韓国の知恵(理と気)、中国の知恵(羊と貝)

  前回「経済専門家」の由々しき勘違いから、前川リポートという誤った政策が提言され、日本国を「経済敗戦」に陥れたことを嘆いた。今回は、なぜ経済学をはじめ人文系学問には、過ちが頻発するのか、その理由を考察すると共に、最近読んだ韓国論、中国論にも話を進めたい。
  本当は、来週書くことが無くなるので、この記事は来週まで貯金しておこうと「せこい」ことも考えたが、ブログは材料がなければ休めばよいし、一部の熱心に読んでくれている読者のことを考えれば、思いついたことは隠して死蔵するより、早く発表した方がよいと考え直した。参考にしていただければ幸甚だ。

1.社会を分析、研究する際の「原理、理論、法則」は存在するのか?
  人間そのものを判断するときに、悲しいことだが、人はたぶん外見で判断されることが多い。米国では、成功できる顔相というものがある、という話を聞いたことがある。今の日本でも、イケメンとか、美人とか、そういう今現在の流行も加味した一般的基準により、個々の個人はまず外見で価値判断されてしまう。

  しかし、例えば易者などが占う場合には、人間観察を若干なりとも理屈で「理論付け」して、もっともらしく見せないと説得力がないので、姓名判断、手相、人相、風水、その他の古来からの「理論」(その科学的根拠は怪しい。風水を含め、占いの類は例え「科学」を装っていても、全て仮説程度に考えるべき)を勉強することとなる。

  血液型人格論という、やはり元来科学的根拠のない「理論」も、盛んに日本では議論される。4つの血液型の種類があり、血液型毎の「性格」付け解説の書物を読むと、何となく書物に書いてあることが的中しているように感じられるから不思議だ。小生も一時宴会技に使い、同僚達の性格、気質などから、各人の血液型を推測して、ほぼ90%の確立で言い当てたことがあり、逆に自分自身ぶったまげたこともある。そういうこともあるけれど、やはり血液型と人格を結びつける議論に科学的根拠などは、あるはずもない。

  ともかく、いったん理論的な裏付けができると、それなりにもっともらしく見えるし、理論が複雑であればあるほど、易者も、その場その場で、都合の良い理屈・理論を引っ張り出して説明しやすくなるのであり、元来、これらの占いに用いられる諸理論も、恐らくは矛盾に満ちた理屈があちこちに散りばめられていて、各易者が自由裁量できる余地を大幅に残しているのではないだろうか??

  人間そのものですら、実は、その人間の人格とか、性格とか、賢愚とか、運不運とかを科学的に分析したり、理論で分類したりすることは、たやすいことではないし、そういうことが成功しているとも思えない。心理学という分野がかなり発展しているらしいが、そうはいっても個々の人間の心と行動を、理論的に全て把握できるとは思われない。人は理屈と共に、情でも動くからだ。自分自身ですら、ある行動を取った後に、どうして自分はあんなことをしたのだろうと、後で不思議に思うことは多いのだ。人間とは、根本的に、その日の気分に左右される不条理な存在なのだ。

  ましてや、個々の不条理な人間の累積である、多くの人間が形成する人間集団・・・村社会とか、民族とか、国家とか、そういう大きな人間集団の行動原理を、心理を理解する普遍的な理論、法則などは、そう簡単に見付かるはずもないし、そもそもそういう理論が確立できるものなのであろうか?例えば経済学は、人間の金銭に関わる行動を理解する理論を、色々な理論で説明している。しかし、これまで経済学が、正確に景気の未来を言い当てることができただろうか?マネーの流れを予測できただろうか?
  社会学、政治学なども、万能的な正確度で、未来予測できる「理論、原理」などを「発見」したであろうか?

