偉人百選:ステファン総主教代理

  64番目の偉人は、Stefan総主教代理といいます。バルカン戦争、第一次大戦での敗北と言う2回の「国家破滅」に直面し、ブル民族の自信が喪失されていた、一番困難な時期に、ブル正教への信仰を繋ぎとめるため、努力しました。Carnegie財団が派遣した国際委員会のために、また、セルビア、ギリシャによる「同化政策」に晒され、代理座という庇護者も失ったこれら両国の占領下で苦しむブル系人のために、彼らがこうむった非人道的被害の証拠を国際委員会に提出して、ブル系住民を保護しようと努力しました。

  第2次大戦後は、共産党主導の祖国戦線政権によって、1945年1月に総主教代理に選出されましたが、徐々に共産党による全体主義体制が固まるにつれ、「反宗教宣伝」というイデオロギーを持つ政権側との違和感を強め、1948年9月には総主教代理職から解任されました。その2か月後には、Plovdiv県Karlovo郡Banya村へと追放処分を受け、軟禁状態のまま1957年に死亡しました。

  共産党主導政権時に、トラキア地方、マケドニア地方に「残されたブル系住民」との絆を否定するという・・・・「外地」に残されたブル系人も含めた「全てのブル系人の統合の役割」にブル正教会はもはや拘らない、と言う解釈に転じた・・・・政権側の英断に基づき、Istanbul市所在の東方正教会全地球座との和解が成立し(分裂非難状態の取り消し)、ブル正教会の完全な独立が承認されたこと、その後ブル正教としての総主教座を回復することができた(1953年)ことなど、ある意味一定の進展もあった。しかし、共産党政権の全体主義的体制下、ブル正教会としては、政治からの独立と言う教会の地位、国民の宗教信仰の自由、双方を否定された暗黒の時代でもあった。

64.ステファン総主教代理=共産党主導政権により任命され、かつ解任されたブル教会最後の総主教代理(Ekzarh Stefan、1878--1957年)
    Ekzarh Stefanの言葉:「ブルガリアが外国の影響から保護されるべき、かつ外国からの陰謀に晒されずにいるべき、そして自らの慣習、伝統、理想に基づき息をし、生きるべきとの自分の愛国的願望は、過去においても大きかったのだが、益々より大きくなっている・・・。真の愛国者たちは、祖国の未来を、自らの魂と力の上に樹立する。一つの国民が外国の援助に依存するつもりならば、彼らは後で後悔するだろう」。(小生注:国家としてブル国がソ連邦の属国的立場に転落した第二次大戦後の共産党独裁政権に対する、痛烈な批判と言えよう。)

  ブル正教会の歴史は、自らの宗教的高揚を目指して活動した人々、聖職者らに事欠かない。彼らの多くは、信仰擁護を主張することが困難な時代に、活動を続け、ブル国民が陥っていた、複雑な政治的、経済的、社会的試練の条件の中に晒された。

  Stefan総主教代理も、ブルの新しい時代で、一番複雑な時期に活動するという宿命を帯びていた。国家的破滅とか、政治的クーデターが、信者たちに苦痛を与えていた、そういう時期であった。こういう時代に、同人は、一定の成果を挙げ得たので、この『百選』にも場所を与えれられるべきであろう。

(1)出生、教育
  Stoyan Popgeorgiev Shokovと言う俗名で生れたEkzarh Stefan Iは、Smolyan県Smolyan郡(同郡北西部)Shiroka Lqka村(http://en.wikipedia.org/wiki/Shiroka_Laka)で1878年9月7日に誕生した。(注:Stefan Iについては、wikiでは次のブル語版がある:http://bg.wikipedia.org/wiki/%D0%A1%D1%82%D0%B5%D1%84%D0%B0%D0%BD_I_%D0%91%D1%8A%D0%BB%D0%B3%D0%B0%D1%80%D1%81%D0%BA%D0%B8。)

