第二次大戦終結までのブルガリア②


「第二次大戦終結までのブルガリア」の②です。

3.「民主合意」党統治期:1923--31年
(1)ツァンコフ内閣の統治方針
  1923.06.09のクーデターで、農民党政権を打倒したAleksandqr Tsankov首相は、内務省兼国民保健省(MVRNZ)、国防省(MV)という「力の省庁」を直接傘下に収めた。また、08.10には、政権与党として「Demokraticheski sgovor(民主合意)」党を結成した。

 1923.11王国防衛法が制定され、右に基づいて、テロリズムが禁止され、同法に基づいて、同月中に実施された総選挙に政権側は完勝した(11.18に21.ONS選挙):与党側では、Demokraticheski sgovorが173議席獲得(内、Demokrati 56議席、Narodnoprogresisti 43議席、sgovoristi 42議席、radikali 32議席)、またsotsialistiが29議席。野党側では、BZNS 30議席、Natsionalliberalna7議席、BKP 9議席(但し、BKP候補はBZNS候補、或いは無所属候補として立候補した)。

 王国防衛法に基づき、政権は1924.04に共産党(BKP)を禁止したり、同党の資産を没収したり、同党系労組を解散させたりしたほか、1925.03には、先の選挙で議員となっていた8名のBKP議員の議席を剥奪した。他方で、政権は、BZNSのスタンボリースキ政権時に制定された土地改革法などの農政関連法は、ほとんど撤回せず、継続させた。

(2)共産党による爆破テロ事件→大規模左派弾圧処置
  1925.04.16にソフィア市中心部の聖「Nedelya(日曜日)」教会(当時は、聖「Kral(国王=King)」大聖堂の名称であった)で、BKP軍事部門による爆破テロがあり(教会の屋根で爆弾が破裂)、不幸中の幸いと言うべきか、国王、要人(大臣達)には被害がなかったものの、国会議員、軍人など150名を超える死者が出た。ツァンコフ内閣は、戒厳令を布き(10.24にようやく解除)、数千名の左翼活動家らが逮捕され、その中から多くの失踪者が出た(噂では、ソフィア警察本部の焼却炉で焼かれた)他、相当数が公開処刑された。

 因みに、暴力行為は、共産主義者、或いは政府側の独占ではなく、VMRO(IMRO)も1920年代には分裂して、一部は共産主義者と提携したので、IMRO派閥間の相互暗殺事件も、ソフィア市、その他などで多発した。もっともマケ問題過激派のMihaylovistiはPetrich市掌握を継続して、この町からセルビア、ギリシャに対するゲリラ活動を繰り返した。ギリシャ軍は、1925.10には、ブル南部国境を越えて侵攻したほど(国際連盟の介入で、ギ軍は撤退)。

 何れにせよ、ツァ政権が過酷な左翼弾圧を行ったことは、ブルを国際社会における「のけ者」と化したので、ボリス王も側近軍人らには、「改革が必要」と示唆していた。もっとも、未だに国王は若く、政治的地位も固まっておらず、国王が何らかの介入をすべき時期には至っていなかった。

 他方、国際金融界の意向の方がツァ首相には有効だった。1925年当時、ブル国内のマケドニア難民らは、未だに極端な貧困の中におかれていたので、彼らに福祉支援の手を差し伸べる必要があり(共産主義者、マケドニア過激派の温床となるから)、ツァはロンドンの金融界にローンを要請したが、彼らはツァを信用しなかった。

(3)リャプチェフ内閣に交替
  1925.12半ば、「民主合意」党内のAndrey Lyapchev(今日のマケドニア共和国南西部Resen町<Prespa湖に近い>生まれ)派議員70名が「70名派閥」を形成してAleksandqr Tsankov内閣の交代を要求。更に、12.28に、10名のPetrich地域議員がVladimir Rumenovを中心に「マケドニア・グループ」を形成して、同グループに近いYanko Stoenchev大臣が辞表を提出したので、ツァ内閣は崩壊した。1926.01.04、民主合意党によるLyapchev内閣が組閣された。

