第二次大戦終結までのブルガリア③

「第二大戦終結までのブルガリア」の③です。

6.ボリス国王の直接統治:1935.01--43.08年=8年間(ただし、この6.では1941年までを扱う)
(1)ボリス親政への歩み 
 ボリス王は、1934年に起きた軍人達の政治関与に激怒していた。1935.04にAndrey Toshevを首相に任命したとき、ボリスは国家に「秩序と平和」をもたらす旨約束した宣言文を発出した。同時にボは、「19日派」軍人達が設置した社会刷新局は廃止するが、1934.05以降に導入された各種の改革措置の多くは、継続され、旧体制に戻すと言うこともしない旨明らかにした。
  Toshevには、軍部を抑制しつつ、新憲法を策定せよ、また新たな翼賛大衆運動を組織せよ、と命じられた。これら3つの課題に関し、トーシェフは何ら前進できず、更には、1935.11にDamyan Velchev大佐が反国王陰謀を再開するために、秘かに帰国していることが発覚すると、ト首相は辞表を提出した。
  後任に選ばれたのは、王党派外交官のGeorgi Kyoseivanovだった。
 
【注:「年表によると、経緯は次の通り:
 1935.04.21 初めての政党に基盤を置かない内閣が任命された:Andrey Toshevが首班。
 05.26--28 独のヘルマン・ゲーリング(ナチス政権でヒトラーに次ぐNo.2、空軍総司令官)が、新婚旅行(再婚)と称して、ブダペスト→ソフィア→ベオグラードを歴訪し、「第三帝国(ナチス・ドイツ)」とバルカン諸国との関係強化を狙ったが、この3日間ソフィア市に滞在。
06.26 ボリス王の圧力で、Damyan Velchev大佐が国外追放され、ユーゴに亡命。
 8月 社会刷新局を閉鎖。
 10.03 各派提携の陰謀(Velchev大佐、Kiril Stanchevらの軍人、Zveno派、BZNS「Pladne(昼間)派」、VMROの1派が参集)が発覚し、約300名を逮捕。10.25まで戒厳令を施行。
 10.12 高級軍事評議会が、Velchev派将校79名を解雇。
 11.23 Georgi Kyoseivanov内閣(無政党で上から指名された政権)成立。
   (注:キョセイヴァノフ:1884.01.19パザルジック県Peshtera町生まれ、1905年パリの大学で法学部卒、その後ブル外交官として、ブカレスト、ベオグラード、アテネで勤務。首相任命前は、王宮官房勤務<要するに一時ボリス側近だった>、及び外相。)】

(2)国軍粛清で、国王親政の基盤固め 
 キョセイヴァノフ内閣は、Velchev派の陰謀を奇貨として、軍人らの封じ込めを図り、1935.12.18--1936.02.22にかけてVelchev、Stanchevらを裁判にかけ、両名には死刑判決が出たが、ボ王の恩赦で救われた。
 国王は、国軍粛清も断行した(注:「年表」によると、1936.03.03、Hristo Lukov軍事相により、Military League(Voenen sqyuz)が解散され、将校らの政治活動が禁止された。同時に3月中、右「軍事連盟」穏健派に対する裁判が行われ、Krum Kolev、Radoslav Kalenderov両大佐が死刑判決を受けたが、またもや国王の恩赦で救われた。)。その後国王は、国内の重要軍事基地を巡幸し、国軍将校内の自らの人気昂揚を図った。

 上記のToshev内閣任命時に発出した1935年宣言で、ボリスは、出来るだけ憲法に基づく政府という状況の回復に努めると述べたが、しかし、そのためには、時節に相応しい新憲法を採択する必要性があると条件を付けていた。

