯感もなくして、ベラに従属を強いるという「露・ベラ連合国家」枠組み形成過程における、交渉中における、ベラ人のいらだちが、やがては、これまで希薄であった「民族感情」に火を付けることになるかもしれない。

 然し、当面今のミンスク(注:02年当時)で感じることは、イングリッシ嫌いの多いアイルランドとは違い、ロシア人嫌いの感情は薄いし、むしろルカシェンコ大統領より、プーチン大統領の人気の方が高く、また機会があれば、有利な就職口があれば、いつでもロシア人に戻ってもかまわない(現に、ソ連時代のコネを通じて、ロシアに就職口を見付けてベラを離れる市民は多い)という程度の市民感覚である。

 アイリッシ語が、かなり廃れた、教育で何とか部分復活させようと試みていると云う程度の古い言語(ケルト系ゲール語)であるのに対し、ベラルーシ語は、未だに地方の口語としてベラ人の3割程度の市民が日常使用している、生きた言語である。また、国営TVのニュースは原則殆どベラ語で報道されている(ラジオはロシア語が多い)。
 それでも、ベラ人の民族感情は、アイルランドほどは強くない。ロシアとの間に、領土問題がないことが大きく影響しているだろう。「占領軍追い出しの闘争」もないし、殺し合ってはいないからだ。

3.帝国と支配民族 
帝国と支配民族という定義は、日本人にはなじみが無く、わかりにくいかもしれない。そこで、大英帝国、ロシア帝国、オスマン(トルコ)帝国、ユーゴスラビア「帝国」の4つで、「支配民族」と言うことに関し、考えてみよう。

(1)大英帝国
 第1支配民族=アングロ・サクソン(イングリッシ)
 第2支配民族=スコッツ、ウェルシ、アイリッシ
  被支配民族=インド人、アフリカ人、その他。

 アイルランドの場合は、大英帝国本国部で、アイリッシのみが、プロテスタントではないカトリック教徒と言うこともあり、独立にまで走った。他の3民族と違い、アイルランド島という別の島に居住して、その意味での独立志向もあった。1922年に、北アイルランド部分(アルスター州の大部分)を残して「部分独立」したことが、その後も「全島の英国占領解消」という「IRAによる、ナショナリストとして純粋で、正しいアイデオロジー」を生み出し、紛争を永続させる元となった。

 領土問題に抜本解決を付けなかったことが、ユニオニスト(北アイの大ブリテン島からの侵略・占領者達の子孫。スコッツ系(長老派教会信徒)が比較的多いが、イングリッシ、ウェルシ系の子孫もいる)による1960年代半ばまでの、アイリッシ系先住民族への支配体制=「民族差別政策」を生み、それ故に、流血を伴う「民族紛争」が勃発し、その後のアイリッシ系によるゲリラ闘争、ユニオニストによる報復殺害を繰り返す、泥沼紛争に陥った。

 ナショナリストの間では、英国本土政府の北アイ問題「傍観・軽視」姿勢への憤慨、敵対感情が根強く、この「反英感情」は、独立したが「北に同族を放置してしまった」南のアイリッシの罪悪感とも共鳴しあって、複雑に南においても共有される感情となっている。但し、南のアイリッシの場合、カトリックによるキリスト教義が、殺害行為などを戒めていること、北アイにおけるテロ行為が、残虐で支持し得ないこともあり、必ずしも積極的にシンフェイン(IRAの政治的翼<ツバサ>と呼ばれるナショナリスト政党)を支持する声が強いわけではないが、英国側が、IRAテロリストに厳しい判決を出したり、強く北アイのナショナリストを非難したりすると、すぐに「反英感情」が激発する傾向がある。

(2)ロシア帝国、ソ連帝国
 第1支配民族=ロシア人
 第2支配民族=ウクライナ人、ベラルーシ人(ソ連時代には、ロシア人とウクライナ人、ベラルーシ人の3つの民族の間に、「格差」はほとんど存在しなかった)、ユダヤ人
  被支配民族=極東のモンゴール系諸部族、コーカサス地方の諸民族、中央アジアの諸民族、など。