 リャ内閣時、西欧からのローンが提供され、650以上の村々でマケドニア系難民達に畑(外債ローンで購入した資金による)が提供された。

 また、リャプチェフ首相は、左翼規制を緩和して、労組の活動再開を許可し、BRSDPも活動を再開した。マケドニア系組織も、活動再開を容認された(相変わらずIMRO各派による血腥いテロ活動が継続された)。
 要するに、ツァンコフ政権下におけるテロ的弾圧政策は緩和され、より穏健なリャ政権統治が始まったのである(既に過激左翼は消滅せしめられていたし、右翼はさほど過激なグループは<Mihaylovistiを例外として>存在しなかった)。

 しかし、この頃ブル政界は、全ての政党が益々分裂を繰り返し、1926年議会内に19の派閥があったのが、1934年には29派閥にも達するほどであった。この故に、リャは伊における制度を採用して、総選挙で最大得票した政党は、議会において自動的に過半数議席を付与されることとした。右選挙法改正が1927年選挙に間に合い、民主合意党は右選挙で勝利することができた。

(4)ズヴェノ派(国粋主義派)の登場 
  1930年に結成されたズヴェノ(Zveno=グループ、チームなどの意味)は、国家社会主義者、国粋主義者的傾向を持つインテリ達(エリート主義者達)の政治集団で、民主合意、軍事同盟からの参加者の他にも、社会主義系、軍人系などの人士も参加していた。彼らは政党政治家は国家の利益よりも党利を優先するとして、政党政治に否定的で、他方で外交面ではユーゴとの友好関係を支持し、この故にマケドニア系組織を嫌った。


4.「国民ブロック」会派政権の誕生:1931--34年
(1)Nikola Mushanovが組閣 
  1931.06.21実施された23.ONS総選挙では、折からの世界大不況に伴う経済危機が主要論争点で、公開的(公平)な選挙が実現され、「民主合意」に対抗した野党「国民ブロック(Naroden blok)」が勝利した:得票率47%、152議席(ブロックに参加したzemedeltsi 75議席、demokrati 41議席、natsionalliberali 29議席、radikali 7議席)。

 「民主合意」党は、Natsionalliberalna partiya na B. Smilovの党と連立してNarodna koalitsiyaを結成して選挙に臨んだが、合計78議席(「民主合意」党自体では64議席のみ)と敗退した。
 翌年「民主合意」党は分裂して、Tsankovは自らのファシスト運動を形成した(National Social Movement)。

 「国民ブロック」会派は、06.29にDemokraticheska partiya党首のAleksandqr Malinovを首班に指名したが、健康上の理由で同人は不幸にも早々と退任し、10.12には、同じ党のNikola Mushanovが首相として新内閣を組閣した。

(2)農民の窮状 
  なお、「国民ブロック」内で部分的な復活を果たした農民党(BZNS)に、世界大不況下における農村経済の復興を期待した農民らは、失望することとなった。1929--34年の5カ年間、政府は大不況の最悪の状況下で呻吟し、堪え忍ぶしかなかったし、この期間に農民の収入は50%も低下したのだ。
 都市住民の間では、失業が増大したし、雇用を維持できた者達も給与は約1/3減少した。政府は、負債を4割削減し、支払期限を延長するなどの政策を実施した。

 「Hranoiznos(食糧輸出)」という政府の穀物買付機関が1930年創設された。農政としては、作物の多様化が奨励された。特に輸出用のより高価な農産品として、果実、野菜類の生産が奨励された。しかし、国民ブロックの大臣達は、上記のような政策を提示したものの、人気を高めるほどの努力を何もしなかった。農民党系の大臣達ですら、農民の貧困を無視して、意地汚く、自らの汚職による利得に走っていた。