(3)各種の過激主義による危険性を除去
  ボリスが危惧する危険性は、左翼と右翼の双方から存在した。

(ア)左翼からの危険性 
  1933.09.21--12.23に独ライプツィッヒで行われた「国会焼き討ち事件(Reichstag Fire)、ブルガリア共産主義者容疑者らへの公判」において、Georgi Dimitrov、Blagoy Popov、Vasil Tanevの3名のブル人コムニスト達が裁かれたが、彼らは証拠の無さを実証すると共に、公判でゲオルギー・ディミートロフがナチス、ドイツ人を愚弄する大演説をぶつなどして、ゲーリングらを虚仮(こけ)にして見せた。
 また、1935年には、コミンテルンの政策変更で、Popular Front政策が採用され、コムニスト達はより柔軟に他政党と協力する路線を採ったので、共産主義運動の幅が広がり、1936年のメーデー(May Day)には、多くの大衆が参加して皆を驚かせた。共産主義者らはまた、全ての軍部隊内にも「細胞」を有すると広言した。伝統的に共産党が牛耳っているPlovdivタバコ工場におけるストライキに際して、Plovdiv兵営の将校らが右を支持したことで、この「細胞」の存在が証明され、政府側の肝を潰した。また、1936.01アテネの総選挙後、ギリシャ国会で、小規模な共産主義者グループが、票決の鍵を握る情勢も生まれていた。

(イ)右翼からの危険性 
 右からの危険性も消えては居なかった。Aleksandqr Tsankovが率いる国家社会主義運動(ナチスの真似)は、政党と見なされていなかったので、政党禁止令による閉鎖措置を免れていた。1936年の大会で、益々ファシスト組織の真似を強化し、ヒトラーの台頭と歩調を合わせるように、この運動も支持者を増大させていた。ヒトラー政権が、1919年の国際平和協定を打ち破ることを目的としていたように、ブル国民も、右1919年体制の変更を願っていた。

(ウ)旧合法政党復活の兆し 
  1936.05.24 政党禁止令で表向き存在しないこととなっていた旧政党系の5派が連合し、Petorka(5派連合)を結成した:Dimitqr Gechev=BZNS「Vrabcha 1派」、Prof.Georgi Danailov=Demokraticheski sgovor、Boyan Smilov=Natsionalliberalna partiya、Krqstyo Pastuhov=BRSDP(共産党)、Prof.Georgi Genov=Radikalna partiya。5派連合は、05.29に「タルノヴォ憲法に基づく統治の復活」を誓願する覚え書きを国王に送付、更に、右覚え書きは、05.31付けのベオグラードの新聞で公表された。
 同様の誓願は、05.30に次の4派連合(Chetvorka)からも国王に送付された:Demokraticheska partiya、Narodna partiya(Atanas Burov)、Radikalna partiya(Stoyan Kosturkov)、Natsionalliberalna partiya(Georgi Petrov)。

 1936年初頭、上記のような多様な動きが錯綜することを予期したボリスは、憲法改正による改革を急ぐことを避けようとした。国王としては、旧政治家らと協力する古い体制に戻ることは嫌であった。憲法改正は、情勢を見極めつつ、緩やかに実施したかった。

(4)国王による徹底的な「管理選挙」 
  ボリスは、選挙法に各種の改正を加える法令を幾つも発布して、慎重に準備した後、1937年3月、政党を排除したり、一部既婚女性にも投票権を与え、男性にも学歴で一部の投票権を制限するなど、新方式で地方選挙を実施し、政府側の勝利を引き出した。
 更に、普通国会総選挙(24.ONS)には、もう1年の準備を経て、1938年3月に実施した。この選挙でも、小選挙区(用心深く計算された区画による)制などの新選挙法を適用し、政党の参加を禁止した。政府側候補が93名、反政府側候補者が67名当選した(国会議席は160に削減されたので)が、要するに政府側が勝利した。

 なお、上記2回の選挙とも、1ヶ月間に4つの日曜日に分けて投票するという方式で、実施された。すなわち、全国を4つの地域に分けて、投票させることで、警察力を投票所を設置する地域に集中させたのである。
 他方、これほどの「管理選挙」でも、国会は十分従順ではなく、キョセイヴァノフ政権は1年後の1939.12.24---1940.01.28(年末年始の1ヶ月をかけ、再び4つの日曜日に実施したらしい。また、野党側には、キャンペーン期間中の移動禁止などの更なる制限が付加された。)に総選挙(25.ONS)を実施した。結果は、禁止された旧政党系議員は20議席のみ(その内10議席が共産党)だった。