 ウクライナ人は5千万人近い大人口を持つ大国で、ある程度独立路線はやむをえない面があるが、エネルギー資源としては石炭以外になく、石油、天然ガスを大きくロシアに依存する。
 ベラルーシは、人口1千万人弱の小国で、1.2億人のロシア人人口には比べられない小規模。
 ウクライナ、ベラルーシともに、ロシアとの間に特に深刻な領土問題はない。宗教面では、西ウクライナにユニエイト教会という、カトリックと正教(オーソドックス教会)の中間的な教会組織があるが、それでも、北アイほどの血で血を洗う「民族紛争」は起きていない。ウクライナにおける領土問題は、むしろクリミア半島における、クリミア・タタール族の「独立運動」であろうか。

 第2支配民族の、独立を果たした結果の心情というのは、以外に複雑だ。
 アイリッシの場合、それまでは、大英帝国の支配民族として、世界中で搾取の「蜜の味」を分け合って本土での貧困とは別世界の栄華を、植民地では味わったりもした。そのうまみが、小国として独立して後はなくなった。(注:厳密には、完全には無くなってはいないところがややこしい。アイリッシは、英国との間の「同国民待遇条約」の恩恵で、独立後も「英国市民」としての「英国旅券」を簡単に取得できるし、英国への渡航には旅券を必要としない(運転免許証、学生証などの身分証で構わない)。故に、今でも英国官吏、軍人にアイリッシがいても不思議でも何でもない。然し、一応、独立後は、本当の意味での「英国人」ではなくなった。)

 ベラルーシ人の場合も、アイリッシと似ていて、今でも容易にロシア人になり得る。但し、ベラではロシア人が、ベラ人市民権に「国籍変更」するには、それなりに時間はかかるらしい。然し、ロシア国籍のままベラに住み続けることに何ら支障があるわけではない。またその逆も真である。

(3)オスマン帝国(末期)
 第1支配民族=トルコ人の中のオスマン族、その他トルコ人(注:実際には、「トルコ人」の定義を決めることが難しく、大部分のムスリムはトルコ人として分類される)
 第2支配民族=バルカン系諸民族(特にアルバニア人)出身のムスリム高官・軍人、アルメニア人の大蔵官僚、ギリシャ人のイスタンブール居住民(特に、イスタンブ-ル市「ファナル」地区居住の「ファナリオット」)・富裕官吏・富裕商人、ギリシャ人以外のバルカン半島出身高官達
第3支配民族=クルド人、アラブ諸民族からの傭兵部隊兵士
  被支配民族=アラブ人、アフリカ人、バルカン半島キリスト教徒、など。
  
 オスマン帝国では、基本的にはムスリムか、キリスト教徒(正教徒)か、ユダヤ教徒か、アルメニア教徒か、という宗教コミューニティーに基づく分類(ミッレト制という)であり、セルビア人、ブルガリア人なども「キリスト教徒」として「ギリシャ人」と同分類であった。故に、「支配民族」を考える上では、ちょっと難しい面がある。そもそも、支配階層は、スルタン直属の「奴隷」達(宰相ですら、スルタン直属の「奴隷」身分。故に奴隷が全て、必ず哀れな人々と言うことではなかった)であり、支配民族というものも元来はなかったのである。

 また、トルコ人であるが故に優遇されると云うことも、オスマン朝末期までは、税制などの部分を除き、あまりなかった。むしろスルタン一族に直属するアルバニア人、ボスニア人、ブルガリア人、アルメニア人などの子弟で、子供の頃に各地から徴発された、秀才奴隷達(眉目秀麗、頭脳明晰な少年が徴発対象。イエニチェーリ兵士とか、官吏達)が、イスタンブール宮中で高官となった。例えば、オスマン朝末期のエジプト総督モハメド・アリは、アルバニア人である。首相職も、スルタンの奴隷であり、アルバニア人出身宰相が相対的に多かった。アルメニア人からは歴代の「大蔵大臣」が輩出し、オスマン朝の会計、予算帳簿はアルメニア語で書かれていたという。財政を握るという意味で、アルメニア人も、オスマン帝国ではエリート官僚層を輩出していたことを記憶にとめるべき。

