偉人百選:イラリオン・マカリオポールスキ

  48番目の偉人はIlarion Makariopolskiと言います。VT県Elena町の富裕な雑貨商家庭の出身であったため、外国留学ができ、特にギリシャのAndros島の学校で自由な近代教育の雰囲気を味わい、更にはアテネ市の高校でも、民族主義、愛国主義、革命運動(民族解放運動のこと)などを他のブル人留学生らと共に育みました。

  39番目の偉人Neofit Bozveliと共に1844年9月(32歳)に、オスマン政府に対する「請願書」を提出し、ブル人としての教会の自立につき、自らの意見を述べました。このことで、教会民族運動指導者の一人としての地位を確立したのですが、翌年5月にはギリシャ人が牛耳る総主教座により、NBと共にAthos聖山へと追放・幽閉処分されました。

  1858年10月(46歳)のとき、追放処分後13年を経て、ようやく総主教座も妥協し、IMを閑職から解き、Makaripolski(タイトル)「主教」として帝都Stefan教会の長に任命しました。しかし、IMは1860年4月6日のイースターにおける典礼で、当時の総主教Kirilの名前にあえて言及しないという形で、ブル教会の総主教座からの「分離宣言」を断行しました。その後も、ブル人による教会独立運動は益々盛んとなったので、オスマン政府側が妥協し、1870年2月のスルタン勅令で、ブル人達は「総主教代理座」を持つことを許容されました。

  しかし、代理座の定款起草段階で、ブル人社会内に保守派(IMなど)と民主派(Petko Slaveykovら)の対立が生じ、もたもたしてすぐには代理座は発足できませんでした。1872年1月6日、帝都のブル人住民らがIMを含むブル人高僧3名を拉致・強要して、総主教座とは分離してのブル教会独自の「公現祭典礼」を挙行させました。

  同年2月11日、遂にオスマン政府は、代理選挙の実施をブル教会に許可し、2月16日の代理選挙では、(露大使の推挙もあり)Antim・Vidin府主教(46番目の偉人)が総主教代理職に選出されました。
  IMは、代理選挙で候補者名簿にも入れられず、これまでの教会独立運動での功績から見て「自分こそは初代代理」と権力欲を露わにしていたのに、選挙までの「政治的駆け引き」の段階で敗退しました。ブル人社会の意識が、いつの間にかIMより前に歩み始めていて、「保守派」となったIMにはチャンスは巡ってこなかったのだ。

  失意のうちに、IMは、既に任命されていたTqrnovoでの府主教職に就くしかありませんでした。1875年6月(63歳)Tqrnovoで死亡したIMの遺体は、その後帝都Fener区所在の、かつて自らが長を務めたStefan教会(埋葬当時は代理座の所在地)の庭に埋葬されました。

48.イラリオン・マカリオポールスキ=教会独立運動のほぼすべての段階で功績を挙げたが、最終的には初代代理職選挙から排除された失意の高僧(1812--1875年)
  Lyuben Karavelovの言葉:「もし今日ブル人が自らの教会の権利を拒むならば、これらのブル人達は同時に自らの名前も拒まねばなるまい・・・そんなことは絶対にありえないことだ」。

 Ilarion Makariopolskiは、ブル復興期の著名ブル人の一人だ。その巨大な活動故に、ブル教会独立問題における、主導的役割を演じた一人だ。帝都の総主教座の保護下からブル教会を分離させ、独立したブル正教会組織を樹立するのに、貢献したのだ。

 この大きな歴史的課題は、実はその後のブルの宗教的、精神的発展に大きく関係していたし、また、ブル人の民族イデオロギーの基盤を築いたPaisiy Hilendarskiによっても示されていた課題でもあった。しかし、この宗教的解放への闘争を、ブル人独自の教会機関の樹立を、新時代の精神に沿って、そしてさらに重要なのはブル民族を基盤として成し遂げたのは、IMがリーダーシップを取った世代の仕事であった。そして、このような形で教会独立を成し遂げ、まるで民族主義革命のような様相を呈したのは、他のバルカン半島諸国諸民族の復興期にも類例を見ない、特異な事例でもある。

