朝貢と女帝

  最近日本史関連の書物を読んだので、これらに関し書いてみる。
  まず岡田氏の著書では、朝貢制度に関し、これは決して中国が傲慢に外国を見下し、その軍事力をひけらかして無理矢理朝貢を強いた、といったものではないとの、興味深い新見解が示されている。中国との貿易特権を認可してもらうためには、対中国友好の意志を、「貢献(引き出物)」を持参の上、「朝見(表敬訪問)」して、表明しなければならないだけだ、故に、ある国が「朝貢国」と言うことは、単にこの国が「友好国」であると言うだけで、属国と言うほどの意味はない、と言う。しかも、朝貢のかなり多くの例が、中立者である外国人に支持してもらうことで、国内における自らの権威を誇示するという動機で、中国側官吏らのお膳立てで、実現された例が多いという。

  また、遠山氏の著書では、日本国家の実質的な確立時である6世紀末~7世紀に擁立された3名の女帝の真実の性格が解明されている。女帝は、決して男王と男王の間を中継ぎするための臨時政権という意味での即位ではなく、むしろ当時は、男の大王を次席として補佐する役割を皇后(大后)が務めており、その故に長い統治経験、検証された能力を買われて、女帝が擁立されたし、また女帝達はその統治経験、才覚から、むしろ男王以上に決断力、統治力、長期的構想力を発揮して、国政を主導し、日本国家の基礎を築き上げたという。

1.邪馬台国論争に終止符!
  前回にも引用した岡田英弘氏の著書『倭国--東アジア世界の中で』(中公新書482)を読み始めた。中国の古い史書を、徹底的に理解、解読している著者が、日本書紀という一つの史書にばかりこだわって邪馬台国論、日本古代史に関する各種の議論を展開する日本の学者らに、中国史専門家の目から見て、つまらない、狭い議論ですよ、中国の史書から見れば一目瞭然ですよ、という風に一刀両断しているすごい論文である。

  日本史も、朝鮮史も、自国の史書が、中国の史書ほどは客観的ではないので、より広い東アジア史全体を見渡すためには、中国の史書をしっかり読みこなして、読み比べつつ論証すべきだ、ということであるらしい。

  一番すごい指摘は、朝貢外交は、むしろ中国の王朝が、自分の皇帝としての権威を国内に宣伝するために、夷狄の国々の王からの使節を利用したのであり、すなわち辺境に設置した中国の機関(夷狄との外交を取り扱う役所)側が、皇帝の権威付けのために、例えば倭国の卑弥呼に朝貢してくれるように要請して、これに応ずる形で239年の卑弥呼派遣使節団の訪中が実現したという。

  また、楽浪郡から渡来した華僑達による倭の港町開発(中国商品の販売拠点設置)と現地人としての倭人の親分衆(酋長)との取引、交流の中で、紀元前1世紀頃に倭人諸国が出現したし、これらの倭国の中で、漢の時代には委奴国(いどこく)の親分が「倭国王」に任命され、対中国貿易を仕切っていた。

  その後、漢王朝の衰退後、委奴国王も当然衰退し、新たな「倭国王」が必要となったが、中国道教系の宗教秘密結社の一つ五斗米道系の「鬼道」を得意とする卑弥呼(当然在日華僑との関係が想像される)という巫女が擁立され、倭国における対中国貿易網の新たな統率者となった。すなわち卑弥呼の君臨したという邪馬台国は元来、楽浪郡、帯方郡と交易していた華僑の倭国移住者達が、倭国に形成していた商業ネットワークの傘下にあった酋長国の一つに過ぎなかったという。
  魏国新皇帝に卑弥呼を朝貢せしめ、「親魏倭王」の称号を贈ることで、中国北東部辺境(朝鮮、倭の担当でもある)を担当していた司馬懿(しばい)の得点となったという。朝貢国としての倭国に関する位置情報は、三国志著者の陳寿には実は正確な情報があったのだが、倭国を大国とする方が当時の魏における政治情勢(内政配慮)から都合がよいので、距離などもわざと遠方で、しかも南方の国家(呉国の背後、南方にある国)として扱う必要があったという。

  ようするに、これまでの邪馬台国論争などは、岡田氏の鮮やかな「倭人伝」解釈で、全て愚論に見えるほど徹底的に解明されてしまっている(実はまだ読了していないので、他にもすごい内容があるかもしれないが、とりあえず今の段階でこのブログを完結させたいので、ご了承願いたい)。

2.女帝は中継ぎなどではなかった!
  岡田氏の『倭国』に先だって遠山美都男著『天皇と日本の起源--「飛鳥の大王」の謎を解く』(講談社現代新書1648)を読了した。

  本書は、実は岡田氏が批判している「日本書紀の徹底解読」に基づく書物なのだが、東アジア史全体への目配りもしており、また、日本国家の正式な成立時(7世紀)における女帝の役割を初めて解明した名著と感じた。推古、皇極(重祚して斉明)、持統の3名の女帝が、何を考え、何を目的として飛鳥の都(倭京)、或いは藤原京(新城)を開発、建設したかを見事に推理しているように思える。

  天智天皇による「大化の改新」重視という、これまでの日本史解釈は、間違いで、むしろこれらの英明な女帝達の主導による、しかも執拗な熱意に基づく(女帝達は、障害除去のためには、皇族暗殺もいとわぬ、非情な政治的決断をしばしば決行している)都作りと、これに伴う天皇家の政権確立への意志が、見事に推理されている。日本国家の成立時に、男の大王より、むしろ女帝達が大活躍したという日本史解釈は、ロマンチックでもあるし、現代の皇室論議にも一石を投じるかもしれない。

  ちなみに、本書の白眉部分を念のために引用すると、「天皇」号を最初に採用したのは天武天皇の即位の時(673年2月)で、「日本」という国号が最初に採用されたのは、持統が藤原京を完成させた694年12月であると遠山氏は推理する。聖徳太子の「日出処」は、中国を中心として東方に所在する我が国という中国中心の発想であるのが、中国の都長安に匹敵する大都会としての都(藤原京)を完成させたとき、視点を自国において、我が国こそは太陽の真下にある国家だと自己主張し、宣言したのが、「日本国」という国号の成立理由だという。

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