このようにして、勝利した選挙だったが、何とキョセイヴァノフは頸を切られ、選挙後Prof.Bogdan Filovに組閣が命じられた(1940.02.16組閣)。
(注:Bogdan Filov:1883.03.28スターラ・ザゴラ町生まれ。ドイツで古代史、古典言語学を学び、ボン、パリ、ローマでも勉学。1910年以来ソフィア市の考古学博物館館長、また大学で「古典・古ブルガリア芸術」を講義。1937--1944年ブル科学アカデミー(BAN)議長。首相:1940.02--1943.09。摂政:1943.09.09--1944.09.09。1944.09.09の「共産主義革命」後人民裁判所(Narodniya sqd)で死刑判決を受け、1945.02.02刑死。)

(5)外交の時代
(ア)親独派首相を起用 
  フィーロフは、学歴に見られるように、明白な親独派の人間であり、同人の任命は、欧州の他の地域同様に、この頃のブルの主要課題が、圧倒的に外交であって、国内問題ではなかったことを証明している。

(イ)伊は、期待に何らこたえず 
  そもそも、スタンボリースキ政権崩壊後、ブル外交の目標は、「平和的修正主義」によってヌイイ(Neuilly)条約を改定することであった。この目標に関しては、一番期待したのは、国際連盟内における大国伊の庇護であった。特に期待したのは、エーゲ海に対する経済的アクセス権の取得だった。パトロンとしての伊への期待感は、ボリスが1930.10伊王家のDzhovanna(Yoanna)王女と結婚したことからも窺える。もっとも、その後徐々にブルは伊国への期待が何ら結実しないことを悟る。更には、欧州全域で、ドイツの再台頭に関心が集まっていった。

(ウ)隣国との関係を補修 
  かくして、ボリスは、外交的孤立を避けるため、まずは西隣のユーゴとの関係改善に努め(マケドニア問題に関連する動きを国内で弾圧し、封じ込めた)、1937.01.24にブル・ユ両国は、「永遠の友好と不可侵の平和に関する協定(Pact)」という秘密協定を締結した。このユーゴとの関係改善を受け、ユーゴの支援の下、ギリシャとの関係も改善され、1938.07.31にSalonika agreementが署名された。右により、ヌイイ条約(1919.11締結)に基づくブルの軍備制限が撤廃され、かつ1923年のロンドン条約に基づくトラキア国境線5kmゾーンにおける「非軍事化地帯」も廃止された。もっとも、本当は、ヌイイ条約に基づく軍備制限に関しては、とっくの昔から、ブルでは守っていなかったのだ。
  (注:ちなみに、03年頃、シメオン首相(廃位され国外亡命したシメオン2世が、自由化後帰国して、01年の総選挙で勝ち、首相となっていた)自身が日本政府関係者らに語った思い出話では、1930年代に国際連盟の軍事監視団を率いて日本軍人が来訪したとき、この日本軍人は極めてブル側に好意的で、ブル兵営などに一人先行して訪ねては、この武器はどこどこに隠しておけ、などと具体的に武器隠匿を助ける言動をして、ボリス王に感謝されたという。当時の帝国陸軍将校らは、ブルが近い将来日本とも「同盟」関係に入る可能性を既に予感していたのかもしれない。)

(エ)ドイツの台頭に国内から焦りの声  
  1938.03ドイツが墺を併合し、また同年09.30にミュンヘン協定が締結されると、ドイツによる失地回復は、ブル国内での不満にも火を付けた。第一次大戦での失地回復に成功していないのは、ブルのみだというのだ。
 この頃、ボリス王は次のように嘆いたと言われる:「我が国軍は親独派だ、我妻はイタリア人だ、我が国民は親露派だ。自分のみが親ブルガリア派だ!」。