 さて、この百選でIMをこの48番目と言う順序に置いたことには、教会組織自立への闘争における同人の貢献を、少し過小評価しているようにみられるかもしれないが、そうではなく、実はほかの件で、特に晩年、IMには若干否定的評価の側面があるので、少し順番が下る結果となったのだ。 

(1)出生、教育
  Stoyan Stoyanov Mihaylovski(俗名)は、1812年9月にVT県南部のElena町に生まれた。生家は富裕な雑貨商+職人の家庭であった。同族としては詩人のStoyan Mihaylovski(IMの甥)とか、有名な銀行家で政治家のAtanas Burovもいる。
   (注:『15--19世紀の著名人』によれば、曽祖父が17世紀末にコーカサス地方のImeritin(検索したら、Sochi冬季オリンピックの関連ページにImeritin低地というのが出てきた)からブルに移住した(すなわち元来ブル人でないらしい)という。また、祖父のMihayl HristovがElena町に居住を決め、雑貨屋を始めたという。同人と子息のStoyan(=IMの父)は、長年Elena町の町長、或は教会兼学校の理事であったという。つまり地元の名家出身と言える。)

  まずは、地元の学校とArbanasi村のギリシャ学校で初等教育を受けた。

  1832年(20歳)のとき、Hilendar修道院で修道僧(僧名Ilarionを貰った)となり、更に教育をAthos聖山内Kareyaの俗人学校と、Andros島(アテネ東方にあるキクラデス諸島最北部の島)のギリシャ学校(Theophilos Kairisの学校、1836—38年(24--26歳)在学)で受けた。当時この著名なAndros島の学校では、ブル各地から多くの学生が集まっていた:St.Chomakov、Iv.Dobrovski、G.Atanasovich、Z.Strumski、など。IMは、この学校が気に入り、弟たちDimitqr、Nikola Mihaylovskiも招くことに成功した。ブル人学生たちは、学問を通じてブル国民の復興を実現することを誓ったという。また、ギリシャ人らから、愛国主義を教わった。

  しかし、自由すぎる校風故に、この学校が閉鎖されることを知り、ブル人学生たちは、アテネの高校に転校し、このアテネの高校に1841年4月26日まで通った(27--29歳)。アテネ時代IMはGeorgi S.Rakovski(41番目の偉人)とともに、いわゆる「マケドニア協会」に所属し、革命的蜂起を夢想した。

  なお、ロシア留学を希望したが、総主教座が許さず、しょうがないので下記学校で教育を継続した:1841—44年(29--32歳)には、帝都Kuru -Cheshme区所在のギリシャ人学校Velika narodna shkola(Antim代理など、多くのブル人学生もここで学んだ)で学んだ。この学校在学中にIMはモスクワ府主教Platon Moskovskiの著書『Pravoslovnoe uchenie(オーソドックスの教え)』を翻訳し、1844年に出版したが、同書の後書き(かなり長文)の中で、近代ブル会話語に近い、新ブル文語を創設する必要性を力説した。

(2)教会民族運動(TsND)に参加
  IMは1844年9月末に、帝都に帰還したNeofit Bozveli(39番目の偉人)とともに、オスマン政府(Visokata porta)に対して、ブル人教会の独立問題を提起し(両名は別々の請願書を提出したが、内容的にはさほど異ならないという)、ブル人社会の先頭に立ったことで、自らの事業に画期的な転機をもたらした。このブル人教会をギリシャ人支配の総主教座の胸から飛び出させたことの意義を適切に理解できないと、IMの功績はきちんと理解できない。(注:NBの気性が激しく攻撃的なのに対し、IMは謙虚で外交官的(温和)な性格だったという。)