(3)左右の全体主義勢力が力を増した 
  故に、1931.11の地方選では、共産主義者らが成功を収め、1932.02からはソフィア市の市政を牛耳ることとなった。大恐慌の利益を享受したもう一つの勢力は、Tsankovの国家社会主義運動であり、都市部の若者達を大勢取り込むことに成功した。
 (注:「年表」によれば、1932.05.15開催のDemokraticheski sgovor党の大会で、prof. Aleksandqr Tsankov派閥が、Andrey Lyapchev派閥と対立し、脱党してSin sgovor(青い合意)を結成した。右は1934年からは「Narodno sotsialno dvizhenie -Sgovor」と呼ばれるようになった。要するにドイツのナチス党を真似したのである。)

(4)領土問題で遺恨を持つブルは、バルカン協商から排除され孤立
  ブルガリアはまた、多くの外交面での困難に直面した。1930年代初頭におけるバルカン半島内の一連の国際会議は、半島内の団結を生み出すような成果を何ら出せなかった。ブルとしては、半島内における既成の国境線を恒久化するという考え方には、決して同意できなかったのだ。
 他方で、バルカン半島の他の諸国は、いかなる半島諸国間の協定においても、この点でブルが妥協しない限り、何らかの国際協定はあり得なかった。
 故に、アテネで1934年2月、バルカン協商(Balkan entente)が署名された際に、ブルはこの協商から除外された。トルコ、ギリシャ、ユーゴスラヴィア、ルーマニアという協商参加国の名簿は、第二次バルカン戦争時の敵対的な陣営という、不吉な予感を伴うものであった。

(5)マケドニア過激派、ファシスト達の扇動 
  更に対外関係を複雑化させた要因は、Ivan Mihailovらの過激なマケドニア作戦に関する言動。1933年6月、Mは在ソフィア・ユーゴ大使館への攻撃を扇動した。翌月のロンドンにおける国際協定では、攻撃的国家との規定には、その国家の中で活動する転覆活動グループを支援したり、或いはこれを弾圧できない国家を含むとした。mihalovists達を放置しておけば、ブルはこの規定で、「攻撃的国家」と名指しされる危険性があった。

 1934年春までに、外的、国内的な緊張が更に高まった:
  Tsankovは、05.21に大々的な集会を企図し、この集会には5万人以上を集めると宣言した。その上、この集会は、独のゲーリング(Hermann Goering)の個人的来訪とほぼ同時期に当たることが計画されていた。

このようなマケドニア強硬論者、或いは、ファシスト系の動きに対し、これを抑制しうるような対抗勢力は見付からなかった。農民党左派は、余りにも細分されていた。共産主義者らは、簡単に弾圧されうるだろう。既成の旧式政党は、全て弱体化していた。Zveno達は、大言壮語しても、実行力に乏しかった。


5.Devetnaiseti(19日)グループ(19日派)の統治:1934.05--1935.01
(1)国軍クーデターで治安回復を図る 
  要するに、残る勢力は、軍隊と国王だけだった。
 結局1934.05.19に国軍が動いた。Zveno支持の士官達で、Military Leagueと強いコネを有する者達が、権力を奪取した。
 このクーデターの主導者は、Damyan Velchev大佐だった。ただし、同人は首相とならず、首相職には、共謀者のKimon Georgiev大佐が就任した。

(2)Devetnaiseti(19日)グループ=「19日派」の改革計画
  このグループは、政権奪取と共に、熱心にZvenoグループのイデオロギーに近い社会改革に乗り出した。
(ア)市民権の停止、
(イ)社会刷新局を設置
  新聞、雑誌、芸術、スポーツなど各方面での文化的、精神的改革を指向した。
  国民の団結を増進する方向で、国内のトルコ語に基づく地名を次々にブル語へと改名した。戦前のブルガリアの歴史で、この「改名運動」は、他のいかなる時期に比べても、熱烈だった。
(ウ)政党の解体
  政党と同時に、労組も解散させた。Bulgarian Workers' Union=Bqlgarski rabotnicheski sqyuz=BRSという官制労組が設置され(1935.01.11)、ほぼ全ての労働者が右に組織化された。
  更に、伊のファシストを真似して、社会を職域(estate)毎に分類し、7つの職域毎の労組を組織化した:労働者、農民、商人、企業家、国家公務員、地方公務員、自由職。
  右職域組織には、新国会の国会議席の2/3が割り振られる。
   (注:「年表」では、1934.09.13に7つの公的職域労組(kazionni profsqyuza)の形成方針を含む法律が公表された。)
(エ)中央集権制の強化
  要するに、Zveno派イデオローグ達が推奨した合理化と中央集権化が、19日派の計画の中枢であった。省の数が減らされ、公務員数も約1/3が解雇された。
 銀行も強制的に合併させられ、19の商銀が一つのBulgarian Credit Bankに統合された。 1878年の「オスマン帝国からの解放」以来で考えても、類例のない度合いで、地方自治体の自治権が制限され、権力が中央政府に移った。既存の16の県は、7つの州に統合された。2600あった村共同体(オプシチナー)は、837へと削減された。村長(kmet)達は、中央からの任命制となった。新たな村会議員は、半分が任命制で、半分のみが公選制。また、公選の基礎は、上記の職域毎である。

