偉人百選:キリル総主教

  69番目の偉人は、アルバニア北部からブル国へと亡命してきたアルバニア人家族の子弟として誕生したKonstantin Markovと言う人物です。父母ともに名前から見ると、ムスリムではなく、恐らくはオーソドックス教徒だったようです。その意味では、また子息がブル国で誕生したからには、KMもブル人ではない、とは言えません。

  教育は子供の頃から神学校で授業を受けたので、初めから僧侶としての職業を想定していたと思われますが、青年期には、当時流行りの左翼思想に傾倒し、警察からもにらまれたし、ソ連領ウクライナ西部の大学に留学していたこともあり、どうやら共産党系思想に染まった「赤い僧侶」であった疑惑もあります。とはいえ、ドイツのベルリンで哲学も学んだし、その前にはソフィア大学神学部で博士号も取得したという風に、それなりにまじめに勉強していた形跡もあります。

  1953年、とうとう560年ぶりに復活したブル総主教座の初代総主教に選出され(共産党政権の意向に沿って選ばれた)ました。共産党独裁体制下では、宗教は「阿片」と言われ、「反宗教宣伝」が奨励されるほどでしたし、教会の数も激減したし、僧侶の人数も半減させられるほど打撃を受けたのですが、とはいえ、共産党も伝統的なオーソドックス教会の権威を、それなりに「利用できる道具」として待遇しました。

  政権と教会の間の一定の相互信頼関係を樹立し、逆にブル正教会としてギリギリの、最小限での生き残りを確実とした、と言う意味で、Kiril総主教は、それなりにこの時代に適合した人物であり、教会の生存にとっては、不可欠な役割を果たしたのではないか、と思われます。

69.キリル総主教=青年時左翼だった僧侶で、共産党政権が初代総主教に選んだ男(Patriarh Kiril、1901—71年、総主教任期:1953—71年)

マタイ伝第6章24条:「(6:24)だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。なぜなら、一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。同様に、あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。

  キリスト教の歴史は、決して田園詩ではなく、演劇だ。また、ブル正教の歴史は、悲劇としてみることができる。悲劇と化している理由には、1953年5月10日に、560年ものブル総主教座の断絶*を経て再建された「ブル総主教兼ソフィア府主教」の座に、Kiril総主教として選ばれた、俗名Konstantin Markovの物語が大きく貢献している。
    (*注:1393年のTqrnovo市の陥落で、ブルの総主教座は終焉したので、1953年の総主教座の再建まで、560年を要した、との数え方による。)

  キリルは、Evtimiy Tqrnovski総主教(21番目の偉人)が、ブル第2次王国期の最後の総主教だったのが、1393年のオスマン軍によるTqrnovo市陥落で、総主教座が閉鎖されて以降、560年を経て、ようやく再建されたブル正教会の最初の総主教である。同人は、1971年の死に至るまで、ブル正教会を指導した。この故に、ブル正教会の衰退と共産党政権への奉仕と言う責任を背負う人々の一人であるとも言える。
  あらゆる指導部は、困難に満ちているものだが、教会の指導部は使命感に立脚すべき存在だ。悪い羊飼いは、羊の多くを見失うということで、主要な罪悪(責任)を担うべきなのだ。
    (小生注:教会と共産党と言う二人の主人に仕えた「悪い羊飼い」というのが、共産党独裁体制が崩れた、自由化後の著者たちによるキリルへの評価だとすると、少し厳しすぎる評価かもしれない。正教会は、元来がビザンツ皇帝と神という二人の主人に仕えるという「伝統」を抱えてきた教会なのであり、責任をキリルのみに問うことは妥当ではない。)

  Kirilの半生は、普通の聖職者であったと言えるのだが、一つだけ異例なのは、公平ではない昇進によって、ブル正教会の高僧の地位に上ったという疑惑があることだ。例えば、同人が主教職に昇進した時(1936年7月12日)に、或は1938年にPlovdiv府主教に昇進した時に、一定の論争が巻き起こったという。国会議事堂においてすら、同人のアルバニア人家庭出身という背景に鑑み、ブル高僧職に任命されることの可否につき、質問がなされたほどだ。
    (小生注:1936年、38年・・・ともに王政期で、ボリス王独裁期なので、Kirilの背後に誰がいて、「不公平な昇進」に手を貸したのか?不可思議な解説だ。この時代に僧侶人事に共産党が影響力を行使できたとは思えないので、Stefan総主教代理自身がキリルを贔屓にしたとか、或は有力な世俗界の後援者がキリルの背後にいたのであろうか?)

