ジプシー問題②

 前回の①に続く②です。
  また、長い文章が多いですが、おつきあい下さい。

10.定住しない・・・言い訳では?
 西欧は、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどのジプシー人口の多い国をEU加盟国にするので、ジプシー達が大挙査証無しで押し寄せてくることを怖れました。だから、ブルなどに対して、ジプシーを救済せよと口を酸っぱくして要求した。他方、上記3国は、西欧への言い訳として、いくら金をかけて施策しても、定住化、同化は難しかった歴史がある・・・などと言い訳をした。
 しかし、事実は違うと小生は思う。60年代~70年代初頭まで、実際に小生も、ブル国内で、馬車で移動している(農業の季節労働者として、移動生活しているらしかった。しかし、恐らく夏期の季候の良いときに移動していただけで、定住場所は既にあったと思う)ジプシーを見ましたが、その後は見たことがない。しかも、ソフィア市、その他の大都市近郊には、ジプシー部落が時と共に増殖した。

 何故かというと、社会主義時代に政権側は、ジプシーの定住化のために、十分水準の高い住宅を提供しなかったし、就職口も積極的に見付けてやる施策などは全くしなかった。ところが、ブルでは、70年代初頭を過ぎた頃から、ブル人の間では少子化傾向となったし、また、ブル人達はどんどん非肉体労働の職場へと移行した。この故に、工場、農場などの「肉体系職場」は、空きが増えて、建設労働の場合は「犯罪者=刑務所からの派遣労働力」を基盤とする「建設軍」からの肉体労働者、或いはベトナム人労働力、などを使用できたけど、工場、農場では、ジプシー系、トルコ系、ポマック系などの労働者を多く雇用するしか、他に方法がなかった。

 先にも述べたように、社会主義時代が末期になればなるほど、生産性の低い、肉体系の仕事が多い、資本主義圏なら倒産すべき工場などの職場は、ジプシーが主体となったのです。おかげで、ジプシーにとっては、都会に掘っ立て小屋を建てて、自ら定住し、地元の小学校、高校にも通い(注:ブルガリアの教育制度は、欧州の標準的なもので、初等、中等、高等の3つに別れる。日本風に言えば、小学、高校、大学の3つで、中学はない)、才能があれば大学まで行ける、「よき時代」が、社会主義末期には出現したのです。定住も、同化も、実際はかなり進んでいたのに、社会主義の崩壊で、職場を失い、低賃金とはいえ定職を失い、非合法職業に就かざるを得なくなった、というのが本当のところです。

 ベラルーシでも、ジプシー女性達が、小生の職場があった大きな事務系のビルの駐車場付近で、乞食をするようになって(小生が見たのは、99--02年)、ベラ人も、「社会主義時代には、彼らにも職場があった」、と嘆いていた。独裁者のルカシェンコは、ベラ人、ロシア人、などの工場、農場の職場では、絶対解雇者を出すなと命令して、インフレを構わず紙幣を乱発しつつも、失業者を出さないことを優先していたが、ジプシーに対しては冷淡のようでした!

 自由化後のブルでもルーマニアでも、ジプシーの社会的立場は弱化したのに、政府側は見捨てました。西欧への言い訳として、定住しないとか、学校に来ないとか、同化しないとか・・・・嘘ばっかり!ブルも冬は厳寒期があるから、掘っ立て小屋でも辛いから、徐々に煉瓦造りとし、立派な家となってきたし、定住化は促進されています。社会主義時代には、成績が悪いとはいえ、学校にも行っていた。学校に通うことで、標準ブル語をある程度は読み書きできるようになっていたし、文化的な同化も進展していた!

11.ジプシー問題:追記
(1)遅れた社会主義経済体制が、単純労働職場を増やし、ジプシーを定住化させた!!
 
 書きながら、或いは書き終わってから、自分でもびっくりすることがある。上記に既に書いたことですが、再度強調すると、定職、定住という意味で社会主義時代は、ジプシーにとってありがたい社会だったということ。
  
  社会主義時代においても、共産党エリート達は、ジプシーらを軽蔑し、まともな救済策とか、定住化のための安くとも住みやすい住居環境の整備、などの社会投資をほとんど何もしなかったし、学校教育の場を提供し、教育を施す、という側面でも、結局さほど積極的だったとは思えない。教師らですら、差別感情を抑制することすらしないのですから。

  ところが、皮肉なことに、社会主義は、いったん完成した工場とか、農場への追加投資資金をけちるというか、十分出せない貧しい社会だったので、逆に、生産性が悪く、手仕事、単純作業などの多い、遅れた技術水準の工場職場とか、単純労働ばかりの集団農場職場とか、徐々にまともな、教育を受けたブル人市民は敬遠して逃げ去るような職場(逃げなくとも、ブル人職員の老齢化、退職で空き職場となった)が、数多くあった。ブル人後継者がいないから、また肉体系で低賃金の職場には、ブル人が集まらないから、こういう空きとなった職場には、ジプシー、トルコ系、ポマックなどの被差別少数民族がどしどし採用されていった。

