真実の戦史


 6月18日に宝島社発行、家村和幸(陸自二佐、元自衛隊幹部学校戦術教官)監修の『真実の「日本戦史」』(宝島SUGOI文庫、08年10月第1刷)を読み終えた。これまで歴史書に書かれていた、或いは司馬遼太郎の『坂の上の雲』で描かれていた戦史などにおいても、結構間違った評価があったことを認識させられた。
  ほかにも多くの戦史に関し、新しい解釈、評価が行われているが、小生として面白かった次の三つの戦史の「真相」について、少し紹介してみたい。他にも面白い内容が満載なので、皆様も是非本書をお読み下さい(各章が短くて読みやすいし、歴史の真相が分かり、わくわくします)。

1.ノモンハンの戦い:実は五分五分の戦い 
  「坂の上の雲」で強調されていたノモンハンにおけるソ連軍近代戦車と旧式装備の日本陸軍歩兵の戦い、日本側の惨敗、という構図ではなく、航空部隊では航空機の性能、パイロットの練度で優位にあった日本軍が、空戦と空爆で大きな戦果を上げていたほか、地上戦でも、近代的なソ連軍戦車隊に対し、かなりの程度有効な抵抗ぶりを展開していたという。

  ソ連側が、損害の大きさを最高機密として、自由化後の最近まで隠匿していたから、真実の情報がこれまで分からなかっただけだという。

  他方で、兵站をほぼ鉄道のみに依存(鉄道駅から前線までは、人力と馬力に依存)していた日本軍の貧弱な補給思想に対し、ソ連側は、鉄道駅から遠く離れた前線にまで、多数のトラックも動員して、大量の砲弾、戦車(自走できる)、大砲(自走砲もある)を迅速に投入するという、全く近代的な機動方式を採用しており、この点では、日本軍は学ぶべきところが多かったはずだという(もっとも、当時の日本の工業力では、大量のトラックの製造が不可能だった)。

2.元寇:鎌倉幕府軍は実力で勝利、「神風」ではなかった!
(1)文永の役(1274年)

  この戦闘は新暦で11月後半だから、台風はなかった。日本側記録では、一夜明けたら大艦隊が消えていた、というだけ。
 「暴風雨で多数の艦船が沈没」というのも、単に高麗側のフビライへの撤退に関する言い訳らしい。
 他方、元側の史料では、「軍の統制が取れず、矢も尽きたので、撤退した」となっている由。

 元軍の戦闘方法は、騎馬による機動と、一会戦で百万単位の本数を消費すると言われる、圧倒的な矢の数で、特に日本軍にはなかった毒矢を多用した由。しかし、日本軍も矢戦ではそれほど引けを取らず、元軍副司令官を矢で討ち取ったので、蒙古・漢・高麗の連合軍(約3万)の間の連携が混乱し、しかも毒矢の備蓄が不足し始めたので撤退した、という。

 特に作戦面で重要なのは、博多湾中央の「赤坂高地」を日本側が死守して、東に上陸した蒙古・漢軍と西方に上陸した高麗軍が、この高地を境に分断されたまま連携できなかった(戦力の合一に失敗)こと、この高地における激戦で、元側の毒矢が底をついたこと。この故に、元軍としては、いったん撤退して、より大量の武器、多数の兵数での再攻撃が必要と判断したらしい。

(2)弘安の役(1281年) 
  鎌倉幕府軍は、博多湾で石塁構築をはじめとして、十分な防御体制を敷いていたので、元軍側は上陸戦が困難を極め、夏期に2ヶ月も攻めあぐんでいる内に台風が到来して、艦隊が沈没した由。単純に神風が退治してくれたわけではなかった。
  
