偉人百選:聖ゲオルギー・ノヴィ・ソフィースキと聖ニコライ・ソフィースキ

  55番目の偉人としては、二人のソフィア市内で殉教した聖人が挙げられています。16世紀に、イスラム教への改宗を強要されたが、断固として拒絶し殺害された、「普通のブル人」だという。宗教の話であるし、日本人の立場からは分りにくい部分もあるが、結局近代の国民国家形成において、基盤となったブル人としての民族アイデンティティーの主要素は、①母語としてブル語を話すこと、②宗教的には東方正教会系のオーソドックス教徒であること、③父母、親戚などもブル語を話す共同体・社会に所属していたこと・・・の3要素であろう。

  これら3要素は、洋上に孤立した日本列島住民であった日本人ならば簡単にクリアーできるであろうが(母語を日本語、宗教を「神道+仏教」に置き換えればよい)、オスマン帝国は多民族、多宗教、多人種の「帝国」であったので、特に少し大きな平野部の都市では、トルコ人、ギリシャ人、ブル人、ユダヤ人、アルバニア人、などが居住し、esnafと言うギルド(職業組合、商業組合)を各民族が別々に構成するか、あるいは時には諸民族が混合して形成していた。そして、大都市ほどトルコ人=ムスリムの人数が多く、ブル人達は山間部の小盆地などに集住して町を形成することが多かった。小盆地と言うブル人独自の空間が保たれたおかげで、ブル語、ブル文化などが維持できたとも言える。しかも、近代になって近代ブル文語を工夫、創案し、ギリシャ語教育に代替させていくまでは、宗教儀式も、寺子屋教育もギリシャ語で行われていたのだ。オスマン帝国自体が、ギリシャ人とブル人、セルビア人を区別せず、まとめてローマ人、或はギリシャ人として理解していたほどで、このような社会で、会話語としてのブル語、或はセルビア語と、教会スラヴ語による文語などが維持されていたことが、スラヴ系のブル人、セルビア人にとっては、民族意識再生への基盤となった。

  ともかく、今回扱われる二人の聖人は、そういう近代における「民族的覚醒」以前の、16世紀に、オスマン朝の首都Istanbulから相対的に近いことから、一番直接的な支配を受けていたブルガリアの西部に所在したSofia市で、町の住民の多数派がトルコ人だった時代に、ふとした契機でトルコ化(イスラム教への改宗)を強要されたが、自己の生命を賭けても断固これを拒否した、そのことがブル人としての民族性を守ったと評価された、そういう意味での「偉人、聖人」なのです。

55.聖ゲオルギー・ノヴィ・ソフィースキと聖ニコライ・ソフィースキ(?1497--1555年、?--1515年)
   聖ゲオルギー・ノヴィ・ソフィースキの言葉:「あなたに対しては一度、いや2度既に言った・・・自分は自らの信仰を否定することはしないと。あなたが自分に対して、千回の苦痛を与えたとしても」。

  16世紀初頭は、ブル人にとっては容易な、或は曇りのない時代ではなかった。既に1世紀以上も自分の国家を失い、公的世界の片隅に追いやられていたのだ。ブル人達は、自らの民族的アイデンティティーを維持するために、たった一つの柱しか持っていなかった・・・それが正教会系のキリスト教への信仰だった。イスラム教への改宗がもたらす利益を無視して、信仰を護持するという苦痛の道を歩んだ人々は、何代ものブル人の間に、深い痕跡を残した。聖ニコライ・ソフィースキと聖ゲオルギー・ノヴィ・ソフィースキは、この時期における一番有名な殉教者たちなのだ。

(1)Sv.Nikolay Sofiyski
  Yanina(現在のギリシャ名Ioannina、北西ギリシャEpirus地方の州都)で、ブル人の両親Martin(父)とEfrosiniya(母)の間に生まれた。靴職人であったが、トルコ官憲から捜索対象となり、かつトルコ化されようとした(ムスリムとされようとした)ので、故郷の町から逃亡した。ソフィア市に到着すると、ここで当地のブル人の間で人気者となった。しかし、ここでも捜索の手が伸び、NSは更にワラキア(Vlashko)に逃亡した。

   (注:この聖人については、ソフィア市内のこの聖人を祀る教会の美しい写真がwebに存在する:http://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g294452-d3750867-i56014114-Saint_Nikolai_Sofiyski-Sofia_Sofia_Region.html#56013941、及びhttp://commons.wikimedia.org/wiki/Category:St._Nikolay_Sofiyski_Church,_Sofia

  45歳の時ソフィア市に戻ったが、その際に騙されて、正式にイスラム教徒にされた。しかし、同人がイスラム教の儀礼を断固拒否したので、この地のムスリムたちが激怒した。牢獄に放り込まれ、拷問を受けた。そして一応は無罪と判決されたのだが、ソフィア市からは追放処分となり、Yuchbunar(Tri Kladenetsa、3つの井戸)という場所で石で打たれて死亡した。(注:ブルの現在の地図ではTri Kladentsi村というのが、Vratsa郡北部に所在するが、下記の記述(処刑された場所、とある)から見て、この「3つの井戸」という場所は、現在同人のために建立された教会が所在する、ソフィア市内の場所(当時のソフィア市はもっと狭い地域で、この地は当時は「郊外」で別の地名を有したということ)を指す地名だったらしい。)