  低賃金とはいえ、元来の乞食とか、闇商売、売春、泥棒などの不安定な収入源に比べれば、「ジプシー達にとっては魅力ある職場」であり、結局社会主義社会の停滞、生産現場の老朽化と反比例するように、工場とか農場で、ジプシーは正規雇用され、正規雇用されれば、自ら定住のための家を建てるようになります。子供達も、学校に通わせる。つまり社会主義は、生産性の低い、遅れた経済体制であったが故に、逆にジプシー達にとって、またトルコ系、ポマック達にとっても、住みよい環境を作り出したのです。何という皮肉!

(2)西欧のジプシー達は、もっと酷い差別を受けている
  ブルのジプシー達は、ブル人はもとより、トルコ系、ポマック達からも差別されるほど、最下層に居た人々ですが、それでも彼らと他の少数民族、或いはブル人との間の較差は、資本主義時代の今ほどは、大きくはなかったように思う。
  それに、オスマン時代から既にバルカン半島に存在したジプシー社会は、オスマン政府からもさほど酷い扱いを受けなかったそうだし(ただし、税制上定住化を促されていて、オスマン時代から、既に定住化が進んだ由)、周囲のブル人、トルコ人達とも、居住区を別にしながらも、それなりに大きな摩擦無しに生活していたらしい。

  ところが、小生が見たアイルランド社会(90年代初頭)では、Travellers達は、昔の馬車がキャンピングカーに変わっただけで、移動生活を継続していたし、主たる産業が乞食、泥棒という状態が続いていた。そのせいか、市民らの彼らへの目も厳しくて、キャンピングカー用の施設(駐車場+水道+シャワー+トイレを無料で提供する、Travellers達用の簡易福祉施設)を、町の外れに作ってやると言う政府施策にも、市民らは、ジプシーが身近に半定住化してしまう、治安が悪化する、と大反対していた。
 (ちなみに、移動生活が何故、欧州のより北部で、寒いはずのアイルランド、英国では可能で、南に位置し暖かいはずのバルカン半島では、より不可能なのか?答えは簡単で、バルカンの冬は、メキシコ暖流のおかげで、厳しい寒気が少ないアイルランド、英国の冬よりは、ずっと寒いのだ!!実際に生活体験してみないと分からないことだが、アイルランド、英国は、夏日がほとんど無くて、年中あつーいと感じる日が、僅かしかないものの、冬は意外にマイナスの気温は少なく、穏和だ。ところが、バルカンの場合は、夏の暑熱は結構厳しいが、冬はもっと厳しくて、夜間の最低気温がマイナス5度くらいの日は、冬中結構多くあるし、厳しい冬型気候だとマイナス15度という厳寒が、数日も続くことがある(1月に最低気温の日が多い感じだった)のだ。この厳寒では、きちんとした家に住まないと、凍死してしまう!!)

  アイルランドのジプシー(Travellers達)は、白人だし、ブルに比べれば食糧事情も悪くは感じられなかったのだが、それでもやはり貧しさは相当なものらしかった。ダブリンの街角で、赤子を抱えた女性が物乞いするし(赤ん坊を抱いていると同情心が増すので、赤ん坊は職業上の必需品)、3人ほどの子供が束になって我が家(富裕層の住宅街にあった)にもやってきて、市民らが子供に金銭はくれないことは知っているという風で、我が家の庭にふんだんにある、クッキング用アップル(酸っぱいが、パイには好適なリンゴ)を指さして、「お腹が空いているからちょうだい」という。我々が、いくらでも落ちているリンゴを拾ってきれいに洗って取っておいたものを10個ほどやると、大喜びで、すぐにかじり付いて食べ始めたのには、驚いたものです。この酸っぱいリンゴを、直に食べられるほど、やはり飢えているのか・・・・・!?(もっとも、甘いリンゴが主流の日本と違い、欧米では、酸味が強い、甘さは控えめのリンゴが主流ですし、クッキング・リンゴは一番多く栽培されている品種だから、ジプシーの子供にとっては慣れた味なのです。)

  西欧社会は、昔から階級社会ですから、今でも上流階級は、下層の労働者階級とはつきあわないし、ましてや最下層のジプシー達は、身近に来ることすら嫌われるようです。キリスト教の施しの精神とか、近代社会の慈善事業などの、欧米風の助け合い精神はそれなりにあるとしても、それは個人として下層階級とつきあわず、制度として施しをする、という「逃げの姿勢」の表れとも言える、と見るべきでしょう。階級間格差に対しては、しょうがないという感じで、建て前と本音が違うのでしょう。ましてやTravellers達は、階級と呼べるような職業すら持てない人々達です!!

