偉人百選:ネオフィット・ボズヴェリ(その二)

  Neofit Bozveliに関する、その二です。
  上記の記述よりも時系列で、しかも内容豊富です。

◎『15—19世紀の著名人』に基づき、更にNBの人物像につき追記
(1)出自、綽名、教育

  初期のNBに関するデータは少ない。自分自身で、Kotel町生まれで、父親の名前はPetrov
だと言った、と言うことが知られているのみだ。

  また、Bozveliという綽名は、トルコ語で「規律に従わない破戒僧」と言う意味だと言うが、この名前で歴史に残っている。とはいえ、ある程度はNBの実像に近い側面があるという。同人は気性が荒く、統制が効かない性格で、アル中気味でもあったらしい。

  最初の教育は故郷に所在した寺子屋で受けたという。この寺子屋では、1795年まで有名なSofroniy Vrachanskiが教師をしていたという。
  才能と上昇志向があったので、Athos聖山まで行って教育を受けることとしたという。18--19歳の頃(1804年で19歳)、聖山内のHilendar修道院の僧坊で学んだが、満足できず、聖山外にあったギリシャ学校でも学んだという。結局向学心からギリシャ語、トルコ語、セルビア語、ロシア語を習得した。
    (注:元来スラヴ語同士は、古ブル語を基礎とする「教会スラヴ語」と言う文語を共有してきたせいで、相互に未だに共通する単語とか熟語が多く、学ぶ意志さえあれば3か月程度で習得できるらしい。ブル人達も、チェコ語などは、最初は戸惑うけど、3か月ほどチェコに暮らせば、自由に会話までできると言っていた。あるマケ人は、スラヴ言語学者で、同人は、露語、ポーランド語、スロベニア語を含めて、全てのスラヴ語がしゃべれると豪語していた。実際、ベラルーシにいた頃も、ブル人達がほぼ完ぺきに露語を話せることに小生も目をむいた。小生自身は、やはり露語はかなり苦手で、半分程度しか聞き取れない。ところが、ブル人、セルビア人らは、露語を数か月で、完全にマスターできるのだ。聖山内には、ロシア人も、セルビア人もいただろうから、この二つの言語はNBとしてもすぐにマスターできたであろう。)

(2)僧侶となった
  1810年(25歳)頃断髪して、輔祭(dyakon)となり、Neofitと言う僧侶名を受領した。また、その後正式な僧侶としての位階を拝領した。
  約10年間の修行、勉学を経て1813--14年(28--29歳)の時にHilendar修道院のtaksidot=托鉢僧(寄付集めする僧侶)としてSvishtov町に派遣された。

(3)Svishtov町で健闘した、特に教師として
  ちょうどNBがこの町に来たころ、1806--12年の露土戦争時のため、Svishtov町は露海軍の砲撃で全焼した。町民らは、トルコ軍の復讐を怖れ、ワラキア公国(ルーマニア)へと亡命する者が多かった(注:スヴィシュトフ町はドナウ川に面した港湾都市で、対岸はワラキアだ)。
  NBは僧侶として、Svishtov住民らを勇気づけることに腐心し、ルーマニアから帰国して町の復興に努力するよう説得した。

  その後18年間にわたりNBは、町の僧侶として、或は教師として精力的に活動し、市民らの尊敬の念を勝ち取ることに成功した。
  また、Svishtov滞在中にNBは、ギリシャ人教育家のAd.Korais、D.Darvaris、Evg.Vulgarisらの教科書、或は仏語、独語の教科書なども知ることができた。

  普通教育に目覚めたNBは、寄付金集めと言う使命を忘れ、教師としての活動に重点を置くようになったし、教師のEm.Vaskidovichからも支援を受けるようになった。NB他の教師たちが力を入れたので、1820年代にSvishtov町はブルにおける教育センターの様相を呈した。

