偉人百選:メトディー・クーセフ

   98番目の偉人は、wikiで探しても見当たらないMetodiy Kusevという高僧の話です。現在マケ共和国領のPrilep町に生まれ、帝都に所在したブル正教会代理座で、オスマン政府と交渉し、マケドニア、トラキアのブル人居住地に次々とブル人学校、図書室などの施設建設許可を取得し、オスマン帝国内でのブル人の居住領域の境界線を確定しようと頑張りました。

  最終的には、バルカン戦争、第一次大戦を通じて、MKの願望と努力は水泡に帰してしまったのですが、最後の地位Stara Zagora府主教としては、SZ市内に、広大な公園(世界中から珍しい樹木を収集し植えた)を開設するなど、植林事業の面でも功績を残しました。

98.メトディー・クーセフ=帝都のブル正教会代理座の補佐司教(実務代理人)として、マケドニア、トラキア地方のブル人解放運動に尽力した高僧(Metodiy Kusev、1838--1922年)
     M.Kusevの墓碑より:「MKは、ブルガリア魂の聖人だった」。     

  Metodiy Kusev府主教は、復興期におけるブル人居住地域統合のための戦いにおける偉大な活動家だった。Prilep市(現在のマケドニア共和国南部)生まれで、露土解放戦争に参加した。その後はベルリン条約による決定、或はヌイイー条約による独断に対し、激しく反対した。そして同時に、組織的植林事業をブル国内で積極的に推進した人物でもある。

  
(1)出生
  1838年Todor Yovchev Kusevは、マケ中南部のPrilep町に生まれた。
   (注:Gaberoffの百科事典では、1837年生まれとなっている。また、姓はKusevichとなっている。もっとも、復興期の教会スラヴ語的正書法では、姓の語尾に-vichを付けるのが普通だった。)

(2)マケドニアの覚醒のため、色々な活動
  マケドニア内において、MKは教師、図書室(Chitalishte)活動家、ギリシャ人僧侶に対する反抗運動の組織、そしてブル人達の指導者の一人・・・など色々な役割を務めた。

(3)マケドニア、トラキア地方のブル人居住地域につき国際的認知を得る努力をした
  第1回ブル教会・国民集会(1871年、帝都Istanbul市で開催)に対するBitola県(Pelagoniya eparchy。Pelagoniyaというのは、マケ南部の町Bitola市東方の平野名。ペラゴニヤ司教区)代表として出席した同人は、ブル代理座の管轄範囲として、1870年付スルタン勅令に明記されていなかった、全てのトラキア、及びマケドニア地域内の司教区を列挙させることに成功した(もちろんブル人側の希望としての列挙)。この方法によって、初めて公式に、オスマン領域内における、ブル人居住地域の境界線が明白となった。
  後に、このエスニックな境界線は、1876年の帝都における大使級会議で国際的な承認を得たし、更には1878年のSan Stefan和平条約でも確認された。(注:ただし、同年のベルリン条約でSan Stefan条約は無効となった。

(4)僧職に就いた
  1873年(35歳)、Todor Kosevは、僧職(修道僧)に就くこととなり、僧名としてMetodiyを貰った。そして僧侶として、ブルガリア民族事業と、神のための奉仕の双方を、ほぼ同じほど熱心に推進することとなった。

  Plovdiv府主教Panaretのprotosingel(補佐司教)として、また、Robert College(帝都所在の有名高校)の教授たちの支援を得て、MKは1876年四月蜂起に対するトルコ官憲の血塗れの鎮圧活動と言う真実に関して、初めて世界の世論に情報を提供した(告発した)。この行為によって、その後の欧米世論からのブル人の大義に対する好意的反響を引き出すことに成功した。また、その後の露土解放戦争時には、露軍参謀本部に協力した。

(5)総主教代理の代理人(補佐司教)として大活躍
  1880年(42歳)Ekzarh Yosivによって、帝都に不在のEkzarh(総主教代理)の代理人として帝都での職務を代行するように命じられた。かくしてMKは、Solun(Salonika)市のブル人高校、或はEdirne市のブル人高校、及び帝都におけるブル神学校などの開設許可証を取得するのに功績があった。同様に、トラキア地方、マケドニア地方の各村落へのブル人学校、教会、図書室などの建設許可取得にも成功した。

  ヨーシフ代理(Ekzarh Yosif)の補佐司教として、或は帝都におけるブル神学校校長として、更には、Stara Zagora府主教として、MKは新たに承認されたばかりのブル教会の基盤強化につき、巨大な仕事を成し遂げた。
   (注:Gaberoff事典によれば、MKは1886年から露に留学し、まずKiev神学校を卒業、次いでPeterburg神学大学も卒業した。その後、帝都に戻り1892—94年ブル神学校校長。また、1894年にはVladika=主教に任命され、SZ司教区を担当。更にのちに、SZ教区のまま府主教(Mitropolit)へと昇進した。)

(6)Shipka村記念寺院の落成式
  1903年、ブル解放後25周年事業として、Shipka村(注:現在は、SZ県Kazanlqk郡Shipka町)に記念寺院が建設され、この寺院の序幕式典では、ロシア人の聖職者のみが、儀礼を仕切ることとなっていた。しかし、この司教区における主教(Vladika)としてMKはこのような式典の式次第に対して激しく反対し、押し切った。結局、寺院は、ロシア人聖職者とブル人聖職者(MK)による、共同の奉神礼式典と言う形で、落成式が挙行された。

(7)小説のヒーロー・モデル
  作家のDimitqr Talevは、MKを自らの「マケドニアにおけるブル人の解放闘争に関する年代記」とも呼ばれる小説群で永遠化した:『鉄の燭台(Zhelezniyat svetilnik)』、『Prespanskite kambani(Prespa湖の鐘)』、『Ilinden*』、『Glasovete vi chuvam(あなたたちの声が聞こえる)』。実は、MKこそは、主要ヒーローの一人Lazar Glaushevのモデルなのだ。
   (*注:1903年7月20日(Ilinden)--11月2日に、Ilinden --Preobrazhenie蜂起と呼ばれるVMOROによる蜂起が、Bitola、Soln(Salonica)、Skopje革命区において実行された。Ilinde自体はこの7月20日のことだが、ここでいうIlindenとは、この1903年の対オスマン蜂起のことを指している。)

(8)植林事業
  MKは、ブルにおける人工的植林事業の創始者としても有名だ。特に有名なのは、Stara Zagora市内の2000haの土地に植林して建設された、美しい公園「Ayazmoto」は有名だ(注:MKがStara Zagora市に建設した「Ayazmoto」公園に関しては次を参照:http://www.arrakis.es/~wallada/ayazmoto/ayazmoto.htm。)。この公園のためには、全世界から、種々の樹木が集められた。

  
(9)功績、死亡
  マケドニア、トラキア地方におけるブル人解放運動への貢献、或は植林事業での地球環境問題への対応など、全ての業績に対し、1920年MKに対しては「Svetinya na bqlgarshitinata(ブル人魂の聖人)」との呼び名が提供された。
  MKは、1922年11月1日(聖人Ivan Rilskiとnarodnite buditeli(復興期の指導者たち)の日)に死亡した(84歳)。

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