自由化後のブルガリア⑨

「自由化後のブルガリア」の⑨です。

★★第2部:真実の移行期:1997--2004年

1.コストフ政権と安定への到達:1997.04--2001.06

(1)全般的成果
  Ivan Kostov政権は、自由化後のブルにおいて、憲法で定められた任期の4年間をきちんと勤め上げるという、記録すべき成果を達成した。また、この政権のおかげで、首相職の地位が強化され、大統領職よりも主たる存在であることが明示的となり、首相対大統領の対立という憲法上の矛盾が完全に解消したわけではないものの、より両者の関係をはっきりさせることにも貢献したと言える。

99年12月にEUがヘルシンキにおける会合の際に、ブルを加盟申請国リストに載せることに同意するという決定を採択したことも、コストフ政権の大きな成果の一つ。そして、00年3月から、ブルはEUとの間に、加盟交渉を開始することが許されたのだ。

(2)西側陣営参加への「腹立たしい」道筋
  Kostv政権の主要課題は、今やブルを欧州・大西洋体制側に統合していくことだった。これは必ずしも容易なことではなく、結構しばしば矛盾も乗り越えねばならない政策だった。なにしろ、EU側は何時もきつい態度で臨み、この故に、いらついたKostovは、99年3月には、長期的な目標など設定する意味はない、何故なら国民は、15年後とか20年後の目標などには関心がないのだから、と声明したほど。

  この声明でコストフは、加盟交渉がすぐに開始されないのなら、ブルはこの件を永遠に延期せねばならない、と脅迫すらした。しかし結局、EUに代替する選択肢は見付からず、交渉は継続された。条件は何れにせよ、ブラッセルのEU本部が決めるのだ。

  加盟への前進は、経済的安定、回復、改革にまず依存した。その次には、EU、NATO側からの要求事項を履行すること、そして第3番目が、国内の犯罪と汚職を抑制することである。また、親EU、親NATO態度での外交も、前進を支援するだろう。

(3)通貨価値の安定→経済の安定化 
  経済の安定化は、その後、結構簡単に達成できた。選挙公約通りコストフは、97年6月に「通貨審査会」制度を導入し、Lev貨幣は、ドイツ・マルクに固定(peg)されることとなった(99年以降はユーロに固定)。国立銀行は、外貨準備高が着実に増大しなければ、新札を刷ることを禁じられた。中銀の新札発券は、準備高の増加額と全く同じ金額でしか、許されなくなったのだ。
  (注:IMF任命の外国人審査委員達が、国立銀行から外貨準備高に関して、きちんと証拠を入手し、増えた金額と同額のLev貨幣の新札発券を認可する、という、極めて単純明快な審査基準を適用したのである。いわば、IMFという外国側が、検閲官となって、新札の印刷を監視したのだ。)

 この治療薬は、融通が利かず、嫌らしいものだったが、しかし効果は絶大だった。
 97.02のみでインフレ率は242.7%という高率だったが、99.07にはたったの1.7%へと下落したのだ。銀行の貸出金利も、同じ方向で下落した。96.09の銀行金利は300%だったが、99.08のそれは4.42%に下がった。対外債務も同じように減少した。00年の第1四半期のみでも、10億ドルも減少した。金融の安定が回復されたので、賃金レベルも回復した:インフレに沈んだ96--97年のどん底期には、公的部門の月給は例えば97.02に25ドルだったが、99.05には124ドルにまで上昇した。通貨価値は正常化された! 

   (小生コメント:日本人の感覚では、月給124ドルというのは、余りにも低いレベルで、これではとても暮らせるはずがないと思われるだろうが、ソ連・東欧の旧共産圏諸国の実質給与レベルは、ほぼどこでもこの程度であった。
  交通費が安い、学費が原則タダ、電気・ガス代も低く抑えられていること、そして田舎に持つダーチャ(ブルではヴィラと呼んだ。別荘のこと)付属のせいぜい1--3反程度の畑で、野菜、果物、ジャガイモ、などを自給し、冬季用の保存食品(瓶詰め)を春期、夏期、秋期に大量に自家製造しておくことにより、人々の生活は、ある程度成り立っていた。いわば日本で言えば、戦時中の物資欠乏、耐乏、自給自足生活が、共産党統治期には、ずっと継続していたようなもの。
 

