ブルガリア史の偉人100選:ゴーツェ・デルチェフ

  24番目の偉人は、現在ギリシャ領となっているブル人町Kukush生まれの英雄ゴーツェ・デルチェフです。本人自身は「ブル人」と意識し、マケドニア地方を最終的にはブル国と併合することを夢見て、組織作りに奮闘した人物なのですが、歴史の皮肉と言うか、今では「マケドニア共和国でも、マケ人の英雄扱い」されているようです。
  このような歴史の歪曲は、最近の我が国にとっても無縁ではない話で、この意味でも、ゴーツェ・デルチェフは興味深い素材と言える。

24.ゴーツェ・デルチェフ=マケドニア地方の「解放」を志した闘士(1872--1903年)
  Peyo Yavorov(デの伝記作者)の言葉:「一度でも彼を見た者は、二度と彼のことを忘れられなかった」。

(1)Kukush(Kilkis)生まれのブル人
  ゴーツェ(Gotse、下記の本名にあるようにGeorgiが正しいが、これを崩した愛称のGotseの方が有名だ)・デルチェフは、ブル人の(オスマン帝国からの解放を目指した)マケドニア、及びOdrin近辺のトラキア地方での民族解放運動で、最重要な人物だ。ブルガリアの大義に対する同人の功績故に、もちろん同人は、百選の一人にはいるべき人物なのだ。デが、早死に(1903年、31歳)しなければ、解放運動があれほど分裂してしまい、兄弟同士の殺し合い*が始まる、という悲劇は起こらなかったかもしれないし、ブル人のマケドニアにおける運命は違った展開をしたかもしれない。

   (*注:現代の日本人でIMRO(イムロ、英語)の名称を知っている人は稀なはずだ。ブル語では、VMRO(ヴェメレオ)と呼ばれたこの解放運動組織は、元来はマケドニア地方をオスマン・トルコ帝国から解放し、ブル国と合併させて、ブル人の統合・一体化を図ろうという運動のことだ。
  しかし、この運動は、時期尚早な蜂起がトルコ軍により壊滅されたのち、更にはデのような大物指導者が死滅した後は、小粒な指導者たちが乱立し、組織も色々な派閥に分裂してしまった。

  そして、やがては、各小組織としてのIMRO分派ごとの資金取得競争、自己組織の拡大を狙っての対立組織指導者らに対する暗殺実行、などが頻発して、結局は単なるテロ組織、銀行強盗、暗殺請負マフィア、ヤクザ組織(勝手に住民らから徴税)とすら区別がつかないありさまに劣化した。要するに、IMROは北アイルランドのテロ組織と化した、一時のIRAと同じような劣化の経路をたどったのだ。
  イメージが悪化して、テロ組織に劣化した上、国際関係悪化の元凶ともなる(マケ地域で頻繁に武装蜂起を策動)ので、Stamboliyski首相、Boris IIIなどの国内治安対策でも、VMRO弾圧は、普通の日常的な政策となったほどだ
。)

  本名Georgi Nikolov Delchevは、1872年1月23日Kukush町(現在ギリシャ領北部のKilkis町、テッサロニキ市から北へ30kmほど。ほぼ完全なブル人の町だった)生まれ。父親はNikola Delchev、母親はSultana。Salonikaのブル高校*を卒業後、1891年(19歳)ソフィア市の士官学校に入学したが、卒業せず。
   (*注:当時は、サロニカ市にも、完全なブル語高校が存在したのだ。この高校時代にデは、ブル民族解放運動の英雄たちG.S.Rakovski、V.Levski、H.Botev、L.Karavelovなどについて学び、更にはIv.Vazov、Z.Stoyanovらの著書を読み漁ったという。)

(2)マケドニアに戻る
  ソフィアの士官学校を中退(在学中に、当時流行っていた社会主義系の書物を読んだので、士官として任官を許されなかったという)後、マケドニア地方のShtip町(現在のマケドニア共和国東部の町)にて教師となり(1894年)、同時に民族解放運動闘士となった。