  そういえば、ブルの新聞で、夏場の黒海沿岸のリゾート地で、ジプシーの子供達が物乞いすると、一番毛嫌いして、「働かざる者食うべからず」として追いやるのはドイツ人達だ、他方で、ジプシーの子供達にも同情的で、時には驚くほどの多額の施し金を握らせるのは、ロシア人の成金達だと書いていた。
  社会主義時代、悪平等主義というか、働くものと、働かないものの差がつきにくい、おさぼり当たり前の社会で、皆が低賃金の中で勤労意欲など無かった時代を経験し、自由化後には、かなりあくどい裏技を使って成金となったロシア人富豪達には、貧しいジプシーの姿が、ほんの15年ほど前の自分の姿に見えるからでしょう。プロテスタント的勤労倫理のドイツ人と、一発屋的ロシア人の人生哲学の差が、施しの思想にも影響するのでしょう。

(3)ブルガリアでは、ジプシー稼業も、進化している
  自由化後は、ブルでは、ジプシー内部からも資本家が生まれ、彼らが自ら食品加工工場とか、サンダル工場、食肉加工工場、縫製工場などを経営し、身内(大家族、或いは同氏族)の人々を雇用し、低賃金、長時間労働の職場を作り出しています。もっとも、元来が怠け者が多い社会ですから、長時間労働と言っても、日本の昔の女工のような、きつい労働ではないと言えます。名目の拘束時間が長いだけで、結構さぼっているはず!

 他の正業としては、ゴミ収集企業(マフィア系だが、ソフィア市とか、市当局との年間契約で、ゴミ箱のゴミを収集する業務を委託請負する)の清掃員というのがある。他方で、これら正規の職場では、十分な労働力吸収力がないので、様々な犯罪系の職場(ヤクザ、売春、泥棒、掏摸など)にもジプシーは関わっています。

  ソフィア市内の市電などでは、ジプシーの子供数名が、外国人を取り囲んだら、上手に財布がスリ取られます!小生の妻も、いつの間にかやられていたほど、巧妙です。黄金の指先を持つ、天才スリ少女なども、話題になるほどです。スリ教師もいるそうです。
  ジプシーの子供は、普通2--3名が束になって、新聞売りとか、物乞いとか、色々な職業をしているのですが、小生が見た笑えぬ現実は、少女が携帯電話で、たぶん父親か、同氏族の「親方」からでしょう、何らかの指令を受けて、行動している様子でした。物乞いと携帯電話・・・!物資が豊かになると、物乞い産業ですら、どこに行けば儲かりそうとか、そういう指令が、携帯電話から届く!!単に貧しい、などと言えないほど、世の中は複雑になってきています。

(4)建材が安く豊富に手にはいるので、家が立派になっている
 そういえば、自由化後のブルのジプシー達にとっての朗報は、物資欠乏社会が終わり、物資過剰社会になったので、自宅が立派に新築、改装できることでしょう。
 仏、独資本などのDIY店とかも増え、建材などが安く、豊富に手に入ります。
 自前で家を建てるのは、ジプシーのみではなく、ブル人達もそうですが、社会主義時代には、掘っ立て小屋で、すきま風だらけだった自宅を、きれいな煉瓦で新築し直したり、或いは、すきま風を防ぐ改装工事をしたり、きれいな壁紙を使って美しく改装したり・・・・。
 ジプシー達の自宅も、立派な家具を置いたり、色々豪勢に変身しているらしいのです。売血で大もうけして、新築の広い豪邸を建てた、というジプシー家族の話まで新聞に登場していたことを思い出します。
 更に、一部の富裕ジプシーは、監視カメラ付きの豪邸に住み、高級車を運転している!


12.どちらがより幸せか?
 mugiさん、
 小生はジプシー問題の専門家ではなく、単に好奇心からブルなどのジプシー社会を観察していた部分があるだけですから、深くつっこまれると、やはりむずかしくなる。非専門家としての意見を書きます。

(1)北インド出身か?
 最初は、エジプト人と思われていたし、ロマ、或いはその形容詞ロマニが、ルーマニアと連想されて、また19世紀半ばにルーマニア・ジプシーが世界規模で拡散した(一部はバルカン半島を南下)ので、ルーマニア起源と誤解されたり・・・。
 しかし、一部の学者らが、風俗、言語の研究から、北インドではないかと言い出した。小生も、在ブル・インド大使が、「彼らの言葉の一部は、サンスクリット語で理解できる」と述べたので、やっぱりと思ったが、しかし考えてみれば、アーリア系言語として、イラン系だってサンスクリット語と近い、などは言えるのではないか?(その後mugiさんから、サンスクリット語は古代の言語で、中世期のインドでは、全く死語となり、誰もしゃべっていなかったはずだ、とのご指摘。うーーむ、難しいです!)