 他方で、自由化後の124ドルには、実は昔に比べて利点もあった。ドイツ資本、フランス資本などの巨大スーパーがコストフ政権期には進出してきて、味覚的に満足できる食品(主流は、ブル国内工場で西側新技術・新鋭機械を使って製造。パン類、乳製品、肉加工製品の品質、種類が格段に改善、増加された)とか、DIY用品、中国製の安価だが昔よりずっと格好のいい衣料品、靴などが大量に、しかも相対的に安価に売られるようになったので、物資欠乏は解消し、共産党統治期に比べて、実質での貨幣価値、商品選択肢が増えたのだ。

  要するに、Lev貨幣に外貨との互換性が確立されたので、世界水準の商品が輸入され、それらをいつでも入手できるようになったので、昔のように、闇ドルの高いレートで、闇市場で西側製品を買うよりは、ずっと安価に高品質消費物資、耐久製品などを買えるようになったのである。例えば、昔は年に一度、クリスマス時期にしか買えなかったバナナがいつでも手にはいるし、コーヒー、バターなども、西側の高品質なものが安価に入手可能となった。家の修理には、DIY店で買える電動工具、しゃれた壁紙、断熱材などを使えるようになった。二重ガラスのアルミサッシも、初めて庶民の手に届くようになった。

  つまり、統計学的数字では、社会主義時代も120ドル、自由化後も120ドルで、差異はないように見えても、実際の食品の質、住宅の快適度、などは格段に改善されたし、衛星アンテナの設置も自由となり、視聴できるテレビ番組の多様性も改善された。総じて、生活の中身は、天と地ほども改善されたのだ。この点は、社会主義時代と、自由化後のブルでの生活を実地に経験した小生が、断言できることで、要するに共産主義時代の物資欠乏社会は過去のものとなったのである。)

(4)経済改革、民営化の進展  
 経済の回復は、改革推進を再び可能とした。価格は再度、規制緩和された。Videnov政権は、全体の52%もの商品、サービスに関し、中央決定価格制度を再導入したのだが、これが自由化された。

  また、99年1月には、民営化の第二波が開始された:31企業が市場に売り出された。00年末までには、7割の企業が既に民間資本の所有物となった。一部の民営化は、巨大企業に関して行われた。例えば、Burgas市の石油精製工場Neftochim社。これはロシアのLukoil社に売却された。ただしブル政府は、N社の「黄金株(golden share)」を留保した。黄金株式とは、生産を相当規模で縮小する、というような重要決議の際に、拒否権を有する、ということ。

 もう一つ重要なことは、巨大な損失国営企業群を売却したこと。
 99年7月ブル蔵相は、IMF指令の一つ「巨大損失企業41社を、閉鎖または売却する」期限につき、これを達成したと発表した。売却が成立した損失企業の中には、ソフィア市郊外にある、巨大なKremikovtsi製鉄工場が含まれていた。売価はたったの1ドルだったが。

 これらのブル当局の努力は、国際金融機関筋から拍手喝采の歓迎を受けた。99年5月にIMFの高官は、ブルの経済パーフォーマンスは「模範的だ」と称賛した。そして、良き行いは、良き結果と、更には報奨を意味した。EUは1.255億ドル、世銀は2億ドルのローンを供与したのだ。

(5)畜産、漁業関連企業に対するEUからの厳しい規制  
  その他の改革は、ブラッセルからの圧力で適用された。これらはかなりの痛みを伴ったのだが・・・・・00年ブルは311の精肉工場、230の酪農品工場を閉鎖した。これらは衛生関連のEU基準を満たし得なかったのだ。
  他方で、ブルは、EU諸国からの農産品470品目の輸入につき、輸入関税を撤廃した。見返りはほぼゼロ。
  01年4月までには、EUはブルに残った570の精肉工場への免許付与を拒否した。また、酪農工場280件の内たった4件にしか免許を交付しなかった。
  04年3月までにブル国内には、EUへの輸出免許を保有する企業としては次が残ったのみ:酪農工場20件、屠殺場12件、精肉工場4件、魚類加工工場4件。食品加工工場の規制は、食品価格上昇圧力となった。

   (注:上記(3)のコメントにおいても述べたように、ブル国内の酪農品工場、精肉工場、その他の食品加工工場は、衛生基準、工業規格などの視点で、多くが閉鎖されたものの、残った工場では、西側の最新技術を取り入れて近代的・衛生的な商品を大量生産できるようになったし、輸送用の近代的なトラック、冷蔵車、冷凍車(共産党統治期には、冷蔵車、冷凍車などはほぼ皆無だった)なども増えたので、供給量の面では心配がなかった。むしろ、高品質な食品が、迅速に各地のスーパーに保冷車で運搬されるようになった。パン類も、種類が増えたし、味覚の面でも大幅に改善された。)

