ブルガリア史の偉人100選:Asen家の兄弟王
さて、12番目の登場は、アッセン王家の2名の兄弟王、Ivan Asen IとPetqr IIの両名の話です。
Petqrが兄で、Ivanが弟ですが、どうしても人気、評判の面では弟が先のようです。もっとも、両名は、どちらかが形式的に「国王」となっていても、実質的には常に「共同統治者」であったし、弟のIvanにこそ、軍事的才能があったようです。どういう訳か、騎馬民族社会では、また、古いロシアの民話などでも、弟、或は特に第3子が一番の英雄である事例が多いようです。ブルでも、「シメオン大王」はボリス1世王の第3子でした。アスパルーフ汗もクブラート汗の第3子でした。この百選でも、Asen王家の3番目の弟Kaloyan王については、15番目に別個の項目で登場します。
子供をたくさん持った家族で、両親が一番かわいがるのも、実は第3子辺りではないでしょうか。ここに、人類の家族史から見ても、不思議な因縁があるように感じます。
Asen家では、第3子が活躍する前に、第1子のPetqr、第2子のIvanが、共に活躍したことは、むしろ普通の民話ではありえない、嫌われ者で意地悪な兄たち2名が、それなりに大いに活躍して、第2次ブル王朝の創始者たちとなった、という意味で、例外的なお話、という風にも思えます。例外があってこそ、歴史は面白い!
12.Asen王家兄弟王=ブルガリア第2次王国の創建者:イヴァン・アセン1世王(?—1196年)、ペータル2世王(?--1197年)
ビザンツ皇帝Inokentiy 3世の書簡:「・・・二人の兄弟は、以前のブル王家出身*で、その軍事的行動を、領土を簒奪するという意図で始めたというよりは、むしろ自分たちの父親たちの土地を奪還するために闘い始めたのだ」。
(*注:Asen王家が、本当にブル第1王朝の王家と血筋が繋がっていたかと言うと、それは怪しい。ブル北部地方の貴族の家系と言われる。とはいえ、ブル国内向けには、このように主張した方が支持を得やすかったと思われる。)
(注:ブル第2王国時代については、 http://79909040.at.webry.info/201012/article_4.htmlを参照。)
第2次ブルガリア王国としてブル国家を再興し、この国家を最大規模にまで上昇せしめたのは、Asen王家(Asenevtsi王家)の始祖である兄弟・・・AsenとPetqrだった。
(1)ペータル2世王(統治期間:1185--90年、1196--97年)
(ア)ビザンツから独立
ブル国家再興運動を率いた3名の兄弟の内、最年長者はPetqrと言うが、洗礼名ではTeodorだった(この故に、Teodor Petqrとも呼ばれる)。1185年に、ビザンツの統治に対する反乱を率いた後、Teodorは再興されたブル国の王位(tsar)に戴冠され(Tqrnovo市所在のSt. Dimitqr教会で)、王名としてPetqr 2世と命名された。この名前でビザンツ、及び西欧の年代記に記録されている(西欧の年代記には、Kalopetqrとの名前も存在する)。
Petqr 2世*の名前を採用したことで、この兄弟が、第1次王国との継承関係を明白に(看板に)しようと意図したことが分る。ビザンツの年代記作者Teodor Skutariotもこの点をすぐに理解したようで、「ペータルは、『ブルガリア人たちの王(tsar)』と自称して、即位後すぐに第1王朝の首都であったPreslavへと向かった」と記している。
(*注:シメオン大王の後継者だった第1次王朝のPetqr 1世は、927--969年と統治期間は長かったが、ブル国の衰退期の国王だった。この辺の第1王国のブルに関しては、http://79909040.at.webry.info/201012/article_2.htmlを参照。
