偉人百選:ガヴリール・クラーステヴィッチ

  65番目の偉人は、G.Krqstevichという人物です。Sliven県Kotel町出身の秀才であったため、Sofroniy Vrachanski(Kotel町出身)の孫にあたるStefan Bogoridi(オスマン帝国高官)から目をかけられ、帝都Kuru-Cheshme地区所在のギリシャ語学校で中等教育を受けた他、パリのソルボンヌ大学法学部に留学させてもらい、大学卒業後の25歳に帝都に戻ってSBの個人秘書、補佐官として活動します。その後、1851年(34歳)以降は、オスマン帝国高官(司法省官僚、裁判官、検事など)として活動し、法曹人としてオスマンの官僚社会で有名となります(現行法の権威として、オスマン政府官僚養成学校の名物講師として大活躍し、尊敬を集めた)。

  オスマン政府官僚として大いに権威を高めたと同時期、GKはブル教会の独立運動にも積極的に参加し、ブル人が独立系の教会を保有する権利に関し、教会法法理に絡む議論でもその秀才ぶりを発揮しました。最終的には、1870年2月のスルタン勅令(ブル人に代理座を容認)の草案も起草して、独立運動を前進させました。また、帝都でのブル人系新聞、雑誌などの編集、発行などにも関与し、自らの歴史学・言語学への趣味も満足させていました(SBの意向で法曹人としての経歴を歩んだものの、個人的興味は歴史学と言語学にあった)。

  1879年には、SBの子息Aleko pasha(Aleko Bogoridi)が東ルーメリア自治州総督に任命されると、その首席秘書官兼内相としてPlovdivに赴任し、1884年Aleko pashaが任期切れとなり(ロシアが同人の総督職再任を拒否した)、自らが東ルーメリア自治州総督となりました(ロシアがGKの総督就任を支持した)。しかし、1885年9月8日東ルーメリア自治州の治安部隊が主導するクーデターで「南北合併」が強行され、GKはその結果、帝都Istanbul市に送還される結末となりました。
  Alekoが「国際人」として多くの言語を習得していながら、ブル語を一切しゃべれなかったのに比し、最後までブル人としての血液に忠実だったとはいえ、GKもトルコ、ブル、ギリシャの3つの共同体にまたがった活動をしてきた国際人であり(ブル語にも生涯堪能だったが)、復興期の偉人として『百選』のブル人に選ばれうるほどの人物であったとしても、3つの国それぞれへの思い入れがあったはずとも思えます。GKは晩年をIstanbul市で過ごし、世紀末の1898年81歳で死去しました。

65.ガヴリール・クラーステヴィッチ=ブル人の教会独立運動に貢献したオスマン帝国高官(Gavril Krqstevich、1817--98年)
    Gavril Krqstevichの言葉:「隷属化された民族は解放されうるが、分割された民族は、もはや統合化されえない」。

  復興期に活躍した輝かしい人物の影に隠れて、より普通に存在したし、しかも影響力の面でより小さかったわけではない人々のことは、忘れられがちだ。彼らは、古き時代から新しい時代への移行期において、それなりの役割を果たしたのだ。これらの、目立たないが、それなりに大きな役割を果たし、痕跡を残した人物の一人が、Gavril Krqstevichだ。
  同人は長生きしたので、国民教育の普及から教会独立闘争、社会改革などを全て経験することができたし、最後には「東ルーメリア自治州」の総督(general-gubernator)ともなり、同人が総督の時に「南北合併」と言う大事業も成し遂げられたのだ。つまり、同人の人生は、ブル復興期におけるブル人の近代思想・価値観への一体化におけるインテリの役割と言う意味でも、極めて興味深いものなのだ。