(6)語学面でも、欧州統合を目的に調整
  EU側の要求事項は、経済部門のみに限定されず、Kostov政権が導入した他の改革にも反映されていた。つまり、ブラッセル(EU本部)が要求したこと、或いは要求しそうなこと、これがKostov政権の指針だった。

 例えば、98年の語学教育関連立法。これは政府が支援する語学教育を規定した法律だが、ブル語のみではなく、「母語がブル語ではない少数民族用」にも語学教育を施すこととなっていた。これに基づき、00年5月には、トルコ語によるTV、ラジオ放送が実現された。政府は更に、ブラッセルを唸らせるために、少なくとも幾つかの教科をトルコ語で教える学校の設置を決めた。
 トルコ語放送、トルコ語教育などが量的には、外部機関が欲したほどは十分でなかったことは、必ずしもブル当局の責任でもない。実は、ラジオアナウンサー、教員の双方で、良くトルコ語教育を受けた人材が欠如していたのだ。

 その上、トルコ系の父兄、生徒双方とも、トルコ語教育を受けることが、英語、ドイツ語などの外国語教育を受けるチャンスを減らすのであれば(事実時間数から、そうなる)、これを嫌う、という傾向もあった。(注:トルコ語の教育チャンスが増えたのに、トルコ系市民の父兄そのものが、むしろ西欧語学を優先しようとした、と言うこと。皮肉な傾向とも言える。)

 ブルのEU加盟目的での教育改革という視点では、01年1月に高校に導入された「EU統合コース」が、あからさまにこの意図を示すと言える。このコースでは、地理、歴史、経済、哲学などの科目を通じて、西欧に関する知識を提供する。こういう手法で教育コースを設定した役人らは、潜在意識として、ブル人を欧州人として意識させることを狙っていたのだ。まさに、1世紀半前に、ブルの教育者・インテリ達が、ブル人生徒、或いはブル人農民達に、まさに(オスマン臣民ではなく)ブル人としてのナショナリスチックな意識を植え付けたように、今回は、欧州統合への意識を植え付けようというわけだ。

  (注:この部分の記述は、少し皮肉っぽい。この部分の原典著者Cramptonは、英国人だから、EC加盟時に、英国人は「欧州人意識」を教育で植え付けるようなことなどしなかったけど・・・・と、少しブルにおける欧州大陸、ブラッセル中心過ぎる感覚に違和感を覚えているのだろう。
  実は、Kostov政権は、色々と細かくドイツ人から智恵を与えられていたし、ドイツのNPO「アデナウアー基金」から「裏金的な」政治資金すら供与されており、すっかり当時のSDS政策は、対独協調主義という傾向があったのだ。もちろん、対米協調を忘れはしなかったが。
  その代わり、英国の意向などは、あまり忖度しなかったので、皮肉も言いたくなるのだろう。もっとも、ブルがドイツ語、仏語人口が元来多い国で、最近の若者は英語に堪能とはいえ、むしろ米語に傾き、英国人としては面白くない、という側面もあろう。)

(7)国内政治、社会の透明性
  国内における透明性を図るという点は、もちろん有益な目標だが、これもある意味EUに対し、ブルのイメージを改善する意味でもあった。
  97年秋に、初めて秘密警察文書が公開された。更に内務省は、共産党系諜報機関に関与していた一部の政治家、国家官僚達の名前を公表した:ほんの23名分だが。
  01年5月公表の報告書では、90年以来のブル国会議員の中で129名(これは国会議員数の1/10に相当)が、元DSのために働いたことがあった。また、著名なブル人で、政治家でない人々でも、例えばブル最初の宇宙飛行士Georgi Ivanovの場合、少なくとも一時的には、DSへの密告者だったと暴露された。

  このような公表は、一部の政治家にとっては、困惑すべきことだった。しかし、かなりの名前が公表されたことで、また、01年2月からは、これらファイルへのアクセス条件が緩和されたので、これまでブル社会で頻繁に行われてきた、中傷行為が、むしろ停止された、という意味で、有効な措置であった。「ファイルをネタ」とした脅迫行為も減少した。