  つまり、この教会分離が成立する以前は、全てのオーソドックス信者たちは、オスマンの中央政府の前では、全て総主教座が代表して、rum miletという総称の下で・・・ギリシャ人として扱われたのだ。総主教座は、ビザンツ帝国時代以来の伝統に支えられて、ギリシャ語を使用し、全ての高僧位階をギリシャ人僧侶で独占したのだ。オスマン帝国としての概念でも、民族を宗教・教会的所属と同一視しており、ギリシャ人とは別のブル人と言う概念を尊重しなかったのだ。この故に、IMの事業は、単にブル人の復興というだけではなく、ブル教会組織の形成とオーソドックスとしてのアイデンティティーの形成に、大きな功績があるのだ。

  IMは、Petko R. Slaveykov(30番目の偉人)、Stoyan Chomakovなどとともに、教会独立運動の中で一番多数派を形成したグループのリーダーであった。このグループはいわゆる「独自活動党」と呼ばれ、民族的統一、信仰と伝統の堅持を基盤に、妥協せずに、教会問題を最終的に解決する、と言う方針を貫いた(注:仏などの西欧列強の力を借りるというユニエイト主義とは異なり、オーソドックス教会として、総主教座から分離する方向)。

  総主教座は、露大使V.P.Titovの同意も得て、1845年6月29日、IMとNeofit Bozveliの両名をAthos聖山内に幽閉処分とした。IMはSimeon -Petqr修道院の塔の地下室に幽閉され、その後はHilendar修道院に送り込まれた。ここでIMは苦しい生活を強いられたが、NBが1848.06.4に死亡したことで益々悲観的となった。しかし、1850年11月末にIMはようやく解放された(この解放には、ロシア人旅行者A.N.Muravyovとブル人有力者のSt. Bogoridi(47番目の偉人Sofroniy Vrachanskiの孫)、G.Krqstevichらが運動した)。

(3)職歴
  1851--54年(39--42歳)、及び1857--58年(45--46歳)の2回、IMは、Athos聖山諸修道院の帝都における代表者に選出された。また、Kareya(Athos聖山=宗教共和国の首都的役割の村)でのAthos聖山会議では、1854--57年の期間、Hilendar修道院を代表した。(注:これらは、名誉職に過ぎないようだ。)

  クリミア戦争(1853—56年)も終わり、ブル人社会から強く請願されて、遂に総主教座も妥協し、1858年10月5日には、Makariopolski episkop(マカリオポールスキというタイトル名+「主教」という僧侶としての位階)に叙任され、帝都のブル教会の長*兼そこに付属したブル人学校の教師として配属された。
   (*注:帝都のFener(灯台)区にあるSv.Stefan教会は1849年に木造建築の仮屋ながら完成していたので、この教会の長と、これに付属する学校教師に任命されたのだ。実は、Stefan教会は1850年に正式に活動を開始していて、帝都のブル人社会はNeofit Rilski(32番目の偉人)、或はIMをこの教会の長に任命するように要望を出したが、総主教座はこれを拒否して、セルビア人のStefan Kovachevichという冒険家・浪費家を長に任命したという。こういう総主教座の嫌がらせで、IMは8年間も無駄遣いさせられたとも言える。)

(4)分離宣言
  1860年4月3日、IMはこれまでの長年の教会自立運動の中で、一番急進的な一歩を踏み出した:形式的、かつ実質的な総主教座からの別離だ。この日のVelikden(イースター)典礼の際に、IMは教会に参集した信者たちの要望に応えて、Kiril総主教の名前に一切言及しなかったのだ。その代わりに「i Vsyakoe episkopstvo pravoslavnih(そして、正教世界の全ての主教区)」と述べて、自立的な教会であることを主張したのだ。

  このような劇的な形で、教会独立運動が一歩前進したことは、バルカン半島に在住する数百万人のブル人住民らの間から巨大な反響を得た。そして、この後は、ブル人社会における教会・学校事業の指導者には、必ず愛国心に富んだブル人が選ばれるようになった。

