偉人百選:ペータル・ボグダン

  93番目の偉人は、これまであまりブル人の間でもよく知られてこなかった、カトリックの聖職者です。同人は、17世紀と言う、未だに正教徒の間では、ブル民族としての自覚、民族解放運動などの復興期への動きも、始まっていない、むしろオスマン帝国内の同化作用の中で、ブル人の民族的個性が徐々に失われていた時期に、当時西欧文明の一番発達していた伊で学んだおかげで、ブル民族意識に目覚め、西欧、中欧諸国からの支援を引き出すことで、何とかブル民族をオスマン帝国から解放できないかと考え、反乱・蜂起の陰謀を何度も何度も練っていたと言います。
  ともかく、正教徒主流のブル国の中で、少数派でしかないカトリック聖職者が、少なくとも1世紀以上先駆けて、民族解放運動を試みていた・・・ということは、ブルの歴史としても、再度確認しておくべき事実であるのでしょう。

93.ペータル・ボグダン=カトリック聖職者教育を伊で受け、ブル民族のオスマン支配からの解放を17世紀の段階で夢見た、早生まれにすぎた先駆者(Petqr Bogdan、1601--74年) 
         Petqr Bogdanの言葉:「この世から、合法的に自分に対して要求されている全ての税金を、きちんと払い終わらずに死亡することは、残念なことであろう」。

  Petqr Bogdan Bakshevは、ブル人のカトリック大司教であると同時に17世紀の政治家でもあったが、長い間同人に関しては言及されることは無く、或は「外国勢力のスパイ」、乃至は「ブル国民統合の破壊者」という不名誉な範疇に入れられてしまっていた。

  わが『百選』では、この人物をきちんと序列内に加えることで、この政治家兼聖職者が同時代のブル人達に与えた影響力とか、或は、ブル人の民族解放闘争の中でカトリック教徒たちが有していた影響力などについて、考察したい。
  もちろん大部分のブル人達は、東方正教会系なのだが、ブル人の一部は今日でもカトリック教徒であり、東方正教会との間の架け橋の役割を果たしている。

  17世紀と言うと、ブルガリア的民族性が発展するためにも、或は生き残るためにも、鍵となり得る時代だった。15--17世紀の間、ブル国家は消滅し、ブル民族の独立的な発展も途絶えていた。このため文化的な停滞が生じ、ブル人達への民族教育プロセスも停滞していた。この文化的生き残りが、一番困難な時期に、水平線のかなたから出現したのがPBだった。

(1)出生、教育
  Petqr Bogdan Bakshevは、1601年、Montana県西部のChiprovtsi町に生まれた(http://en.wikipedia.org/wiki/Petar_Bogdan)。出生時はBogdanの名前を貰い、後にカトリックとして神学教育を受けるときにPetqrという僧名を与えられた。
  1620--23年(19--22歳)、PBは伊中部Ancona市のSt.Francisc修道院内の学校で学び、これを卒業し、1623--30年(22--29歳)には、Vatican大学で神学、文法、哲学、論理学、教会史などを学んだ。

(2)職歴
  1637年(36歳)、PBは、ソフィア市所在のカトリック司教の補佐に任命された。
  1642年(41歳)、法王Urban IIは、Sofia市にカトリック大司教座を置くと宣言し、PBを大司教職に任命した。死亡時まで、PBはこの地位にとどまった。(ソフィア大司教の地位は、カトリック系ブル人の首長としての地位。)