ちなみに、ブルのHan、Knyaz、Tsarなどの君主名を列記した本:『Istoricheski spravochnik Bqlgarskite Hanove i tsare ot Kubrat do tsar Boris III(ブルガリアの汗、公、国王をクブラート汗からボリス3世王まで列挙した歴史事典)』によれば、Teodor Petqrの前に2名Petqr名を冠した王が居たので、Teodor Petqrは「4世」となっていて、この偉人百選の数え方(2世)とは異なるようだ。)
(イ)弟の方が輝いていた
兄弟の意図は、まさに、ブル王国の再興であり、単なる反乱、反旗ではなかった。少なくとも1190年までは、ペータルは再興されたブル王国の君主と見做されていた。とはいえ、政治面では、益々、ペの弟であるIvan Asenの姿の方が大きくなっていくのだった。
そして、1190年にはペは自ら、より優れた政治的才能を発揮する弟に指導的地位を譲り、自らは旧都Preslavに、「共同統治者」としての地位は保ちつつも、隠棲した(ペの統治期間:1185--90年、1190年首都もPreslavからTqrnovo市に遷都した。)。
ところが、1196年Asen王は、陰謀の餌食となって倒された(アの統治期間:1190--96年)ので、再度Petqrが、一定期間国家運営を担当することとなった(2度目のペの統治期間:1196--1197年)。
もっとも、Petqr単独の2度目の政権は極めて短期間に終わり、その後、ビザンツの年代記記録者Nikita Honiat、及びTeodor Skutariotの、さほど明白ではない記述から推測するに、ペ王は、自らの統治面での「補佐官兼共同統治者」として、兄弟3番目の弟Kaloyan(統治期間:1197--1207年)を採用したという。
ところがこの共同統治体制を採用したすぐ後に、またもや陰謀があり、今度はペ自身が、側近の刀で刺されて死亡した(1197年)、という。要するに、Asen王家は、当初の間、なかなか一人の国王を君主・統治者として権威を確立できず、陰謀に次ぐ陰謀で、政権も安定しなかったということらしい。
(2)イヴァン・アセン1世王(統治期間:1190--96年)
(ア)弟が独立戦争でも大活躍とビザンツの年代記作家たちも称賛
アセン(正式名はIvan Asen Belgun)は、3人兄弟の2番目で、ビザンツ支配に反乱を起こしたブルガリア人たちの先頭に立った指導者の一人であり、かつ、第2次ブル王朝の礎を築き、この王朝で一番輝く活躍をした人物で、次のように年代記にある:「Ivan Asen Belgunは、国民をギリシャの支配から解放した、永遠に記憶されるべし・・・」。
Asenの出自に関しては、Paraistrionテーマ(注:temaとはビザンツの軍管区兼行政区、P軍管区は、バルカン山脈山中の城砦、山間の抜け道などを含む北部ブル地域を管轄地としていた)に根を張っていたブル系の貴族に所属すると言われている。そして、彼らは表面的にしかビザンツ皇帝の支配権を認めていなかったと言われる。
(イ)家畜税という悪税をチャンスととらえて、反旗を翻した
最初にAsenに関する情報を記録していたのはNikita Honiatで、それによれば、Ivan AsenとTeodor Petqrの兄弟は、1185年秋、ビザンツ皇帝Isaak II Angel(統治期間:1185--1195年)の前に進み出て、土地の所有権の確認と行政上の官位を要求したという。
もちろん、このような要求を持ち出し、裏ではブルでの反乱まで用意していた理由は、当時ビザンツ帝国は、ノルマンの侵攻、皇帝自らの婚儀費用を賄うため、ブル各地に家畜税という「特別税」を課す(1185年夏)など、政情が不安定化していて、反乱を起こす環境が整っていたのだ。皇帝は、しかし、兄弟の要求を断固却下したらしい。
(ウ)騎馬民族のクマニ族と同盟し、戦力を強化
1185--86年、PetqrとAsen兄弟は、反乱を開始したが、その際Asenは、当時バルカン半島に進出していたチュルク系言語を話す騎馬民族のクマニ(Kumani)族と同盟した(1186年)という。特に軍事面でこの騎馬民族との提携を確保したAsenには、その後のクマニ族のブルガリア人との融合、クマニ・エスニック集団のブル人への統合という功績がある。
