偉人百選:ネオフィット・ボズヴェリ

  39番目の偉人は、Neofit Bozveli・・・Bozveli(トルコ語で、規律に従わない破戒僧と言う意味だという)と言う不思議な綽名を持つ僧侶の話です。僧侶で、俗人教育に力を注ぎ、Svishtov町を有名な教育センターに育てます。しかし、その後には、愛国主義もあり、ブル人としては、僧侶としても出世できないこと、「売官制度」でオスマン帝国政府から高位の僧職の地位を買い取って、Tqrnovo府主教などとして赴任してくるギリシャ人僧侶(Phanariot僧侶)たちへの憎悪心を募らせます。

  すなわち、教育者としてブル語教育、ブル民族としての誇りなどを説いた同人は、宗教の世界でもギリシャ人がオスマン政府を買収して、ブル人市民をを支配しているという現状に激怒します。

  NB自身は、未だにブル国の独立までは考えていなかったようですが(この時代のブル人のほとんども、そういう意識は弱い)、オスマン帝国の中で、ブル人は、ギリシャ人とは別の民族で、ギリシャ人が牛耳る東方正教会総主教座(Patriarshiyata)からは分離して、教会・民族として独立性を付与されるべきだという運動(TsND=Tsqrkovno natsionalno dvizhenie)を開始しました。そして、帝都Istanbulのブル人社会を糾合し、組織化して、独立教会の設立に向け運動しました。

  この運動の故に、結局は2度にわたりAthos聖山内に幽閉処分とされるのです。1回目は聖山から逃亡しますが、2回目には、自身の体が病魔に侵され(病名は不明)、Hilendar修道院内で61歳の生涯を閉じました。

  オスマン帝国内で、ブル人としての独立教会を許可されるべきだ、という主張そのものは時代の進展の中で、徐々にオスマン政府内にも理解者が増えていたようですが、NBの場合、激しすぎる気性もあり、規律をあまり尊重しない性向もあったらしく、まっすぐに突き進みました。
  今回も長文の「追記」があるので、2回に分けます。今回は、NBのその一です。

  
39.ネオフィット・ボズヴェリ=ギリシャ人の宗教支配に激怒した、教会・民族運動の最初の指導者(Neofit Bozveli、1785--1848年)

   Georgi Rakovskiの言葉:「Neofit神父は熱烈な祖国愛の人で、自然な言葉を持った天才で、自らの生命さえも、愛する祖国のためには捧げる勇気と決意があった」。

  この復興期の人物をより近くから見ようとする試みは、常に困難な障壁に突き当たる。NBに関するデータは少ないし、あったとしても人生の最後の頃に関してのものでしかない。俗名その他もよく分っていないが、自分で二つのデータを述べていた:生まれはKotel町(Sliven県北部のバルカン山脈内の盆地の町)、姓はPetrov。

  NBの風雲に満ちた伝記で、我々は同人がブル人の宗教世界に及ぼした影響を計るしかない。NBを百選の上位順位に置く意味は、同人がPaisiy以降で最初にブル教会組織に関し意見を述べ、独立のブル教会を創設すべきと言い始め行動した、という点にある。すなわちギリシャ系の総主教座から分離して、純粋にブル人による宗教位階を形成すべきだと言ったのだ。

(1)出生、教育
  NBは、1785年Kotel町に生まれ、初等教育をKotelの寺子屋で受けて、更にAthos聖山内のHilendar修道院(Paisiy Hilendarskiが暮らした修道院)で教育を継続した。1810年(25歳)頃にこの修道院で断髪し、修道僧となったので、Neofit Hilendarskiとも呼ばれる。恐らくは、当時Kareya*に所在した修道僧学校で学んだと思われる。
  (*原注:Kareyaとは、Athos聖山内に所在する小さな町で、ここに各修道院が代表と修道僧用の独房を保有していた。現在この町には、宗教上の統治機関があり、かつ、ギリシャ政府総督も所在する
   小生注:Athos聖山は、一種の宗教共和国としてギリシャ本国から自立し、自治しており、故にこの町がAthos共和国の首都的機能を有しているのであろう。)

(2)僧侶としての活動
  1812年正式に僧侶となり、1814--34年(33--53歳)には、Svishtov町で僧侶兼教師だった。同町では、NBが最初に世俗的教育を開始した。
  ブル各地を旅して、自ら創案した教科書を配布するとともに、将来のブル国土の地理に関する素材を採集した。この作業を通じて、NBはその教育活動とともに、ブル民族精神を強化したのだ。

(3)ブル教会独立闘争に参加
  1839年(54歳)Istanbulでの居住を開始し、丁度始まりつつあったブル人達による教会闘争に力を貸した。
  Ilarion Makariopolskiとともに、教会独立運動の基礎組織を築いた。
  この闘争の中で、Georgi Rakovskiとも知り合い、この将来の革命家は、NBの献身的な働きぶりに感動した。