(6)南ドブルジャの平和裏の返還が、複雑な外交関係の中実現
  1939.09遂に第二次大戦が開始されると、ボリスは直ちにブルの中立を宣言した。そしてボリスは、その後数ヶ月間にわたり、各種の誘惑の声から耳を覆った:(1)1939.10ソ連からは、相互援助条約を提案越した・・・ブルのドブルジャに関する失地回復に関し支援するとの条件付きで。ボリスはこれを拒否した。(2)バルカン協商諸国からは、1940.02に、協商への参加呼びかけがあった。ボリスはまたもや拒否した。協商に参加することは、ブルガリアを連合国側に強く結びすぎるからだ。

 1940.09に、ナチスとソ連の協力関係が、ブルにとって最初の領土修正をもたらした。ナチスがスカンディナヴィア、仏を占領したのに対し、スターリンが東方地域での代償を要求し、このため弱体化していたルーマニが犠牲とされたのだ。
 ルは北トランシルヴァニアをハンガリーに割譲させられたほか、1940.09.07のTreaty of Craiova(クラヨヴァ条約、ブル語:Krayovski dogovor)で南ドブルジャをブルに返還した。
  (注:ブル、ル両国代表団は、1ヶ月にわたり交渉した由。ただし、ル政府に対しては、独、ソ連からの圧力と英国の承認という風圧があった。ブル側は、南ドブルジャにおけるル国家資産に金銭的支払いをすると共に、ル側の要求で、北ドブルジャ地方のブル人と、過去20年間にルから南ドブルジャに入植していたル人の「住民交換」にも応じた。なお、この「平和裏」の「南ドブルジャの回復」は、第二次大戦後の講和会議でも承認され、今日も南ドブルジャは、ブルの穀倉地帯として、小麦、ヒマワリ油生産の本場として、重要農業地帯である。)

(7)対独関係強化への国内からの圧力
  他方で、ブル国内では、従来から工業製品の輸入、或いは武器輸入を通じてドイツとの関係が強かったのだが、更に対独関係を強化せよとの動きが生じていた:
(ア)青年組織Brannik(Defender)が樹立され、規律主義、愛国心を強調した。(注:1940.12.29、Brannik設立、ヒトラー・ユーゲントのブル版組織。トップは首相。)
(イ)ブルでは珍しい、反ユダヤ主義論者Petqr Gabrovskiが1940.02に内相に任命された。(ウ)1940年夏、フリー・メーソンの支部(複数、masonic lodges、ブル政界の多くの政治家は、当時フリーメーソン・メンバーだった)は解散された。
  (注:フリーメーソン組織は、必ずしもユダヤ系組織とも言えないと思う。米国の政界でも独立当時から、多くの政治家らはメーソンに所属していた。ブルでも、20世紀、メーソン支部所属の政治家らが非常に多かった。ただし、全体主義時代には、怪しげな国外勢力との連携を意味しうるメーソンは危険視されたものといえる。共産政権時代も、メーソン組織はもちろん存在しえなかったが、自由化後の1990年以降、再びメーソンの幾つもの支部(lodges)がブルで復活している。)
(エ)1940.10、国家防衛条例が施行され、上記のような措置が強化されたほか、対共産党対策も強化された。同時に、年初に採択された、反ユダヤ的法令も強化された。
(オ)1940.05には、戦時準備措置も採用された。国軍の管理下に、強制労働奉仕が開始されたし、市民動員局も設置された(同局は、有事の際には、生産管理権を保有)。また、第一次大戦時同様に、今度も農業省には、食糧徴発と価格統制の権限が付与された。

 要するに、ブルは戦争準備を強化していたが、未だに、開戦するかどうか、そして開戦はどちらの側に立っての参戦であるのか、誰も知らなかった。しかし、仏の降伏と、クラヨヴァ条約後は、独、伊、ソ連という3方向からの参戦要求が強く、西欧からの誘いはひ弱であった。