【小生注:Kumani族とは、中央アジアにいた印欧系種族が、周囲のチュルク系言語を受容したものの、金髪、青目、高い背丈、などの白人的要素をキープしたまま、11世紀半ばには、南ロシアのステップ地帯で主要勢力となり、11--14世紀頃に黒海北岸地帯にまで進出した集団。Kqpchak族、Polovets族、Kuni族(ハンガリーでの呼称)とも呼ばれている。1078年、ク族はバルカン半島に入り、ビザンツ帝国に雇われて、同じ騎馬民族のペチェネーグ族を追い払った(1091年)。しかし、その後はビザンツ帝国に何度も襲い掛かった(1094--1159年の期間に5回も)。
なお、Asen王家3男のKaloyan王(統治期間:1197--1207年)はクマニ族の姫君Ana-Anisiyaと結婚したという。
13世紀前半、モンゴル帝国が南ロシアのステップ地帯からクマニ族を追い払ったので、ブルの地まで逃げ込んだクマニ族貴族たちが、ブル系貴族(bolyari)と結婚して、クマニ系のブル貴族(bolyari)家系も多く生まれたという。クマニの集落とか風俗などはその後も、ルーマニア(トランシルバニア、ワラキア)、ブルガリア、マケドニア、ギリシャ、ハンガリーなどにも残っているという。
そういえば、ブル人の小生の知ったある人物の姓はTsingilevと言い、大学教師が、祖先はクマニ系のはずだ、と言っていた。小生には、この姓はジンギス・カーンとの関連から、むしろキプチャック・汗国とか、モンゴル族との関連がありそうにも感じるのだが・・・?】
また、Asenが同化したKumani族は、その後も第2次ブル王国の中で重要な軍事的役割を果たしていくので、その意味でもAsenの功績は大きいと言えるし、ビザンツの年代記作者も次のように称賛した:「兄弟の一人Asenは、異例の賢明さ、才能を保有した人物で、困難の中でも必ず幸運な選択、解決策を見出した」。
(エ)タルノヴォを第2次ブル王国の首都に定めた
Ivan Asen Iは、1190年に正式に国王として宣布されたが、それまでの期間も、Petqr王とともに、共同統治者、軍総司令官として、国家の指導者であった。同じ年、ブル第2次国家の首都はTqrnovoの町に移転された。
(注:Preslav町は、現在のShumen県に所在し、新首都のTqrnovoは、現在はVeliko Tqrnovo市と呼ばれ、VT県の県都であり、Preslav町からは西に100㎞ほど行ったブル中部の町だ。Preslav、VT両市ともに、バルカン山脈北側のドナウ台地に所在するが、VT市は、Yantra川の川岸が深くえぐられた丘の上に聳える感じで、勾配のある街並みでもあり、古都としての美しさは比べ物にならない。Preslavの場合は、単に平野の中の畑の中に遺跡が残っているだけで、Tqrnovoのような、山と丘と川岸という絶妙のコントラスト美は期待できない。VT市は、琴欧洲関の故郷でもあるが、その風光明媚さと古都としての趣も加わり、今もブル観光地の一つとして外国人にも好まれている。)
(オ)弟の方が偉大で、Asen王家としてその名前が尊ばれた
明らかに、全ての再興されたブルガリア国家における変容は、このAsenとPetqrの兄弟が統治した時代に端緒を見出すことができ、その中でもAsenが偉大な功績を遺した。ゆえに、Asenの名前が尊ばれ、これ以降第2王朝期には、ブル君主の多くがAsenの名前を含む王名を保有していた(系図によると、Ivan Asen II(統治期間:1218--41年)、Mihail II Asen(1248--56年)、Konstantin Asen(1257--77年)、Ivan Asen III(1279年)がAsenの名前を冠している。)。
(カ)トゥリャーヴナの峠道でビザンツ皇帝軍を撃破