  NBは2回(1844年(59歳)と1845年)にわたり、トルコ政府に対して覚書を提出し、その中でブル人の宗教的、文化的独立性獲得運動の計画を示した。この2回のIstanbul滞在期間は限定的で短いものだったが、NBは在帝都ブル人社会の教会・民族的独立性達成への感情を喚起し、活発化することに成功した。

(4)Paisiy Hilendarskiの理想を体現する活動を創始した
  Neofit Hilendarskiは、Paisiy Hilendarski(5番目の偉人)の理想であった「強い意志」を最初に体現し、ブル人達を教会問題解決への道筋へと導いた。
  Paisiy Hilendarskiが1762年に『Istoriya slavyanobolgarska(スラヴ・ブル人の歴史)』を書いて以来、77年を経て1839年に、NBが帝都でブル人達の組織を創設し、ブル人だけの僧侶階級の創設を要求し、かつ、ブル人の市民的、教会的権利を主張したのだ。まさにこれ以上の、より重大な事実は、ブルの復興期の歴史で、他には見当たらないと言える。

  すなわち、NBは、ブル民族の自覚とブル人の宗教的解放において、巨大な活動家の一人としての功績を有すると言える。同人の指導の下に、ようやく他の活動家たちが、同人の跡を継いで活動を開始するのだ:Ilarion Makariopolski、dr.St.Chomakov、Gavril Krqstevich、P.Slaveykovらだ。

  NBが、組織的な民族解放運動の基礎を築いた:綱領を形成し、新式の指導センターを築き、闘争の戦術を規定し、政府に対して、この「小さい東方問題」を提示する方法も示した。19世紀の前半期におけるNBの活動は、後世Vasil Levskiが行ったことと比較できる種類の活動と言えるだろう。

(5)オスマン帝国内での、ブル人自治を要求
  1845年(60歳)にNBは、オスマン政府(Visokata porta)に対して広範な講義を書き提出した。この中では、ブル教会問題解決について、7つの点を指摘した:①ブル人の高僧位階を要求、②更に彼らが儀式・典礼をブル語で行うこと、③ブル人僧侶が東方正教会総主教座のSynod(府主教会議)内に座席を得ること、④ブル人主教をブル人市民が直接(選挙で)選ぶこと、⑤更に政府に対してブル人としての市民的、教会的権利を代理する、4名のブル人市民全権代表(vekili)をも直接選ぶこと・・・など。

  上記の7か条(5か条しか見当たらないので、一部は省略された模様)は、要するに帝国と言う枠組み内での、ブル民族の自治権を要求していると言える。また、結局は、オスマン帝国におけるいわゆるルム・ミッレト(rum milet*)と言う範疇によるブル民族の末梢状態から決定的に離脱する(ブル民族の自立)ことを要求しているのだ。
   (*注:rum miletとは、ローマ人共同体、というような意味。オスマン帝国はビザンツ帝国を征服した時、ビザンツ人=ローマ人と見做して、バルカン半島のオーソドックス教徒たちを、その民族的な相違を無視して、セルビア人、ギリシャ人、ブル人などもすべてひっくるめてローマ人と解釈したのだ。この故に、ローマ人、或は、ギリシャ人と言う別名も存在するが、ブルガリア人、セルビア人などと言う呼び名は無かったようだ。18世紀末の仏革命以来欧州全域に「国民意識、民族意識」が喚起され、この中でブル人意識、セルビア人意識、ギリシャ人意識も強化されたが、Istanbul所在の東方正教会総主教座は、これらの民族意識拡大による教会の分裂、自立方向を嫌った。オスマン帝国としても、各民族の教会の独立を認めることは、国民国家形成という危険性に鑑みれば、そうたやすく妥協できない問題ではあった。)

(6)幽閉された
  東方正教会ギリシャ人総主教の主張、及び在Istanbulロシア大使Titovによる総主教座への協力もあり、NBとIlarion Makariopolskiの両名は逮捕され、Athos聖山内に拘留・幽閉された。
  NBは、幽閉先で、1848年6月4日(63歳)に死亡した。

(7)復興期の大きな柱は??
  さて、ブル復興期における民族解放運動において、それぞれの時期において大きな功績を遺したのは誰か、柱となった人物は誰か?・・・という思考法で考えれば、次の名前が浮かぶであろう:Paisiy、NB、Rakovski、Levski。
  なお、NBが書いた著作物としては『Mati Bolgariya(母なるブル)』があるが、この本は実は同人の死後30年(正確には26年だ、ブル人は数字に関してアバウト過ぎる)を経て1874年に出版された。同人の文学活動は、新式ブル文語の成熟途上期と世俗学校創設の時期とも符合するので、ある意味ブル学校の発展と現代ブル文語の育成においても一定の影響を与えたと言えよう。

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