ブルガリア史の偉人100選:クルム・ハーン

  22番目の偉人は、まだブル国の王たちが遊牧民風のハーンという呼び名で呼ばれていた、ブルガール族君主の統治時代に、ブル第1次王国の中央集権体制、行政機構、法律などを整備し(もちろん、未だに初歩的段階で、例えば、対ビザンツ戦でクルムが率いた軍隊にはスラヴ諸族首領が率いる部隊、アヴァール族部隊などもあった。軍隊レベルでは未だに部族連合的要素が根強かった。)、従来の遊牧民系の「部族連合政権(連邦制体制)」から脱却し、ビザンツ帝国と対等にわたり合える国家機構の建設を成し遂げたクルム・ハーンです。

22.クルム・ハーン=中世のブル国家機構を完成(?--814年、統治期間:802--814年)
  クルム汗は、ブル第1次王国・王朝の創建者たちであり、偉大な君主たちの一人である。このKrum系統の王朝はその後、Roman王(977—991年)の死亡した991年頃まで、更に約200年ほども続いた。クルム汗の功績は、ブルガール族内の諸部族としての部族主義に歯止めをかけ、中央集権的な政権を樹立したということ。
 (注:クルム汗については、http://79909040.at.webry.info/201012/article_1.htmlを参照。)

  部族主義を抑制しつつ、国家としての中央集権体制を築くという「接合剤的意識」が無ければ、また、この事業をクルムの後継者たちが発展、深化させなかったならば、ブルガール族の国家も、同じようにステップの土地に生まれ、西進してきた他の遊牧系諸国家(部族連合)と同じように、その後いつの間にか歴史のかなたに消え失せる運命をたどったであろう。

(1)出自は、パンノニア系ブルガール族
  後世(11世紀)に書かれたある情報によれば、Krumハーンは、例の「大ブルガリア国」(Kubratハーン(統治期間:632--663または668年)が創建したというブルガール族の国家。黒海北岸にあるアゾフ海の北岸から南東方向のカスピ海にかけて広大な領域がブルガール族に帰属したという。)が崩壊後、西進してPanoniya(現在のハンガリー)に根を張ったパンノニア系ブルガール族(panonskite prabqlgari)の出身だったという。彼らパンノニア系ブルガール族は、長い間アヴァール族の傘下にあったという。その後、彼らはドナウ川の南に居を移した。彼らの中の一人の子孫が、8世紀末には、幾つもの内戦を経て、9世紀初頭には、ブル君主(ハーン)の座を獲得したという。Krumが開いた王朝は、第1次ブル王国期の主要繁栄期を築いた。

  (注:『ブルの汗と王たち』(著者はYordan AndreevとAndrey Pantev(両名とも教授の肩書)、04年VT市のAbagar社発行)によると、別の解釈が存在するという。①「Krumは、Panoniyaからマケドニア地方に7世紀頃に移住したKuber家のブルガール族に所属したようだ」、故に②「Krumは、Asparuh汗の兄弟Kuberの直系の子孫であった可能性が高い。すなわち、Krumの血管には、著名なDulo族の血液が流れていたはずだ」と言う。
  つまり、同人の戴冠は、③「過ぎ去った過去100年の血統の伝統を引き継いだものだ」と言う。「そうでなければ、Pliskaで政権の座に就くことが、そう容易ではなかったはずだ」とも言う。
  ④また、この故に、Krumハーンは、早い時期から「マケドニア方向を攻撃の対象に選んだ。マケ地方に残っているブルガール族を再吸収するために」とも説明する。そして、この故に、⑤「Krum汗は、これまで考えられていたような、新王朝の創建者ではない」とも解釈する
。)

(2)内政面での功績:地方分権・部族主義を抑圧、中央集権体制を確立
  クルム治世時代の戦績とか、国家の地方行政構造などに関しては、いわゆるHambarli碑文Hambarli=現在のYambol県Elhovo郡Malomirovo村、で発見され、後にVarnaの博物館に移転された古代ギリシャ語で書かれた碑文)の情報でかなり分るが、更には、トラキア地方では、幾つかの行政単位(県)が創設され、クルムが県令を任命したことが分っている。

  つまり、初期には、部族連合としての国家であったところに、中央集権国家として、地域単位の行政組織を設けて、これの担当者を中央の政権側が任命し、これに権限を与える、という形式をとることは、統一国家として最重要な手法だ。