(8)ドイツのギリシャへの侵攻が、遂にボリスの決断を促した 
 1940.12に、ヒトラーがブルの支援を必要と感じる事態が生じ、情勢が一変した。ムッソリーニによるギリシャ作戦は何らの進展を見なかったので、ペロポンネソス半島に連合軍側が上陸することをヒトラーが怖れるようになったのだ。ヒトラーはギリシャの占領を決断した。この作戦によって、独は、地中海経由の対英補給線も妨害しうるのだ。

すなわち、独軍部隊は、ブル領土を通過する必要があった。1940.12.08約40名の独参謀本部スタッフ将校がソフィアに到着し、秘密会談を開始した。同時に、多数のドイツ人「観光客」らがブルに入国した。彼らは不思議なことに、全て男性で、短髪で、ぴかぴかのブーツを履き、しかも観光の季節では全くなかった!

 ソフィアで米国人達は、ボリスに対して最後の説得を試みていた:「長期的に見れば、米国からの物資援助で、英国は勝利するだろう・・・」。しかし、この説得は既に手遅れだった!

 1941.02ブルは、ドナウ川にドイツ軍が仮設橋を設置することに同意した。更に、03.01には、ドイツ軍がブル領内を通過してギリシャに侵攻することを許可した。同じ日、ウィーンでFilov首相は独伊日三国同盟への参加議定書に署名した。
 すなわち、ブルは独の同盟国となったのであり、在ブル英公使は、03.05にソフィアから退去した。

 他方、ボリス自身は対連合国宣戦布告をずっと迷っていた。日本軍の真珠湾攻撃の報道があった後ようやくボリスは腰を上げ、対米、英宣戦布告に踏み切ったが、12月12日国会が宣戦布告を決議した直後、ボリスの姿は消えた。その後皆が探すと、ボリスは、アレクサンダル・ネーフスキ寺院の暗い片隅で、一人額ずいて、祈りを捧げていた!

【注:「年表」によれば、1940年年末頃には、既にボリスは、三国同盟側での参戦を決意した模様。その後1941年にはいると、次のように、ブルガリアは枢軸派としての行動に移り、徐々に英米とは離別していく。
 1941.01.02及び04、Filov首相が、Oberzaltsburgにてヒトラー総統と、ZaltsburugにてRibbentrop外相と、それぞれ会談して、三国同盟参加を協議。
 1941.01.20ブル政府が、三国同盟への参加を決定。Ivan Popov外相は反対した。
1941.01.20--22米国人Donovan大佐が、ソフィアで対独同盟を締結しないようにと説得を試みたが、不成功。
 02.02独軍部隊のブル領土通過協定合意(ルーマニアのシナヤにおいて、01.23から協議していたもの。)。
 03.01ウィーンのBelvedere宮殿で、Filov首相が、三国同盟参加議定書に署名。
 同日、680名のドイツ軍部隊がドナウ川を通過してブル領土に入った。この部隊は、03.09には、ブル・ギリシャ国境線、及びブル・セルビア国境線に展開。

  03.03英国、英連邦諸国がブルとの外交関係を断絶し、03.05に大使館をソフィアから引き揚げた。
  03.04米国政府が、ブルの銀行口座を閉鎖(封鎖された預金額=1850万Lv)。
  04.06ユーゴ空軍機がソフィア市の工場地帯(8名死亡)、キュステンディール町(67名死亡)を空爆。
04.06--27ブル領から侵攻した独軍が、ユーゴ、ギリシャで電撃的に進出。04.13にはベオグラードに到達。04.27には、アテネに到達。
  04.13スコピエ市にBqlgarski tsentralen aktsionen kimitet(ブル中央活動委員会、32名で構成)が設置され、行政を掌握。ラジオ・スコピエは、ブル語での放送を開始。7月に、公式のブル当局による行政が開始されるまで、同様の臨時政権がマケドニア各地を支配。  04.19ブル第5軍が、ヴァルダル・マケドニアに進軍。
  04.20ブル第2軍が、エーゲ海トラキア地方(Xanti町、Drama町など)、及び東マケドニア地方に進軍。
  06.24在モスクワ・ブル大使館が、独、ハンガリー、ルーマニアの利益代表部の役割を担当(2日前に、ドイツ軍がソ連に侵攻を開始。ちなみに、ブルは東部戦線=対ソ連戦線には絶対参加せず、ソ連との外交関係を継続・維持した。)。
  12.12第25次普通国会(25.ONS)が、対米、英両国に宣戦布告。これに対し、12.25米、英両国政府も対ブル宣戦布告。】
 

