日本民族の形成に関する諸学説

  今回は、最近の小生の読書を通じて考えた、日本民族形成に関する種々の情報を取り上げてみたい。却って謎ばかりが増えたような気がするが、ともかく、列挙してみよう。

1.産経新聞掲載の「少数の渡来人でも、300年で多数集団となった」という記事
  5月26日付産経新聞では、渡来系の弥生人集団は、比較的少数の集団であったので、大規模な水田の造成、営農の労働力として、在来縄文系の人々が必要であった。この故、渡来系と在来人は、対立して戦争することはなく、渡来人達はまず平和裏に縄文系の村に溶け込み、徐々に縄文人と通婚しつつ、弥生系の人口を増やしていった。弥生系渡来集団は、数次にわたって、少数集団が北九州に渡来し、縄文人の中に混じっていき、彼らの先進技術である水田稲作技術により、食糧を安定供給することで、例えば年率1--3%という高い人口増加率を達成した。この故に、渡来人(農耕民)は少数だったが、3世紀もたてば、この間の縄文人(狩猟採集民)に比べ、圧倒的に優勢な人口増加率によって、弥生系の人口が日本列島で多数派となった、というのが、考古学的な現在の学説である由。
  付属の統計数値によると、縄文早期には列島全体で2万人の人口が、縄文中期には、縄文期最高の人口26万人となり、その後縄文晩期には7.6万人に減少し、弥生期には59万人にまで増え、更に奈良時代(8世紀)には、450万人にまで人口が増えたという。
  数学的に言えば、弥生初頭の渡来人比率が、在来人に比べて、0.1%という「超少数」でも、年2.9%の人口増加率で、新たな渡来が無くとも、300年後には、渡来人が全体の8割の人口を占めるという。
  縄文晩期の列島人口7.58万人x0.1%=76人。しかし、この当時の縄文人で北九州にいた人口は3000人なので、そこに76人の渡来人がやってきて、それから、縄文人の村における農耕形態を徐々に水田稲作に転換していったとして、人口が爆発的に増え、弥生系人口が北九州で圧倒的となり、渡来系の3世、4世などが更に山陽、近畿などにも移住して・・・という歴史だったのであろうか。それにしても、数次の渡来合わせても、合計たった76名の朝鮮半島から、或いは中国の江南から来た、華僑系の渡来人達が、8世紀までには、列島の多数派となっていた??
  中々凡人の頭では、簡単に想像もつかない理論だ!

2.岡田英弘著『倭人』による、華僑が日本語まで作ったという理論
  前々回、中程までしか呼んでいなかった本件著書(中公新書)の最後の方には、驚くようなことがいっぱい書かれている。
  まず、前に紹介した遠山(美都男)説では、天皇の称号を最初に使用したのは、天武天皇で、673年、日本国号も持統天皇が藤原京を完成した694年としていたが、岡田説では、「日本書紀」は天武天皇、持統天皇らが自分たちに都合良く歴史を改竄しており、信用すべきではなく、実際に「大化の改新」、律令制制定、などを実行したのは天智天皇であり、天皇号は近江令で668年に制定された、日本国号も天智天皇により670年には使用開始された、と推理している。・・・要するに、670年頃には、天皇号、日本国号ともに使用を開始した、というふうにおおざっぱに理解して良いようだ。
岡田説では更に、巻末頃に、怒濤のように新説が飛び交う。紀元前4世紀に朝鮮半島南部の真番の地(後の新羅、任那、百済)に到達した燕人(華僑)達が、朝鮮半島南部を拠点に1千年かけて(その間に新華僑も朝鮮半島南部にまでやってきたらしいが)日本列島に進出して、列島開発してできたのが倭国であり、この倭国は7世紀に至ると、逆に朝鮮半島に出兵するほどに国家形成が進んだ、という。朝鮮半島で、新羅が勢力を増し、倭国と提携していた百済が敗退し、中国大陸では唐という強力な王朝が誕生したので、倭国は生き残りのために、国家体制を固める必要性に駆られて、天智天皇は一つの民族、一つの文化に統合することを急いだ、という。
  倭人と華僑を一つの民族に統合するために、新たに日本語も、当時の華僑が使っていた言葉の単語を、現地人の倭語で置き換えつつも、文法などは当時の華僑の話し言葉をそのまま使って、万葉仮名、古事記、万葉集などが創出されたという。同時期に、新羅でも、新羅方面に在住した華僑の話し言葉を根幹に、当時の新羅人の現地語を単語として採用する形で、朝鮮語が形成された、と言う。要するに、古代中国語が根幹となって、日本語も、朝鮮語も形成されたので、文法が似ているのは当然で、かつまた、その文法の近似にもかかわらず、単語レベルで日本語と朝鮮語が全く異なるのも、単語として取り入れられた現地語が、新羅と倭では、全く異なっていたから、と言うことらしい。
  小生としては、古代の日本語は、縄文人の言葉が自然進化して成立したと思っていたが、岡田説のように、華北の燕人達がしゃべっていた一種の中国語が文法の根幹となって、わざと単語レベルから漢語を徹底排除する形で成立した、全くの人口的言語、といわれると、そんなものがよくぞこれほど普及したものだと、違和感を覚えてしまう。
  もっとも岡田氏は以前紹介したように、近代中国語は、明治以降の近代日本語(英語を翻訳するために新造した和製漢語を多く含む)からの借用語をいっぱい含み、白話(会話語)中心に魯迅が作り出した、全く新しい言葉であるという説なので、古代日本語が、日本に在住した各種の華僑の異なる話し言葉(燕人系、百済系、高句麗系、任那系などの異なる華僑言語)を統合しつつ、倭人の単語をてんこ盛りに盛り込んで、共通語として作り出した人工言語だ、と言う学説であっても、一応公平(貰いっぱなしではない)な思考の産物と言うことで、完全否定はできない気分だ。