Asenは、1185年の反乱開始直後にも、すでにMiziya(北部ブル、元ローマ時代の下モエシア州)地方でかなり広大な領地を獲得し、第1次ブル王国時代の領土の回復へと歩を進めた。これに続く毎年、AsenとPetqrの兄弟は、Isaak II Angel皇帝の起こした懲罰的遠征軍を3回も撃退することに成功した。特に、1190年、イサーク皇帝自らが引いた軍勢をTryavna町*付近のバルカン山脈の抜け道で撃破したことは、Ivan Asen王の偉大な軍事的勝利、成功として記憶されている。
(*注:Tryavna町は、Gabrovo県東部、VT市から南方約20kmに所在する。)
この敗戦の時、皇帝は何とか奇跡的に逃亡に成功したが、多くの兵士たちは戦死した。その上、皇帝の大テント、皇帝用のキリストの骨片が埋め込まれた十字架もブル側の戦時捕獲物となり、ブル国王の宝物庫に飾られることとなった。
(キ)聖人Ivan Rilskiの遺品を新首都の権威づけに利用
その後、Ivan Asen Iの南方、南西への遠征時に、王はIvan Rilski聖人*の遺品を確保し、この遺品をTqrnovoまで運び、これを社会的事件として祝うことで、ブル国家の継続性と国民的理想の堅持を象徴する事例とした。年代記作者によれば、この遺品を運ぶ行進には数百名のブルの高位の人々が付き添い、更には、新たに解放された領土が、再興された王権の笏(しゃく)の下に統一されたこと、ブル王国の統一を強調するような順路を選んで行進したという。
(*注:Ivan Rilskiとは、現在ブル正教会の副本山的存在である、Rila修道院を10世紀に開山した聖人、隠者のこと。下記13.参照。)
(ク)サロニカに向け遠征時、セレ付近でビザンツ軍を撃破したが、暗殺の刃に倒れた
1196年、Ivan Asen Iは、Struma川(注:現在、ブル南西部Blagoevgrad県西部を南北に流れる川、この川に沿って南下するとギリシャ北部へと進む)に沿って、南方への遠征に向け進発した。Serres(現在は、サロニカ北方のギリシャの町)の町付近で、ビザンツ皇帝の娘婿で太守(Sevastokrator)のイサーク(Isaak)が率いるビザンツ軍と遭遇した。この戦争は、ブル軍の大勝利に終わり、イサーク自身が捕虜となった。
とはいえ、Asen王は、戦争において敗戦を知らない軍事の天才だったが、思わぬところに隠し玉があった。第2次王朝時代最初の、陰謀による暗殺が、この類(たぐい)稀(まれ)な軍事的天才、英雄の命を奪ったのだ。陰謀の首謀者は、ブル貴族(bolyarin)のIvankoだった。
約200年にわたり、ビザンツの支配下にあったブルを解放し、第2次ブル王国を建国した功績は、PetqrとAsenの兄弟に帰する・・・彼らこそが、第2次ブル王朝の創建者であり、最初の君主たちだ。
特に、Ivan Asen Iには、Tqrnovo市を首都に定め、国家の基盤を築いたこと、ブル国王の権威を再興したことにおいて、多大の功績を認めるべきであろう。
Petqrが兄で、Ivanが弟ですが、どうしても人気、評判の面では弟が先のようです。もっとも、両名は、どちらかが形式的に「国王」となっていても、実質的には常に「共同統治者」であったし、弟のIvanにこそ、軍事的才能があったようです。どういう訳か、騎馬民族社会では、また、古いロシアの民話などでも、弟、或は特に第3子が一番の英雄である事例が多いようです。ブルでも、「シメオン大王」はボリス1世王の第3子でした。アスパルーフ汗もクブラート汗の第3子でした。この百選でも、Asen王家の3番目の弟Kaloyan王については、15番目に別個の項目で登場します。
子供をたくさん持った家族で、両親が一番かわいがるのも、実は第3子辺りではないでしょうか。ここに、人類の家族史から見ても、不思議な因縁があるように感じます。
Asen家では、第3子が活躍する前に、第1子のPetqr、第2子のIvanが、共に活躍したことは、むしろ普通の民話ではありえない、嫌われ者で意地悪な兄たち2名が、それなりに大いに活躍して、第2次ブル王朝の創始者たちとなった、という意味で、例外的なお話、という風にも思えます。例外があってこそ、歴史は面白い!