  1895年のイースター休暇の時期、デは、初めてのマケドニア地方巡回の旅に出て、Veles*、Solun(サロニカ)、Kukushを訪問した(*注:Velesは、Shtipから約30kmほど西にある町。)。どこに行っても解放運動家たちと連絡を取り、組織委員会を現地に創設した。

  内部マケドニア・オドリン革命組織(VMORO、注:Odorin地方を除くVMRO(ヴェメレオ、英語はIMRO)という略語の方が有名。当初は、Odrin地方の解放も運動の目標に入っていた。この意味からも、この運動が実はブル人としての運動で、マケ人としての運動ではなかったことが明白だ。)の創設者の間では、デのみが、組織活動の技術的訓練を有し、また、チェトニック*指導者として、そのための体力も、情熱も保有していたことが明白だ。
   (*注:チェタ(cheta)と言うのが、解放運動時の「革命部隊」の呼び名で、これらチェタ参加者たちをチェトニックと呼ぶ。今の言葉で言えば、「革命戦士、ゲリラ戦士」とでも呼ぶべきか。)

  そして、この故に、デは、最初のチェタ運動の宣伝家、扇動屋として、チェトニックたち、宣伝屋たちを教育していった。マケドニア地方で、内部革命委員会の中核組織を築きつつ、ブル民族解放と祖国である「ブル王国」との併合を目指して活動したので、デはヴァシール・レーフスキの直接の後継者と呼ぶべきであろう。

(3)まずは、ブル人主導の自治領としての地位獲得を目指した
  デとその他の活動家たちは、かつてのBRTsK(ブル革命中央委員会)のイデオロギーと作戦手法を真似て二つの基本文書を採択した:①ブル・マケドニア・オドリン委員会の綱領、②ブル・マケドニア・オドリン委員会の規則。(注:1896年のSolun大会でこれらの策定を決定した。)

  この文書で、マケドニアにおける解放運動の主要なコンセプトが書かれていた。目標は、まず、ブルガリア的要素を含む自治領としての地位(東ルーメリアがこの想定の根拠)を獲得すること。このような目標としたわけは、すぐに、マケドニアをブル王国と併合するという方向では、列強、バルカン半島諸隣国、及びトルコからの抵抗が強すぎる、という国際情勢理解を優先したから。デが強調したところでは、この組織の最重要な課題は、ブル総主教代理座の精神的指導下にあるブル人達(当時、マケドニア、及びオドリン(トルコ語:エディルネ)地方で、住民数で多数派を占めていた)を、この運動に誘引することであった。

(4)チェトニック制度の構想
  デの大きな功績としては、VMORO組織に付属するchetnik機関の創設と組織化がある。この機関は、実はマケドニアとオドリン地方のブル人が、一つの「ブルガリア疑似国家」臣民として行動すること、すなわち、cheti(複数、単数=cheta)組織が、その疑似国家領域内において、一種の「民兵組織」として機能すべきであった。(注:1897年、常設の「扇動チェティ」がデによって設置され、数年後にはこの機関が、強力な組織として成長したという。)

  チェティが、全ての公的側面(司法、教育、徴税、など)を統制する役割を果たすべきなのだった。こうすれば、ブル人たちは、公的な行政機構(オスマン・トルコの行政機関)との直接の接触を免れ、いつの間にか、ブル人共同体の中において権威と組織を確立し、その指揮系統も確立できるというのだ。とはいえ、そのようなことが実現したら、の話ではあったが。
  1897年、デは、Gyorche Petrovを伴って、ソフィア市に行き、そこでVMORO組織の国境外代理人としての機能を開始した(1901年秋まで)。

(5)各地の委員会組織の状況を視察
  デは何度も、マケ、及びオドリン地方の各地を「監査巡察」している。小さなchetaを率いて現地に行き、各地の委員会網にカツを入れる(引き締める)ためだ。