(3)対外政策の変更、ミハイロフ派を国軍によって一挙に排除 
  ちなみに、スタンボリースキ政権の崩壊後、外交政策担当者らは、ブルが必要とするような庇護を供与してくれるのは、伊であり、伊こそは大国だと考えていた。19日派は、この伊への偏執的肩入れから脱却しようとした。
 1934.07、19日派政権は、ソ連邦を承認した。

 もっとも、彼らが一番期待したのは、ユーゴによるブルへの理解であった。これが得られれば、バルカン半島内の緊張が緩和され、英、仏との関係も改善できるであろう。この意味での最大の障害は、ブラゴーエフグラット県ペトリッチ地区におけるmihailovist派の存在。彼らは軍隊をこの地区に投入した。
 やってみると、軍隊は現地住民らから歓迎され、ミハイロフ派は意外にも、容易に排除された。ミ派が消滅したわけではないが、彼らが1920年代の初頭以来ブル政界に投影してきた、巨大な影は消え失せた! その上、1934年までの10年間に800名もの暗殺事件を引き起こしていた、マケドニア系の分派間の抗争(IMRO諸派間の抗争)もほぼ消え失せた!
 【注:(1)大量の武器を押収
  「年表」によれば、1934.08.23マケドニア系諸派活動家を大量に逮捕した(ただし、頭目のIvan Mihaylovは逃亡に成功し、出国した)。官憲は、機関銃47丁、小銃1.1万丁、自動小銃15丁、ピストル637丁、手榴弾7800個、弾薬7.1万発、などを押収した。
(2)IMRO諸派の抗争
  1920年代より激化したIMRO諸派間の抗争は、まるで日本のヤクザ戦争、或いは後の1960--90年代の北アイルランドにおけるIRAとロイヤリストとの間の武力抗争に似た、テロの応酬であった。当時の英字紙などでは、IMROの名称は、今日のアルカーイダのような扱いであったと想像すれば、当たらずとも遠からずといえよう。】

(4)「19日派」の意外な弱点 
  19日派は、勤勉に改革、統治活動を推進したが、他方で、政治制度として、或いは政党としての地固めとか、国王をどう扱うかとか、そういう全般的な政体構想に関しては決断していなかった。要するに、彼らは、政治的な背後を強化することを怠っていた。

(5)王党派が遂に乗り出し、軍人による「統治」を止めさせた
  この隙をついて、1935.01.22に、王党派が陰謀して、軍部内の派閥闘争を起こさせ、19日派幹部を追放し、Pencho Zlatev将軍が首相に指名された。同年4月初旬には、Zlatevも解任され、「軍人(士官)らは全て官公庁の職場を去り、軍部隊兵営(基地)に撤収せよ」と命じられた。04.21には、文民で政党にも所属しないAndrey Toshevが、国王の命令(tsarski manifest)で首相職に任命された。