   (注:1860年当時は、Dragan Tsankov、或はYosif Sokolski(38番目の偉人Nayden Gerovの項を参照)などのユニエイト運動が盛んで、IMは1859年頃マケドニアのKukush(Kilkis)まで総主教座の命令で派遣されて、現地信者らを説得し、カトリックの影響を排除することに成功したという。帝都でも1860年12月には、ブル人ユニエイト主義者たちがカトリック教会とのUnionを宣言したが、IMが敢然としてこれに反対を表明したという。要するに、この当時IMは48歳と一番脂が乗りきった年齢で、Stefan教会の長として、総主教座との独立闘争、或はカトリック系との闘争の双方において功績を挙げていたらしい。

  ただし、上記の事件後、総主教座によるVelik tsqrkoven sqbor(大教会集会)の決議として、1861年4月29日に、IMはKyutaya(Kutahyaとしてwikiにある、小アジア北西部でIstanbulからさほど遠くは無い)へ、Aksentiy VelshkiはBolu(小アジア北部、Kutahyaより少し東方)へ、Paisiy PlovdivskiはAthos聖山に、それぞれ追放処分され、この追放措置はようやく1864年9月に解除された。つまり、単に総主教の名前に言及しない、と言う程度の自立表明でも、追放処分を受けたのだ。更には、追放解除後も、帝都内での居住は拒否され、未だ「村」だったOrtakoy(オルタキョイ、下記注を参照)村にブル人高僧らは居住するように命じられた。とはいえ、1864年の追放解除後、IMはブル人社会の教会民族運動(TsND)指導者として認知されたという
。)

 
 1866年にはHadzhi Dimitqr、Stefan Karadzhaなどのチェタ蜂起(民族解放闘争の本格的ゲリラ戦の試み)があり、オスマン政府はブル人の教会独立運動に対し、益々理解を示すようになり、遂に1870年2月27日にはスルタン勅令を発布して、ブル人代理座の独立を承認した。これに対応し、IMらは臨時混合委員会(俗人代表と一部ブル人高僧らが委員)、臨時Synod(独立系教会の高僧会議)を設立し、代理座定款の起草を準備し始めた。この定款起草段階の議論で、IMは保守派を率いて、P.R.Slaveykov、T.Ikomonovらの民主派と対立するようになった。民主派は、IMを「権力愛好家、独裁主義」と新聞で非難したという。1871年になっても両派の対立は続き、混合委での議論は長引いたが、この教会・住民混合委会議のある会合で、IMにはTqrnovo府主教職が割り振られた。

(5)1870年2月のスルタン勅令でブル代理座創設は許可されたが、総主教代理の選出、代理座の運営開始までには、紆余曲折があった
(ア)公現祭事件

  1872年1月5日には、50名ほどの帝都のブル人たちが、Ortakoy(オルタキョイ、Bosphorus海峡に面した現在はIstanbul市内のBesiktas区内にある地区。当時は帝都市外の村であった。トルコ人、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人が混住しているエキゾチックな地区であったという)村からIM、Panaret Plovdivski、Ilarion Lovchanskiといったブル人の高僧を「誘拐して」行き、Sv.Stefanで次の日に、典礼「Bogoyavlenie(神の顕現、英語=Epiphany、公現祭、西欧式では元来は1月6日らしい)」を実施するよう主張するという事件が起きた。

  3名のブル人高僧たち(vladikの複数形でvladitsi)は、ブル人住民らの意志に妥協し、公現祭の典礼をStefan教会で行った、総主教座からは形式的な抗議*がなされてはいたのだが。

  このように、教会独立闘争に関し、ブル住民側からの圧力が強まった情勢の中で、遂に同年5月11日に、ブル正教会の独立宣言が発せられ、対抗して総主教座から9月に「分裂主義非難」が声明されるに至ったのだ。3名のブル人高僧には、Smirna(現在はIzmir)市(Izmitだとの説もある)への追放・軟禁措置が、帝都のロシア大使Ignatiev伯爵による明白な要求があって実施された。

