大東亜戦争に関する新常識!?その二

  今日は、別宮+兵藤著で強調されている(1)近衛文麿による外交上の失敗が、大日本帝国破滅の元凶の一つだったこと、(2)陸海二元統帥による支離滅裂な戦略がもう一つの破滅の元凶だったこと、に関連する部分をご紹介する。

2.対中、対米交渉のチャンスを逸失して、国家の滅亡を決定づけた、お公家様・ダメ宰相の近衛首相(p.68)
(1)上海決戦に勝利して、蒋介石が和を乞うたとき、これを拒否したことで日中戦争を泥沼に陥らせた
  近衛文麿首相が1937年に第一次近衛内閣を組閣した直後に、蒋介石が仕掛けた支那事変が勃発した。近衛首相の動員と兵力集中に関する決断はのろかったが、日本軍(特に帝国陸軍)は良く戦い、上海決戦に勝利した。

  蒋介石は、この敗北直後、トラウトマン駐華独大使を通じて、和を乞うた(日本側の要求していた兵力引き離し措置などの条件を全て飲んだ上での講和要請)が、近衛は相手が下手に出てくると、態度を一転させて居丈高となり、交渉を拒否した。講和を望んでいた陸軍は青くなり、和平を主張したが、近衛は聞き入れなかった。
  その後、支那事変は泥沼化し、収拾がつかなくなり、国民世論も内閣を無能呼ばわりしたので、近衛は内閣を投げ出した。

(2)米国が英国を助けるために、日本との関係修復に乗り出したときも、交渉を拒否するという愚挙を犯した
1940年にも、近衛に大命が下り、第二次近衛内閣が組閣された。この時、欧州戦局はヒトラーのドイツ軍有利に推移していた。米国は1941年4月16日、日本に第一次了解案を提案し、「満洲国の承認」から「八紘一宇の精神」まで、日本側要求に全て応じるとの姿勢を示した。
  しかるに、この時も近衛は急に居丈高となり、アメリカに対し回答しなかった!?

(3)相手側の提案には、決してイエスと言えない人物 
  実は近衛は、京都大学時代に共産党員の河上肇に師事して、マルクス主義にかぶれ、ブレーンにも共産主義者が多かったのだ。その上、ヒトラーにもかぶれていて、自分の提案を外国にのませて、大衆から喝采を浴びることのみを夢想していて、この故に、相手国側からの提案には、いかにこれが有利でも、決してイエスとは言わない、そういう人物だったらしい。

(4)外交的チャンスを逃し続けた愚人  
  近衛文麿は、本当の国際関係における駆け引き、国益上の損得などには関心もない、本当につまらない人物だったのだ。

  重大な二つの局面で、大衆受けして拍手を得たいという、そういうバカなスポットライトにしか関心のない、近衛のような人物が首相職にいたことが、日本国にとっては全くの不運だった。というか、そういう近衛を、公家の中でももっとも家格が高い近衛家の人間として、期待して政治を任せた当時の元老、或いは近衛をもてはやしたマスコミなども、バカだったと言える。


3.日米交渉の更なる検証(p.81--84)
(1)野村、松岡の対米工作が奏功した  
  そもそも日米交渉は、野村吉三郎駐米大使が、重慶政府(蒋介石)との和平仲介を米国に要請して開始された。そして、1941.04.16に米国側から提示された「日米了解案」は、松岡洋右外相がスタインハート駐ソ米国大使と協議した結果出てきたもの。

  了解案によると、米国が満洲国を承認し、重慶、南京の両政府の合流を仲介し、欧州諸国の太平洋からの撤退(すなわち、蘭印<オランダ領インドネシア>、仏印<仏領インドシナ=今日のベトナム、ラオス、カンボジアに1887年以来成立していたフランス領植民地>の処理)を認める代わりに、日本は「攻撃的同盟」(三国同盟のこと)に支配されないと表明することを求めていた。

  日本の東アジアに関する要求をほぼ容認する、極めて宥和的な内容と言える。何故米国がこのような寛容な態度を示したかと言えば、ひとえに英国を救いたかったから。
  当時ドイツ、イタリア枢軸に単独で立ち向かっていた英軍は、ギリシャから駆逐され、北アフリカでも苦戦していたのだ。ヒトラーが日本に要請していたように、対英攻撃に日本が参戦すれば、英国の抵抗も潰えるかもしれない、と米国は危惧したのだ。

(2)日本側の国内事情 
  ところが日本は、日米交渉の継続にのみ同意して、この了解案への回答をすぐにしなかった。
何故回答を先送りしたか?実は、どうしても三国同盟の廃棄を決断できなかったのだ。
近衛首相は、日米了解案に不承知、松岡外相は反対、陸軍では意見が分裂、海軍は反対だった!・・・つまり、愚かだったのは、近衛文麿だけではなかったのだ!!