(1)出生、教育
  Konstantin Markov Konstantinovは、1901年1月3日、首都ソフィア在住のアルバニア人家庭に生まれたが、ブル人として出生届された。父親はMarko Pachulari、母親はPoliksena Glava。いろいろな説があるものの、どうやら父親はアルバニア人の中のGeg族(Gegとは北部方言のこと。南部はTosk方言と呼ぶ)系で、1886年にブルに亡命してきたという(注:wikiでは次を参照:http://en.wikipedia.org/wiki/Cyril_of_Bulgaria)。
  
  教育は、ソフィア神学校、及びソフィア大学神学部で受けた*(*原注:この頃同人は左翼グループに所属していたとされる)。
  1920年9月20日(19歳)Konstantin Markovは、ベオグラードへと旅した**(**原注:なぜベオへと旅立ったか、その状況は極めて怪しいのだ。同年春に、左翼運動の活動で警察からにらまれ、捜査から逃れるために、亡命の必要性があったとの証拠がある。)。
  更に、ベオグラード大学神学部での勉学に関しても、いろいろ不明な要素が多い。一部の証拠では、KMはユーゴ国籍を取得し、同国の奨学金を得ていたという。この神学部では6学期学んだはずだが、一度も試験を受けていない。

(2)僧歴
  1923年11月ブルに帰国し、KMは修道僧として断髪し、Kirilと言う僧名で修道輔祭(英語:hierodeacon、ブル語:yerodyakon)に任命された。
  1924年、ソフィア府主教管区で勤務を開始し、神学校の教師となった。
  1924年秋、ウクライナのChernovtsi町*に行き、神学を学んだ。ちなみに、同地での学習に関しては、またもやデータが存在しない。しかし、1926年には帰国し、神学校の教師兼監督官、かつ修道輔祭となったことは確実だ。(*注:ウクライナ西部のChernovcyチェルノフツィ町。この町は、すぐ南にルーマニア国境、東にモルドバ国境が存在する。当時のウクライナはソ連領だから、この町できちんとした僧職としての教育を受けられたのかどうか怪しい。むしろ、ソ連共産党によって、利用できる左翼系僧侶となるように教育された可能性がある。)
  1927年(26歳)、神学博士号取得。
  1928--30年、Brlinで哲学を受講。

  Holy Synod(聖シノッド=府主教会議)首長代理だったVratsa府主教Klimentの死後(ちなみに同人とKirilの関係は良くなかった)、Kirilは修道司祭(hieromonk、ブル語:yeromonah)に叙任された(1930年6月22日、29歳)。
  1931年には、ソフィア府主教管区の補佐司教(coadjutor、ブル語:protosingel)に叙任された。
  1936年7月、主教に昇進。
  その後Lovech府主教、Varna府主教への2回の選挙に敗北した後、1938年5月、KirilはPlovdiv府主教(metropolitan、ブル語:mitropolit)に選出された。かくして同人は、ブル正教会の最上層部の高僧となった。

  1943年には、ユダヤ系市民の国外移送に断固反対し、鉄道レールに寝転んでも移送に抵抗すると警官らに宣言し、立ちはだかったが、ボリス王から「解放せよ」との命令が下り、ユダヤ系市民らはドイツがポーランドに設置した「絶滅収容所」送りを免れた(第二次大戦後Kiril総主教はイスラエルから感謝された)。

(3)共産党政権樹立後、総主教代理座の役割は終焉した
  1872年2月にAntim総主教代理が誕生し、Istanbul市のStefan教会がブル正教会の代理座(Ekzarhiya)として機能を開始後、代理座は、ブルのエスニック的、宗教的、文化的、歴史的、領域的な統合性の象徴として機能してきた。1913年バルカン戦争で敗北後、同年11月に、代理座はIstanbul市から追放処分を受けYosif総主教代理がソフィア市に移転させられて以降、代理座のトラキア地方、マケドニア地方と言った「国外地域」のブル人同胞たちとの紐帯は薄れたとは言うものの、依然として代理座こそは、全ブル人の絆を結びつける統合性の象徴だった。
 