 なお、商業面では、ギリシャ人商人の他に、スペインから亡命してきたユダヤ人(移住先としては、現在ギリシャ北部にあるテッサロニキ市が本拠)が金融業を中心に活躍した。なお、イスタンブール在住ギリシャ人(ファナリオットと呼ばれ、東方正教会の宗教幹部を独占したほか、商業面でも活躍)が、スルタン一族と結びつき、例えばオスマン朝の各地方の徴税官として活躍したほか、徴税官が更に昇進して、総督となる例もあった(モルドヴァは、「ファナリオット総督」が統治した)。
ファナリオットは、東方正教会の高位僧職も「金で買い取り」、ブルガリア、その他の土地で、高位僧職はギリシャ人が独占した。オスマン帝国では、僧職すら「金銭」で買い取られる売官制度(オスマン帝国政府の財源の一つが売官による収入)で、高位僧職用の多額の金銭を用意できるのはファナリオット名家しかなく、この故に僧職もギリシャ人達が独占する傾向が強かった。僧職も、管轄地域から徴収する「教会税」で、「儲かる職業」でもあった。

 もっとも、イスタンブール在住「ギリシャ人」の中には、現在のブルガリア人、セルビア人などもあり得た。オデッサの「ギリシャ人商館」、プラハの「ギリシャ人商館」なども、実際には(今日的分類では)ブルガリア人、セルビア人商人と言うことがしばしばあった。西欧諸都市で活躍するバルカン半島出身の商人達は、「ギリシャ商館」を名乗る方が多かったし、現実に商業用の文章、手紙などはギリシャ語で書く場合が多かった。ブルガリア語、セルビア語などでは、商業用語が未発達で、商業文書が書けなかったらしい。

 なお、バルカン半島で最後までオスマン軍と戦った「勇敢なアルバニア人」達は、勇猛を賛美するオスマン気風もあり、イエニチェーリ兵士、またはスルタン側近の高級官吏として採用される例が多く、或いは更に昇進して宰相となる者も多く、スルタンのもっとも忠実な近衛兵としても優遇されたのだが、大部分のアルバニア人がムスリムに改宗したことも影響して、フランス革命後の「民族覚醒」時期に、「トルコ人ではなく、アルバニア人」として目覚めることが遅く、この故に、オスマン帝国からの「独立運動」もほとんどなく、結果として、バルカンにおける「独立」運動、「領土獲得競争」に後れを取り、アルバニア人の人口比率の高いコソヴォ地区も、未だにセルビア国の一部から脱出できるかどうか微妙なままである(そろそろ一方的に独立宣言を出すらしいが)。アルバニア人達は、2番手支配民族の心理として、オスマン帝国からの脱出に乗り気ではなかった、とも言えるであろう。

 実際、アルバニア人達は、バルカン半島最古の住民として、トラキア族と肩を並べたイリリア人の子孫、というアイデンティティーも有しており、ローマ帝国時代にも繁栄していた民族として、そのプライドは相当なものであり、共産主義でもユーゴと対立して、独自のスターリン主義を最後まで守ったりもした。民族的矜持が高い、とも言える。

小生がマケドニアのアルバニア人地区で見たアルバニア人達は、金髪、碧眼という美しいヨーロッパ人的容貌の比率も高く、ムスリムの後進国人種という感じでは全くなかった。因みに、インドのコルカタで活躍したカトリック修道女のマザー・テレサは、マケドニアのスコピエに居住したアルバニア人のカトリック実業家家庭の出身者である。アルバニア人には、ムスリムが多いものの、コソヴォ地方でもカトリック教徒も少しはいるほか、本国でも正教徒達も存在する(これら正教徒達の中には、ギリシャ人、またはブルガリア人としてのアイデンティティーを最近まで有していた人々も多いはずである。ブル国内で、アルバニア出身のブルガリア人という人に、小生も会ったことがある)。 

(4)ユーゴスラビア「帝国」 
第1支配民族=セルビア人
 第2支配民族=クロアチア人、スロベニア人
 第3支配民族=マケドニア人、ヴラシ人*、ボスニア人
  被支配民族=アルバニア人、ロマ人(ジプシー)、トルコ人、ハンガリー人、ムスリム人(セルビアのサンジャック地方など)、ブルガリア人、ギリシャ人、など。
 (*注:ヴラシ人は、ルーマニア系という説もあるが、学問的には必ずしもこの定義が確立されたわけではない。オスマン帝国時代、バルカン半島に広く存在した、羊・山羊を中心とする遊牧の民で、主にヴラシ語を話していた。ヴラシ語はルーマニア語に近いとの説もあるが、異論もあった。現在比較的多くのヴラシが、マケドニアに残っているが、彼らはマケドニア人と仲が良く、決して少数民族として阻害された存在ではない。)