(2)中世から産業革命期(工業化)への社会変化の中で、農村から町に出て、流浪民化した欧州人?
 08年6月の冒頭でも紹介した小生記事「ジプシー」で紹介した水谷氏の書物では、中世末期に、農村社会からはじき出され、流浪民となった人々が、欧州で多く生まれ、彼らがジプシーの起源ではないか?という説もある、とのこと。
 
 もっとも、その場合、何故ロマニ語系という不思議な言語があるのか?という疑問が残るので、流浪民の血液も多いけど、源流はやはり北インド、或いはペルシャと考える方が自然にも見える。

 更にこの水谷 驍(タケシ)著書によれば、ジプシーの欧州への出現の最初は、ビザンツ帝国末期のコンスタンチノープル市への出現、というから、やはり北インド、或いはペルシャから西へ、西へと来て、コンスタンチノープル→バルカン半島という、そういう拡散となったのではないか。
 最初は、銅製品職人、金属職人が多く、鍋・釜の修理とか、そういう技能集団でもあったらしく、ハンガリーなども、ジプシーの移住を歓迎したらしい。

(3)何故流浪した?
 自由を好む民族だからとか、一カ所に定住する辛抱心が無いから、など色々言うけど、皆欧州側の偏見だと思う。一カ所に定住したいのに、その土地には必ず地主が居て、追い出すから、定住できなかったのでしょう。また、物乞いとか、金属製品の修理などの「商売」は、小さい都市とかでは、すぐに需要が満たされ、それ以上長く居ても稼ぎにならないから、他の都市へと移動生活するしかなかった、という理由が考えられる。

 ブルの場合、社会主義時代には、土地は全て国有で、所有権が曖昧で、故に、ソフィア市郊外とか、荒れた農場の牧草地、など、勝手にジプシー達が占拠して、定住化しても、文句を強く言う主体が無かったから、却ってやはり社会主義社会がジプシーには有利だったということであると思う。

 欧州では、南部に見えるけど、上記にも少し書いたように、バルカン地方の冬は寒すぎる(ブルでも、真冬には一時的とはいえ、マイナス15度くらいの日もある)ので、やはりきちんとした煉瓦の家でも建てないと、また、ストーブをたいて暖房しないと、生命の危険性も高く、定住化を自ら嫌がっていた、という解釈は、怪しいです。本当は、追い出していたのでしょう。

 しかし、多民族の存在が普通で、寛容性も高かったバルカン半島では、地域住民が激しく追い出したとは思われない。差別はするけど、意外に寛容性もあるのがバルカンです。西欧ほどは、必死に土地から追い出さなかったと思うし、故にバルカン半島でジプシー人口が多いのです。すなわち、バルカン半島では、流浪していたジプシーの数は、本来少なかったのではないか、小生はそう思います。そういえば、ルーマニアでは、ジプシーの多くは、地主の「奴隷、農奴」として長らく拘束されていて、その期間に人口が増えた、という側面があるようにどこかで読んだ覚えがある。要するに、強制的な定住と、重労働を課される不自由な生活で、却ってストレスから子供でも作るしかしょうがなかったのでは?

 08年6月の記事でも、ヴラフ族とジプシーの区別は、不明瞭なところがある、と書きました。すなわち、ヴラフ、ジプシーの多くが、家畜を追う遊牧生活だったから、流浪と見られたけど、本当は、夏の家、冬の家、双方別の2軒を、別の場所に持っていたはずです。(ヴラフとは、ワラキアに相当するスラヴ語です。一説では、バルカン半島各地に散在する遊牧民族のヴラフ人達は、その一部が、ルーマニアにおける19世紀半ばの「奴隷解放」後、ブル、その他のバルカン諸国に移住してきた、元来がワラキア、モルドヴァ在住奴隷だったジプシー達だ、とも言う。もちろん、元からバルカン半島にいた原住民=トラキア人、或いはまたローマ時代のトラキア人の末裔で、その故にラテン系の言語を話すのがヴラフ人で、その意味でワラキア人<後のルーマニア人>と根っこは同じ、という説も昔からある。)

 流浪する「自由の民」という、ロマンチックなジプシーに関する概念は、西欧人の、何時も追い出し迫害していたことに関する、本当は言い訳ではないか?