  要するに、社会系・人文系学問の大部分は、未だに、集団としての「人間社会」の行動原理、心理などを未来予測する段階には至っていないし、恐らくは今後も、そこまでの精度での社会学、政治学、経済学、歴史学などというものは、生まれないのでは無かろうか?そもそも、歴史学は、主として過去の人間の行動を、文献、史料、考古学、その他を動員して、研究、理解しようとする学問であり、多くの歴史書を読んだから、未来予測が必ずできるというものでもない。

  もちろん、そうはいっても、過去の事例を研究し、未来予測に役立てようとする人間の営み事態は、悪いことではないし、小生も未来予測までできる「専門家」になりたいと思って、ブルガリア研究とか、バルカン半島史の勉強とかをしてきた。少しでも「未来予測」が当たると、実に気分がよいのだ。しかし、ここで小生が強調したいことは、人間とは不条理な存在であり、その人間集団の行動結果である経済とか、政治とか、歴史など人文系学問には、自然科学で言うような「原理、理論、法則」などは、あまり期待しすぎてはいけない、と言う戒めである。

  そうはいっても、前回に指摘した前川リポートが日本国家にもたらした経済的損害の大きさは、許せるものではないし、そもそもこのリポートを作成した学者、官僚達が、真に「学者、専門家としての良心、プライド」をかけて、ああいう提言をしたとは考えられないことが問題だ。彼らは単に、米国の要求に屈して、その要求を満たすための政策を作成しただけではないだろうか?国家の運命を左右する人々が、人文系学問を「似非学問」のレベルに劣化させて恥じなかった、或いは「経済敗戦」後にいかなる謝罪、弁明もしていないらしいことは、残念だ。
    
2.小倉氏の理気学、加藤氏の羊と貝
(1)理気学
  最近偶然に買い求めた小倉紀蔵著『韓国人のしくみ:<理>と<気>で読み解く文化と社会』(講談社現代新書)によると、中国哲学(儒学など)の影響で、理と気という考え方は、韓国にも日本にも入ってきたのに、日本では理の部分が十分発達せず、特に戦後は気の部分ばかりとなって、緊張感が無くなり、社会全体が弛緩してしまった、という。

  ①理=道徳性で、物理、生理、倫理、論理、原理、真理、心理、理屈、理論、理想、理念などの総称、他方、②気=物質性、身体性で、肉体、欲望、本能、感情、感覚、感性、人情などを言うらしい。
  韓国社会は、理の世界・場面と気の世界・場面を、画然と区別してメリハリを付けて行動するので、理の場面でも堂々と立派な議論をするし、他方で、気の場面ではリラックスして大いに楽しむという。これに反して、日本人は、理と気の区別感覚が無く、いつも正直、率直を心がけようとするので、社会全体から緊張感が無くなり、権威とか権力とのつきあい方も下手になってしまっている、と言う。
  韓国社会で、理の側面と気の側面が、どのように入れ替わるか、どういう形で現れるかの実例も示されており、小生は、「要するに儒教的思考方法がどこまでも貫徹されると、こういう社会となるのか、すごい」などと感心して読んでいる。

(2)羊と貝
  また、今度も読みかけの段階で申し訳ないが、同じ時に買った加藤徹著『貝と羊の中国人』(新潮新書)では、上記の理気理論に近い概念として、次のように説いておられる:中国人(漢族)は二つの祖先を有しており、今から3千年前に殷人と周人という二つのエスニック集団がぶつかり合ってできたのが漢族なので、殷人、周人の二つの性格が一人の中に兼ね備えられている。「韓国人なら、一人の人間が、理の論理と、気の論理をあっけらかんと使い分ける」、という小倉理論に近い中国人理解の仕方だと思う。

  ①羊の文化:周人的・遊牧民族的、本拠地は西方・西北の内陸部、一神教的(<天>という唯一至高神が全てをお見通しだ、と言う考え方。神は羊の生け贄だけは受け取るが、その場合も、無形の善行を伴わなければ、喜ばない)、無形の「主義」を重んじる、孔孟的=儒教的。②貝の文化:殷人的・農耕民族的、本拠地は東方・東南の地、多神教的(神々は人間的で、酒、その他の供物を好み、買収できる)、有形の物財を重んじる、老荘的=道教的。

  紀元前1000年頃、殷の国を西方から来た遊牧民系の周が攻め滅ぼし、この時殷人は中原から逃亡して、各地に散らばり、「商人」となったらしい(「商」は、元来が殷人の国号)。殷人が子安貝を貨幣としていたので、商業関連用語の財、貨、販、買などが「貝」の文字を含むそうだ。周のイデオロギー(正義体系)を唱道した孔子は、実は殷人だったそうだが、「羊の文化」である周の思想(義、美、善、養、儀など、これらの漢字には羊が入っている)を体系づけて儒教・儒学を創出した由。