  しかし、1944年9月9日の共産党革命後(密告のせいでKirilは数か月投獄されたという)には、この「国外同胞との紐帯」と言う代理座の役割には終止符が打たれ、代理座は徐々に全体主義体制の侍女となって行った。1947年以来、(元左翼運動家として)政治的に適合する人物として、Kirilは徐々に信者の人気を得ると同時に、共産党政権側からも、既に不都合な存在と見做されていたStefan総主教代理(64番目の偉人)に入れ替わるべき人材として前に押し出されていった。

(4)ブル正教会が、Kiril総主教の叙任で、共産党政権の道具として完成された
  1848年9月の聖シノッド会議で、Stefanが総主教代理職から解任された。そして、1950年12月31日には、Kirilが、聖シノッド首長代理となり、更には1953年5月10日、遂に560年の空白を経て再建されたブル正教会総主教座の初代総主教となったのだ。

  Istanbulの全地球座総主教であるAtinagorasは、Kirilを総主教に選出した第3回ソフィア市教会・市民集会の決定について、次のように述べた:「この集会の決定は、ブル正教会をソ連帝国主義の道具と化すという、政権側の道筋の一歩として、指令されたものだ」。

  また、Kiril総主教の叙任で、ブル正教会においては新しい規約(構成、運営規則)が、まさにKiril自身の参加の下で策定された。教会規約とは、実質的には教会の憲法に相当するもので、すなわち基礎的で恒久的なものなのだ。新規約は、これまでの代理座規約を大幅に改訂するものだったし、我が教会の名声、権威に修正しがたい打撃を加えた。

(5)死亡
  Kiril総主教は1971年3月7日ソフィア市で死亡した(70歳)。総主教在任期間は、18年間だった。遺体は、Plovdiv県南部に所在するBachkovo修道院内の「聖母教会」に埋葬された。
    (注:(1)71年3月、小生はソフィア市にいたはずだが、Kiril総主教の死亡に関しては何も記憶にない。社会主義時代でも、それなりに新聞記事とか、教会儀礼はあったはずだが、何も記憶していないのだ。それほど、社会主義時代、教会の地位は低く、さほどマスコミ報道も大きくは無かったということであろう。 (2)後任の、総主教座復活後2代目の総主教Maksimは、1971年7月4日に就任し、2012年11月6日に98歳と言う高齢で死亡した。在任期間は41年と極めて長かった。)

(6)Kiril総主教に関する総合評価
  総主教としての活動に関し、簡単に一方的な評価を下すことは難しい。一面では、Kiril総主教は、我が教会の独立性を勝ち取り、総主教座としての地位を回復した。他の面では、同人は一部の教会活動家、或は科学者(Mihail Arnaudov教授、民俗学者、文学史家)を共産党政権の前で擁護したという功績もある。

  他方では、Kiril総主教こそは、教会の荒廃を許容した責任者であるとの罪状も挙げられている。この点は、同人の指導下で、諸教会の建物が十分な修理もできず荒れ果てたこと、神学教育レベルが後退した事、僧侶の人数が大幅に縮減した事、教会内での奉神礼などの儀式が必ずしも励行されず、簡素化されてしまったこと、など数多くの退廃が見られた。1938年、人口が600万人の頃、ブルには2500名の聖職者がいた。しかし、1971年(Kiril総主教統治下最後の年)、人口は800万人以上だったが、聖職者数はたったの1200名に過ぎなかった。
  教会、或は現役の修道院をいわゆる「文化遺産」にしてしまったことも、Kiril総主教時代に関して、異論があるところだ。1961年10月11日の勅令403号によって、「聖Rila僧坊」は、国立博物館「Rila修道院」とされ、修道僧の修行場としては、全体主義崩壊の1989年末まで閉鎖されてしまったのだ。

  しかし、真実を言えば、教会を全体主義体制の傘下に置いたという件に関しての、Kirilの個人的役割に関しては、決して大きなものではなかったというべきだ。一人の総主教が独立性を主張すれば、政権側から容認されることは無かったであろうし、結局は解任されたことであろう…前例としてはStefan総主教代理が解任されたことを想起すればよい。実はまさにこの故にこの『百選』では、Stefan総主教代理には64番目と、今回のKiril総主教の69番目より上の順位が与えられたのだ。

  Kiril総主教には、使徒パウロの次の言葉が他の誰に対してよりもふさわしいと言える:「(10:21)主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない」。(口語訳聖書:「コリント人への第一の手紙」、第10章21条。)

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