(4)書き言葉がなかった
 言語というのは、書き言葉がないと、200年もすれば、がらっと違う言葉になってしまう・・・と昔言語学者に聞いた覚えがある。
 ロマ達は、ずっと文盲で、書き言葉がなかったから、欧州全体に散らばったジプシー達の共通言語はないに等しいようです。水谷著でも、ロマニ語の基本統一単語集すら作成が困難で、未だにロマ語統一辞典が作成できないという。(そもそも、現在各地のジプシーは在住国の言語をしゃべっている場合が多く、各地に固有のロマニ語○○方言など使用していないのが普通と思う。)

 つまり、各地のロマ達は、自己アイデンティティーも様々だし、従来は「民族」意識もなかったと思う。しかし、欧米でジプシー研究とか、人道問題としての救済、などを言い始めて、自分らでも色々な団体を作り出したので、様々な自己規定が出てきた。ロマというのも、一部のジプシー語で、「人間」、「自分ら側の人間」を意味する言葉らしい。

 マケドニアには、ロマ達の多くの団体が出来ていたけど(90年代半ば)、エジプト人を名乗るもの、ロマを名乗るもの、ツィガニを名乗るもの、など色々だし、結局は部族毎に違う団体があったように思う。その場合も、政治団体となって、援助金を西欧から貰おうとか、或いはマケドニア内で、政治家になってやろうとか、思惑は様々なようだった。そういう会合に出ても、信用できる人が一人もいない感じでした。皆個人的な欲望から、勝手な団体を作っているし、背後にどの程度の人数の住民が居るかも怪しかった。マケ人も、「この国のどこにエジプト人がいるというのだ?」と、バカにしていた。

(5)富裕層、豪邸 ブルの場合は、勤勉で商才があったり、政治組織を作る才能があったり、マフィア系の組織を作って裏稼業で儲ける才能があったり、様々な形で富裕層も出ています。

 元来ブル国内では、東部のスリーヴェン市がジプシー達の一番の集住地だった。また小生が60年代末に見た、馬車で移動するジプシー達は、そこから100kmほど西のカザンルック町で、バラの花を摘む時期(6月初旬から中旬)に、季節労働者として集まっていたと思う。すなわち、当時でも、本当は定住しているのに、季節労働の時だけ馬車で移動していたのかもしれません。

 60年代末期に、ソフィア市内には、西部地区にかなり大規模なジプシー部落があり、そこにうっかり小生が車で迷い込んだら、あちこちからお姉様方の手招きと、色っぽい声がかかり、驚き、慌てて逃げ出したものです。その地区は、今から考えれば、市中心部にかなり近いので、結局70年代後半には、この地区は「再開発地区」に指定され、追い出され、ジプシーらは、更に西の郊外へと追いやられた。また、ソフィア市以外の地域から、徐々に流れてきた(定住地を、田舎から職場の多いソフィア市に変えただけで、元来放浪していた人々が定住したわけではない)人々は、市北東部の空港よりの地区に、勝手に定住していきました。

 古いジプシー地区も、それなりに貧しい側面と、意外に豪邸に近いものもあった。新しいジプシー地区(ジプシー達の部落を普通は、マハラと呼ぶ。マハラは元来トルコ語らしく、元は普通の田舎の人口の少ない集落もマハラと呼ばれていたが、最近はジプシー部落しかマハラとは呼ばなくなった)は、もちろん最初は、掘っ立て小屋から始まるけど、やがて水利施設もある程度市が提供し、電気も引かれ、各ジプシー家族達も、工夫して家を改装したり、新築し直したりして、きれいになっていく。マハラ内の道路も、徐々に舗装されていく。やがては富裕となった人は、マハラ内の衛生的にも優れた地区(普通はマハラの端っこ)に、豪邸を建てる!子だくさんだから、大きな豪邸でも、内部に住民は大勢いて、にぎやかです。

(6)バルカンのジプシーの方が幸せでは?
 ともかく、西欧とバルカンでは、ジプシーの生態とか、社会的地位も違い、差別の程度も違う、という気がする。

 ブルのジプシー達は、社会主義時代には、定職を得て、きちんと学校にも行っていた。成績が悪く、学校では怠け者が多かったけど、社会主義時代も闇商売(すなわち勤勉性が必要)するジプシーも多く、社会主義末期には、大金を所持して、ツム(百貨店)で、豪勢なシャンデリアを買うほどのジプシーが居た。

 ブルの警察官らも、定職を得られず(或いは、より多くの収入を求めて)闇商売に励むジプシーには、意外に寛容で、逮捕しなかった(或いは、警官達も、闇商売のジプシーから賄賂を受け取っていたので、黙認していた)。ジプシーがソフィア市内で、秋に馬車でゼーレ(キャベツ、ブル人の冬の常備食キーセロ・ゼーレ=一種のザウアークラウト=を作るための材料)を売りまくっていた80年代後半の風景が、懐かしいです。馬を飼える(馬も結構値が張る買い物です)、馬車を購入できるし、馬車作りの職人もいる、それがジプシー社会でした。意外に、当時(社会主義末期)から、経済力があるジプシーが出現していました。自由化後に、更に裏稼業などで稼ぎが増し、富豪にまでなったけど、社会主義時代から、かなり裕福なジプシーが出現して、マハラの外れに、ちょっとした豪邸があったのです(今は更に大きな豪邸がある)。