  1897年夏には、次を巡回した:Kochani(現在のマケ北東部)、Shtip(Kochani町南西約30km)、Radovish(Shtip南東約30km)、Strumitsa(Radovishから更に南東約20km)。
  1990年初頭:Odrin(現在トルコ領Edirne、ブル南部のHaskovo県の国境の町Svilengrad町から約30kmほど東方)、Petrich(現在はブル領Blagoevgrad県南西部の町)、Strumitsa(上記)。
  1901年には:Ser(Syarとも言う。現在ギリシャ北部のSerres町)、Strumitsa(上記)、Bitola(現在マケ南西部の町)、Kostur(現在ギリシャ北部のKastoria)、Lerin(現在ギリシャ北部のFlorina町、北のBitolaと南のKastoriaのちょうど真ん中辺り、マケ国境に近い)、Voden(現在ギリシャ領北部のEdessa町、Kilkisよりは西に所在)。
  1902年春:デは、Plovdiv市に、Odrin地方のVMORO有力活動家らを招集した大会を開催し、活動家らの間の論争、矛盾点などにけりをつけて、組織を引き締めた。

(6)自らの信念、意図に反して、武装蜂起が決議された
  1903年1月2—4日には、サロニカにおけるVMORO大会で、かなり多くの反対者がいたものの、武装蜂起が決議された。デ自らは、攻撃的な活動の必要性を認めてはいたが、本件蜂起については、性急な行動だとして反対だった(中央委員たち、Dame(Damyan) Gruevらに説得を試みたが成功しなかった)。

  デによれば、蜂起と言うのは、遠い将来の、最終段階における予備的な行動で、そのようなリスクは軽々に冒すべきではないのだ:「敵に向けられた我々の銃は、最後まで銃弾が込められたままであるべきだ・・・。一つの国民を、意図的に創設された火災、殺戮を通じて、解放するのは、犯罪だ」。残念ながら、一番知恵のある意見が、何時も勝利するとは限らないのだ。

(7)デルチェフが戦死
  1903年5月4日(旧暦4月21日)、デルチェフは、現在ギリシャ領のSerres郡Banitsa村*でのトルコ軍との戦闘の中で戦死した。Hristo Silyanov(原注:マケ解放運動に関する優れた歴史書『Osvoboditelnite borbi na Makedoniya(マケにおける解放運動)』(1933年発行)の著者)が書いているように、この戦死の真実が、実はもしかしたら「裏切り」による殺害だったかもしれないのだが、その辺は今に至るも解明されていない。しかし、ほぼ確実なことは、トルコ軍側は、Banitsa村で蜂起部隊を包囲していた時、誰を包囲しているのかに関し、事前に情報を得ていたに違いない、ということ。なぜなら、包囲部隊を率いていたのは、かつてのソフィア市軍学校における同級生のTefikovだったのだ。村の誰が裏切って情報を売ったか、など、色々の噂もあるが、確定的ではない。
    (*注:Banitsaというのは、セルビア語、現代マケ語ではBurekと呼ばれ、トルコではボレック、ボレイなどと呼ばれる一種の菓子パンの名称。ブル語のバーニツァが村名として使われていたことからも、セレ郡における主要住民がブル人だったことは明白だ。)

(8)功績、評価
  デの功績は、VMORO組織のイデオロギー指導者、エンジン役としての役割にある。この組織を巨大化したし、組織の原則、規則、綱領などの類の作成に才能を発揮した。特に、指導的機関としての「チェトニック制度」を創設した功績は大だ。

  デが、多くのVMORO活動家の中でも「傑出した存在」であるとの位置づけは、ほぼ確定している。例えば、Dame Gruevは、秘密革命組織の創設に功績があるし、Yane Sandanskiは、マケドニアの山中を、より長期間にわたって巡回したし、Vanche Mihaylovには、組織そのものよりも長寿を全うしたという、若干疑問の余地がある幸運があった。しかし、デのみが、真実伝説的な、理想的な地位に崇(あが)められている。
  いつか、Anton Strashimirovが次のように述べたという:「もしDame Gruevが組織の「意志」であったとして、そしてPere Toshevがその「良心」だったとして、Gotse Delchevこそは、組織の偉大で、火のような「心臓」だった!」。