この記事へのコメント

mugi
2011年01月30日 20:52
 戦時下のブルの外交は興味深いですね。周辺諸国と粘り強く複雑な交渉を進めていく…これがバルカン流ですか!日本の外交官など、逆立ちしても敵いません。また、ボリス国王の手法も見事です。右翼左翼の危険性を認識し、冷徹に対処したのだから、もはやドイツ系借りもの国王ではない。「自分のみが親ブルガリア派だ!」はホラではなく本物だった。
 対米、英宣戦布告に踏み切った際、寺院の暗い片隅で、一人額ずいて、祈りを捧げていたのも好感が持てます。それに対し、昭和天皇は…。

 1930年代、国際連盟の軍事監視団を率い、ブルを訪問した日本軍人のエピソードも面白いです。具体的に武器隠匿を助ける言動をしていたのも笑えますが、その頃日本も国際連盟からやり玉にあげられていた。
2011年01月31日 08:43
mugiさん、
 毎回コメントを頂き恐縮です。しかし、面白いですよね。おっしゃるとおり、どんな小国でも一生懸命国益を図り、外交に精を出し、国王もあらん限りの知恵を絞っていた。最後は、教会で神頼み・・・それもしょうがありません。未来予測は、難しく、どこでどう転ぶか、誰だって不安。
 帝国陸軍の大佐が、ブルで武器隠匿を指南していた!しかし、当時の軍人は、怖いもの無し、勝手なことが出来て、はつらつとしていたというか。中央政府の意向も、中国の現地では無視するし、組織肥大、自分の軍団の予算拡大、しか頭になく、限りなく独断専行して戦線を拡大し、スターリンの意図どおり中国大陸の泥沼にはまりこんだ!これがNHKスペシアルでの日中戦争拡大の真相だった。関東軍が成功したから、シナ派遣軍も同じ方式で、勝手に「自分の軍団が担当する占領地を広げることしか頭にない」し、自分の軍団の予算を増やすこと、兵員数を増やすこと、しか頭にない。東京で、戦線収拾、軍縮、師団数削減などを企画しても、現場が言うことを聞かない!!??昭和軍閥のバカさは、大本の全体指揮官がいない、ということ。永田鉄山が一番の英才だったらしいけど、結局仲間ですら永田の意見に従わない。俺も俺も出手柄を勝手に模索する・・・バカばかりです。
2011年01月31日 09:08
(続)
 忘れていました。一つ付言すべきは、ソフィア市における国会とネーフスキ寺院との位置関係。国会議事堂は、議員240名用の小規模の建物で、煉瓦の敷石からすぐに、すなわちフェンス無しで建っている。議事堂から寺院までは、同じ敷地にも等しい距離で、歩いてすぐですから、ボリス王も、国会を抜け出して、そのまま徒歩で1分、すぐに寺院の中で祈りを捧げることが出来たはず。
 なお、ブル正教会本部のHoly Synodの建物も、国会からすぐのところにある、小さく、きれいな建物です。ソフィア教会(ソフィア市の名称の元と言われる、古い教会)も、寺院の斜め前にある。ブル解放の恩人、ロシアのアレクサンダル2世皇帝の銅像も、国会建物の真ん前にある。
 まあ、20世紀初頭の小規模都市ソフィアの、ほぼ全ての重要建築物が、この小さな一角に集まっていたというか。そうそう、ブル科学アカデミー=BANの本部建物も、国会の真横です。

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