第二次大戦終結までのブルガリア④-(2)

第二次大戦終結までのブルガリア④-(2)です。


(6)対ユダヤ人政策
 コムニストの脅威を抑止するという側面で、ブル政府と独側の間に意見の相違はなかった。他方、ブルの国内政策で、ドイツ側と意見が衝突したのは、対ユダヤ人政策。
 
 1941.10在ソフィア独公使のBeckerleは、ブル政府に対し、もっとユダヤ人に対する制限措置を強化せよと圧力をかけた。
 よって、1942年初頭、対ユダヤ人立法措置が追加された:①ユダヤ人資産に対する20%の課税、②「黄色い星記章」着用の強制、③ユダヤ人の商業利権の強制売却(売却金は、特定の銀行口座にて凍結)、④ほぼ全てのユダヤ人組織の解散を命令。ただし、これらの措置は、一般市民の間でも、すこぶる不評で、この故にこのニュースは、すぐに報道することを禁じられ、徐々に細切れで報道されることとなった。

 更にベッケルレ公使からの圧力がかかり、1942.08には、国会で、新占領地域において、ユダヤ人達にブルガリア市民権を付与した措置を撤回し、彼らからブル市民権を剥奪する法令が国会で採択された。この市民権剥奪措置により、占領地域の多くのユダヤ人達は、結局北に移送されて命を失うこととなった。
 
 1942.01.20にベルリン郊外のWannsee地区で開催された、ナチス行政官僚(ユダヤ問題関連役人)達の会議(Wannsee Conference)で、最終処分計画実行方針が採択され、ナチスからのブル政府への圧力が強まった。アイヒマン(Adolf Eichmann)中佐(Gestapoのユダヤ人処分計画実行を担当)の助手の一人が、在ブル公使館付きの「警察アタシェ」として赴任してきた。

1943.03占領地域からのユダヤ人の移送が開始された。これに関しては、前年夏にブル側との合意があり、ブル当局も協力した。

 他方で、翌月からの、ブル市民権を保有するブル国内居住のユダヤ人の移送に関しては、ナチス側の要求に対し、ブル政府筋からも反対が生じた。ブル国内からは、6千名のユダヤ人の移送が準備されつつあったが、ユダヤ人らが集められ、この移送準備が行われていたキュステンディール町出身のDimitqr Peshev議員(国会副議長)は、この移送に反対する請願書を起草し、43名の議員の署名を集めて国王に提出した。ボリス王も、この誓願を聞き入れて、移送を禁止した。5月になると、ブル教会も激しくユダヤ人の国外移送に反対し、結果として、いかなる移送も実現しなかった。 
  ユダヤ人移送への反対意見は、右から左の、ほぼ全ての市民の一致した意見であり、ボリス王としても、ナチスからの圧力を断固拒否するのに、さほど困難を感じなかった。かくして、ブル国内からは、ユダヤ人の移送は行われず、第二次大戦をブル国内のユダヤ人5千名は生き延びることが出来た。
 1943.08には、在ソフィア独公使館も、ユダヤ人問題に関しては、ブル政府に移送を説得することを諦めた。

