西と東のキリスト教

 最近また、新しいアイデアが枯渇して、記事更新が遅れている。何か新しい面白い記事はないか、と思っていて、小生が長年所持しているが、宗教への関心の薄さから、ちっとも読み進まない本の中で、少しびっくりした箇所が出てきたので、このことを書こうと思う。

 本の名前は『ギリシャ正教』(講談社学術文庫、1980年7月第1刷、90年5月第10刷)で、著者は高橋保行(ヤスユキ)という。著者の略歴としては、1948年生まれ、1972年NYの聖ウラジミル神科大学院卒。1974年司祭に叙聖された(日本ハリストス正教会)・・・とある。要するに、日本には珍しい、オーソドックス(著者は「ギリシャ正教」で通しておられるが、「ギリシャ正教会」と区別して、東方正教会全体の総称としては、小生はオーソドックスと呼ぶ方が分かりやすいと思う)の日本人聖職者として、東方キリスト教=オーソドックスの教義とか、西方キリスト教(カトリック、及びプロテスタント)との教義の相違とか、色々詳しく解説した書物である。

 小生自身は、浄土真宗系の仏教という自宅の伝統宗教で満足していて、他の宗教の必要性も感じたことがないし、キリスト教全体にも、さほどの興味がないので、この本もなかなか読む気がせず、よほど暇なときに少し頁をめくる程度で、たった300頁ほどの本だけど(既に何年も本棚の隅に置かれたママの日々を経た後)今年年初頃から今ようやく78頁に到ったところだ。

著者は、西のキリスト教が「発展」を重視しているのに対して、東のキリスト教は、何よりも「伝統」を重視する、として、更にその原因を深く考察している(p78--80)。ここの部分が、小生の関心を特に引いたので、出来るだけ原文に忠実にご紹介したい。

1.西の原罪説
  伝統の歴史と発展の歴史の違いは、人間観と世界観の違いから来ている。西のキリスト教は、アンブロシウスやアウグスチヌスの思想を中心に、信仰および形態を合理化しようとした。この動きは、人間をまず堕落したものと見るところから始まっている。原罪という言葉で代表される堕落人間説である。この説の裏には、堕落した人間を救うためにキリストが来たのであるが、キリストが来ても堕落した人間は、所詮救われないのではないかという現実的な人間観がひそんでいる。

  それ故、堕落した人間をどう救うかと、西のキリスト教は四苦八苦する。まず堕落した人間を救えるのは、規律であるとする。中世カトリシズムにおいては、ローマ法皇が規律の化身となる。これに対抗してプロテスタンティズムは、信仰と聖書が人の救いのためになると説く。しかし、聖書もプロテスタンティズムの中で規律の書と化する。こうした西のキリスト教の規律を重要視する傾向は、合理主義的にものを考える人間を生み出す。社会形態も、規律を明確に打ち出せる中央集権のピラミッド型となる。

  次に人間の救いとなるのは、堕落しているという認識を持つことであるとする。つまり徹底的に人間に堕落していることを認識させ、そこから抜け出るように努力させるという考えである。ここに発展を生み出す改革の論理がある。現状を悪と見なし、改革を善とするという動きである。ところがどんなに改革し改善しても、生み出される状態を否定的に見るから、改革の動きは常に存在する。この改革の動きが発展を生じさせるようになるのである。

  西のキリスト教の世界観は、堕落人間説と関連して、聖と俗をはっきり区分する。本来のキリスト教思想には、こうした聖・俗二元的区分はない。しかし西のキリスト教は、聖なるあの世に対し俗なるこの世があるとする。教会は、この世の中にあるけれども、この世に対するあの世の延長である。この世を俗界とするならば、教会はあの世という聖界の一部である。ここから、聖なる教会に対し、俗なる社会という考えが生じる。プロテスタンティズムは、この二元性に対抗しつつ俗化していまい、聖性を失ってしまう。


2.東の性善説
  東の伝統的なキリスト教には、原罪に代表される堕落人間説や、聖に対する俗という二元的な考えはない。東のキリスト教は、人間が神に善なるものとして創造されたことを強調する。人間はまず神のイメージとして作られたのである。堕落は、人間存在の前提ではない。東のキリスト教でも堕落という言葉を使うが、これは人間が与えられた神のイメージを失ってしまっていることを指す。キリストの救いは、人間にこのイメージを回復させるためにある。

  こうした伝統的なキリスト教の人間観は、聖と俗を二元的に対立させることを許さない。堕落した状態とされる俗は、人間が神のイメージを失ったときの仮に取る形態であり、人間存在の絶対条件でも、前提でもない。聖と俗は対立関係ではなく、聖により回復せらるべき俗、聖を回復すべき俗という調和の関係にあり、最終的には一元に復帰するものである。

  このような理由から、俗なるこの世と聖なるあの世の関係も、東のキリスト教は、はっきりと区別しつつも、キリストにより隔たりがとられたとする。つまり、既にこの世に、あの世の力が及んでいると考えるのである。この世は悪とか俗という言う言葉で否定されるものではなく、あの世への橋渡しをするものとなる。この世は、あの世の写しでなければならない。したがって、堕落した人間も世も、俗悪だとして区別し、切り捨ててしまうことなく、その中に浸透し、変容を試みようというのが、伝統が提示するキリスト教の姿勢である。