  【*(1)原注:スルタンの勅令(ferman)によって、既に2年前にブル代理座(Ekzarhiya)に対して自立が勅許されていたにもかかわらず、総主教座はこの勅令を拒否し、無視し続けてきたのだ

  (2)小生注:小生自身もうっかりしていたが、上記の原注(「百選」著者らによる注)に書かれているように、スルタンの勅令(勅許状)はすでに1870.02.18に発布されていたのだ。これまでの「百選」での記述などでも、勅許状の正式な発布年に関してはさほど言及、重視されず、ブル人側からの動きに重点を置いて1872年にブル人自らが再度分離宣言したので、これの追認として勅許状が発布されたと勘違いしてきた。Antim代理の項でもその認識で教会独立運動の経緯を書いたのだが、実は勅令そのものは既に1870年に発布されていたのが真実だ、ということを今回小生愛用の『年表』を確認して知った。(Antim代理の項は、訂正して書き直しました。)

  以下に、この「年表」から引用する:
1870年2月28日(新暦3月11日):「Ali pasha宰相(Velikiyat vezir)が、ブル・ギリシャ人混合委員会会員らに対し、ブル代理座創設に関するスルタン勅令(ferman)を手交した。この法令は、これまでのブル人側による教会民族運動(TsND)の勝利を意味した。要するに、オスマン帝国の枠内で、(ブル人に対して、ギリシャ人とは異なる)別個のエスニック・グループとしての境界線があることを公式に認知したものなのだ。」 

 そして、同じ『年表』の3月13日の項には、「オスマン政府同意の下ブル人達が集会を開き(40名が参加)、この会議では10名の俗人と5名の高僧から成る「混合評議会」が結成されたという。この評議会の主要課題は、代理座の定款草案を起草することと、総主教代理選出までの期間においては、ブル人居住地域において教会関連の事業につき指導を引き受けること、であった」と書かれている。

 すなわち、総主教代理の選出と、正式な代理座の運営は、勅令発布後も約2年間にわたり遅々として進行しなかったので、1872年1月の公現祭(総主教座は、他のキリスト教会と違い、1月5日に実施した)に関して、ブル人信徒の急進派が、実力行使してブル人高僧らを拉致し、1月6日に実施することで、ブル教会の独立実現を急がせようとしたものらしい
。】


(イ)代理選挙とIMの少し恥ずかしい言動
  IMの人物像は1872年の教会・市民会議における同人の言動を省いては完璧とはならない。この会議は、ブル正教会の総主教代理を選出するために招集されたものだ。
  保守派リーダーの一人としてIMは、この会議に先立ち、弟のNikola Stoyanov Mihaylovski(1818年生まれ、教師、オスマン政府役人、出版業者、通訳)が帝都で発行していた新聞『Pravo(権利)』に論文を発表した。内容としては、権威主義的な代理座の運営を提唱し、その上、代理は選挙ではなく、年功序列(po starshinstvo)で選ぶべきだと主張した。この主張は、まさしくIM自身の利害・野心を表明していることが明白だ:ブルの一番古い府主教区であるTqrnovoの府主教であるIM自身が代理となるべきだと言っているのだから。

  上記のように、自らの個人的野心とか、弟の発行する新聞を宣伝道具に使うというやり方から見て、一部の研究者は、IMと言う人物に関して否定的印象を述べている。これまでの教会自立運動への功績を帳消しにするものだというのだ。
  要するに、この代理選出時におけるIMの言動は、後世においても何度も見られることとなるブル人の一部の悪いメンタリティー、すなわち、「これまでの実績から言って自分こそが権力と特権を保有すべきだ」という精神構造の初期における実例と言える。

   (注:元来が、謙虚で温和な性格と言われてきたIMが、晩年にとうとうブル人社会のトップに立てそうだというチャンスを目の前にして、権力欲に走ったのが嫌われたようだ。そもそも、1870年代には、すでにブル人社会の世論は急進化しており、ナショナリズム、愛国主義、民主主義が蔓延していたのだから、温和な権威主義者のIMの新聞での意見は、保守的過ぎて逆効果であったのかもしれない。)