 ブル人らも、当時から、「ジプシーの奴らが大金持ちで、自分ら法律を守る、正しい社会主義労働者は貧しい」、などと愚痴を言う者もいた!
 もっとも、総体として、社会主義時代の方がジプシーにとって住みやすく、今は社会の下層部分にいるジプシーの人数が増え、失業率も高く、結果として犯罪率も高まっている、という状況だとは思う。

 しかし、あからさまに言葉でも差別するけど、やはり周囲がその存在になれていて、より住みやすいバルカン社会に比べて、西欧のジプシー達(この場合、人種的には、中世末期の流浪民が主体かも)は、より深く軽蔑されていて、近寄ることすら忌避される存在だ、という、より深い差別にさらされていると思う。口で差別すると言うことと、沈黙の内に、心で差別されるのと、どちらが差別される側として、より嫌味か?という問題でもあろうけど。

 まあ、バルカン専門家として、少し贔屓してバルカンの方を美化しているかもしれませんが、これが小生の今のところの気持ちです。


(7)西欧におけるジプシー迫害の頂点:ナチスによる虐殺
 昔どの本で読んだか覚えていないけど、確かナチスが虐殺した人数は、ユダヤ人6百万人、ジプシー3百万人、とちょうどユダヤ人の5割にも達するのに、西ドイツは前者には金銭的賠償もしたけど、後者には、ゼロ・マルクだったような気がする。
 文盲が多く、記録が残せず、しかもドイツとか、中欧地方の大部分で、あまりに徹底的にジプシーらが殺されたので、なんらの証言もなく、被害に関し立証したり、提訴する人もいないのかも知れません。
 ともかくブルでは、ジプシーを北に移送して、ナチス・ドイツが虐殺した、というよな話は聞いたことがない。ボリス王時代のブルガリアは、ユダヤ人の北への移送、虐殺への荷担に断固反対し(国会議員らが騒ぎ、集団移送される列車を人々が止め、結局政府がユダヤ人達を解放した)、ブル国内のユダヤ人達を虐殺の恐怖から救った、という話しはあるけど、そもそもジプシーに関しては、集団的な逮捕とか、強制収容されたとか、そういう話すら聞いたことがない。この件は、そういえば闇だらけですね。

と書いていて、少し調べてみると・・・・平凡社『東欧を知る事典』(1993/12第1刷、95/6第2刷、小生は96/4購入)によれば、ロマの項で、「第2次大戦中のロマの受難」の表というのがあり、ナチスの人種撲滅政策、或いは他民族同士の争いの身代わりとされて、殺された人数などが、表示されていました。ブルでも、少しは殺されているらしく、こんな話しは初めて知るのですが・・・・。次の表の受難人数は、3百万人という人数とはかけ離れた少なさでもあります!(ただし、この統計表は、西欧部分を含んでいないから、ドイツとかフランス、などで殺害された人数は、もっと多いのかもしれません。しかし、西欧でのジプシー人口数は、元来そう多くはないはずだと思うのです。そもそも、1939年時点でのジプシー人口が、次の諸国の合計で90万人強ですから、やはり3百万人虐殺説は、間違った情報です・・・小生、どこでそんな数字を記憶したのだろう??)

国名     ロマ人口(1939)    1945年までの死者   死者の比率、%
クロアチア   28,500        28,000          98
ポーランド   50,000        35,000          70
バルト3国    7,000        4,500          64
ボヘミア(チェコ)13,000        6,500          50
ハンガリー    100,000        28,000         28
セルビア   60,000        12,000          20
ソ連       200,000        30,000         15
ルーマニア    300,000        36,000         12
ブルガリア    80,000         5,000          6
スロバキア    80,000         1,000          1
 計       918,500        186,000         平均20

要するに、ブルガリアは、国内ジプシー人口の6%の抹殺には、協力したようです。他方、スロバキアは、たった1千人=1%と、ブルガリアの5千人に比し、4千人も少ない・・・スロバキア人の方が、ブル人より人道主義者だったのか??
  それにしても、クロアチア(ウスタシャ党というファシスト、ナチスと提携した政権だった)では98%、ポーランド(ドイツが占領)では70%、同じくドイツ軍が占領したバルト3国で64%、ボヘミア(ドイツと戦わずに降参したチェコのこと)でも50%が殺されたとは、哀れです。酷すぎる!!