12.Asen王家兄弟王=ブルガリア第2次王国の創建者:イヴァン・アセン1世王(?—1196年)、ペータル2世王(?--1197年)
ビザンツ皇帝Inokentiy 3世の書簡:「・・・二人の兄弟は、以前のブル王家出身*で、その軍事的行動を、領土を簒奪するという意図で始めたというよりは、むしろ自分たちの父親たちの土地を奪還するために闘い始めたのだ」。
(*注:Asen王家が、本当にブル第1王朝の王家と血筋が繋がっていたかと言うと、それは怪しい。ブル北部地方の貴族の家系と言われる。とはいえ、ブル国内向けには、このように主張した方が支持を得やすかったと思われる。)
(注:ブル第2王国時代については、 http://79909040.at.webry.info/201012/article_4.htmlを参照。)
第2次ブルガリア王国としてブル国家を再興し、この国家を最大規模にまで上昇せしめたのは、Asen王家(Asenevtsi王家)の始祖である兄弟・・・AsenとPetqrだった。
(1)ペータル2世王(統治期間:1185--90年、1196--97年)
(ア)ビザンツから独立
ブル国家再興運動を率いた3名の兄弟の内、最年長者はPetqrと言うが、洗礼名ではTeodorだった(この故に、Teodor Petqrとも呼ばれる)。1185年に、ビザンツの統治に対する反乱を率いた後、Teodorは再興されたブル国の王位(tsar)に戴冠され(Tqrnovo市所在のSt. Dimitqr教会で)、王名としてPetqr 2世と命名された。この名前でビザンツ、及び西欧の年代記に記録されている(西欧の年代記には、Kalopetqrとの名前も存在する)。
Petqr 2世*の名前を採用したことで、この兄弟が、第1次王国との継承関係を明白に(看板に)しようと意図したことが分る。ビザンツの年代記作者Teodor Skutariotもこの点をすぐに理解したようで、「ペータルは、『ブルガリア人たちの王(tsar)』と自称して、即位後すぐに第1王朝の首都であったPreslavへと向かった」と記している。
(*注:シメオン大王の後継者だった第1次王朝のPetqr 1世は、927--969年と統治期間は長かったが、ブル国の衰退期の国王だった。この辺の第1王国のブルに関しては、http://79909040.at.webry.info/201012/article_2.htmlを参照。
ちなみに、ブルのHan、Knyaz、Tsarなどの君主名を列記した本:『Istoricheski spravochnik Bqlgarskite Hanove i tsare ot Kubrat do tsar Boris III(ブルガリアの汗、公、国王をクブラート汗からボリス3世王まで列挙した歴史事典)』によれば、Teodor Petqrの前に2名Petqr名を冠した王が居たので、Teodor Petqrは「4世」となっていて、この偉人百選の数え方(2世)とは異なるようだ。)
(イ)弟の方が輝いていた
兄弟の意図は、まさに、ブル王国の再興であり、単なる反乱、反旗ではなかった。少なくとも1190年までは、ペータルは再興されたブル王国の君主と見做されていた。とはいえ、政治面では、益々、ペの弟であるIvan Asenの姿の方が大きくなっていくのだった。
そして、1190年にはペは自ら、より優れた政治的才能を発揮する弟に指導的地位を譲り、自らは旧都Preslavに、「共同統治者」としての地位は保ちつつも、隠棲した(ペの統治期間:1185--90年、1190年首都もPreslavからTqrnovo市に遷都した。)。
ところが、1196年Asen王は、陰謀の餌食となって倒された(アの統治期間:1190--96年)ので、再度Petqrが、一定期間国家運営を担当することとなった(2度目のペの統治期間:1196--1197年)。
もっとも、Petqr単独の2度目の政権は極めて短期間に終わり、その後、ビザンツの年代記記録者Nikita Honiat、及びTeodor Skutariotの、さほど明白ではない記述から推測するに、ペ王は、自らの統治面での「補佐官兼共同統治者」として、兄弟3番目の弟Kaloyan(統治期間:1197--1207年)を採用したという。
ところがこの共同統治体制を採用したすぐ後に、またもや陰謀があり、今度はペ自身が、側近の刀で刺されて死亡した(1197年)、という。要するに、Asen王家は、当初の間、なかなか一人の国王を君主・統治者として権威を確立できず、陰謀に次ぐ陰謀で、政権も安定しなかったということらしい。