  初等教育を故郷の村で受け(1886--1892年、8--14歳)、中等教育をChepelare町(Smolyan県)で受けた(1892--93年の2年間、14--15歳)。その後Samokov町の神学中等校(Seminary)に学び(1893—1896年、15--18歳)、優等生として卒業。

  1896—1900年:故郷のSL村付近のSolishta村で教師として働いた。
  1900--1904年には、キエフ市に留学し、この地の神学大学(Kievska dqhovna akademiya)を卒業した。

(2)僧歴
  1904--07年:Plovdiv市の男子高校教師。
  1907--10年:Istanbul市の神学校教師。

  1910年10月16日:修道僧として断髪し、Stefanと言う僧侶名を与えられた。また、ブル代理座の輔祭(protosingel)に任命された。同時に、当時の総主教代理Yosif I(27番目の偉人)の秘書となった。かくして、ESは代理座の業務遂行の中で、中枢的な地位を占めることとなった。

(3)ブル総主教代理座での仕事
  1911年9月8日には、管長(archimandrite)に叙任された。
  1912--13年のバルカン戦争後、ブル領に編入された西トラキア地方のPomak達(ブル語を話すムスリム)をクリスチャンに改宗させる業務に従事した。

  この当時から、StefanはCarnegie財団が設立した国際委員会に協力して、マケドニア地方在住の住民のブル民族的性格を証明する仕事に深くかかわった(http://en.wikipedia.org/wiki/Report_of_the_International_Commission_on_the_Balkan_Wars)。特に、マケ住民たちが、セルビア、ギリシャの官憲によって蒙った悲惨な弾圧とか、拷問などについての証拠を集めて、この委員会に資料として提供した。この結果、本件委員会の報告書において、多くのStefanが収集した証拠が取り上げられた。本件報告書の重要性は、今日に至るも小さくはないのだ。この仕事における愛国主義的な事業に対しては、広くブル社会から感謝の意を表された。
  この件におけるブル大義の擁護者、信奉者として権威が高まったので、Stefanは対トルコ講和条約のブル政府代表団員にも選ばれた。

(4)ソフィア市に移転した総主教代理座での仕事
  バルカン戦争後の第1回目の国家破滅後、トルコ政府によりブル総主教代理座はIstanbulから追放され、Yosif総主教代理とともに、Stefanはソフィア市に代理座を移転させた(1914年11月24日)。 

  Stefanは、国家悲劇と数十年に及ぶ代理座の事業(独立時に「国外」に置かれたが、ブル人が居住する地域のブル系住人に対する代理座の事業)を無に帰せしめた真実の犯人たちを暴露するために、活発に活動した。
  1872年、Antim総主教代理(46番目の偉人)が誕生して以来、Istanbul市所在のブル総主教代理座は、常に、ブル人としてのエスニック的、宗教的、文化的、歴史的、領土的な一体性の象徴だったのだ。40年以上にわたり(注:1872--1914年で、42年間)代理座はブル系同胞たちに対して、宗教的指導、政治的保護を及ぼしてきたのだ。つまり、彼らを偉大な国民統合の日に備えて、準備させてきたのだ。第一次国家破滅によって、これらの努力は水泡に帰した。代理座はIstanbul市における本部拠点を失ったし、トラキア地方、マケドニア地方に居住するブル人に対し支援する可能性(手段)も失ったのだ。

  12回の講義(ソフィア市内の「軍人クラブ」、或は「Slavyanska beseda」図書室で行われた講演会)において、Stefanは、以前の自分の論文「Ferdinand王の巨大志向とブル民族の悲劇」と言うテーゼを再度主張した。若い高僧が発した正直な言葉は、王室からの憎悪を招いていた。そして、Stefanに対しては、公開の場で発言することを禁止した。この禁令は、1915年6月う25日にYosif総主教代理が死亡するまでの期間有効だった。