 【注:(1)ブルでは、ファシト派の動きを国王の英断で阻止
  「年表」によれば、05.14--15には、予備役軍人ら1.5万人が集会し、国王、国民、国軍が一致団結せよと呼びかけた。これは、王党派勢力が企画した集会で、国王の権威、権力を強化する目的であったと思われる。
  軍人、国粋主義者らが跋扈して、Zveno派を形成し、クーデターで政権を取って「19日派」として、省庁の席に着き、矢継ぎ早の改革措置を打ち出した、という動きは、ファシスト派、ナチス派、或いは、日本における帝国陸軍内の昭和軍閥の動きと、ほぼ共通の要素が多く、まさに世界中に「国粋主義、全体主義的風潮」が吹き荒れたのだ。もっとも、ブルではしかし、軍人の専横をチェックする強い意志を持った「ボリス王」が存在し、丁度国王は成長期を終えて成熟したので、いよいよ「親政、独裁」へと舵を取り、Zveno派軍人らを「兵営に戻す」ことに成功するのだ。

(2)日本では、軍部独断を抑える天皇の「英断」もなく、ずるずると敗戦への道を歩んだ!
 他方、大日本帝国憲法は、天皇の「親政」ではなく(君臨すれども統治せずが原則)、政治家、軍人らの「補佐」、議院内閣制などを規定しているから、結局は、天皇が本格的な「親政、政治介入、軍への直接指導」は出来ず、故に軍人の独断専横がまかり通り、中国大陸への帝国陸軍新設軍団の派遣が相次ぎ、「満洲事件を先例として」これら現地軍の独断専行、勝手な戦線拡大、占領地拡大が行われて、何らの中央における国策検討も、きちんとした戦略判断も無しに、ずるずると日中戦争が拡大し、自縄自縛のまま、いつの間にか第二次大戦からも逃れ得なくなっていたという、バカな対外政策を歩んでしまったようだ(最近放送されたNHKスペシャル番組を見て、つくづく日本の昭和軍人達は情けない連中だと、再認識した次第である)。それに比べれば、ボリス王はしっかり「文民統制」を貫徹し、自己の戦略勘、政治観で統治した。結果はまたもやブルの敗戦だったけど、日本ほどは、盲目のままの、広い目での国際情勢判断無しの、対米開戦決断というわけでもなかったとは言える。】

この記事へのコメント

mugi
2011年01月28日 22:07
 日本と同じくブルも第二次大戦の敗戦国ですが、「ドイツ系の借り物国王」にしては大した活躍です。昭和天皇の「英断」がなかったのは、本当に残念。その意味で天皇の戦争責任は極めて重いと私は考えています。天皇が積極的に政治介入していれば…と思うのは後知恵でしょうね。

 軍人が独断したのも、支持する国民が少なくなかったのではないでしょうか?昨年秋頃、いわゆるネット右翼からのアラシが拙ブログにありましたが、「ガダルカナル“玉砕”などなかった、“玉砕”があったと書いているテメェは無教養の馬鹿」といった内容でしたね。
 あまりにも下らなかったので削除しましたが、どうも書込み時間から職に就いているかも疑わしい暇人ブロガーでした。しかも独身中年男。これではウヨクは絶対に左翼に勝てないと思いましたね。
2011年01月28日 23:02
mugiさん、
 我々から見るとボリスも「ドイツ系の借り物王族」と見えるかも知れないけど、やはりブル人の感覚では、ブル生まれですし、ボリスは「自分たちの国王」という感覚は、かなりの国民の間にあったのではないか、と思う。小生が聞いた噂ですが、ソフィア市内のここにある家は、ボリスの愛人の一人の家だった、とか、Plovdiv市への旧街道道筋などにも、このお屋敷は、ボリスが愛人と過ごす家だったとか、色々昔聞いたものです。ある意味、イタリア人の妻の他に、ブル人の愛人が数名いたようで、その意味でも、ブル人には親しみの感情もあると思う。そのせいで、子息のSimeon2世が、96年から、経済破局時代のブルにしばしば帰国し、国民の間に歓迎ムードを盛り上げていって01年総選挙に勝利し、首相職についた。これも、シメオンがやはり、ブル生まれのボリスの子供で、やはりブル生まれだったからでしょう。
 昭和天皇の「英断」がなかったことを嘆いていた戦前、戦中の先輩もいました。そういう政体ではなかったにせよ、それを出来る立場にもあられた。残念です。

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