 ユーゴにおいては、第二次大戦後は、政権を掌握した独裁者が「チトーというクロアチア人」であったこともあり、セルビア人支配の「ユーゴスラビア社会主義国連邦」という「帝国」的な要素は見えにくく、そういう定義の仕方は少ないが、小生としては、「多民族間の調和、共存を成功させつつ、一つの国家として成立させた国」を「帝国」として考えて良いと思うので、ユーゴも一つの「帝国」として考えたい。

 冷戦終結後、「ソ連帝国」が解体された後に、同じように「ユーゴ帝国」も解体していったことは、ソ連とユーゴが、ある意味で共通の性格(共産主義者による独裁国家)を持っていたことを証明するように思う。

 特に、ユーゴ時代に、スロベニアとクロアチアという「先進国民族」は、「後進国民族であるセルビア人」が、「連邦政府」、「ユーゴ軍」を牛耳る体制が成立し、「連邦税」という形で、経済的不利益を被った(ス、ク両国からは、所得が多いことから多くの税金が徴収され、右が「連邦交付金」として、後進地域のボスニア、マケドニアなどに流れた)ことに我慢がならず、冷戦終結と共に、直ちに「独立」へと走った。ス、ク両国は、宗教的にもカトリックであり、正教徒のセルビアから離れることにためらいはなかった。

 第3支配民族を形成したマケドニア人(正教系)、ボスニア人(ムスリム系)は、前者がセルビア人とは仲が良かったし、後者もユーゴという体制の中で、マケドニア同様「後進地域」として連邦からの「交付金」で潤ったので、連邦(「帝国」)体制に特に不満はなかった。然るに、スロベニア、クロアチア両国が相次いで「独立」を決めると、マケ人、ボスニア人も、やはりこのチャンスに「独立」しておかないと、永久に独立の機会を逃すと焦り、独立に突き進んでしまった。

 ボスニアの場合、ムスリム系のボスニア人は、宗教的な独自性もあるし、セルビア人による「民族浄化」殺戮の結果として、反セルビア感情が強いと思われるが、マケドニア人の場合、民族的・言語的にはブルガリア人に近いにもかかわらず、ユーゴ時代にセルビア人と非常に仲良くやっていたこともあり、「独立」したことについて、決して喜ぶ世論が強いわけではない。

「独立」したことで、国内人口の2割(一説では3割)ものアルバニア人を抱え込む事態ともなって、マケドニアでは、国内における「民族紛争・対立」が頭痛の種となった。ボスニアは更にひどく、「独立」宣言直後から内戦に入り、ボスニア人、セルビア人、クロアチア人の国内3民族が、武力衝突して、国連軍、NATO軍の介入を得てようやく戦争を終結できた。

 ユーゴの中で、残骸として残ったセルビア・モンテネグロも、結局モンテネグロが分離していったし、セ・モ国家のそのまた残骸であるセルビア部分でも、コソヴォがアルバニア人によって「分離独立」の方向にある(結局一方的に独立宣言)。ハンガリー系、ドイツ系少数民族が多かったヴォイヴォディナ地方では、武力闘争するよりは、少数民族達は徐々に自らハンガリーとかドイツに出て行く傾向にあり、セルビア領から分離する必要性はないであろう。
  
4.東スラヴ2国の冷戦後への対応ぶり 
  ロシアの油(天然ガス、原油、電力などのエネルギー資源)に頼っていたかつてのコメコン圏東欧諸国と同じく、ソ連から独立したロシアの兄弟国で資源小国のウクライナ、ベラルーシは、何らかの新方向を探らねばならなかった。