(5)神学面、国際社会での活動
  1919年、Stefan管長(Archimandrite)は、カトリックのFreiburg大学に神学博士論文「ボゴミール信者と長老Kozma」を提出し、Omiletika(ギリシャ語、原注:教会での雄弁術法則に関連する科学)に関する最初の教授となった。また、新設のブル神学大学の神学課程教授ともなった。

  同年Stefanは、全世界の教会の相互理解、接近、統合を目指す世界大会に対し、ブル教会代表となった。それ以降同人は、教会一致主義(ecumenism)運動の信奉者となった(生涯の最後まで、この信念を抱き続けた)。この大会でStefanは詳細に、2回の国家破滅の結果ブル民族が陥った悲劇に関する文書的証拠を提出した。このときのStefanの努力が実り、後にブルは国際連盟メンバーに受け入れられることができた。

  ブル国内においても、Stefan管長は、より成果の多い活動に従事した。同人は、ブル正教会の新規約を策定する委員会の委員だったし、教会・国民集会のメンバーだったし、国際連盟の少数民族の自由と権利に関する国際同盟への代表だった。更には、ロシア人亡命者問題に対する最高コミサールでもあった。

(6)ブル正教会内での昇進
  1921年3月20日、Stefanは「Makariopolski主教」に叙任された。
  1922年3月には、Stefanはソフィア管区府主教mitropolit=metropolitan)となった。

(7)Stefanソフィア府主教としての事業
  同人の活動の主たる目標は、代理座の再興と、東方正教会内の1872年9月16日のIstanbul市集会での宣言(総主教座が発したブル教会の独立に対する非難宣言、Antim代理、46番目の偉人、http://79909040.at.webry.info/201409/article_16.html を参照)で表明された分裂状態を撤回させることだった。多くの研究者は、教会法的にこのような「分裂主義非難決議」の有効性を疑問視するものの、いずれにせよ、ブル正教会と東方正教会総主教座(全地球座)との関係は1945年に至るまでの期間、劣悪なままに推移した。

 
(8)ボリス王の政権下、総主教座の設置強行が回避された理由
  幾つもの理由に基づき、Yosif I総主教代理が1915年に死亡後は、ブル正教会トップには、「首長代理職(namestnik-predsedatel)」が置かれたものの、総主教職は復活されなかった。これは、宗教・教会的理由とか、政治的理由でそうなったもので、深い動機が存在した。

  主要な理由は、国家・エスニック的性格である:ブル民族は、幾つかの国家に分かれて居住していたので、総主教代理座を総主教座に格上げすることは、単に現在ブル国家の領域内に所在する国民のみの決定ではなく、全てのブル民族・・・エスニック的ブル民族の居住する全領域を含めて・・・が参加しての決定であるべきだ、との考え方が存在したのだ。
  主としてこの理由を挙げて、Boris III王は1942年6月に、総主教座への格上げを承認しなかった:「今の段階では、ブル正教会を総主教座を保有する教会の地位に格上げするには、相応しい時期ではない。なぜなら、このような決定には今のところ、全てのブル民族が参加することができないからだ。これを実現しうるのは、講和条約の締結によって、解放された領地がブル国家の領域に統合されてからだ」。
    (注:実際には、Boris王は、やはりドイツ出身の外来王朝の国王として(ブル生まれではあるが)、ブル国内に「自分自身以上に権威を持つ」「総主教代理」、或は「総主教」を出現させることを嫌ったのだ、との解釈もあるようだ。Ekzarhは総主教代理と訳されるので、日本語では「首長代理」とさほど差が無いように響くが、一応は一つの教会の「首長」としてのタイトルであり、「首長代理」とは異なる。)

(9)革命政権誕生後は、教会を取り巻く環境は激変した
  上記のような「障害」は、1944年9月9日の「共産党革命」以降は無視されるようになった。ブル共産党政権は、ブル正教会首長の地位の「格上げ」を計るようになったのだ。