  その活動によって、デは、直接ブルの政治とか、国家の運命に対して影響を与えることは無かったが、ヴァシール・レーフスキと同様に、ブルの多くの世代に対して強い影響を与えたし、与え続ける象徴となった。この故に、デは、マケの活動家たちの間でも、一番上の地位(順位)が与えられてしかるべきなのだ。
   (注:共産党時代の1951年に、デの功績を称えて、オスマン時代以来トルコ語でNevrokopと呼ばれていたBlagoevgrad県南東部の町を、Gotse Delchevと改名した。
  この町の東隣にあるGqrmen村は、ローマ時代のトラヤヌス帝が、ダキア人に対する戦勝記念に建設した(2世紀初頭)、城壁で囲まれた古代都市Nicopolis ad Nestum(注:ad Mestumの方が本来は正しい呼び名)だという。このローマ都市は6--7世紀のスラヴ族の侵攻で破壊され、廃墟化したという。現在城壁の一部が発掘された
。)

  
   【小生注:
(1)当時は、マケ人意識など存在せず
  ゴーツェ・デルチェフが、隣国マケドニア共和国の教科書では、マケ人の、マケドニア解放のための闘士、と言う扱いであることは、改めて認識しておくべきことであろう。とはいえ、これはマケ共和国が、第二次大戦後に、チトーの意図で歪曲された歴史を教えたためであり、20世紀初めの頃、マケドニア地方にいたのは、ブル人としての意識で、ブル国家への併合を最終目的として、オスマン帝国に対し、何とか「ブル人たちの解放」を勝ち取りたい、更には、列強にも、隣国のセルビア、ギリシャにも、その最終的な民族の意志を了解させたいと思って活動していたのが、いわゆるVMRO(IMRO)の戦士たちなのだ。この組織が、元来はVMOROというOdrin地方の「解放」(最終目的は、同じく、Edirne地方のブルへの併合)を目的として、あわせもっていたことも、忘れてはならない。現に、上記の通り、デ自身Odrinにも出張しているし、Plovdiv市(ブル人の意識では、トラキア地方全体の首都)の大会では、Odrin地方(東部トラキア地方に所在)組織を固めるために、頑張って内部の論争にけりを付けたのだ。

  つまり、マケドニア人という民族アイデンティティーなどは、当時のマケドニア地方のスラヴ系住民の間にはゼロだったし、アレクサンダー大王を自分たちの祖先などと主張して、ギリシャ人をイラつかせるような歴史歪曲も不必要だった。

  後の時代の都合に合わせて、歴史を曲解することは、韓国、中国も平気で行うことだが、我々日本人としては、こういう姑息なやり方には同意できない。デは、Kukushと言う名前の町で、現在はギリシャ北部の町Kilkis(当時はオスマン領)に生まれたが、当時この町の住民の大部分はブル人だったし、デもブル人と自らのアイデンティティーを主張し、究極の理想としては、何とか、全てのマケドニア地方(現在は大部分が、マケ共和国とギリシャの領土に含まれている)とオドリン地域のトラキア地方もブルの領土に併合するために戦ったのだ。

(2)Kukush(Kilkis)町での体験
  実は、小生自身、1972年の冬頃、Kukushの町に行き、そこの住民たちとはブル語での会話が十分成り立つことを確認済みだ。完璧に、ブル語をしゃべっていたのだ!もちろん、彼らは、子供の頃から学校ではギリシャ語教育を受けていたのだが、家庭での会話は、ブル語だったのだ。また、1994年夏(6--8月)に3か月間マケ共和国に滞在し、ブル語と異なる基本単語30語ほどをマスターすれば、マケ語もほぼ簡単に理解できることを発見した。セルビア語用のキリル文字(ブル語では使わない幾つかのアルファベットがある)を使うので、少し正書法が異なるとはいえ、マケ語の新聞記事も小生にとっては決して難しくは無かった。また、マケ民謡は、ほぼ100%ブル民謡と同じ音階、メロディーだった。このような言語を別言語と称し、文化も別の別人種、別民族と主張するのは、明らかな虚構であるが、それでもマケドニア人たちは、そういう歴史教育を受け、新しいアイデンティティーをユーゴ共産党により植え込まれた末、いまでもブル国と合体しようという意見は少ない。

(3)二重国籍が可能なので、ブル市民権も獲得するという「経済動機」が流行っている
  ただし、生活のためなら、何でもしようとする人々はおり、ブル政府が、スラヴ系のマケ国住民(ジプシー、ムスリムでない人々)ならば、もし申請するならば、ほぼ簡単な審査を経た後、ブル市民権を認め、旅券も発給する(モルドバ国、ウクライナ国の「ブル人村」出身者にも、おなじような「ブル系人」のために国籍を優先的に付与する政策があるので、この両国からブル国籍を取得する人々もいる。この制度は、セルビア東部の「ブル人村」住民などにも適用されうるはずだ。ブル系人としての証明ができるように、そういう村の教会、市役所での祖父、祖母、などの出生、洗礼記録などの文書のコピーを提示し、家系図などを書いて自らの出身血脈を証明すればよいだけ。)ので、ブル国籍も取得する(ブル国は二重国籍を許すので、マケ市民権を放棄する必要性はない)マケ市民は結構多数に上っている。2013年のみでも、EU諸国などへの移民労働がより容易だからという「経済動機」でブル国籍を取得したマケ人の人数は、4852名(約5000名)に上っている。

  最近の統計では、ブル国内の人口は724.5万人、他方で、外国に居住するブル人数は総計200万人、内8万名ほどが大学生(留学生)だという。】

この記事へのコメント

mugi
2014年08月15日 23:09
こんばんは。

 英雄ゴーツェ・デルチェフの名はこの記事で初めて知りました。彼の解放運動や組織づくりも興味深いものですが、自らの信念、意図に反した武装蜂起での戦死は惜しい。記事にある「残念ながら、一番知恵のある意見が、何時も勝利するとは限らないのだ」は考えさせられます。

 前に室長さんからユーゴ共産党がマケドニアに対し、歴史歪曲教育を施したことを教わりました。その結果、デルチェフがマケドニア共和国で、マケ人の英雄扱いとされているのは実に皮肉です。
2014年08月16日 09:17
こんにちは、
 ユーゴと言う国ではチトーは英雄だったし、小生の若かりし頃は、チトーはスターリンと喧嘩別れし、ソ連にたてつき、裏では英米の庇護を受けながら、そのくせ「非同盟主義」を主張し、第3世界諸国の盟主的地位に納まりました。ある意味ずる賢い男で、ソ連との対立を演出することで、英米、西側からの支持も確保し、自国の安全も確保しました。冷戦時には、英米としても、チトーのソ連に対する「裏切り」は都合がよかった。

 しかし、そのせいで、ユーゴの歴史歪曲=マケドニア人と言う新民族創出の神話も、いつの間にか英米に認知されてしまった。第二次大戦直後の英国、米国の外務省作成の資料では、「本当はマケ人など存在しないが、ユーゴ国内にブル人がいては都合が悪いので、マケ人という別民族をユーゴ連邦が創出した」と言う経緯なども正直に書いてあったという話を、小生もネットで見たことがある(ギリシャ人学者などがweb記事にしていた)。もちろん、これが、ブル人学者らがずっと主張してきたことだし、歴史の真実です。

  マケ人学者らは、Miladinovi兄弟の書物とか、デルチェフの手記などにも、マケ人への言及があると主張しているようですが、もちろん幕末の志士たちが長州人、薩摩人などと名乗っても、これは別に「日本人ではない」という意味ではなく、日本人の中の薩摩人(地域名+そこの住民の意味)という意味でしかない。彼ら自身が理想とし、戦った大義は、「ブルガリア民族」としての統合、ブル国への自分自身の故郷を含めてのマケドニア地方の合併でした。彼らが作った綱領、規約類はまさにこれを主張している。まさかバルカン戦争でセルビアとギリシャが9割のマケ地方を取って、ブルには1割のピリン・マケドニア地方しか残らない、などとは予想しなかった。

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