(2)イヴァン・アセン1世王(統治期間:1190--96年)
(ア)弟が独立戦争でも大活躍とビザンツの年代記作家たちも称賛
アセン(正式名はIvan Asen Belgun)は、3人兄弟の2番目で、ビザンツ支配に反乱を起こしたブルガリア人たちの先頭に立った指導者の一人であり、かつ、第2次ブル王朝の礎を築き、この王朝で一番輝く活躍をした人物で、次のように年代記にある:「Ivan Asen Belgunは、国民をギリシャの支配から解放した、永遠に記憶されるべし・・・」。
Asenの出自に関しては、Paraistrionテーマ(注:temaとはビザンツの軍管区兼行政区、P軍管区は、バルカン山脈山中の城砦、山間の抜け道などを含む北部ブル地域を管轄地としていた)に根を張っていたブル系の貴族に所属すると言われている。そして、彼らは表面的にしかビザンツ皇帝の支配権を認めていなかったと言われる。
(イ)家畜税という悪税をチャンスととらえて、反旗を翻した
最初にAsenに関する情報を記録していたのはNikita Honiatで、それによれば、Ivan AsenとTeodor Petqrの兄弟は、1185年秋、ビザンツ皇帝Isaak II Angel(統治期間:1185--1195年)の前に進み出て、土地の所有権の確認と行政上の官位を要求したという。
もちろん、このような要求を持ち出し、裏ではブルでの反乱まで用意していた理由は、当時ビザンツ帝国は、ノルマンの侵攻、皇帝自らの婚儀費用を賄うため、ブル各地に家畜税という「特別税」を課す(1185年夏)など、政情が不安定化していて、反乱を起こす環境が整っていたのだ。皇帝は、しかし、兄弟の要求を断固却下したらしい。
(ウ)騎馬民族のクマニ族と同盟し、戦力を強化
1185--86年、PetqrとAsen兄弟は、反乱を開始したが、その際Asenは、当時バルカン半島に進出していたチュルク系言語を話す騎馬民族のクマニ(Kumani)族と同盟した(1186年)という。特に軍事面でこの騎馬民族との提携を確保したAsenには、その後のクマニ族のブルガリア人との融合、クマニ・エスニック集団のブル人への統合という功績がある。
【小生注:Kumani族とは、中央アジアにいた印欧系種族が、周囲のチュルク系言語を受容したものの、金髪、青目、高い背丈、などの白人的要素をキープしたまま、11世紀半ばには、南ロシアのステップ地帯で主要勢力となり、11--14世紀頃に黒海北岸地帯にまで進出した集団。Kqpchak族、Polovets族、Kuni族(ハンガリーでの呼称)とも呼ばれている。1078年、ク族はバルカン半島に入り、ビザンツ帝国に雇われて、同じ騎馬民族のペチェネーグ族を追い払った(1091年)。しかし、その後はビザンツ帝国に何度も襲い掛かった(1094--1159年の期間に5回も)。
なお、Asen王家3男のKaloyan王(統治期間:1197--1207年)はクマニ族の姫君Ana-Anisiyaと結婚したという。
13世紀前半、モンゴル帝国が南ロシアのステップ地帯からクマニ族を追い払ったので、ブルの地まで逃げ込んだクマニ族貴族たちが、ブル系貴族(bolyari)と結婚して、クマニ系のブル貴族(bolyari)家系も多く生まれたという。クマニの集落とか風俗などはその後も、ルーマニア(トランシルバニア、ワラキア)、ブルガリア、マケドニア、ギリシャ、ハンガリーなどにも残っているという。
そういえば、ブル人の小生の知ったある人物の姓はTsingilevと言い、大学教師が、祖先はクマニ系のはずだ、と言っていた。小生には、この姓はジンギス・カーンとの関連から、むしろキプチャック・汗国とか、モンゴル族との関連がありそうにも感じるのだが・・・?】
また、Asenが同化したKumani族は、その後も第2次ブル王国の中で重要な軍事的役割を果たしていくので、その意味でもAsenの功績は大きいと言えるし、ビザンツの年代記作者も次のように称賛した:「兄弟の一人Asenは、異例の賢明さ、才能を保有した人物で、困難の中でも必ず幸運な選択、解決策を見出した」。
(エ)タルノヴォを第2次ブル王国の首都に定めた
Ivan Asen Iは、1190年に正式に国王として宣布されたが、それまでの期間も、Petqr王とともに、共同統治者、軍総司令官として、国家の指導者であった。同じ年、ブル第2次国家の首都はTqrnovoの町に移転された。