(1)人口が1千万人弱という小国のベラルーシは、石油、天然ガスなどエネルギー資源などで露に寄生するという、かつてのコメコン方式を踏襲しようとしたが、エリツィン引退後のプーチン政権は、このような甘えを許さなかった。この故に、露・ベラ両国間の「連合国家」への統合過程は、結局進展が止まった。なお、ベラの場合は、ルカシェンコ大統領が、「旧ソ連メンタリティー」で、かつ国民の中の同種心情の古い世代に立脚した政権を樹立したため、簡単には西側傾斜への方向転換ができないが、将来のいつの時点かにはその方向へ舵を切り替えるかもしれない。

(2)人口5千万という大国のウクライナは、ベラ以上に油問題が深刻であるが、ロシアに頼るよりはEUに加盟する方が、経済的利益も大と見て、西側との提携を図った。これには、ウクライナ民族主義的な裏付けもあり、新規独立国家として、ある意味で国民の支持も得やすい方向でもあった。EU、NATO加盟を目指すが、西側の設ける加盟へのハードルは必ずしも低くはない。また、地政学的に、ウクライナは、あまりにもロシアの下腹部を伺う場所にある国家であり、西欧としても同国をEU、NATOに取り込むことは、ロシアの激怒と反発が明白で、簡単に実現できる話ではない。ベラも同じ。
 要するに、スラヴ人国家として、また地理的位置から見て、ベラ、ウクライナ両国は、結局は西欧(あるいはEU、NATO)とロシアの間に置かれる「緩衝国」としての位置づけしかありえないであろう。

5.ユダヤ人について 
 さて、すっかり忘れていたが、ソ連帝国においては、第2支配民族として、ユダヤ人が大活躍していたことも忘れるべきではなかろう。ユダヤ系ロシア人・ベラ人・ウクライナ人知識人達は、ソ連建国の英雄がレーニンとトロツキーというユダヤ系であったことに象徴されるように、ソ連帝国の支配階層として活躍していた。スターリンが一時知識層を大虐殺し、その中で、ユダヤ人もかなり多数粛正(虐殺のこと)されたのだが、それでも多くのユダヤ人がソ連帝国の中枢部で活躍していた。ルーマニア、ブルガリアですら、かなりの高級官僚達がユダヤ系であった。

 故に、イスラエルの商人達は、旧共産圏での商談に際して、イディッシュ語(アシュケナジム、またはアシュケナージと呼ばれる東欧・ソ連系のユダヤ人らは、ドイツ語、ヘブライ語、アラム語、ポーランド語、ウクライナ語、ベラルーシ語などを混交したイディッシュ語という言語を使っていた。ブルのユダヤ人は、大部分がテッサロニキ経由で到来した元スペイン出身のユダヤ人(セファルディム)なので、スペイン語を話す場合が多いが、小生もイディッシュ語を話すあるユダヤ人家族と知り合ったことがある)でしゃべると、実にスムースに意思疎通ができると豪語していたものである。

 ベラ勤務の頃、イスラエル大使館主催のイスラエル映画を見たことがある。この映画では、主人公の老人が、スターリン時代に対独戦争で活躍した赤軍の名将軍の一人だったのが、冷戦終結後、息子家族に連れられてイスラエルに亡命したものの、息子夫婦達がイスラエルでは簡単には良い職場が見付からず、金銭に困って、老人をもてあまして冷遇する。また老人自身も、新しい国での適応が難しいので、まだ十分動けるくせに身体不自由を装っている。ところが、ある日、昔の赤軍時代に自分の秘書だった老婦人に出会い、彼女(既にイスラエルである程度成功し、一応生活は安定している)から求愛されて結婚し、イスラエルに永住することを決意する。息子夫婦は、米国のユダヤ人社会の援助が得られることとなり、老父をこの女性に託して、再度米国に移住する、というストーリーであった。

 ユダヤ人がたどった、冷戦終結後の数奇な運命を、上手に喜劇化した映画であったが、19世紀以来、ソ連・東欧で何度もポグロムと呼ばれるユダヤ人迫害の対象となったり、独の第3帝国からは、大虐殺の対象となったり、悲劇的ストーリーが多いユダヤ人も、実際には、安定期には、その知的能力故に、どこの国でも支配階層に所属して活躍している例が多い。もっとも、そういうエリートばかりではなく、普通の知力の、普通のユダヤ人もいるのであり、過度に一般化することは避けるべきであろうが。

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