  クルムが出現するまでは、実は、スラヴ諸族、ブルガール諸族が、それぞれの部族としてそれぞれに固有の領地を保有しており、いわば連邦国家のような形態で国家が形成されていた。個々の部族国家の上に、連邦国家が乗っかっていたのを、クルム・ハーンは、このような国家の二重構造を廃止して、中央政府を唯一の軍事センターに引き上げるべきだ、という概念を思いついたのだ。この地域単位(県)ごとに行政組織を設け、その長を君主が任命する(県の県令は直接中央に服属する)、という制度は、まず新たに征服した地域から適用されていった。そして、その後は、この行政単位ごとの中央直属制度は、全国的に施行・強制されていった。この意味でのクルムの功績は大であり、議論の余地がない。

(3)外交・軍事戦略面での基本方針を樹立:南西方向を攻めよ
  次いで、クルムは外交戦略面でも功績を挙げた。より長期的視点からの外交戦略の基本方針を樹立したのだ。すなわち、主としてマケドニア地方在住のスラヴ系諸部族を併合しつつ、同時に、この若いブル国家の生存を維持するという基本方針。既に807年から、クルムは、軍事作戦の方向を、ブルガリア国家の拡大方向を、西方・南西のマケドニア地方在住のスラヴ諸族の土地に向けて発進した。809年には、クルムの軍隊は、Serdicaの強力な城壁を包囲していた。Serdica攻略後は、Struma川、Mesta川の渓谷沿いに軍を南下させることができるから。
   (注:Serdica=現在のソフィアは、ローマ時代の地理概念では、トラキア地方の一部として考えられていたが、確かに、ソフィア市から南、或は西南に進めばマケドニア地方になる。)

  後の世の知恵とか知識に鑑み、常識に照らせば、クルムがSerdica攻略という戦略を立てたことは、バルカン山脈の南側を侵略していくためには、この地が要(かなめ)となる土地だということから当然のようにも見える。しかし、この当時、どこを攻めるか、どこを目指すか、を決めるのは君主の直観的な理解力に基づいていたのであり、やはり君主としての知恵、才能と呼んでよいだろう。要するに、Serdica攻略と言うのは、国家の将来の発展と言う見地から見ても、実に優れた判断だったのだ。

(4)ビザンツ帝国軍を撃退せよ
  次のクルムの功績は、初期のブル国家をビザンツ軍の攻撃から防護しぬいたということ。ビザンツ皇帝ニケフォロス1世は、811年夏、大軍を進撃させてブルガリア王国の絶滅を図ったのだ。ブルの首都Pliskaを占領し(7月20日)、焼き払った(7月23日)のち、皇帝が直接率いたビザンツ軍は、バルカン山脈の峠道Bqrbishki prohod(注:バルビシュキ峠。現在Shumen県南西部のBqrbitsa町から南下してBurgas県との県境越え辺りに所在する峠で標高870m程度)で、待ち構えたブル軍によって壊滅された(7月26日)。大軍の帰路を狭い峠道で待ち伏せする、というのは良くできた作戦と言える。ビザンツの年代記作家は、「全てのローマの力は潰(つい)えてしまった!」と嘆いた。もう一つの年代記では、「ニケフォロス1世自身がこの戦闘で戦死した*」と記録する。クルムは、811年7月26日、ビザンツ軍を壊滅して自らの王国の生存と将来を確保した。

   (*注:ブル側の情報源では、皇帝は捕虜となりクルムの前に連行されたという。クルムは処刑を命じ、皇帝の首は数日間晒しものとされたという。また、ニケフォロスの頭蓋骨は、クルムが銀箔で包み、酒杯としたとの伝説があるが、この本では、この有名な故事に触れていない。やはり、07年のEU加盟を控えて、野蛮な感じのする、遊牧民的な逸話は省いた、ということであろう。この本は03年の出版。
  とはいえ、この項の最初のページある挿画では、宴会の席にこの銀箔の頭蓋骨を部下が持参越している図が描かれており、ブル人が見たらどういう図か分る。外国人には分らないだろう。そもそも、この本はブル語で書かれているので、外国人が読むことは、あまり想定できないのだが
。)

  この戦勝の翌年(812年)、クルムはバルカン山脈を越えて南下し、黒海沿岸の港湾都市Messemvriya(メセンヴリヤ。現在のNesebqr=ネセーバル町、城壁に囲まれた小島)を攻略した。
  