(1)出生、教育
  本名Gandyo Kqtyov Baev(Gavril Baev Krqstevich)は、Sliven県北部Kotel町の裕福な職人家庭に生まれた。(wiki情報は、ブル語で次を参照:http://bg.wikipedia.org/wiki/%D0%93%D0%B0%D0%B2%D1%80%D0%B8%D0%BB_%D0%9A%D1%80%D1%8A%D1%81%D1%82%D0%B5%D0%B2%D0%B8%D1%87。Kotel町は、39番目の偉人Neofit Bozveli、41番目の偉人G.S.Rakovski、47番目の偉人Sofroniy Vrachanskiの出身地でもある。

  生年としては、1817年、1818年または1920年との説がある(1817年説を採用しておきます)。また父親の名前はKqdyo Baevとも言われ、故に父姓は、Kqtyovなのか、Kqdyovなのか、本当は分らない(父親の名は、Krqstyoだったとの説もある→Krqstevichはこれから来た名前と見える)。父親は早世したので、母親のRadaに対してGKはずっと変わらぬ愛情を抱いたという。また、幼児には、甘い声による教会での歌唱力で皆を喜ばせたという。

  初等教育は、最初はKotel町の学校で受け、次いで当時有名だったKarlovo町(Plovdiv県)のRayno Popovich教師の下で学んだ(1834年頃卒業)。(注:R.Popovichは復興期初期に、ギリシャ語・ブル語並行授業方式の学校を開始した教師で、同人の生徒には次のような後世の英才たちがいるという:Georgi Sava Rakovski(41番目の偉人), Petqr Beron(71番目の偉人),Gavril Krqstevich(今回65番目の偉人),Evlogi GeorgievとHristo Georgiev兄弟(43番目の偉人)。

  1834年Sliven市で教師となったが、G.S.Rakovskiの父親でチョルバジー(長老)のStoykoのところに、Stefan BogoridiからGKを帝都に招くとの書簡が到着した。
  1835年(18歳)には、GKは帝都Istanbul市に留学し、同地では、当時スルタンの顧問をしていたブル人Stefan Bogoridiの支援を受けて、帝都Kuru -Cheshme区に所在した有名ギリシャ語学校(Velika narodna shkolaと呼ばれた最古のギリシャ語学校)で教育を受けた。

  【小生注:Stefan Bogoridiとは、あのKotel町出身の第47番目の偉人Sofroniy Vrachanski(俗名Stoyko Vladislavov)の子息Tsonkoの子息にあたる人物です(最初の名前は、Stoyko Tsonkov Stoykov)。Kotel町出身のStefanはオスマン帝国高官へと出世し、ブル人をキリスト教に改宗させたBoris I王の別名Bogorisに因み、Bogoridiという姓を与えられたという。Stefanの子息のAleksandqr (Aleko)Bogoridiこそは、東ルーメリア自治州の初代総督として、GKの前任者なのです。http://en.wikipedia.org/wiki/Stefan_Bogoridi

  ちなみに、http://79909040.at.webry.info/201409/article_20.htmlで書いたように、Sofroniy Vrachanskiの妻の名前は不明、生き残った子息の名前はIvan・・・ということだったのですが、今回調べてみると、Bogoridi家(Bogoridevtsi)の家系図を見ると、SVと妻のGayka Atanasova(ほかの系図ではGanka)との間には、Vladislav(早世した)、Tsonko、Mariya、Gana、Katerinaの5名の子供がおり(注:高慢ちきな妻で、SVは嫌っていたと言うが、この妻との間に、5名もの子供を残したのだ!3名は女子だった。)、内生き残った男子はTsonkoのみとなる。47番目の偉人の項ではIvanと言う名前だったが、系図から言うとTsonkoが正しいようだ。

  Stefanがオスマン帝国高官として出世してKnyaz Stefan Bogoridiと、Knyaz=Prince=公爵と言う貴族の位階まで貰った(1834年、スルタンMahmud IIより、Samos島(小アジア半島西の沖に所在、現在はギリシャ領)領主職と同時に公爵の位階も得た)ので、露土戦争後にトラキア地方に設立された「東ルーメリア自治州」の初代総督と言う地位を、子息のAleko Bogoridiが、オスマン帝国から得たということらしい。