【注:なお、ブルガリアは、基本的にはユダヤ人に対し、大きな犯罪はないという風に、かつ国内のユダヤ人をポーランドの最終収容所へ送ることは無かったとして、その対ユダヤ人政策を誇りとするような記述で歴史書が書かれている場合が多いものの、1941--43年の「年表」からのみでも次のように、それなりに反ユダヤ運動関連の事例が出てくる。ブル国内からポーランドに移送された例も、少しはある模様だ。
★ユダヤ人関連ニュース:
(1)1941年
  1941年2月、Brannik(ヒトラー・ユーゲントを真似た青年組織)がソフィア市で、ユダヤ人に対して迫害行為(ポグロム)。
  03.02ヴァルナ港から、170名のブル出身ユダヤ人を乗せた汽船「GedeonⅡ」号がパレスチナに向け出発。
  05.01、20--40歳のユダヤ人男性は全員、労役軍(Trudovite voyski)に召集された。
  07.11ユダヤ人資産に対する課税法が採択された。
(2)1942年
1942.08.25 内務省附属ユダヤ問題局(Komisarstvo po evreyskite vqprosi)を設置し、反ユダヤ諸法令の適用を総括指揮。
  08.29ユダヤ人に対する追加規制条例を発布:ユダヤ人達は、「黄色の星」記章を付けることが義務づけられた。また、公の場所に出てくること、自動車・ラジオ・電話などを保有することが禁じられた。
(3)1943年
  1943年2月初旬:Brannikが反ユダヤキャンペーンを開始、聖シノッド(ブル教会本部)がこれに反対。
  02.22ブル政府がスイス大使とユダヤ人児童4千名、大人400名のパレスチナへの移住につき協議(英国のイニシャチブ)。
  3月初旬、エーゲ海沿海地方(西トラキア、及びエーゲ・マケドニア)から4058名がLom町(現在モンタナ県北部の町、ドナウ川の河港がある)へ、次いでウィーンへと移送された。
  同月中旬、ヴァルダル・マケドニア地方のユダヤ人7144名が、移送開始。またピロット町から161名、更にはソフィア市のユダヤ人(人数不明)に関しても、移送を開始。
  上記の移送の最終目的地はポーランドの最終処分施設。
  03.17--26:他方で、ブル国内からのユダヤ人の移送に関しては、キュステンディール県の有志らが、県内でユダヤ人の、列車での北への移送が計画されているのを見て激怒し、ソフィア市に出かけて43名の与党議員の支持も得、また国会(第25次普通国会)副議長Dimitqr Peshevの支持も得て、鉄道での移送を中止させた。彼ら43名が首相宛に書いた「政府の反ユダヤ措置に関する抗議文書」については、国王、政府の圧力で41名の議員らがその後署名を撤回したが、この間時間がかかり、結局移送は取りやめられた。また、Pesehv副議長は解雇された。
  (注:この時のブルにおける国内ユダヤ人の鉄路移送中止で、かなりの人数のユダヤ人<5千名といわれる>が救命されたらしい。この事件は、社会主義時代に、共産党政権によって、「ブルはユダヤ人を救った」、と言う風に宣伝に用いられたが、実際には、かなり多数のユダヤ人が<その多くは占領地のマケドニア、トラキア地方在住の非ブル市民系のユダヤ人ではあったが>、鉄路移送され、最終処分施設まで送り込まれてしまった。特に、住民の1/2を占めたSalonika市のユダヤ人市民は、同市を占領したドイツ軍により効率よく移送され、ほとんどが絶滅されてしまった。今日、テッサロニキ市では、ユダヤ系住民、ユダヤ系文化の伝統がほとんど完全に消え失せてしまった。)
  また、Plovdiv市の府主教(mitropolit)Kirilは、洗礼を受けた(命を助けるため、改宗を装ったのであろう)ユダヤ人らを自宅に匿うなどしたほか、1600名の収容されていたユダヤ人の解放に成功した。
 04.24 聖シノッドの臨時会議が、政府の反ユダヤ政策に関し、反対する旨決議。 
 05.24 ソフィア市民1万名がデモ行進。市内のユダヤ人を田舎に移住させ、その後国外に移送するとの計画に反対。ユダヤ人達は、田舎への移住を強制されたものの、5月の国外移送計画は取り止めとなった。】

(7)ボリス王の死亡 
 1943.08.15に、ボリスはヒトラーとの会談を終えて帰国したが、酷く疲労困憊していた。国王に近い筋からは、ヒトラーが東部戦線にブル軍が参加せよと迫り、大げんかとなったとの情報もあるが、このような要求に関しては、戦後の独公文書にも何ら言及されておらず、確認できない。
 何れにせよ、ボリス王としては、気分転換が必要と感じ、ブル最高峰のMusala峰(リラ山系にあり、ソフィア県の観光地Borovets村<ボリスの山荘があった>から真南に下る。標高2925m)に登山したが、体調を更に崩してしまった。8月28日ボリスはまだ49歳の若さで死亡した。
 在ソフィア独公使館の館員は次のようにコメントしたという:「ブル国民にとって、ボリスは国王と言うよりは、リーダーであり、国民統合の象徴でもあった。ボリスの死去は、国内危機と対外関係の再編を意味するのかもしれない」。

  【注:「年表」によれば、1942.03.22、1943.03.31--04.02、同年06.03の3回、ボリスはドイツのヒトラー総統に呼び出され会談したが、その何れの会談においても、バルカン半島における独軍負担の軽減のために、ブル軍の配備地域の増大を迫られた。
 北セルビア(モラヴァ渓谷)、「ベオグラード--サロニカ間」鉄道路線の警備、エーゲ・マケドニア、サロニカ市、サロニカのすぐ東のトラキア地方の一部、などが徐々にブル軍の担当に任されていった。
 更には、1943.08.14--15の会談では、「年表」によると、ヒトラーはボリスに対し、伊軍担当のアルバニア、ギリシャ地区に関し、ブルが2個師団を派遣すべき旨要請したという。
 08.28に、ボリス王は死亡し、09.05にリラ修道院に埋葬された。(注:ボリスはまだ49歳の若さだったので、ヒトラーに毒薬を盛られたとの噂も当時あった由であるが、同人はドイツ、ヒトラーにそれなりに忠実だった側面が強いので、ドイツ側がこの時点で毒殺することに利益は見出しがたい)。】