  別宮によれば、特に松岡洋右が、三国同盟廃棄に強硬に反対したらしい。松岡は、ローズベルトが自分に提案したならイエスだったが、野村宛であったためノーと言い張ったと言われる由(何と、松岡も近衛同様のバカだったのだ!)。
  更に松岡は、6月に独ソ戦が勃発すると、日ソ中立条約に違反することとなるシベリア攻撃を主張したらしい。これに驚いた近衛は、松岡を事実上罷免するためのみのために、内閣改造を実施したという。

(3)陸軍の北方作戦を阻止するために昭和天皇は南部仏印進駐を裁可(p.83)
  独ソ戦が勃発した翌月(1941年7月)、帝国陸軍は「関特演(関東州特別演習)」を口実に、満洲に25個師団を動員(=集中)したが、実際には、北方作戦(対ソ連攻撃)を発令せず、全く逆方向の南部仏印進駐を決定、発令した。

  昭和天皇の後の回顧によれば、陸軍の対ソ作戦を、海軍の主張する南方作戦よりも危険と見ていたので、「関特演(元来は、対ソ戦のための動員と軍事演習、または対ソ開戦)」の「代償行為」として、南部仏印進駐を裁可したという。

(4)米国は、もはや日本の機嫌を取る必要はなくなった(p.84)
  米国は、それまで、日本に対英参戦させないためならば、かなりの譲歩をする気になっていたのだが、独ソ戦勃発を聞いて「もはや英国は救われた」と判断した。ドイツは単独ではソ連を征服できない、ましてアメリカがソ連軍に物量補給したら・・・とローズベルトは考えたのだ。

よって、米国としては、もはや日本に配慮する必要性はなくなったのだ。当時のローズベルトの関心としては、米軍の臨戦態勢が整うはずの1943年まで、日本を生かさず殺さずの常態に閉じこめる方法を思案するだけだった。そこに日本軍の南部仏印進駐のニュースが飛び込んだので、ローズベルトは、航空機用ではなく、船舶用(日本海軍用)の石油製品の対日輸出を制限するという、平時としては思い切った経済制裁の発動を許可した。

(5)石油輸出規制で海軍の南進論が世論の支持を集めた(p.84)
  帝国海軍は、このローズベルトの貿易制裁を歓迎したという。これ以降時間がたてばたつほど日本の継戦能力は失われ、戦わずして敗北することになると国内宣伝した由。
  ところが別宮説では、石油輸入には、ドラム缶による製品輸入の道とか、上海など第三国経由での調達などの抜け道もあり、米国の制裁のみで、石油備蓄が取り崩し尽くされることはあり得なかったという。要するに海軍の誇張だったと!?

(6)陸軍の北進論を押さえ込むため、日本国内の諸勢力は結束して海軍の南進論を支持した(p.88--89)
  北進論を唱えた陸軍の真意は、対ソ戦に踏み切ることで、そうなれば日本国の全ての権力は、結局参謀本部の作戦課に集中されると、大蔵省も、海軍も、外務省も、そして皇室までが危惧し、これを阻止するために協力することとなった、というのが別宮説だ。
  対ソ戦というのは、一種の陸軍クーデターと同じで、明治憲法体制を破壊して、試験エリートに過ぎない陸軍の幹部将校達が、国家の実権を掌握することだ、と危惧されたという。

(7)ハル・ノートの本質(p.90--92)
  1941.11.26、コーデル・ハル米国国務長官(外相)は、野村・来栖両大使に、ノート(了解案)を提示した。内容は、4月16日の了解案に比べて、日本に対し厳しい内容となっていた。日本軍の中国からの撤退と、南京政府の解消を要求していた。

  ローズベルトとハルの読みでは、独ソ戦はヒトラーにとり破滅の始まりで、日本を三国同盟から離脱させる好機と見ていた。また、日本が英米に対して戦端を開くなどと言うことはないと楽観していた。英米両国は、日本をドイツの戦争の局外に置き、中立させること、「三国同盟」を事実上形骸化させることが最善と考えていた。そして、そのためには、日本に対し一切弱みは見せず、一層強硬な姿勢(例えばこのハル・ノート)を示すことがよいと考えていた、という。

  ちなみに、これに先立つ9月6日の御前会議では、「外交を優先するが、南方作戦計画発動のための準備に入る」と決定された。外交優先とは、日米交渉により、米国から譲歩を引き出すという意味だ。
  ところが、上記のように、既に米国は、独ソ戦の勃発をドイツ不利の形勢が固まったと見て、対日姿勢を一転し、強硬化させていた。