  これら教師たちの力を結集して1835年(50歳)に、主としてNBが著者となって『Slavyanobolgarskoe detevodstvo za malka detsa(小さい子供らのためのスラヴ・ブル的児童指導書)』という教科書を出版した。この本は、相互教育制度段階の小学生のための小百科事典と言うべき内容で、アルファベット、読本、文法、算数、地理、書簡見本の6項目から成っていた。この教科書の第3項(ブル語文法)の前書きで、NBは寺子屋(教会スラヴ語教育が主)を俗人教育に変更する必要性を強調している。要するに、母語で、よりよい教育を児童に対し与えるべきだと説いた。そして先進国水準の教育をブル人子弟に与えたいとの願望を持つようになった。
  ちなみに、1836年頃からの数年間には、NBの『児童指南書』、dr.Petqr Beronの『Ribniya bukvar(アルファベット、読本)』、Neofit Rilskiの『補助教材』の3つが、相互教育式ブル初等教育学校の場で使われる教科書として一番人気のあるものとなった。

(4)セルビアに旅した
  1834年(49歳)NBは、セルビアのKraguevac町に出かけ、自分の原稿を印刷、出版しようとしたが、色々と困難に出会い、約2年間もこのセルビア公国で過ごすこととなった。滞在期間中に、しかし、NBはセルビア人のD.Obranovich、及びZ.Orfelinの著作を読み、そのリベラルな教育論が大いに参考となった。またセルビア公国の、相対的にはより自由な政治・文化状況もNBに影響を与えた。すなわち、独立すればどれほどの幸福が実現できるかを知ったと言える。
  結局セルビアでは、上記の「児童指南書」と自分の宗教関連の論文を印刷し、持ち帰った。

(5)教会独立闘争に邁進
  セルビアから1836年(51歳)にSvishtov町に戻ると、NBはすでに強く確信していた:ブル人居住地域の教会管轄区からは、ギリシャ人高僧たちを追放しなければならないと。

  そもそも、ブルがオスマン軍に敗れ占領下に入って以降、在Istanbul東方正教会は、元来Tqrnovo総主教の管轄下にあったブル総主教座の管轄区を次々と奪ったし、元来Ohrid大主教管轄下にあった独立教会なども次々と奪いとり、徐々にギリシャ人僧侶たちが高僧ポストを独占していったのだ。Ohrid大主教座を1767年に廃止したことで、Istanbul総主教座からのギリシャ人支配が確立されたのだ。

  かくして、独立国家を失ったブル人達は、教会自主権も、文化的独立性も失ってしまった。もちろん、ブル人を抹消するという方針があったわけではないにしても、Istanbulの総主教座は、ギリシャ語、ギリシャ文化の伝導体となって、いつの間にか徐々にブル人の独立的な成長を阻害するようになったのだ。1840年代ギリシャ国家が再興され、民族主義的な計画が実行され始めた。これに呼応するかのようにIstanbulの総主教座が、ブル人達の民族的復興に対する基本的な敵として浮かび上がってきていたのだ。

  ギリシャ人高僧を追放して、後任者にはブル人僧侶を充てるための闘争は、最初Vratsa市でD.Hadzhitoshevらによって開始されたが、同人が悲劇的な死亡を遂げ、その後は鎮静化していた。しかし、1830年代にTqrnovo市では反Phanariot感情が高まった。そして、まさにこの時、NBがギリシャ人府主教のPanaret Tqrnovskiに対する闘争の先頭に立つこととなった。そしてこの時から、教会民族運動(TsND=Tsqrkovno natsionalno dvizhenie)が一体化したのだ(それまでは、教会問題と民族的対立とは、それぞれ独立した闘争だったが、この段階から一体化したという)。

(6)修道院巡り
  1836年後半NBはSvishtov町を後にして、その後約2年にわたってTqrnovo府主教区内の各村、及び修道院を歴訪した:Kotel、Tqrnovo、Gabrovo、Kalofer、Troyan(注:バルカン山脈に沿って、Kotelが東端、Troyanが西端と言う順番)。
  この旅でも、NBは教師としての活動も続けつつ、その精力の多くをギリシャ人僧侶特にPanaret Tqrnovski府主教に対する攻撃に傾けた。そして自然的に、この教区の市民たちはNBがTqrnovo府主教になってくれることを希望するようになった。

(7)帝都Istanbulに旅立った、帝都で独立のブル人教会設立を構想
  1839年NB自身が帝都に出かけた。上記のようにTqrnovo府主教への任命につきオスマン政府の同意を得るという目的だ。
  この頃帝都には、ブル人達(職人、商人)が合計3万人ほども居住していたのだが、しかし、彼らは決して組織化されておらず、行動能力を欠いていた。