  1837--43年(20--25歳)には、仏パリに留学しソルボンヌ大学法学部を卒業した。滞仏中にGKは、ブル人の教科書用に、仏語教材のブル語への翻訳に取り組んだほか、ブル人留学生たちのための奨学金の確保にも努めた。

(2)職歴
  帝都に帰還(25歳)後は、GKは最初はStefan Bogoridi(トルコ語名はStefanaki bey)の個人秘書として働き、1844年には、SBが総督として領有していたSamos島の管理官(代官)となった。
  1850年春--1859年(St.Bogoridiが死亡)まで、再びSBの個人秘書兼補佐官。
  1850年秋、GKはAthos聖山に派遣され、修道院間の資産上の論争を調停に行った。同時にこの旅では、Ilarion Makariopolskiを解放するための事務手続きをする(成功)という、影の使命も担っていた。二人はブル教会独立運動の同志であった。
  1851年(34歳)からは商業裁判所裁判官、1868年最高帝国裁判所裁判官となり、同時に法科大学で商法の講師、政府官僚養成大学で現行法規の講師として活躍し、トルコ人の裁判官らさえ、GKの講義を聴講するほどの人気を博した。

  ブルの復興期社会において、GKこそはある意味最も進化的な発展を成し遂げたブル人と言えるのかもしれない。当時としては最高の教育を受け、しかも、オスマン帝国の最上層部に接することができた人物なのだ。そしてそれが故に、教育と帝国の近代化こそが、逆に帝国の時代錯誤性を際立てさせるということをよく理解できたのだ。
  愛国主義者としてのGKは、今こそブル人達は、欧州列強の力と利害も考慮に入れつつ、自分たちの自治と独立へと言う問題を掲げるべきだと考えた。同人が愛用した文言(フレーズ)が、同人の視点を明白に示していると言える:「隷従下に置かれた民族は解放されうるが、分割化された民族は、統合されえない」。(注:冒頭に引用されている言葉と同じです。

(3)愛国主義的活動
  自らの愛国心に導かれ、GKは教会・民族運動、ブル総主教代理座(Ekzarhiya)設置運動に積極的に参加した。KGは1871年2月の教会・大衆集会に参加したし、代理座規約草案の起草者でもあった。また、自らが有していた巨大な権威と影響力故に、東方正教会総主教座(Patriarshiyata)との和解交渉(1871--72年)担当コミサールにも任命された。
     (注:GKの努力にもかかわらず、総主教座からは「分裂主義非難宣言(Shizmata)」(1872年9月16日)が発出されてしまった。妻子がギリシャ系共同体に所属したGKはこの非難に心を痛め、以降は教会独立運動からは距離を置いたという。とはいえ、既に代理座は設置済みではあったのだが。

  また、若干の見解の相違とか矛盾を含みつつも、自らの死亡に至るまでの期間GKは、Yosif I総主教代理の政策、視点・・・・すなわち、オスマン帝国領域内に残されたブル人達に、彼らのための政治的解放という条件に到達できるまでの期間、良き条件と発展のための改革を確保するという・・・・を支え続けた。

   【注:『15—19世紀の著名人』によれば、GKは次のようにブル教会独立運動に多大な貢献をしたという:
   GKは1850年にAthos聖山への追放状態からIlarion Makariopolskiを解放後、1851年には「ブル教会共同体」会員となって、本格的にブル教会自立運動に参加した。オスマン官僚の身分のまま、この闘争にも参加したのだ。
  1856年、クリミア戦争後のトルコ政府の改革(Hatihumayuna)に便乗し、オスマン政府(Portata)に対して、ブル教会独立請願書を提出した。また、1859年『Bqlgarski knizhitsi(ブル書籍)』紙の編集を任されると、自分自身の関心事であった歴史・言語学的志向の記事を積極的に掲載し、更には当時出現していたユニエート主義(カトリック系帰一教会運動)に断固反対した。