(8)シメオンⅡの即位 
  まだ幼少の子息シメオンが後継者として、08.28のボリス死亡直後(同日)に王位についた(シメオン2世、同人はまだ6歳に過ぎなかった)。
 国王が幼少のため、09.09に、国会(25.ONS)は、タルノヴォ憲法の規定に違反だが(憲法規定によれば、大国民議会が別途選挙されて、右特別国会でのみ摂政府の選出が可能)、何らの討議無しで、摂政府(regentstvo)を選出した:Bogdan Filov首相、Kiril Preslavski王子*、Nikola Mihov将軍**。
 (注:(1)Filov首相の経歴については、前回③の中の6.(4)の「注」部分を参照。
*(2)Kirilは、1895.11.05生まれ<ボリスより1歳若いだけ>で、ボリス王の弟。第二次大戦前には、独から武器を輸入し、この商売のコミッションで儲けた。摂政の一人として、この後親独政策を継続した。1944.09.09の「共産党革命」後、人民裁判所で死刑判決を受け、刑が執行された:1945.02.01刑死。
 **(3)Nikola Mihovは、1891.11.29タルノヴォ市生まれ、Filov内閣で軍事相(1942.04.11--1943.09.09)。44年の「九月革命」まで摂政。Kiril同様に死刑判決で1945.02.02に刑死。)

摂政府の中心人物は、Filovだった。Filovは、後任首相に、柔軟性のある人物として、Dobri Bozhilovを選んだ。

この記事へのコメント

mugi
2011年02月02日 22:20
 ドイツと組んだゆえ、対ユダヤ人政策はやむを得なかったにせよ、それにブル人は国王以下、議員、聖職者、一般国民までが反発したとは興味深いですね。迫害がなかった訳ではないにせよ、ポーランドなどに比べればずっと良かったのでは?

 戦時の困難な時期、国民統合の象徴でもあったボリス国王の死は惜しい。しかもまだ49歳の若さ!かなり神経を使ったのでしょうね。確か愛人も数人ほどいたのでしたっけ?いくらエネルギッシュで剛毅な王にしても、難問山積でした。
 弟のKiril Preslavski王子が摂政の一人に就いても、人民裁判所で刑死されたとは…さすが共産主義です。
2011年02月03日 00:19
mugiさん、
 ブルにおいて、ユダヤ人への共感、同情心が強かった理由は、どうもよく分からないのですが、山内先生の著作では、オスマン時代のユダヤ人は、やがては、その早婚癖と、多産故に、金融資産家、大商人というよりは、むしろ普通の貧しい労働者身分的な存在へと、だんだん社会階層面でも低下していった、とあったと思う。ブル社会でも、さほどの大金持ち、大商人というわけでもなかったのではないでしょうか。オスマン本国から逃亡してきたアルメニア人達が、Plovdiv市の旧市街にかなりの大邸宅を建設した、と言うように、それなりに商業面で成功していたらしいけど、ブル各地で、ユダヤ商人の大邸宅とかは、聞いたことがない。つまり、ブル人市民と同じか、より貧しいと言う存在で、しかも現在トルコ系人口が圧倒的なカルジャリ県に、戦後の移住までは、ユダヤ系がかなり多かったらしいから、主として農民、あるいはせいぜい小規模商人だったと思う。
 ボリス王は、ブル人の愛人も数名囲っていたと思うし、それはそれで、国民から帰って親近感を持って見られたかも。しかし、「狐のように小ずるく、慎重で、なかなか決断しない」やり方で、国益ばかりではなく、自分の王朝の利益を最優先で考え、行動していたと思う。弟のKirilは、学問の面でもさえなかったし、ドイツのSaxe-Coburg-Gotha家としての資産管理とか、そういう地味な役割を任されていただけらしい。ドイツからの武器輸入でコミッションを稼いだのも、まあいわば、我々から見れば、おかしいですよね。日本で言えば、宮家が商売で儲けると言うことで、スキャンダルとなり得ます。

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