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

mugi
2010年07月15日 00:01
 サンスクリットは古代から既に口語でなくなっていたのです。教養人の使う古語であり、西欧のラテン語のようなものでしょう。中世となれば、完全に教養人が読書きするための言語になっており、必ずしもヒンドゥー教徒だけが習得するとは限りませんでした。パールシーの聖職者もサンスクリットを学び、彼らの聖典をサンスクリットに翻訳した者もいます。その教本が後に西欧の言語学者の役に立ちました。
 ジプシーが仮に北インドから移住してきたとしても、それほど教養があったとは思えません。そうなると、彼らのルーツはますます不明です。

 ナチスによるロマの虐殺ですが、平凡社『東欧を知る事典』によれば、90万人強だった??wikiでは50万人説が載っているし、どちらがより実数に近いのでしょうね。この種の虐殺の正確な犠牲者数は、おそらく今後も不明のままでしょう。
 元からロマの人口比が多いルーマニアは除き、死者数ではポーランドがダントツですね。ロシアも3万人だから、“ポグロム”されたのはユダヤ人だけではなかった。そして、クロアチアはすごい。クロアチア、ポーランド共にカトリックが多い国ですが、チェコやバルト三国も結構カトリックが多いのでは?これらの国々の死者の比率が高いのも、果たしてキリスト教と無関係なのでしょうか?
2010年07月15日 10:00
mugiさん、
 小生は詳しくはないけど、確かにナチ党とヴァチカンの間の暗黙の合意というか、ヴァチカンはナチ党によるユダヤ人、ジプシーの抹殺・絶滅という方針とか、ポーランドの収容施設における大量虐殺とかを把握していたが、沈黙した、といわれ、近年その「沈黙」について「懺悔」していたと思われます。
 この件小生は、さほど関心が無く、フォローしていませんが、次のブログのウィーンに長く在住して記者活動している方が、以前言及していたような記憶があります:http://blog.livedoor.jp/wien2006/
小生は、良く覚えていないのですが、時折このブログは参照していて、カトリックの欺瞞性に言及する場合も多いように思う。
mugi
2010年07月15日 21:46
 ジプシー北インド起源説について、私も想像したのですが、イスラム侵攻により仏教徒や低カースト層では、イスラムに改宗者が出たのです。改宗しても暮しは変わりませんし、外来のムスリム支配者からも特に信頼はされてなかった。仏教徒がヒンドゥーに改宗しても、カーストは不可触民に落とされるし、どの道インドではうだつが上がらない。
 ひょっとすると、低カースト集団がインドに見切りをつけ、中東や欧州に移動した、ある種「宗教難民」だった??なお、サンスクリットは死語になったといえ、口語と完全に違う言葉ではなく、印欧語ゆえに日常会話にも痕跡があるはずです。

「ウィーン発コンフィデンシャル」、とても面白そうなブログですね。早速ブックマークしました。 
 昨年初め、リチャード・ウィリアムソン司教(ケンブリッジ卒のイギリス人でカトリックに改宗した人)が、スウェーデンのTV番組で「(ユダヤ人虐殺に使われた)ガス室はなかった」と発言、大問題になりましたが、特に咎められてないようです。
 ヴァチカンは最近、ホロコースト時の「懺悔」を繰り返していますが、アンチキリストの私には懺悔のポーズにしか見えません。日本人クリスチャンは的外れにも、「日本人ホロコーストの繋がり」などと言っていますが。
2010年07月16日 08:36
mugiさん、
 そういえば、表の見方を間違えておられるようです。1939年時点で、この表の各国のジプシー人口総計が90万人強、そして45年までの死者合計が18.6万人だったから、およそ20%のジプシーが虐殺被害にあったのではないか、という統計数値となっているわけです。
 要するに、小生が記憶していた3百万人という数字では全くなく、恐らく20万人弱、というのが実数という、欧州人の研究です。もちろん、過小評価の可能性はあるけど、1939年と45年のジプシー人口を比較して、死者数をだし、そこから虐殺数を推定した、ということ。
2010年07月16日 21:41
mugiさん、
 インドの中世の下層民が話していた言葉も、語彙などから見ればサンスクリット語と完全に違う、ということでもなかったとすると、ロマニ語もやはりサンスクリット語との共通語彙もあっておかしくない、ということになりますね。
  そうだとすると、欧州の言語学者らが、ジプシーの各種のロマニ語が、サンスクリット語と語彙に共通性がある、ロマ達は、北インド起源ではないか?と推定したという、その推理は成り立つこととなりますね。やはり学説通りですか。
  小生も、ビザンツに初めて現れたジプシー達を、ビザンツ人(当時のギリシャ人)がどこの民族がよく分からなかった、というからには、エジプト出自とか、ペルシャ出自とは、やはり違うだろうと思えたので、インド出自、という方が、納得がいきます。栄養が悪いジプシー達は、背が低く、小柄でやせて、肌は浅黒く・・・という人が、やはりかなりいて、容貌的には、インド的だという感じでもあったので。もちろん、白人の血が多い人、アラブ的容貌、などもいることはいる。一般的に、ブル人といっても分からない人も多いし。