  
(3)ブル歴史学に関しては、Paisiyよりずっと先に著書を執筆した
   『ブルの歴史』*と言う書物をPaisiy Hilendarskiよりも1世紀も前に書いたほか、他にもブルの歴史に関して次のような本を書いた:『Ohrid市=ブルの首都=の歴史』、『Kiril とMetodiyのモラヴァ国での使命に関する記録』、など。
    (*注:1667年、Venice共和国のため、ラテン語で自筆本(活版ではない)を書いたが、出版する資金が無かった。伊で入手できた1296–1413 年の期間に関する年代記で、ブル国(主として第2王国期)、或はバルカン半島に関する記述を編集して、オスマン帝国に占領される前の情勢などを発掘、記述した。
  パイシー・ヒレンダルスキが生きたのは、1722―1773年と100年以上後のことであり、ブル人へのブル語での教育・啓蒙活動など、復興への努力が強まるのは、19世紀になってからだから、PBの活動は、本当にあまりにも早すぎた夜明け、と言えよう
。)


(4)正教会より先に、民族自立運動、民族再生運動に目覚めた
  17世紀当時のブル人としては、珍しく西欧における学問、文明の成果に触れることができたPBは、自らの努力をオスマン帝国内におけるブル人の自律的な文化的、政治的権利の擁護と言う方向に定めた。また、オスマン帝国内におけるブル人の立場に関して分析してみると、同人としては、このように汚職と獣的に非寛容な体制の中では、ブル人達の将来には明るさが見えないと結論した。
  これが17世紀と言う、ブルの民族性が消滅してしまうか、或は自覚され、再生されうるか、と言う瀬戸際(チャンスがどちらの方向にでも、ほぼ同じだった)の時代であったことを想起すべきだ。故に、PBの役割、同人が書いた歴史に関する著作類の役割、こそはまさに必要な時代であったのだ。つまり、ブル文化の発展、ブル歴史学の創設・・・・そしてブル人としての歴史記憶の保存・・・これらが一番重要な役割を背負う時代だった。
  
  そもそも、一つの「民族」としての統一的な民族感情の発展のためには、、共通の歴史的記憶を共有することが、共通する言語と共に、主要な役割を果たすのである。ここからようやく19世紀になって、「近代的なネーション(国民、民族)」が生まれるのだ。

(5)カトリック・ブル人の蜂起、反乱を外国勢力の介入で守り、ブル民族の自立を実現するという試みに邁進した
  もちろん、時代が未だに17世紀であるし、その上、PBが所属していたのはブル人の中でも少数派のカトリック教徒たちだったから、PBが及ぼしえた影響範囲は極めて小さいと言うしかない。とはいえ、同人の知的な行動は、現実主義的な外交活動によっても補完されていた。全てのPBの政治活動は、ブル人の頭として、クリスチャン君主が就いてほしい、と言う点に集約されて動いていた。

  この提案を抱えて、何人もの欧州(中欧)の君主たちの間を巡り歩いていた。また、同人の計画内には、ブルのカトリック教徒たちを蜂起させて、外国からの援助、介入も引き出そうという考え方も存在した。
  一番初めのPBの陰謀は、1645年で、この時同人は、ワラキアの戦争指揮官Matey Besarabからの支援に期待をかけた。
  なお、PBの優れた価値観としては、現実主義と、共感性がある。よって、1649年、PBは自分とPetqr Pqrchevichの両名で組織してきた北西ブル地方における陰謀につき、情勢が熟しておらず、成功の可能性が低いうえに、多くの流血の犠牲を予測できたので、これを停止した。
  1654--56年には、PBの計画にはより広いバルカン半島諸国の住民らが含まれるようになっていた。そして、1673年の陰謀では、既に支援が正教会系のロシアから来る、と言う方向にまで可能性を広げていた。

(6)功績と死亡
  聖職者、歴史家、外交官という多面的な顔を持ちつつ、これらを総合して活躍したP.B. Bakshevは、ブル・カトリック教徒たちのための、17世紀のソフィア市大司教であり、唯一一つの目的を持って行動していた:ブル人の文化的、政治的解放、及び、自由なブル国家の再生。
  1674年9月初め(73歳)、PBは死亡し、故郷Chiprovets町に自分自身が建設したSanta Mariya教会の祭壇内に埋葬された。

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