  この妥協しないブル人の遺体は、焼却され*、遺灰は・・・コラーンの教えに従って風の中に散布された。(*注:仏教では火葬と言うやり方が昔から存在するが、キリスト教、イスラム教では今でも正式には、土葬だ。遺体を火で焼いたのは、やはり一種の刑罰的扱いなのであろう。最近西欧でも火葬が増えているらしいが、衛生思想の変化によるものであろう。

  同人の記憶が強い影響力を行使して、ブル人の間に信仰心を喚起し、同人が処刑された場所に「Sveti Nikolay Sofiyski教会」*が建てられた。この教会内には、遺灰の中から何とか見つけられた小さい遺骨が保存されている。聖Nikolayに関する伝記は、同時代の輔祭Matey Gramatikによって書かれたし、より新しい伝記も存在する。
   (*注:この教会は現在のソフィア市中心部の「中央浴場(Central Meneral Bath)」から西に、Pirotska通りを下り、「Zhenski pazar(女性市場)」を超え、「第18高校」を超えたすぐ西側に所在する:Hram Sv. Nikolay Sofiyski、ulitsa "Pirotska" 76 、Sofia。

(2)Sv. Georgi Novi Sofiyski
  (注:wikiでは、ブル語ですが、次のようにヒットしました:http://bg.wikipedia.org/wiki/%D0%93%D0%B5%D0%BE%D1%80%D0%B3%D0%B8_%D0%A1%D0%BE%D1%84%D0%B8%D0%B9%D1%81%D0%BA%D0%B8_%D0%9D%D0%BE%D0%B2%D0%B8

  GNSは、正教徒であったマケドニアのKratovo町*出身の父Dimitqrと母Saraの間に生まれた(wikiでは1497年生まれとある)。(*注:Kratovoは、現在のマケドニア北東部の町。ブルのKyustendil市から西に国境線を超えると、最初の大きな町がKriva Palankaで、この町から見てKratovoは西南西方向。)

  18歳の時同人は、ソフィア市に来て金細工師となった。16世紀初頭、この職業は普通のブル人には許されず、トルコ人のみが就ける職業だったので、恐らく同人は非常に器用で、しかもそれなりに皆から尊敬される社会的地位にあったものと推測される。バルカン半島の中心部に所在するソフィア市は、当時かなり重要な商業の中心地で、63ものEsnaf(ギルド、同業者組合)が所在した。この内23のEsnafがブル人のみの組合で、その他は人種的には混合的な組合だった。当時この町の人口の過半数はトルコ人だったが、ブル人達もかなり多数いたことは、ソフィアに教会が多かったことからも想像できる。更には、ソフィア市は府主教座の所在地で、宗教活動が活発だったほか、市周辺の修道院では、書籍・文学活動も盛んだった。

  聖Georgiに関する経歴も、一見極めて普通だ:イスラム教への改宗を求められた*が、頑強に拒否したので、トルコ人らによって1515年2月11日に殺害されたのだ。GNSの遺体は、現在はソフィア府主教座(Sofiyski Mitropoliya=Sofia Metropolis、Ul. Tsar Kaloyan 7、ソフィア中心部のRila Hotel近くに所在)中庭にある小教会Sv.Marinaの中に埋葬されている。
   (*注:wikiによれば、トルコ人女性に好かれたが、彼女との結婚、そしてイスラムへの改宗を拒絶したために、殺害されたとある。)

  同人の人生、殉教の様子などは、同人死後にPop Peyo(僧侶ペーヨ)が書いた伝記によって知られるが、典型的な聖人伝記と言うよりは、その殉教時の苦痛などについて詳述した、ペーヨによる頌詩(褒め称える詩文)となっている。その上、飾りたてた文章ではなく、普通のブル人にも近づきやすい、平易な言葉で語っている。また、このようにして聖Georgiの殉教の模範が人気を得たために、ロシア人長老のIliyaが1539年に書いた伝記、その後も幾種類も書かれた写本などで、この聖人は著名となって行った。現在、同聖人の遺品の一部はDragalevski manastir(ソフィア市南郊のDragalevtsi地区に所在する修道院)に保管されている。(注:wikiによれば、Georgi Noviはロシア人のNikola Karastoyanovが、Samokov町(Sofia県南部)に所在した伝記本写本を、1855年に印刷頒布したことで、ロシアでまず有名となったという。また、1865年には、ソフィア市北東郊外の町Botevgradに、この聖人を祀る唯一の教会が建設された由。)

(3)功績
  この『百選』に、NSとGNSの両聖人を加えたのは、我々が、トルコの隷従下に置かれていた時代において、ブル民族としての価値観を維持することに貢献したという、そのことを高く評価するためである。ある意味、NikolayもGeorgiも普通の人であった。あの時代のブル人代表として全く普通の人々であった・・・だからこそ、彼らの事績は、より重要なのだ。

  NSとGNSが存在しなかったとしたらどうであろうか?その場合ブル民族の歴史が異なったものとなったであろうか?恐らくそこまでの相違はあるまい。しかし、それでも彼らが、そして多くの彼らのような人々が、自らの信仰を守ったのだ。そして、そのことが、わが民族の基礎をなして、ブル国民が維持されたのだ。彼ら二人の事例は、決して唯一の事例ではない。信仰と民族性を維持するために、苦痛に耐えたブル人殉教者として、彼らはその宗教と民族性を数世紀にわたり維持した、すべての他のブル人の象徴的存在なのだ。そしてこの功績は決して小さいものではないし、故にこの百選でもこの順位で尊重しておきたいのだ。

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