  結局中国人も、羊の文化と貝の文化を上手く使い分けるが、「士」以上の身分の人々は羊の文化を重んじ、庶民は貝の文化を重んじたので、庶民は賽銭箱に小銭を投げ込み、お札を買って家内安全や商売繁盛を祈願する。また、道教の神社と仏教の寺院の両方に参拝しても、矛盾を感じない・・・そうだ。日本人が、神道と仏教双方を信心して恥じないと言われるが、中国人も同じなのだ!!また、ある意味で、羊の文化は建前で、貝の文化は本音とも言えるらしい。社会主義という建前と、資本主義的な本音を併記している現在の国家政策も、中国人なら当然という。
  なお、加藤氏の指摘で初めて「天」という思想が、遊牧民的な一神教の理論だと言うことを知った。東洋思想にも、一神教があったのだ、と言う発見は、我々の西洋コンプレックスを覆してくれる、非常に貴重なご指摘だ。

3.民主主義、平等な市民社会という近代思想を堅持しよう
  かつて国学者の本居宣長は、儒教などの中国思想を漢意(からごころ)と嫌い、理屈をこねない純粋な日本人の心(古事記、源氏物語の思想)を大和魂(やまとだましい)と称揚したように思うが、これもある意味で理気論、或いは羊の文化と貝の文化という視点かもしれない。儒教の中の朱子学が主流だった江戸時代から、その影響が強く残っていた昭和初期(戦前)までは、結局は日本人も、儒教の影響を強く受けて、建前中心で、国家の大義などといって、国家主義を強く打ち出していたと思う。

  今の日本人が、父親の権威消失など、気の側面、貝の文化ばかりとなり、理=羊の方が異常に弱くなったようにも言われるが、民主主義、主権在民などの戦後日本に米占領軍が持ち込んだ欧米系文化も、やはり理=羊の部分に関わる正義、合理、道理、道徳の概念が中心なのであり、占領軍という他者が押しつけた文化などと毛嫌いせず、きちんと自覚して唱道していくべきではないか。
  民主主義が、家庭内で、やさしい父親の顔を強めたとしても、時には厳しい顔を見せていけないはずもない。理と気を上手に使いこなすという「東洋文化」の「知恵」を忘れてはならないのだろう。小生は、戦後民主主義の系譜全てを否定する考え方には、もちろん与しない。憲法改正も賛成だが、桝添案程度でも良い。小生自身の理想としては、国民の自覚を強める意味で、天皇制は廃止して、「主権在民」を強化し、「君が代」などという紛らわしい国歌は捨てて欲しい。君が代に関しては、メロディーを残して、歌詞を全面的に民主主義的なものに書き換えて欲しい。
小生追記(2017年8月):ちなみに、この当時小生は「民主制」への覚悟を強めるために、天皇制の廃止まで主張していましたが、その後は「伝統と歴史」を重んじるべき、と言う風に考え方が変わったので、天皇制廃止議論は取り下げます。また、「君が代」の歌詞そのものは、元来が近しい人の長寿を祈っての歌詞(古今和歌集)であり、天皇の長寿を祈ったものではない、と言う説がある由。とはいえ、国歌となって以降は、「君」を国家君主=天皇と解釈して来たことに変わりはないが・・・。ともかく天皇制維持を小生としても肯定するようになったので、君が代の歌詞変更と言う主張も取り下げます。

  因みに、小倉氏は、日本人の場合建前は、本音とは違う「後ろめたい」存在なので、日本人は理の場面での議論で、必ず、韓国人などの理の場面におけるエネルギー、情熱に負けてしまうと指摘されている。なるほどと思える指摘だ。日本人も「建前」というものを立派なイデオロギーとして再評価し、建前論をきちんと主張できるように、発想を転換すべきなのだ
  加藤氏は、中国商人は西洋人のように紙に書いた「契約」よりは、口約束でも約束したという「信義」を重んじて、商業上の信義を守る、と賞賛しておられる。今の中国政府、前政権の韓国政府など、日本人には「理解しがたい言動」が多かったが、本来の東洋思想(大部分が中国思想)は、我々の祖先が崇拝してきたように、尊敬すべき内容を多く含んでいる。
  しかし、西洋思想のいいところも、東洋人として初めて理解したのは日本人である、と言う矜持をもって、我々は今後も、思索を積み重ね、文化の厚みを増していきたいものだ。



  

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