  まるで神の意志が働いたかのように、IMは1875年6月4日、すなわち同人の共闘者であったNeofit Bozveli(1848年6月4日に、61歳で死亡)と同じ日にこの世を去った(IMは63歳まで生きた。また、NBの死後27年目であった)。

    【小生注:ちなみに、『年表』によれば、代理選挙(1872年)に関しては次のような経緯が書かれている:
  1月6日:ブル人高僧らが、帝都Stefan教会で(総主教座とは)分離した、独自の公現祭典礼を強行。
  1月12日:総主教座で、勝手な典礼を実行したブル人高僧らへの処分につき検討。
  1月21日:オスマン政府が、3名のブル人高僧(IM、Panaret Plovdivski、Ilarion Lovchanski)をIzmitに追放。(注:「百選」ではSmyrna、或はIzmirとなっているが、この「年表」では追放先を別の町Izmitとしている。他の文献でもIzmitとある。Izmitは海峡を越えた帝都の対岸にあり、Izmirよりは帝都からよほど近距離だ。)
  1月27日:オスマン宰相の命令で、3名の高僧は追放処分を解除され、帝都のブル人住民らが歓呼して出迎えた。
  2月11日:オスマン政府が、ブル教会の代理(ekzarh)選挙の実施を許可した。
  2月12日:帝都における教会集会が、Ilarion Lovchanskiを総主教代理に選出した。(注:Lovchanskiとは、Lovech府主教であった故のタイトルと見られる。)
  2月16日:Ilarion Lovchanskiが、代理職就任を辞退した。理由は、老齢。同日中に新たな選挙が実施され、代理には、Vidin府主教のAntimが選出された
  3月9日:代理座委員会から3名の使節がVidin市に到着し、Antimに対し、総主教代理職選出議定書を手交。
  3月17日:帝都でAntim I代理が華々しい儀式で歓迎を受けた。
  4月3日(新暦では15日)Antim Iが、オスマン政府における公式儀式で*、代理としてのberat(スルタンが発行する証書)を手交された。

    (*小生注:宗教と政治の分離と言う現代感覚からは、総主教代理としての任命証書がスルタンから発行されるというのは不思議に見えるが、そもそもオーソドックスの伝統では、教会は皇帝の権力に従属することはさほど違和感がない。オスマン時代の教会独立闘争でも、総主教座はいつも敵対するが、ブル教会の独立性を承認した(1870年2月)のは、オスマン宰相の判断だったようだし、上記の経緯を見ても、総主教座が追放命令をオスマン政府に出させても、1週間後にはオスマン政府は追放令を解除している。ブル人の独立を警戒し、嫌ったのは総主教座のギリシャ人たちなのだ。ところが、前にも書いたように、ギリシャ正教会自体も1850年には総主教座の管轄を嫌い、独立したのだ。帝都のギリシャ人商人貴族階層Phanariotたちと、ギリシャ本国のナショナリストであるギリシャ人の間には、利害対立があったということだ。)

  なお、2月12日の代理選挙の際には、初めからIMは候補者名簿から外されていたようだ。露大使館の意向として、Antimを代理に選出したかったからだという。

  1872年9月、IMはTqrnovo府主教として、Tqrnovo(VT)市に赴任して、宗教活動と教育活動を開始した。IMの発案で、VT市から少し東方のLyaskovski monasteryには神学校が開設された(1874年5月12日)。
  IMは1875年6月、63歳で死亡したが、遺体は帝都Fener区のStefan教会の庭に、Avksentiy Veleshki、Paisiy Plovdivskiとともに埋葬された。】

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  • 偉人百選:ガヴリール・クラーステヴィッチ

    Excerpt:   65番目の偉人は、G.Krqstevichという人物です。Sliven県Kotel町出身の秀才であったため、Sofroniy Vrachanski(Kotel町出身)の孫にあたるStefan Bo.. Weblog: ブルガリア研究室 racked: 2014-11-02 16:45