  元側は、東路軍(高麗軍中心、総勢4万余)が、5月21--22日に対馬・壱岐を襲撃したが、その後江南軍(旧南宋軍が中心、総勢10万余)の到着の遅れを待ちきれず、6月6日単独で博多湾に侵入。しかし延々と石塁が築かれていて、中央正面への上陸を断念した高麗軍は、湾口にある志賀島南岸に上陸し、島の東方の「海の中道」で日本軍と遭遇戦となり(湾北部の志賀島、海の中道などには、石塁などの築城はなかった)、二日間の激戦の後撃退され、船上に戻り、湾内で江南軍を待った。しかし、待機中も日本軍は小舟で船団に切り込み、被害が多く、東路(高麗)軍艦隊は壱岐に避難したが、ここでも日本軍による襲撃を受け、更に平戸まで逃げた。
  7月2日にようやく平戸で江南軍と合流したが、日本軍はここでも執拗に洋上夜襲、船舶焼き討ちを仕掛け、更には、船内で疫病も流行りだした。元側連合軍は、ついに上陸しての決戦を決意し、閏8月1日に行動することとしたが、その前日に暴風雨が発生し連合軍艦隊は大破、大打撃を受けた。破損しつつも生き残った艦船も、日本軍の襲撃で、更に撃滅された。

  弘安の役における幕府軍(約12万人)の勝因は、①文永の役で、元軍の集団戦法、毒矢、てつはう(陶磁器に火薬をを充填した爆弾)などの戦術、武器を経験して、石塁を築いたり、矢戦の能力を強化したり、準備を強化したほか、②艦隊への洋上攻撃、船上での白兵戦などの新戦法を編み出したこと。狭い船上での白兵戦では、切れ味に優れた日本刀が役立つし、毒矢、てつはう、集団戦法が使えない。③その上、元軍は慣れない長期航海、長期洋上待機で気力が弱かったし、疫病にも襲われていた。また、④そもそも、石塁に頼る防御戦のはずが、敵が上陸戦に自信を失い、洋上にこもると、恩賞目当てに勇敢にも小舟で敵船に乗り移り、白兵戦を挑んだ、鎌倉武士達の旺盛な戦意、気力が勝った、とも言える。

3.長篠の戦い:騎馬軍団対鉄砲隊という単純な戦闘ではなかった
本書によると、長篠の戦いにおいて武田勢(1.5万)は、確かに騎馬数が多目ではあったが、また、30騎ほどの騎馬隊が、個別戦闘場面で騎馬隊として戦う場面があったのだが、他方で、数百機単位の騎馬隊=騎兵という概念は、当時武田軍にもなかったらしい。東国では、西国に比して、騎馬数が多目に配属され、30騎程度の騎兵的攻撃も、無かったわけではないが、騎馬隊中心の用兵概念はそもそも無かった。また、武田軍も、織田・徳川軍(3000丁の鉄砲)ほどではなくとも、鉄砲隊を運用していた。要するに、騎兵対鉄砲隊という単純構図での戦争ではなかった。

  長篠の戦いでは、東部における長篠城(奥平貞昌が守っていた。兵力は500人ほどだが、200丁の鉄砲と大量の弾薬、兵糧3ヶ月分。奥平は、一度武田側に寝返ったが、徳川方に戻った武将で、絶対に再度の寝返りは許されない立場で、士気は高かった由。)を巡る攻防戦と、西部における織田(北側)・徳川軍(南側)が拠っている馬防柵(実は、一種の野戦築城であり、騎馬隊への備えと言うよりは、鉄砲を柵に乗せて、照準を容易にしたり、柵内の陣地を敵歩兵から防御するもの)付近での陣地攻城戦との2正面があった由。

  東部・長篠城の攻防戦では、奥平勢がよく戦い、長期に持ちこたえたほか、織田信長が派遣した酒井忠次の別働隊(4千人+500人強の鉄砲衆)が武田側包囲軍に対し、南側から奇襲をかけ、東部長篠城方面での戦況を一変させ、一挙に武田側不利の情勢を作った。武田軍としては、背後を脅かされた状況。