3.小生のコメント
  キリスト教に関して、実は全くと言っていいほど研究した覚えもない小生が、さほど正しいコメントを出来るかどうか、怪しいのだが、少しだけ論じてみたい。

(1)原罪説
  西のキリスト教の原罪説が、絶え間ない改善、改革という「発展」の思想に繋がり、西欧社会の発展への原動力となったらしい、と言うのは、「大航海時代」以降の西欧の東洋への進出、或いはその後特にプロテスタント側が、更に「植民地主義」の道を深めた歴史に照合するようにも思われる。

しかし、絶対王政時を終えると共に、西欧社会は民主制へと政治思想が転換していったはずで、ピラミッド型中央集権思想が、西のキリスト教の辿り着く社会形態と断定は出来ないだろう。この辺には、東のキリスト教司祭である著者の偏見もあるように見える。

(2)性善説
  人間が、そもそも神のイメージになぞらえて創造されたとの考えから、東のキリスト教では、聖と俗と言う二元論には陥らず、教会の側が俗社会に浸透していくことを重視する傾向にある、というのは、ビザンツ帝国における教会が、いつも政権側、皇帝側に従属したという歴史を、美辞麗句で言いくるめる説明とも受け取れる。

  ロシア正教も、ロシア皇帝、或いは共産党政権と、そして今はプーチンの独裁体制という風に、何時も妥協したし、それこそ、中央集権的な政治体制の中で、いつも権力者を祝福し、民衆には背を向けているようにも感じられる。オスマン帝国でも、或いはブルガリアの社会主義時代にも、中央集権体制の政権側に忠実だったのが、オーソドックス教会だ、と言うのが小生の理解だ。独裁者に関しても、堕落した人間とは見ずに、見捨てないし、妥協していくのが、オーソドックスと言うことかも。

  とはいえ、ユダヤ教以来の伝統的な信仰の原型に、より忠実に従おう、伝統を捨てて、新規に走ると言うことを避けつつも、時代に合わせて社会と共に「緩やかに変容」を遂げていく、というのが、東のキリスト教の姿勢の神髄と言われると、まあ、そう言う信仰もあって良いか、と言うしかない。というか、小生は、華麗な儀礼を重視するオーソドックスの教会ばかり見てきたので、教会が「改革思想、発展思想」と結びつき、「規律」に五月蠅いという、弊害がより大きそうな西のキリスト教よりは、身近に感じられると言う気分だ。人間を性善説で、穏やかに、しかし近くから見守る、と言う姿勢は、むしろ「親鸞」様の仏教に近いのかも。(これは、全くの暴言かも知れない。仏教と同一視されては、「東のキリスト教」も困るのかも。

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この記事へのコメント

mugi
2012年09月21日 21:34
こんばんは。

 記事で取り上げられた東方キリスト教=オーソドックスの教義は興味深いですね。キリスト教には他にも中東を中心とした東方諸教会もあり、私もこちらや正教会に関してはまるで分かりません。ただし、貴方も仰るように著者がオーソドックスの司祭なので、必ずしも鵜呑みにはできません。

「性善説」はどうもこじ付けにしか思えません。宗派を問わず聖書を教典とするのは同じだし、見解の違いこそあれキリスト教の「性善説」は、それこそ“異端”では?、堕落した人間とは見ずに、見捨てないし、妥協していくのはインドの諸宗教にも見られる特徴です。
 それも著者の立場ゆえに、オーソドックスへの親近感を広めるイメージ戦略の一環かもしれません。カトリックも似た様な手段をとるし、仏教との類似を挙げ、「気軽に教会に寄ってみよう」と呼びかける者もいました。教会に来たら、タダで返すはずもない。

 私も原罪に喧しい西方教会よりも、オーソドックスの方に好感が持てます。前にカトリックと称する者のコメントに、「日々罪を犯す私…」の言葉があり、ドン引きしました。カトリックに好感を持ってほしいという気持ちは分からなくもありませんが、こんな書込みでは鬱陶しいだけです。
2012年09月23日 15:39
こんにちは、
 現在突如入院中で、一時外出許可で帰宅中。時間がないので簡単に書きます。
この本は、本当は結構面白そうです。日本人のオーソドックス司祭というのも、面白いし、もしかすると若い頃小生が少しお世話した人かも。一緒に、ブル国内の教会とか小生の車で案内した人にような。
 まあ、宗教というのは、熱烈な信徒は、皆自分の宗教を良く書くのは当然。この著書でも、オスマン統治時代には、それなりに正教会は圧迫下に置かれ、税金の徴収とかも代行させられ「苦難した」との書き方。しかし、パナリオットというギリシャ商人貴族階層が、正教高位僧職を「買官」したのも、徴税権が魅力だったから。すなわち、徴税して、一部は自らの懐に入れていたはず。
 癒着の部分も大きい。かれらイスタンブールの東方正教会本部は、ブル教会の独立取り戻しの運動(ナショナリズムの先駆け)を徹底して妨害した。オスマン帝国政府は、むしろブル教会の独立要求に耳を貸したのにです。
2012年09月24日 14:51
こんにちは、
 今日も一時外出中。上記のパナリオットは、ファナリオットと訂正します。以前書いたように、イスタンブールの灯台(フェネール)のあった地区に居住していた大金持ちのギリシャ人商人貴族たちのこと。
 彼らの中には、モルドバの大公職を「買官」するものもいた。

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