  そこで、NBは、aba(注:ヤギなどの粗い毛を使って作る分厚い外套)を製造する国営手工業所(Hanbara)で働くブル人職人らと仲良くなり、その弁論の才能を発揮してギリシャ人高僧らへの敵意を扇動して、彼らの支持を獲得した。

  この成功に気を良くしたNBは、闘争の目的を単にTqrnovo教区から広げて、全ブル人居住地域での闘争へと拡大すること、それにはまず帝都にブル独立教会を設立することが必要だ…との構想を抱くようになった。要するにNBが最初に、帝都に独立のブル教会を設置し、ここをセンターとしてブル人居住地域全体にブル人教区を設置していき、更にはブル人僧侶を配置していく、またブル人の利害をこの教会がオスマン政府(Visokata porta)に対し、代理し、擁護していく、というアイデアを思いついたのだ。またNBは、V.AprilovのGabrovo市にブル語印刷所を開設するというアイデアも支援した。

  他方で、東方正教会総主教座(Patriarshiyata)は、オスマン政府に対する策謀と買収の手法でNBの攻勢を中立化、妨害することに成功した。すなわち、Tqrnovo府主教(vladika、mitropolit)の後任者には、またもやギリシャ人のNeofit Vizandiosが任命され、同人の補佐司教(protosingel)としてNBを任命したのだ。

(8)補佐司教としてTqrnovoへ、喧嘩別れして逮捕、幽閉処分
  NBと府主教の間の関係は、Tqrnovo到着後すぐに悪化した。それで、NBはLyaskovets町の修道院(Lyaskovski manastir)に身を引いた(注:Leskovets町は、V.Tqrnovo市から東に10kmほどの町)。

  しかし、NBの勝手な行動については総主教座に中傷的に報告されたし、オスマン政府からの許可なしに他の修道院に異動した罪で、NBは1841年3月に逮捕され、Athos聖山内に幽閉処分となった。聖山内では1841年4月--44年8月の期間、Hilendar、Zograf、Dionisiatの修道院を巡ったが、他の無知な修道僧らから迫害を受け、更には病魔にも襲われた。それでも、ブル愛国者たちとの文通、文学的仕事に励むと同時に、無罪を訴え続けた。

(9)秘かに帝都に戻り、教会独立運動を再開
  しかし免罪されなかったので、秘かに聖山を出て帝都に行った。
  そして、帝都Istanbulでは、以前と異なった環境が待っていた。ブル人達からより多くの支持が得られたし、オスマン政府の官僚たちからもより理解された。M.Chaykovskiらのポーランド系亡命者たちからも理解と激励を受けた。また、Ilarion Mihaylovski(後の主教Ilarion Makariopolski)から理解と協力を得ることができた。

  1844年(59歳)、NBとIMの両名は、オスマン政府に対し別々の覚書を提出した。とはいえ、内容的には同じような政治的要求だった:①ブル人は自ら選ぶ独自の僧侶階層を持つべきこと、②ブル人独自の教育、出版物を母語で展開する自由を持つこと、③総主教座とは別の、ブル人の要求を代弁できる代表部を持つべきこと、④ブル人の町、村には、ブル人も参加する裁判所を設置すべきこと。
  総主教座の形式的な宗教的権力を拒否するわけではないものの、上記の提案は、ブル人達に広汎な宗教上の自由と市民的権利を要求するものだった。そして、これらの要求は、クリミア戦争(1853--56年)以前の段階における教会民族運動(TsND)の基盤となる事項であった。

(10)反露的傾向
  NBの覚書の中には、反ギリシャ的傾向の他に、反露主義的な方向も見える。それは、Svishtov町が露海軍砲撃で焼失したように、2度の露土戦争(注:1877--78年の「解放」戦争としての露土戦争以前の戦争)の結果、幾つものブル人の町、村が焼失し、ブル人が亡命して無人の地と化したのを見たNBとしては、露の政策(その上露の外交では、総主教座をいつも全面的に支持していた)に対しても懐疑的だったからだ。だからNBは、帝都で反露的な西欧列強とかオスマン政府に対して、ブル人の願望に対する支持を要請した。