ハル・ノートを突きつけられた外務省は苦悩した。この時点で既に日本は、対米英戦のための動員(「関特演」名義の動員)を済ませ、開戦のため徐々に兵達が輸送船で南洋に向かっていた。この規模の開戦計画は、ある一定の時限を過ぎれば、もう取り消しが難しいのだ。

  米国側の意図としては、実はハル・ノートは、あくまでも交渉のたたき台に過ぎない通告で、回答期限もついておらず、日米戦争を引き起こす意図も、特にはなかった。単なる強い調子の交渉文だった、と別宮氏は言う(?)。
だが、開戦の時計を既にスタートさせてしまった陸海軍を説得することは、もはや出来ないと見なした東郷茂徳外相が、ハル・ノートを「最後通牒」だと偽って評価した上奏文を提出し、昭和天皇に開戦の決意を促したという。


4.対米戦争は、帝国海軍の作戦準備の都合上、真珠湾攻撃の1年前から開始されていた、対米戦争に関しては、海軍の担当で、陸軍は何ら異論を立てなかった(p.96--98)
真珠湾攻撃の模擬訓練は、1940.12から、鹿児島の錦江湾で行われていた。すなわち実際の対米奇襲開戦に一年も先行していた。
  「真珠湾空襲」という、長らく内外の未来戦記のネタであったアイデアを、現実の計画に仕上げたのは、海軍航空部隊育ての親で、それ故に海軍内部で高い地位を占めるに至っていた山本五十六海軍大将だった。

  更に、真珠湾奇襲という作戦計画立案が可能となった背景には、1940.07に米内内閣が倒れ、第二次近衛内閣が成立し、相次いでこの内閣に入閣した吉田善吾、及川古志郎両海相が、従来からの海軍の路線を変えて、陸軍に歩み寄り、三国同盟に賛成したからだ、という。

  もっとも、そのとき陸軍は、対米戦は何も考えていなかったという。陸軍の南進論は、専らドイツの勝利に便乗して、対英戦をすることを念頭に置いたのであって、陸軍の本音は、あくまで対ソ戦という北進論だったという。外務省もまた同様で、対米戦は夢想もしていなかった、という。

  つまり「対米開戦」という、あまりに重大な国策は、海軍が三国同盟を承認したことから初めて俎上に上り、その方法については海軍側にフリーハンドが与えられたと別宮氏は言う。日露戦争以来、陸軍は、開戦に関しては何の口出しも出来ぬしきたりだったという。明治以来の伝統では、確かに、開戦の決断は、ほとんど海軍側が決めているのだ。ハイテクに依存する海軍は、その兵器システムの技術的な制約も多いから、陸軍のように、何時でも簡単に奇襲作戦を実行できる、というようなわけにはいかないからだ。

5.大所高所での、総合戦略調整をすべき、偉大な軍人・政治家が不在だった昭和期の不幸  
  別宮説では、山本権兵衛という帝国海軍創設者が、日露戦争に際して主張し、確立した「陸海二元統帥」という、世界的には非常識な海軍の独自性、独立性故に、日本国軍は、ずっと陸海統帥部が別々に独立して、別々の戦略構想に基づき、別々の戦争をするシステムだった、という。
  ただし、維新後時間があまり過ぎていない明治期には、薩長軍閥の長老達が生存していて、元老として大所高所から国論、戦略を調整できたが、昭和期の「試験秀才達が軍部と国論を主導する時代」となってからは、総合調整する機能が日本国から失われて、結局陸海二元統帥という脆弱性のまま、かつまた、責任ある総合戦略を欠いたままで、猛進してしまい、破滅の道を進んでしまった、ということになる。
 
  小生の感じでは、頭脳面、知識面での秀才ぶりは劣ったにしても、明治期の元老達には、日本国の生存に向けて必死に国際環境も含めて総合戦略を立てるほどのスケールの大きさがあったのに、昭和期の軍人らになると、巨大官僚機構と化した陸軍内部でも、或いは海軍内部でも、日頃の部内対立、競争にばかり目を奪われて、大所高所の戦略からはほど遠い、小粒な人間ばかりになっていた、という欠点があるように思う。

  また、ヒトラーの成功に幻惑されて、自分もあのような英雄になりたいという、自己過信、或いは自己愛ばかり強烈な人間(永田鉄山、石原莞爾、近衛文麿、松岡洋右など)が輩出して、本当の長期的な国益を追求する英知とか、国防に関しては基本的には鋭意自衛に徹するという賢明・謙虚な姿勢、が国内から失われたことが、大失敗の元に思える。
  