  また、イースター典礼事件(1860年4月3日、http://79909040.at.webry.info/201409/article_21.htmlを参照)の準備にも関与した。
  更に、法律家として、教会法に関してもよく知っていたので、総主教座における一連の集会に参加して、ブル人側の利害を代弁した(1858--60年、1864年、1866年)。また、ギリシャ人らの議論に対抗して、ブル人が独立系教会を保有する権利に関する理論的立場を宣伝するパンフレットも作成した。要するに教会民族運動(TsND)の指導者の一人(穏健派)となったのだ。
  しかし、ブル・ギリシャ委員会でいろいろ議論したが、何らの進展も得られず、GKは遂にスルタン勅令(1870年2月27日付)の草案を起草した。結局GKの草案に基づいて発令された勅令が、ブル代理座(Ekzarhiya)設置へと導いたのだ。

  他方、対ギリシャ交渉を駐Istanbul・ロシア大使Ignatievの意向も考慮に入れつつ、遂行し努力したが、上記の通り「分裂主義非難(Shizmata)」が総主教座により宣言された(自らのブル側に立っての努力が不成功だった)後は、GKは教会独立運動からは身を引いた。なにしろ、GKの妻はギリシャ人で、子供らもブル語を話さず、ブル人とはならず、GK自身も帝都のギリシャ人社会にも所属していたのだ!
  ・・・・・ 小生注:『百選』著者らは、ブル愛国者としてのGKを強調したい故に、妻がギリシャ人だということに一切言及していない。『著名人』のおかげでこういう裏事情も分るというもの。妻がギリシャ人で、自らもトルコ政府官僚だったからこそ、GKは晩年Istanbul市に居住し、そこで生涯を終えたのだ
。】



(4)文学、文化面での功績
  GKは、祖国の文化の発展と近代化に努力を傾注した。同人はまた、ブル文学協会(BKD)の創設に賛同したインテリの一人だ。BKDの活動方向は、ブル文語を整備すること、この文語に基づいた新たなブル文学作品を発展させることであった。GKは、「ブル文学(knizhnina)発展共同体」の創設者の一人だったし、雑誌『Bqlgarski knizhitsi(ブル書籍)』の編集者だったし、ブル・インテリたちを団結させることに努力した。
  1871年同人は、BKDの名誉会員に選ばれたし、後に東ルーメリア自治州総督時代には、Plovdiv市に「科学文学協会(Naychno-knizhovno druzhestvo)」(1881年)を創設した。
  なお、GKはベンジャミン・フランクリンの著書を仏語からブル語に初めて翻訳した。

(5)ブル文語、歴史学への貢献
  GKの功績の中で、同人が有したブル文語への貢献についても忘れてはならない。
  初期の作品(1859年、42歳)としては、『ブル語の正書法上における幾つかの困難性に関する書簡』がある。その他の論文においても、ブル語の方言性の言葉と、その根幹となる言葉の間の「黄金比率」の確定に励んだ。そして、「変化的なЯ」と「柔らかいa」との間の発音上の近代的法則を初めて確定した。いずれにせよGKは、ブル文語も、会話語に基盤を置くべきとの立場を採用した。

  また、歴史学の方面でも1869年に『Istoriya bqlgarska (ブルの歴史)』(第1巻)を発行したが、ブル人の起源をフン族としたために、一部から強い反発を受け、第2巻、第3巻の発行をためらった(その後の研究で、これら残りの2巻の原稿も、復興期のブル歴史書としては、他の著作に比べてもよくできている方だと言われている。) 