(11)更に請願運動を展開
  オスマン高官たちから一定の肯定を得て、NBは同胞たちを激励して、同種の請願書をブル各地から次々にオスマン政府に送付するように、組織的な活動を開始した。
  結果は必ずしも良好とは言えなかったものの、NBは決して絶望することなく精力的に動いた。帝都のブル人共同体から全権委任を受けると、オスマン政府(Visokata porta)に対し、1845年8月(60歳)、長文の書簡を提出した。この書簡では、より具体的に、帝都にブル教会の開設を認可すべきことを要求した。

  このブル教会設置要求はブル人社会の支持を受け、1848年NBが死亡した翌年、1849年10月9日には、帝都のブル住民の願望に基づき、Sv.Stefan教会が、帝都のFener区に建設された(注:ただし、この時の教会は木造の簡素な建物・・・・・wikiでBulgarian St.Stephen Churchと検索)。

(12)またもや聖山に幽閉
  NBはその晩年、帝都におけるブル人社会の指導者として、Ilarion Makaripolskiと共に覚書をオスマン政府に提出し、ブル人としてギリシャ人とは独立した要求を掲げることに成功した。文化的・宗教的な独立性を獲得すべきこと、更には市民としてもブル人としての自治を要求した。

  もっとも、NBとIMの行動の危険性に激怒した総主教座(露大使V.P.Titovも支持)は、またもやオスマン政府を動かし、1845年7月29日NBは逮捕され、再度聖山へと追放され、まずVelika lavra修道院に入れられたが、このギリシャ系修道院では、NBに対する迫害がひどかった。既に60歳となり、病魔にも侵されていたNBにとって、孤立し、虐められる毎日はつらかった。しかし、帝都のブル人達が請願したおかげで、NBはブル系僧侶もいるHilendar修道院へと移され、少しは環境が改善された。(注:Athos聖山内のHilendar、Zograf両修道院は、現在基本的にはセルビア正教系の修道院だが、当時はブル人修道士もいたようだ。今もZograf修道院は、半分ブルガリア系修道院と見做され、ブル人の信仰対象として、巡礼地となっているようだ。)

(13)再び文学活動
  修道院内では、結局文学的創作と、ブル各地の愛国者たちとの文通以外にすることもなく、この時期に次のような作品を生んだ:『Plach bednaya Mati Bolgariya(貧しい母なるブルガリアが泣いている)』(1846年)、『Razgovor s edin besarabski bqlgarin(一人のベッサラビア*地方のブル人との対話)』(*注:ドナウ河口部に存在した露(ウクライナ)のベッサラビア州には、ブル人亡命者たちの村落も存在した)。

  しかし、結局病魔が優り、NBは1848年6月4日(61歳)、Hilendar修道院内で唯一NBに同情心を示した輔祭のGrigoriy(同人は後にDorostolo-Chervenskiの府主教となった。27番目の偉人Yosif総主教代理の項で書かれているように、このGrigoriyが代理座トップの座をYosifと争った)の腕の中で息を閉じた。Gのおかげで、NBが残した上記の文学遺産も現在へと遺された。(注:Hilendar修道院内でNBが晩年に著作した上記の作品をGrigoriyが保管し、ブルに持ち帰って、後世出版されたので、今でも読める、ということ。)

(14)功績
  NBが書いた教科書は、ブルの俗人教育に革命的な画期をもたらし、教育の発展に寄与したし、また、少し重い文章ではあるが、文学面では、対話と言う新ジャンルを切り開いた。その他にも覚書、ドキュメンタリー的作品、演説文、書簡・・・など、出版目的の文章も多い。これらの出版目的の文章では、NBは鋭く政治的、宗教的な隷属状態を嘆き、かつ、ブル人達の無為を嘆いている。そして、教育の普及による啓蒙、インテリの育成、新型の社会を奨励した。

  特に上記の『Plach bednaya Mati Bolgariya(貧しい母なるブルガリアが泣いている)』では、同人の復興期における世界観、勇気ある、決して抑圧に屈しない思想が表明されている。
  教会民族運動(TsND)では、総主教座に対する独立要求、妥協しない闘争を主張した。

  M.Chaykovskiは次のように評価した:「高度の知恵と魂を有する貴族的な老人で、ブル民族の間では一番教養の高い男だ」。

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