  武田勝頼としては、東部(背後)での不利な戦況に焦って、むしろ西部の織田・徳川本軍(3万)陣地方面にて、決戦・突破を図るという、かなり強引で、危険な賭に出た。織田・徳川本軍の内、陣地南端の徳川勢に対し、武田軍が積極攻勢をかけたものの、徳川方(基本的に柵外に出て、勇敢に戦っていた由)が何度も馬防柵内に逃げ込みつつも、よく持ちこたえた。結局武田側は、南端以外の馬防柵の各方面にても突破を試みたが、信長が近畿勢から鉄砲衆のみ色々な部隊から引き抜いて、長篠に重点派遣したことから、通常の軍隊より多目の3000丁もの鉄砲が配備されていた織田方は、鉄砲衆の活躍もあり、武田軍を押し返し、勝利した。
 もっとも、当時の鉄砲は、射程距離100m程度が狙い打ち可能な範囲だったので、今思うほど決定的な兵器ではなかったが、しかし、個人戦には弱い弱兵(剣術修行した侍ではない、普通の農民出身の志願兵)でも、対等以上に戦えるという意味で、やはり当時の先端兵器であった。金で雇用された常設職業兵とはいえ、弱兵で知られた織田軍が、天下統一への先陣を切れた理由には、種子島銃の大量採用、堺港商人を押さえて、硝石などの弾薬原料を大量確保できたことが大きい。武田軍の将兵は、強者揃いで強兵とはいえ、鉄砲を集団的に大量活用するという、新式戦術では、織田・徳川軍に劣っていたらしい。

  ちなみに、武田側による集団的な騎馬攻撃作戦を三段構えの鉄砲隊が迎え撃った、という構図ではなく、普通より多目の騎馬兵がいるが、鉄砲の数では少なめの武田軍が、馬防柵などを時として照準のために利用しつつ、多数の鉄砲を使用した織田・徳川軍に敗北した、というのが正しい解釈らしい。また、三段構えで、3人の鉄砲射手が、順番に前に出て撃った、というやりかたではなく、実は射撃の上手な一人の射手を、二人の兵士が弾ごめ、火縄への点火を分担して支援し、発射準備が出来た鉄砲を次々と一人の射手に手渡しして、鉄砲の発射間隔を短縮して、効率を良くした、というのが、織田・徳川部隊の鉄砲隊のあり方であったらしい。
 なお、2kmほどの馬防柵(野戦陣地)で、千人の射手が一斉射撃した、というような場面があったとは考えがたいらしい。武田勢も、全軍が一斉に突撃したわけではなく、各部隊が、個別に色々な方面で攻めかかったし、織田方もこれに対し、個別の部隊が応戦したし、柵近辺にまで押し寄せた武田部隊に対しては、織田軍鉄砲衆が数十丁単位の一個隊レベルで、指揮官の命令で射撃した、というのが実際の戦闘風景だったらしい。騎兵が、一斉射撃の前で、一挙に壊滅される、というイメージは、全くの絵空事といえるようだ。


  

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

mugi
2010年06月19日 21:45
 紹介された『真実の「日本戦史」』、あまりにもこれまでの教科書式日本史とは違う内容に驚きました。
日本史教科書にもノモンハン事件は日本軍は大敗と書かれており、捕虜になった日本兵には皮を剥がれた者もいたことが記されていたほど。それが実は五分五分の戦い?? 少し前、この件でロシアがクレームをつけてきたことが外電にベタ記事で載っていました。

先日、「世界四大文明」についての面白いブログ記事を見かけました。 
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/25680734.html

「世界四大文明」の名付け親は、実は梁啓超という中国人政治活動家だったそうです。これには愕然とさせられました。つくづく、教科書も当てになりません。ネットをしていてよかったと感じさせられます。
2010年06月20日 00:34
mugiさん、コメントありがとうございます。
 この本は、二等陸佐の家村という人が監修(一部は執筆)している文庫本で、最新の戦史を研究している人々が執筆しているので、新しい歴史常識として、普及されるべきもののようです。内容は、最初は07年10月の別冊宝島に掲載され、文庫本としては、08年10月発行、小生の買ったのは09年6月の第2刷です。Y571円+税と安いですが、楽しいので一気に読めました。
 日本の場合、教科書が新しい発想を取り入れるまで時間がかかりそうで、残念です。やはり正しい史実を知らないと(とはいえ、歴史は人間が書くもの、と割り切るしかないのですが)、つまらない。

この記事へのトラックバック