3.照葉樹林文化
  読み始めると面白くて一気に読めたのが、佐々木高明著『照葉樹林文化とは何か』(中公新書1921)である。
  照葉樹林という森林の中から、焼畑農業を根幹として、モチ系の穀物、雑穀、里芋、納豆、桑を食べない蚕による絹織物、漆、歌垣、儀礼的狩猟、などの共通の文化要素を持つ、照葉樹林文化が生まれ、江南地方からこの文化が縄文中期の日本(紀元前1000年頃)にも渡来し、この焼畑農業文化が存在したことが、弥生期の水田稲作文化の受容を容易にした、という学説らしい。
  しかし、焼畑農業による雑穀とイネとの混作(同じ耕地に、雑穀類とイネ<水稲段階には達していない水陸未分化性質段階の、栽培種のイネ>を同じ耕地に混ぜて播種する)による生産性が意外に高く、これによって食糧の余裕ができ、かなり高い文化・文明水準を発達させる、という学説なので、上記1で述べたように、縄文系の人口が伸びず、弥生系の人口爆発によって、日本列島の人種構成が逆転されたという学説と、本件照葉樹林文化により、既にかなり高度の農耕文化が成立していた、という照葉樹林学説は、噛み合わない気がする。

  岡田説では、紀元前4世紀頃から、華僑系の渡来人が、倭人(既に弥生人と考えるべきか?あるいは未だに縄文系?)達と1千年もの長い時間をかけて、徐々に「華僑系が主導する倭国」を築き上げ、天智朝頃には、東亜の激動期に際して、華僑主導で一気に国家形成を完成させた、と言う学説に見えるので、別に照葉樹林文化という、「発達した倭人社会」が事前に存在しなくとも良さそうにも見える。餅米も、納豆も、雑穀類も、華僑が持ち込んで、倭人に栽培方法を教えた、と言っても良さそうに思える。しかも、この「倭人」と言えども、元来が江南地方とか、朝鮮半島からの渡来系の血もある程度混ざっていて、人種的には縄文系の血液は既にかなり薄められていたかも??

  ともかく、勉強すればするほど、元々日本列島に1万数千年前からいた縄文人と現在の日本人の間の、血液の、すなわち人種面での連続性が薄れてくるような気がする!!もちろん、多くの日本人は、かなり前から、自分は弥生系で、縄文系ではないと思っていたと思うが、そうはいっても、弥生系の意味が、中国江南地方から来た、現在は中国少数民族の、どの民族なのか?あるいは、どの程度現在の韓国人とも共通する血液なのか?これからも、いろいろな研究が進めば、面白いだろう!
  もっとも、血液型、人種系統などは、実は現在の「日本民族」というアイデンティティーにとって、必ずしも絶対的に必要な要素ではないと思う。どういう血液型で、いかにシベリアの奥地にいるモンゴール族の一派と血縁が近いと言われても、あまりぴんとくるものではないのだから。やはり、自分の祖先が、どこの土地に少なくとも100年以上前から住んでいた、何姓の家系、という程度の知識で、十分「日本民族」であるし、「日本国籍」を取得したら、どういう顔であれ、やはり日本市民である。・・・しかし、やはり自国の古い歴史について、書いた歴史書が存在しない時期についてまで、探求せねば気が済まない、と思うのは、どこの国民であれ当然であろうから、こういう興味深い書物(歴史推理)は、今後も読むことを止められそうもない!!

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック