偉人百選:アンティム総主教代理(その二)

  ★Antim総主教代理の、その二です。

(4)総主教座からの分離、実質ブル正教会は独立系教会組織としての地位を確保した
  かくして、Antim Iの指導下、我が正教会は、独立系の組織として形成を承認され、この1872年の分離措置によって、総主教座に対する隷属性はこれ以降消滅した。また、代理座が賢明にオスマン政府と対応したので、徐々に代理座はブル人を統合し、かつ限定的とはいえ、ブル市民の利害を代弁できるようになっていった。

  【注:ブル教会独立の歴史:
(1)第1次王国期:ブルにおいては、第1位次王国時代に「ブル大主教座」の設置が870年に認められ、更には、880年頃からブル人僧侶によるブル語の儀礼、典礼が行われる自主・独立教会となった。この頃の大主教座は、首都Preslavに置かれていた。
(2)ビザンツ帝国のブル占領期:また、ビザンツ帝国占領期の1018--1185年の期間には、「ブル大主教座」はOhridに所在した。とはいえ、徐々にギリシャ人僧侶によって教区、教会は乗っ取られていった。
(3)第2次ブル王国期:Kaloyan王の巧妙な外交手腕により、まず「Tqrnovo大主教座」が承認され(1204年、ローマ法王が承認)、次いでIvan Asen II王が、またもや外交を通じて1235年にTqrnovoに「ブル総主教座」を獲得した。
(4)オスマン統治期:しかし、このTqrnovo総主教座は1353年のオスマン軍によるTqrnovo市占領で翌年に廃止され、以降はOhridに「ブル総主教座」が移転した。このOhrid総主教座も1767年に解散させられた。もっとも、Tqrnovo市などブルの主要部分はOhridの管轄ではなく、1353年以降は、基本的にはブル本国部分(東ブルガリア)はIstanbul所在の東方正教会総主教座の管轄下に入っていた。
(5)1872年にブル教会「代理座」として復活:19世紀に入ってようやく教会独立闘争が起き、1870年のスルタン勅令でようやく再独立が認められ、1872年にAntim総主教代理が選出されたのだ。
(6)共産党時代:また、ブル正教会が正式に「総主教座」の地位を回復したのは、実は共産党支配時代(1951年)のことである。とはいえ、教会は共産党に従属を強いられてしまった。ブル正教総主教座が、正式に宗教的な自治権、独立権を回復したのは1989年末に共産党政権が崩壊して以降のこととなる
。】


(5)代理座の試練
  1872年後半から1873年前半にかけては、新設のブル教会にとっては一番緊張する日々が続いた。総主教座側と、オスマン政府の統治者たちが、代理座に対し敵対的だったからだ。Antim Iと代理座は、この試練の中で、忍耐力と一貫性を発揮して、勝ち取った立場を堅持した。Antim総主教代理は、国際世論側からの圧力、オスマン政府、代理座活動家の間の急進派と穏健派、などの間を上手に泳ぎ、更には列強との意見調整などにも配慮した。
  特に代理座が苦労したことは、どの府主教区を代理座が管轄できるかという、管轄権が不明確な地域における総主教座との闘争だ。オスマン政府と交渉して、マケドニア地方などのブル人住民が多い地域に関し、代理座の教区としてスルタンの勅令による確定を取得するため、日々努力し、オスマン政府を突き上げ、また順次ブル人学校などの設置で実績を作り、管轄教区を広げていくしかなかったのだ。またAntimは、ユニエイト(カトリック系宗旨へと変更を図る帰一教会主義者)たちの運動にも対抗し、ブル人のオーソドックスとしての宗教心が動揺しないように訴えた。

(6)ブル人達の民族主義的潮流を庇護
  Antim代理は、伝統と教育・文化活動の成果を見極めつつ、全民族的な成熟化を志向した。代理座が推進した教育活動は、70年代において、ブル民族居住地としては「辺境的」部分とも言えるマケドニア地方、東部トラキアのオドリン地方などでは、ブル人としての民族性への自覚を高め、刺激する上で柱となったし、ある意味頂点に達したのだ。ブル語学校がどしどし創設されたし、学校ができたことで現地のブル人社会も強化されたし、更には代理座の理事会などが各地に設立されて、活発に活動することで、マケドニア、オドリン地方のブル人らは、明白にブル人としての民族的所属を主張するようにもなったのだ。

  この時の教育・文化活動の影響は、むしろその後、マケ地方、オドリン地方がオスマン領の中に取り残されてから明白となった:トルコ領として再確認され、帝都の総主教座からの管轄権が最強化されるに及んで、この両地方のブル人達は、代理座の旗の下、自らの宗教的、社会的生活を営む権利を主張して戦うようになったのだ。

(7)Antim代理の書簡が露皇帝を動かした
  Antim総主教代理は、ブル民族の権利を積極的に庇護した:高僧たちの抵抗を排除し、新しい僧侶を後任に任命した。また、1876年四月蜂起後に際しての虐殺に抗議した:露皇帝に書簡を送付し、ブル市民の虐殺を止めさせるため皇帝が干渉するよう要請したのだ。この書簡を読み終えた露皇帝は、この書簡本文に次のように自らの決定を記入した:「ブルガリアを解放すべきだ」。

(8)オスマン政府が退位を命じた
  Antim総主教代理は、自ら著作などを残さなかったが、信仰とブル民族のための活動と自己犠牲によって歴史書を自ら書いていたようなものだ。結局同人の政治的活動を危険視したオスマン政府が圧力を行使して、同人はその地位から追い払われた:1877年4月14日・・・同日、露大使館は帝都から引き払った・・・すでに露土戦争が開始されていたのだ。Antimは退位を命じられた後、Ankaraで軟禁されたが、露土戦争終結の講和条約(San Stefano条約)署名後、総恩赦が発令され(1878年3月)、解放された。

  解放後Antimは再度Vidin府主教に任命され、その地位に鑑み新生ブル公国の制憲会議議員にも任命された。
  結局は、Antim代理は、代理座を支持した大多数のブル人社会とともに、ブル愛国者たちとは別の手段を通じてではあるが、同じ方向で努力していたのだ。目標は、ブルの解放だった。

(9)総主教代理を退位後ではあるが、新生ブルで活躍
  解放後の新生ブル国家の基本法を制定するため、Tqrnovo市に招集された制憲会議(1879年2月)で、Antim Iは議長を務めた。この制憲会議の初回会合に際して、同人が述べた言葉は記憶に値する。ブル民族を分離・分割したことで、列強は大きな不公平を成したと明白に非難しているのだ:「Ramaの中に嗚咽の声が響いた。Rahilは、自らの子供たちが泣き止もうとしない、なぜなら「彼ら」が一緒にいないからだ・・・と文句を言った。泣き声は止めろ、涙も流すな、なぜならお前の仕事として今後復讐できるのだから」・・・このように預言者イエレミヤの言葉を引用することで、老齢の(元)総主教代理はブル人達の将来が、ブル民族統合(すなわち、マケドニア・オドリンの失地回復)への闘争へと導かれる運命を強調したのだ。

   (注:小生は聖書には疎いので、RamaがどこかとかRahilが誰かは分らない。検索したらRahilはRachelで、聖書ではJacobの美しい妻だという。Ramaは不明のままです。)

  さて、我々はこの百選でAntim Iを「代理」後任者のYosif I(27番目の偉人)よりかなり後ろに置いたが、これはYosif総主教代理の場合は、代理座をより長期間率いたし、より多くの成果を挙げたからだ。他方で、AntimはStefan総主教代理、或はKiril総主教よりは前に置いた。それは、彼らよりはAntimの方が、新教会創建者として、或は宗教指導者(羊飼い)としての活動上の功績が大だからだ。何しろ、多くの僧侶と俗人たちを教育し、善導したのだ。

  ちなみに、Antim府主教は、親露派だったが、嫌露派政治家Stambolovが連れてきたFerdinand公に対しTqrnovo市で「Tqrnovo憲法を守る旨宣誓させる儀式」を執り行うことを拒否はしなかった(1887年8月2日)。
  Antimは、Vidin府主教として、1888年Vidin市で死亡した(脳卒中で、72歳)。

 【小生注:ブルガリア教会が歴史的に、どの程度コンスタンチノープルの東方正教会総主教座から独立を確保してきたか、について上記(4)の注でもかなり詳しく述べたが、以下により詳しく取りまとめることとした:ブル教会の自治・独立の歴史

(1)ブル第1次王国時代
  870年に東方正教会の会議で、ブルガリアの教会は、コンスタンチノープル東方正教会本部(総主教座)が任命し、その指揮下にある、一人の大主教が統括することが決まった(ブルガリア大主教座の設置)。さらには、879年12月に、ブル大主教座がビザンツ帝国によって「自主・独立の教会」として再度承認された。
  ブルガリア大主教座は、Klimentの指導で、以降(880年頃からか?)ブルガリア語によって典礼を行いはじめ、ギリシャ語・ギリシャ人による支配から免れることとなった。
  893年、ブルガリア語が、ブルガリア国家及びブルガリア教会の言葉であるべきことが、ブルガリアにおける貴族会議(Pliska町で招集)において宣言された。

(2)ビザンツ統治下のブルにおける大主教座はOhridに所在した
  ビザンツ帝国統治下のブルガリア:1018--1185年=167年間。
  その宗教政策:
   バシレイオス2世(Vasil II)皇帝は、ブルガリア王国の支配においては、その戦闘の際における苛烈さとは対照的に、穏やかで寛大な扱いを行った。例えば、ブルガリア教会の自治権を維持することを許した。オフリド(Ohrid)の大主教座の管轄下に、今日のブルガリア、セルビア、アルバニア及びマケドニアの諸教会がブルガリア教会を構成していた。
   然るに、皇帝の寛大な意図にもかかわらず、徐々にギリシャ人僧侶達がOhrid大主教座内における支配力を増大して、ブルガリア人司教達は自分たちの間から大主教を選出することが許されなくなった。

(3)ブル第2次王国時代
 ①1204年、Kaloyan王は、ローマ法王との外交を通じて、ブル教会の長には、「大主教(Archbishop)」号を、更には自らには「皇帝」の称号を獲得したという。
 ②また、Ivan Asen II王(皇帝)は1235年春、ガリポリまで出かけてニケーア帝国(ビザンツ帝国の後継国家)のヨアン3世と交渉して、Tqrnovo Patriarchate(タルノヴォ総主教座)の「復興」(元来Tqrnovo総主教座はこれまでなかったのだが、外交的には「創立」よりも「復興」と言う方が相手も同意しやすい、と言う意味での巧妙な駆け引きであったという。)を承認させたという。かくして同年Yoakimがタルノヴォ総主教として正式に就任を果たし、以来オスマン軍がTqrnovo市を占領した1393年まで、このTqrnovo総主教座は存続した(1394年解散を命じられた)。

(4)オスマン統治下のブルガリア教会
  ブルガリアの小村落が維持した祭りとか祝日などの伝統の多くは宗教的なものであり、ブルガリア的な意識を維持する上で、教会の役割は重要だった。

(ア)「オフリド総主教座」は、名目的に存続
  首都タルノヴォが陥落した翌年の1394年、タルノヴォ市の「ブルガリア総主教座」は解散され、ブルガリア教会は、コンスタンチノープルの東方正教会総主教座の傘下に組み入れられた。

  他方で、「Ohridの総主教座」は、その後も「ブルガリアの総主教座」として知られていた。もっとも実際には、Ohrid管区の高僧達の多くはギリシャ人だったし、彼らはコンスタンチノープルの東方正教会総主教から任命されていた。要するに、Ohrid総主教座が名目的には存続していたとはいえ、東ブルガリア(ミジヤとトラキヤ地方)、及び西ブルガリア(マケドニア地方)の双方ともが、ギリシャ人の支配下に置かれたと言える。特に高僧レベルでは、ギリシャ人がこれらの職位を独占することとなった。

   (小生注:Ohrid総主教座と言うのは、不思議な名称だ。バシレウス2世皇帝がOhridに設立を許可したのは「大主教座」であるので、「総主教座」という呼称は、Tqrnovoのブル総主教座が解散されて以降、俗称として、住民たちが勝手に主張した名称である可能性がある。ちなみに、ルーマニア教会も19世紀頃まで、名目的にはOhrid総主教座、或は大主教座の傘下にあると主張していたらしい。コンスタンチノープル総主教座からの干渉を嫌ってのことではなかろうか。
   しかし、もしかすると、Tqrnovoのブル総主教座が解散されて以降、Ohridの大主教座が、「ブル総主教座」と名称変更して、継続した可能性も強い・・・・下記のオスマン時代、1767年にOhrid総主教座が、正式にPhanariotたちによって解散させられたとある
。)

(イ)教区レベルで、ブル人僧侶が残り、ブル語典礼も行われた 
  もっとも、教区レベルで見れば、多くのブル人僧侶が司祭に任命されていたし、少なくとも18世紀までは、典礼も信者が望めば、ブル語で行われていた。多くの教区では、僧侶達が精神面のみならず、生活の全ての側面において指導していた。
  また17世紀以降、僧侶達の多くは地域住民の富裕層から供給されていた。何故なら、富裕層でなければ、僧職を買い取るための賄賂を捻出できなかったから。何れにせよ、教会が、村社会の中心にあって、指導的役割を努めなかったならば、ブル語の生き残りも難しかったであろう。

(ウ)ブル総主教座の閉鎖 
  18世紀初頭、オスマン帝国の行政部門の多くはファナリオット・ギリシャ人*によって独占されていた。特に、オーソドックス教会は、そうであった。修道士パイシーが激怒したギリシャ人勢力の増大は、18世紀全般を通じて継続した。
   (*注:Phanariot Greeks、イスタンブール灯台(フェネール)地区に居住していた、ギリシャ人豪商・商業貴族達。10ほどのファナリオット名家が知られている。彼らは17世紀後半から台頭。もっともこれら「ギリシャ人」は必ずしも、エスニックなギリシャ人とは限らなかったようだ。ワラキア、モルドヴァの公位も彼らファナリオットが独占していたが、1821年のワラキア農民の反乱以降、これら公位は、現地貴族の手に移った。)

  例えば、1766年ペッチ(Pec、現在はコソヴォ共和国領域の町)に所在した「セルビア総主教座」は解散され、1767年オフリド(Ohrid、現在はマケドニア領南西部所在の町)所在の「ブルガリア総主教座」も同じく解散させられた。高位の僧職は、上記の解散以前にも既にギリシャ人が独占していたが、18世紀末頃には、ブルガリア内の教区においてさえ、ギリシャ語を話す(ギリシャ人)僧侶が任命されるケースがあった。

(エ)独立的なブル教会が復活:代理座をオスマン政府が承認
  19世紀に入ってようやくブル人による教会独立闘争が起き、最終的には、1870年2月のスルタン勅令でようやく再独立が認められた。
  2年後の1872年2月にAntim総主教代理が選出され、ここに帝都のブル人教会「St.Stefan教会」を拠点として、総主教代理座(Ekzarhiya)として、ブル独立教会の復活が完了したのだ。


(5)1878年の「ブル公国」独立後
(ア)代理座がIstanbulに残り、「外地」に取り残されたブル人と「本国」ブル人との「絆」の役割を果たしていたが、1913年Istanbulから追放され、ソフィア市に移転した

  1913年の第2次バルカン戦争で敗北したため、総主教代理座はイスタンブールから追放され、Yosif総主教代理は、ブル総主教代理座本拠を1913年11月26日にはフィア市に移さざるを得なかった(73歳)。

  ヨは1877年に36歳で総主教代理となり、73歳のソフィア移転まで「37年間も」イスタンブールでブル人の利益を慎重に庇護してきたのに、夢破れての無念のソフィア市移転となった。イスタンブールには、総主教副代理としてMeletiy 府主教(Veles管区)を残しておいたが、もはや形式的に残っただけで活動はほぼ不可能となった。

  また、バルカン戦争敗北の結果として、Odrin地方はトルコ領と確定されたし、マケドニア地方の大部分もセルビアとギリシャに分割奪取されてしまい、これら両地方の「ブル人住民たち」を本国のブル人達と結びつける「絆」としての、或はこれら「外地」に残された同胞のブル人達の権利をオスマン政府に対し、代弁するための「代表」としてのIstanbul代理座の使命も、既に喪失していた。

(イ)共産党政権下、ついに「ブル総主教座」の地位を回復した
  また、ブル正教会が正式に「総主教座」の地位を回復したのは、実は共産党支配時代(1951年)のことである。とはいえ、教会は共産党に従属を強いられてしまった。
  ブル正教総主教座が、正式に宗教的な自治権、独立権を回復したのは1989年末に共産党政権が崩壊して以降のこととなる。】

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