  過去ファイルからの発見という意味では、今度は個人的な調査の結果だが、01年1月あるジャーナリストが調査して、80年代の「再生過程」につき、おもしろい史料を公表した:この史料によれば、85年1月に、すなわちジフコフにより首相に任命される少し前に、Georgi Atanasovは、北ブルガリアにおけるトルコ系市民の同化を命じているのだ。この史料の発見は、これまでジフコフが同化プロセスにつき命令を発した、或いは同化に関連する暴力的措置を命じた、との直接的な証拠は、何もないとはいうものの、ジフコフはこれらの政策を知っていたし、反対もしなかったことを明示しているのだ。

   (小生コメント:ちなみに、小生が聞いた一部の情報では、ジフコフは経済・技術面で躍進した戦後の日本に深い関心を持ち、躍進の「秘密」を在日大使館に報告するよう命じていた。在日ブル大使館からの報告書では、「日本国が民族的に単一民族で、団結力、組織への忠誠度が高く、相対的な低賃金にもかかわらず、また時間外手当が十分でなくとも、一日10--12時間も職場で頑張るという勤勉性で、他国民とは一線を画する」との報告がなされたらしい。 
  この報告もあり、また元来のジフコフのトルコ系への嫌悪感もあり、ジフコフは「ブル国内を日本式の単一民族国家に近づけたい」という思考へと傾いたらしい。トルコ系にイスラム名を捨てさせる政策の前に、ジフコフは70年代初頭から、ブル系の出産率を高めるために、中絶を禁止したし、子供手当制度、独身税などで出産を奨励したりしたのだが、効果が低く、結局はトルコ系も同化しよう、と考えたのであろう。)

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この記事へのコメント

mugi
2011年05月03日 21:49
 ジフコフによるブルの少子化対策は興味深いですね。子供手当制度、中絶禁止、独身税などの三点セットですか。今の日本ではじめのひとつは行えても、後のふたつはほとんど不可能にちかいですよね。
 そういえば隣国のルーマニアもチャウシェスク時代、中絶禁止がとられ女性は数人ちかくも子供を産むことを要求された。こちらも出産率アップにつながったのか不明ですが、独裁者の発想は似ています。
2011年05月04日 17:36
mugiさん、コメントありがとう。
 ルーマニアのチャウシェスク夫妻とジフコフ(時にはリュドミーラなどの家族も一緒)は、毎年夏休みに交代で相手国を往訪し、黒海沿岸の保養地などで会談・密談していた。
 ソ連相手にどういう風に対処するかとか、米国とはどうつきあっておくかとか、色々情報交換していたらしい。元来ブ・ル両国は、超現実主義で、悪巧みが大好きだから、気があっていたらしい。もっとも、ジフコフの方がよほど、自国民の民生、生活水準にも気配りをしますが。
 ルーマニアは、ともかく産めよ増やせよで、AIDS対策もやらず、AIDS罹患した孤児がいっぱい出て、これを広報せず、ひどい施設に閉じこめられていたのが、自由化後に発覚した。
 基本的には、ろくに乳児用の食品とか、紙おむつとか、栄養豊富なミルクとか、或いは文化的な生活を営むための生理用品、ティシューすら売られていない原始的な社会主義国、しかも低給与で、産めといわれても、皆産む気がなかった。
 他方、少数民族は、貧しさにも慣れているし、多産で生活を支えよう(子供らに乞食させても)と言う意識で、一族郎党の人数を増やすから、ジプシー、ポマック、トルコ系ばかりが、子沢山で、人数を増やすのです。ジフコフは、何も分かっていなかった、というか、かなり時間が経過してようやく気付き、トルコ系もポマックも純粋ブルガリア人に定義し直そうと考えたのです。もっとも、さすがに、ジプシーを同化しても国民のレベルが下がるという意識だったのか、ジプシーに関しては、何ら積極的な施策はない(恐らく軽蔑していた)。もっとも、前に書いたように、悪平等主義の社会主義は、ジプシーにとって暮らしやすい、良い体制だった!

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    Excerpt:  今回は少しだけ、ブルガリアにおける最近の政治情勢につき、簡単に紹介しておきたい。ブルガリアにおいては、1997.04--2001.06の4年間Ivan Kostov首相の政権(SDS党政権)が、自由.. Weblog: ブルガリア研究室 racked: 2011-06-09 12:04