  813年6月22日には、Adrianople(現在トルコ領のEdirne)北方の町Versinikia付近における戦闘で、新皇帝ミハイル1世(Mihail I Rangave)の軍隊を撃破し、首都コンスタンチノープルの城壁にまで迫った。そして、クルムは城壁の「黄金の門」に槍を打ち込み、自らの勝利の象徴としたほか、将来のブル君主たちの永遠の夢とした。
    (注:「テオドシウスの大城壁」に阻まれ、ブル軍のコンスタンチノープル攻略は適わなかったのだ。ちなみに、クルムの100年前にブルのTervelハーン(統治期間:700--721年)がコ城壁に迫った(712年)との前例もある。

  814年4月13日、コンスタンチノープル攻撃再開を準備していたクルムは、突然死亡した。
    (注:クルムの対ビザンツ戦勝により、従来のブル領土がバルカン山脈の北側の「ミジヤ地方」限定だったのが、この山脈を越えて南、基本的には、現在のBurgas県Sredets郡のDebelt村--現在のソフィア市(当時のSerdica)までの線内の「トラキア地方北部」が、ブル領としてほぼ確定され、この地方に幾つもの行政単位(県)が創設され、中央政権から県令たちが配置されたという。)

(5)文書としての法律を制定:二つのエスニック集団に平等に適用
  クルムの最後の功績は、ブル国家で初めて、書かれた法律を制定したことだ。国家指導者として、最初に法律を発布した人間には、人類の歴史は最高の賛辞を捧げる:バビロン王朝のハンムラビ王、ローマ帝国創始者のRomul、及びユダヤのモーゼだ。

  クルムが、ブル国家の歴史で初めて法律を立法したことは、本書で同人をブル第1次王国で最重要な人物とする一つの理由だ。法律こそは、国家に秩序をもたらし、混乱を無くすことができるし、臣民たちに対し将来を確保できるのだ。クルムの立法行為に関しては、ビザンツ帝国の10世紀頃の百科事典、いわゆるLexicon Svidasに転載されているが、かなり伝説的性格が認められる。
    (注:未だに、ブル文語は成立しておらず、クルムの法律は当時のギリシャ語で書かれていたはずだ。しかも「伝説的」と言うように、中身は詳しくは分っていないようだ。

  クルムの新法では、この法の下では、国家内の二つの主要民族(ethnic group)であるブルガール族、スラヴ族を平等に扱うこと、所有権を擁護すること、などが規定されている。
  国家形成という視点からは、クルムは、部族制社会を克服し、単一の行政的組織を樹立した。個々の地域におけるスラヴ族首領たちの地方権力を撤廃し、中央政権の支配下に置いた。すなわち、スラヴ系住民たちも、単一のブル国家の国境内に、本当に統合化した、ということだ。

   【小生注:クルムに関しても、別の情報源からも少し引用しておきたい。『Koy Koy e v Srednovekovna Bqlgariya(ブル中世期の人物百科事典)』(著者はYordan Andreev、Ivan Lazarov、Plamen Pavlovの3名で、ソフィア市の「Petqr Beron」社から1999年に改訂版第2版として発行されたもの)。

(1)旧宗主国Avar帝国の東部を飲み込んだ
  802年にブル国のハーンと宣言されたのち、Krumの最初の心配事は、北西方向に所在するかつての強国アヴァール帝国をどうするかということ。ア国はフランク王国の攻撃を受けて崩壊しつつあった。この情勢を奇貨として、クルムはアヴァールを攻め、ア国の東部領域を飲み込み、ブル領とした。

(2)次いで、南西方向に攻撃の矛を進めた
  北西の脅威がなくなったので、クはビザンツ帝国に対し目を向け、807年からは、その後の歴史でもブルガリアの伝統的な攻撃方向である南西方向、すなわちマケドニア地方へと駒を進めた。Struma渓谷を攻め、多くの戦利品をせしめて引き揚げた。

  2年後の809年には、Krumは自らの軍隊をSerdica城壁へと進めた。守備兵たちとの交渉では、クは甘い条件(城を明け渡せば、将兵たちの生命は保証する)を出したが、いったん城門が開かれると、約束を反故にしてビザンツ兵全員を殺害した:6000名。Serdicaの城壁を完全破壊して、首都Pliskaに引き揚げた(809年春)。】

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