(注:Preslav町は、現在のShumen県に所在し、新首都のTqrnovoは、現在はVeliko Tqrnovo市と呼ばれ、VT県の県都であり、Preslav町からは西に100㎞ほど行ったブル中部の町だ。Preslav、VT両市ともに、バルカン山脈北側のドナウ台地に所在するが、VT市は、Yantra川の川岸が深くえぐられた丘の上に聳える感じで、勾配のある街並みでもあり、古都としての美しさは比べ物にならない。Preslavの場合は、単に平野の中の畑の中に遺跡が残っているだけで、Tqrnovoのような、山と丘と川岸という絶妙のコントラスト美は期待できない。VT市は、琴欧洲関の故郷でもあるが、その風光明媚さと古都としての趣も加わり、今もブル観光地の一つとして外国人にも好まれている。)
(オ)弟の方が偉大で、Asen王家としてその名前が尊ばれた
明らかに、全ての再興されたブルガリア国家における変容は、このAsenとPetqrの兄弟が統治した時代に端緒を見出すことができ、その中でもAsenが偉大な功績を遺した。ゆえに、Asenの名前が尊ばれ、これ以降第2王朝期には、ブル君主の多くがAsenの名前を含む王名を保有していた(系図によると、Ivan Asen II(統治期間:1218--41年)、Mihail II Asen(1248--56年)、Konstantin Asen(1257--77年)、Ivan Asen III(1279年)がAsenの名前を冠している。)。
(カ)トゥリャーヴナの峠道でビザンツ皇帝軍を撃破
Asenは、1185年の反乱開始直後にも、すでにMiziya(北部ブル、元ローマ時代の下モエシア州)地方でかなり広大な領地を獲得し、第1次ブル王国時代の領土の回復へと歩を進めた。これに続く毎年、AsenとPetqrの兄弟は、Isaak II Angel皇帝の起こした懲罰的遠征軍を3回も撃退することに成功した。特に、1190年、イサーク皇帝自らが引いた軍勢をTryavna町*付近のバルカン山脈の抜け道で撃破したことは、Ivan Asen王の偉大な軍事的勝利、成功として記憶されている。
(*注:Tryavna町は、Gabrovo県東部、VT市から南方約20kmに所在する。)
この敗戦の時、皇帝は何とか奇跡的に逃亡に成功したが、多くの兵士たちは戦死した。その上、皇帝の大テント、皇帝用のキリストの骨片が埋め込まれた十字架もブル側の戦時捕獲物となり、ブル国王の宝物庫に飾られることとなった。
(キ)聖人Ivan Rilskiの遺品を新首都の権威づけに利用
その後、Ivan Asen Iの南方、南西への遠征時に、王はIvan Rilski聖人*の遺品を確保し、この遺品をTqrnovoまで運び、これを社会的事件として祝うことで、ブル国家の継続性と国民的理想の堅持を象徴する事例とした。年代記作者によれば、この遺品を運ぶ行進には数百名のブルの高位の人々が付き添い、更には、新たに解放された領土が、再興された王権の笏(しゃく)の下に統一されたこと、ブル王国の統一を強調するような順路を選んで行進したという。
(*注:Ivan Rilskiとは、現在ブル正教会の副本山的存在である、Rila修道院を10世紀に開山した聖人、隠者のこと。下記13.参照。)
(ク)サロニカに向け遠征時、セレ付近でビザンツ軍を撃破したが、暗殺の刃に倒れた
1196年、Ivan Asen Iは、Struma川(注:現在、ブル南西部Blagoevgrad県西部を南北に流れる川、この川に沿って南下するとギリシャ北部へと進む)に沿って、南方への遠征に向け進発した。Serres(現在は、サロニカ北方のギリシャの町)の町付近で、ビザンツ皇帝の娘婿で太守(Sevastokrator)のイサーク(Isaak)が率いるビザンツ軍と遭遇した。この戦争は、ブル軍の大勝利に終わり、イサーク自身が捕虜となった。
とはいえ、Asen王は、戦争において敗戦を知らない軍事の天才だったが、思わぬところに隠し玉があった。第2次王朝時代最初の、陰謀による暗殺が、この類(たぐい)稀(まれ)な軍事的天才、英雄の命を奪ったのだ。陰謀の首謀者は、ブル貴族(bolyarin)のIvankoだった。
約200年にわたり、ビザンツの支配下にあったブルを解放し、第2次ブル王国を建国した功績は、PetqrとAsenの兄弟に帰する・・・彼らこそが、第2次ブル王朝の創建者であり、最初の君主たちだ。
特に、Ivan Asen Iには、Tqrnovo市を首都に定め、国家の基盤を築いたこと、ブル国王の権威を再興したことにおいて、多大の功績を認めるべきであろう。
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