(6)政治的経歴
  1843年:Stefan Bogoridiの秘書。
  1846年:Stefan Bogoridiに代わり、Samos島公爵(Knyaz)となった。
  1850年:オスマン帝国司法省に勤務。
  1868年:オスマン帝国最高司法評議会会員。
  1879--84年:東ルーメリア自治州の初代総督Aleko Bogoridi(Aleko pasha)の下で、首席秘書官兼内相。
  1884--85年:東ルーメリア自治州の2代目総督。

(7)東ルーメリア自治州での功績
  この自治州の総督首席秘書、及び総督としてGKは、その知性の全力を傾けて、この自治州に近代的行政制度の基礎を築いた。ブル公国との間の関税障壁を撤廃することで、GKはその後の南北合併に対しても、一定の貢献をした。
  もちろん同人自身は、一方的な南北合併は列強諸国の対ブル感情を悪化せしめると考えて、これに反対ではあったのだが。それでも、南北合併が実現され、既成事実化された時、元スルタン政府の官僚であった同人は、常に論理性と「黄金比率」を求める手法に基づき、自らのブル人としての血液を裏切らなかった。ブルの合体を確認後、老いた同人は次の言葉を発したと言われる、自らの真実の本性の発現として:「神よ、何れにせよ、自分もブル人なのだ!」。

(8)総合評価
  ブル国家が分割されていたこの時期における多くの活動家の中から、どうして我々がGKを選んだのか?・・・確かに、初代の東ルーメリア自治州総督はAleko Bogoridiなのだが、同時代の人々も、後世の評論家も、Alekoはその最後に至るまで、コスモポリタン(国際人)だったという評価で一致している:出生はブル人、教育ではギリシャ人(妻もギリシャ人)、そして仕事ではトルコ人。実はAleko pashaの場合、人生の最後に至るまで、ブル語を一つも覚えなかった*と言われているのだ。
  (*原注:同時代人の証言によれば、ブル系臣民らとの会話に際してはAleko Bogoridiは仏語でしゃべったという。彼らに対して、自らが自由にしゃべれるトルコ語、またはギリシャ語でしゃべれば、ブル人達を激怒させる恐れがあるから、仏語と言う方法に依存したのだという。)

  Alekoに比べて、2代目総督のGKの役割と行動ぶりは全く異なっていた。当時の観測者たちも気づいたように、GKの任命で、自治州内における「ブルガリア的大義」は決定的な勝利を収めたのだ。長年のトルコ政府での勤務、西欧での教育にも拘らず、同人は一度も自らの血液を裏切らなかったのだ・・・「パシャ(トルコ高官)となっても、自らの感情は変えることは無い」。このGKの態度が、南北合併の事業を、「成功にまで導いた」とまでは言えないにせよ、少なくともこれを容易とせしめた、とは言えるであろう。
  GK自身が後に次のように呟いたという:「自分は、合併のために人々が何をしているか知っていたし、これに対して自分の権限で何をできるか(どういう措置を採れるか)も知っていた。しかし、自分は、自治州の全市民がブル公国との合併を願っていることも知っていた。ブル人として、自分も同情してはいたのだ。とはいえ、自分の占めていた地位からみて、自分としては同情心以上、より遠くへ行くことはできなかったのだ」。

(9)Istanbul市で死亡
  GKはその最後の日々を帝都で、トルコの年金生活者として過ごした。1898年11月16日(81歳)に同人が死亡した時、ブル国会では、St.S.Bobchev議員、Iv.Ev.Geshov議員らが弔辞を読み上げた。
   (注:結局GKは、東ルーメリア自治州最後の総督(つまりトルコ側官僚)として、合併後のブル政府によりトルコへと「送還」され、その余生をIstanbul市で過ごすこととなったようだ。妻がギリシャ人で、子弟もギリシャ人社会に溶け込んでいたので、自分のみがブルに帰国する気分でもなかったのであろう。)

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    Excerpt:    今回は、ブルにおける9月の祝祭日6件を一括まとめました。 Weblog: ブルガリア研究室 racked: 2015-02-25 13:48