  祖国戦線(OF)政権は、次のような政治路線解釈を採用した:教会が、ブル国内と国外に居住する双方のブル民族の統合的な役割を担う、というような地位を教会に与えることは不要、と考えたのである。こう解釈すれば確かに、東方正教会との分裂状態の回避、撤回は可能となるし、その後には、総主教座を設置すると宣言することも可能となる。また、教会首長選挙については、今やこれは実際には異なる手続きで事前に決めておくこと、要するに国家の利害に奉仕するようにすべきことは明白だ。

(10)Stefan総主教代理の誕生
  1944年12月29日付の布令・法律にて、総主教代理を選出する選挙人の中には、数名の純粋な政治家、及びOFの代理人たちが含まれることとなった。1945年1月21日、Stefanが、投票した90票のうちの84票を獲得して、ブル教会の総主教代理に選出された。

  かくして、ブル正教会は、Yosif Iの死後30年を経て、ようやく新たな総主教代理を得ることができたし、また、分裂主義非難宣言撤廃への可能性も開いた。
  1945年3月13日、全地球座総主教(Vselenskiyat patriarh)は、いわゆる「ブル正教会の独立性確認書Tomos za avtokefalnostta na Bqlgarskata pravoslavna tsqrkva)」に署名して、ブル国民とブル人聖職者たちに対し、「統一聖正教会(Edinnnata Sveta Pravoslavna Tsqrkva)」の不可分の子供(nedelimi cheda)であることを認知した。

  総合的には、分裂主義非難撤回という有益な印象があるが、また、これに関してはStefan代理に功績があるように見えるが、実際にはこれは極めて大きな代償の上に、達成されたというべきなのだ・・・それは、ブル国の国境域外に残された我々の同胞たちに対する一定の権利の否定とも言えるのだから。

  最初の頃Stefanは、教会の祖国戦線政権からの独立性を維持しようと試みたのだが、しかし結局は全ての政権側要求を受け入れるしかなかった。全体主義体制が確立されていくに従い、同人の立場は徐々に、益々不愉快なものとなって行った。更には結局、1948年9月6日のHoly Synod(府主教会議)において総主教代理職から解任された。また、2か月後にはソフィア市から追放され、Plovdiv県Karlovo郡Banya村に移住させられた。この村に軟禁されたまま、1957年5月14日に死亡した(79歳)。

  Stefan総主教代理が追放されたおかげで、新しいブル教会のトップにはKirilが任命された。そしてついに、ブル教会は完全に全体主義政権に屈服したのだ。

   【小生注:Kiril総主教に関しては、次を参照:http://en.wikipedia.org/wiki/Cyril_of_Bulgaria
  これによると、同人は1901年、ソフィア市のアルバニア人家庭に誕生し、1938年にはPlovdiv府主教に叙任された。更に、1953年5月10日にブル正教会総主教に叙任された(1971年3月の死亡時まで、総主教の地位を維持した)。
    同人は、1943年にブルのユダヤ人が「国外に輸送される」のに断固反対したという(この点では、Stefan府主教も同じ立場で運動した)。

   ちなみにKirilは、1951.01.3--1953.05.10の期間は「聖シノッドの首長代理(Наместник-председател на Св. Синод)」職に任命されていたというから、総主教職に任命されるまでの3年間ほどは、総主教代理(Ekzarh)職でもない「首長代理」と言う臨時職だったということになる。その上、Stefan総主教代理が1948年9月に代理職から解任されたのち、Kirilが1951年1月に「首長代理」となるまでの2年数か月間は、ブル正教会のトップの座は空席だった、ということになる。

  いずれにせよ、共産党政権が1953年に、遂に総主教座を回復し、その初代総主教に就任したのが、このKirilだということ。タイトル的には「総主教」と最上級に格上げされたものの、共産党政権は「宗教は阿片」として排斥する立場で、基本的には「反宗教宣伝」を行い、学校教育でも宗教の意義をなんら尊重しなかったのだから、ブル正教会にとって共産党体制下の1944--89年の45年間は、暗闇と言えた
。】

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