 
2010年07月16日 21:42
(続)
ところで、マケドニアで数名見たヴラフ人(英語でAromanian、ワラキア、モルドヴァ出身のルーマニア人に対し、第2のルーマニア人の源流とも言われる)は、どうも栄養が良く、白人的で、言語・文化の面でも、マケドニア民族と融合していて、元遊牧民という感じではなかった。しかし、ブルの歴史、マケドニアの歴史でも、古い文献では、ヴラフ達は、山岳部で羊を放牧して暮らす、遊牧民族という扱いでした。同じように、羊を山岳部で放牧して暮らす、バルカンの民族に、カラカチャーニというのがおり、生活様式では、ヴラフと近かったけど、カ族の場合は、居住地が、トラキア地方からスリーヴェン市にかけて(ブルの東南部から、北東部ギリシャ)で、バルカン全域に散らばるヴラフと比べ居住範囲が狭かった。言語もヴラフは、ルーマニア語に近いと言われたが、カ族の言葉は、不明だった。最近の研究で、カラカチャーニ語は、どうも古いギリシャ語の一方言に近い、といわれるようになり、カ族は、ギリシャ系と呼ばれ始めた。
mugi
2010年07月16日 22:08
 またも、ミスで恥ずかしい限りです(汗)。90万強という数値は戦前の東欧全体のロマの人口でした。東欧で約20%のロマが虐殺されたと見られているようですね。それにしても、各国で死者の比率の差が大きすぎる。
 ふと思い出しましたが、ヴァチカンのおひざ元のイタリアではユダヤ人迫害がない訳でもありませんが、やはりドイツに比べればかなり緩い。ロマも同じだったかもしれません。

 カラカチャーニという民族名は初耳です。しかも、古いギリシャ語の一方言に近い言葉を話しているそうで、バルカンの民族の多様性を改めて知らされた思いです。
ミツカン
2011年09月27日 20:13
西欧カトリック圏のほうがバルカン・東方正教圏よりもジプシーについて不寛容だとのことですが、これを読んで思い出したのが『十字軍の思想』(山内進、ちくま新書)の中で紹介されている、「聖地」エルサレムの聖性を貫くために、汚染された異教徒を「浄化」しなければならないという想念です。
もともとカトリック圏も東方正教圏と同じく聖俗混交の政治・社会システムであり、イスラム教徒は必ずしも殲滅すべき敵ではないと考え、サラセン人と条約や同盟を交わしていたのですが、しだいに彼らを不倶戴天の敵とみなす考え方が強まっていきます。同時に教会改革も進行し、皇帝の教皇選挙への干渉の排除、シモニア(聖職売買)およびニコライズム(妻帯、性的放縦)の禁止なども進みます。
私にはこの「浄化」の思想の延長線上にユダヤ人やジプシーに対する抹殺、あるいはルーマニア、ブルガリア、ギリシャ(いずれも東方正教の国)にシェンゲン協定資格を与えない、という動きがあるように思えてならないのです。

ttp://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110914-OYT1T01211.htm
ギリシャ「移動の自由」危機…EUが資格停止案

ちなみに同じキリスト教国でも、スウェーデンとドイツによるルーシ(ノヴゴロド共和国)、フィンランドの一部(ラップランド、カレリア)の正教会地域に対する遠征もまた「北方十字軍」の一部と考えられています。こちらはセルゲイ・エイゼンシュテイン監督『アレクサンドル・ネフスキー』で有名ですが。
2011年10月01日 23:44
ミツカンさん、こんばんは、投稿に気付かなくて、回答が遅れすみません。
 外国人嫌い、異邦人迫害、差別・・・これらの感情と、汚染、浄化の概念が重なることは、もちろんあるだろうけど、しかし、浄化、不浄などの言葉は、少しは正統性を有するようにも聞こえるから、困る。
 結局、外国人への差別感情、憎悪などは、近年の西欧、或いは欧米全体が、経済競争で、新興のアジア諸国にものづくり工業部門を奪われ、産業が空洞化して、自国内の職場が減少して、この故に、社会保障に依存するようになり、欧米諸国の政府負担が増大して、結局通貨安という経済危機の深刻な段階に到達しつつある。
 失業、低所得、将来展望の無さ、この故に、EUの移動の自由とか、労働力の自由な移動、などという、EUのシステム自体にも文句を言うしかなくなっているのです。
 彼らの経済的不満が、外国人への敵意を増幅し、汚染、浄化という、自らにだけ有利な概念を広げようと言うことになる。社会の病理といえるでしょう。エゴイスティックです。

この記事へのトラックバック