  要するに、人材が僅少で、偉材に対しては敬意が集中し、物事を彼らに大きく委任するという感覚があった明治期は、足の引っ張り合いは少なく、政策が一貫したから成功もした
  他方で、昭和期のように秀才は数が増えたものの、競争が激しくて、この故に余裕が無く、小粒な人格ばかりだと、国民・マスコミにも、誰かに責任・権力を集中して、委せるという感覚・意識が無くなり、結局普段無口なだけが取り得のような、東條英機のような人間が暗殺を免れ、首相となって、何らそれまでの国策の誤った軌道を修正も出来ぬまま、誤った方向のままに国家を破滅に導く、ということとなってしまったように思う。

6.震災復興という緊急事態の今も、「期間限定独裁」を容認してみてはどうか?  
  英米のように、選挙は徹底的に民主的に、そして権力を合法的に握ったら、限りなく独裁者に近い形で統治する。他方、国民は首相、大統領を英雄のごとく尊敬して、国家の舵取りを委せる、という、潔い割り切りが出来ないと、民主主義も上手く機能しないのでは無かろうか?

  日本でも、これからは、首相は「期間限定の独裁者」として、国民もマスコミも、もっと尊敬して大権を委任する度量を持たないと、またもや各勢力が拮抗して、国内対立にうつつを抜かしている間に、外国勢力との決戦において、兵力半減、という愚作に陥るのでは無かろうか?

  国家の知能、エネルギーを一つに集中し、効率よく震災後の復興をしようと言うときに、相変わらず総理批判、揚げ足とりの声が止まないし、浜岡原発停止という、今の時期としては、至極正論に見える決断にも、異論が蔓延っているようでは、そういう異論続出という国家の体質が、どこか頼りなげで、団結力を減殺してしまうように思えて成らない。
  しばらくはマスコミも、ネットも、異論、俗論、空論を封じて、総理にお任せして、頑張って貰おうではないか!民意の発動は、次の総選挙まで待とう!

この記事へのコメント

mugi
2011年05月14日 21:36
 今回の記事も興味深く拝見しました。お公家様・ダメ宰相の外交には開いた口がふさがりません。彼が大いなる決断をしたのは服毒自殺したことだけ?前首相がこのタイプに重なって見えます。他人事のように現首相の政策を非難するのでは、ルーピー呼ばわりされても当然です。

 試験秀才達が幅を利かす風潮や、部内対立、競争にばかり目を奪われ、足の引っ張り合いが横行するのも今のご時世とそっくりですね。
とにかくマスコミでもネットでも、殊更政治家の欠点をあげつらい、嘲るのでは、誰が首相になっても長続きしないでしょう。もっとも、日本の政情不安は好ましいと思う国も多いはず。浜岡原発停止も実はアメリカの命という噂もあります。

 戦前のドイツに幻惑された日本人は多かったのですが、この動きは何故か第一次大戦前のトルコと似ています。トルコを引き合いにして、ドイツへの接近に警告した中東研究家がいたのですが、一蹴されたのは書くまでもありません。戦前も中東オタクはとかくコケにされがちでした。
2011年05月14日 22:53
mugiさん、コメントありがとうございます。
 国家の運命を誰に託すべきか、確かに菅総理で大丈夫か?と皆が不安になるのは分かるのですが、鳩山に比べればよほど根性も、粘り腰もあるように思う。
 ともかく、小生自身は投票しなかったのですが、民主党に多くの票を投じたのも国民、期待したのも国民、しかも、鳩山よりは少しはましなような菅が政権の座にあるのですから、少しはマスコミもおとなしくして、冷静に見守ってやるべきです。
 マスコミの無責任な連中が、筆先で内閣を選択すべきではないし、一部の感情論で、次々に政権を変えても、何ら得にならない。民主主義は、選挙で政権を選ぶシステムで、悪い政党を選んだら、その責任の一端というか、多くは、国民にある。そこの感覚、潔い割り切りをしないと、いけません。
 浜岡原発停止をアメリカが望んだというのは、横須賀、横田に米軍人、その家族が多いから、恐らくあり得ることでしょうが、しかし、冷静に考えれば、宮城沖での地震の可能性が90%を超えていたのに、放置していたこと、宮城沖のプレートが動いたことで、東海地方における、北米プレートとフィリピンプレートの動きも活性化された虞があるのですから、浜岡原発は即刻停止すべきというのは、科学者としても正しい意見だと思う。何でも米国を悪者にする意見は、怪しい。

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