偉人百選:コーリョ・フィーチェト

  84番目の偉人は、本名がNikola Fichevで、綽名がKolyo Fichetoと言います(注:綽名と言うよりは、KolyoはNikolaの愛称形だし、FichetoもFichevの愛称と言えるので、むしろ愛称形と言うべきかも)。オスマン時代末期、ブル復興期の建築・建設業者兼主任職人で、Lovech市に所在する石の橋は、伊などに多く存在する様式を取り入れた「屋根のある橋梁」として有名ですし、更に東方のRuse県Byala町に所在する「長大な石橋」も有名です。同人の孫にあたるのが、62番目の偉人で、バルカン戦争時のブル国軍の参謀総長だったIvan Fichev将軍です。
  石橋が有名とはいえ、同人が建築した数では教会が最も多く、付属する鐘楼なども建築、或は設計しています。
  皮肉なことに、ブル国が1878年にトルコから解放され、独立後は、近代建築技師としての免許を取得していない(その上文盲)ということで、建築業を営むことが禁じられたそうですが、同人が建築、建設した美しい復興期の教会は、VT県を中心に中東部各地に残っていて、ブル建築美学の一つの頂点を極めています。(また、現代では建築・建設業につきものの設計上の力学計算などもしていないようですが、当時の職人は伝統的な職人芸で、計算無しでも安全な設計ができたようです。オスマン時代はそれで済んだし、ギルドの職人芸がそれなりに尊敬されていたということでしょう。)

84.コーリョ・フィーチェト=ブル復興期の偉大な建築技師(Kolyo Ficheto、1800--81年)
     Usta Kolyo Fichetoの言葉:「太守殿(pasha efendi)、この橋*を私の試算額70万グロシュで建設できなかったら、自分の首を切ってください」。
    (*原注:この橋とは、Byala町(Ruse県南西部)にあるYantra川に架かる有名な石橋のこと。この橋の建設費としては、他の業者は250万グロシュを要求した。)        

  Nikola Ivanovich Fichev(綽名はKolyo Ficheto)は、ブル復興期が生んだ非常に興味深く、ユニークな人物だ。独学の同人の建築手法には、誰かから模倣したところとか、幾つもの技術を折衷したとか、そういうところが全くなく、まさに独創的、天才的な人間だったことが明らかで、この故に我々としては、この『百選』の中に場所を与えたいと思う。

(1)出生
  Nikola Ivanovich Fichevは1800年、Dryanovo町(Gabrovo県東部)に生まれた(http://en.wikipedia.org/wiki/Kolyu_Ficheto)。3歳の頃父親が死亡し、孤児となった。
  ちなみに、KFは、バルカン戦争時ブル国軍の参謀総長だったIvan Fichev将軍(62番目の偉人)の祖父である。

(2)教育:職人として、徒弟制度の中、徐々に成長
  KFは、10歳の頃からTryavna町(Gabrovo県東部、Dryanovo町より南)の建築・建設業者の職人集団に参加し、東トラキア地方全域、Istanbul市、ワラキア(ルーマニア)などで仕事をした。
  17歳の頃、Albania東部のKorce(コルチャ)市(ブル語ではGoritsa)出身で、西部ブルで活動していた石工(いしく)たちから石細工技術を学んだ。
  その後、パザルジック県東南部のBratsigovo町出身の職人たちから教会建築、鐘楼、石橋の建築技術を学んだ。
  1823年(23歳)には、「兄弟子(kalfa)」となった。
  1830年からはTqrnovo市に居住。1836年まで、有名な職人のIvan Davdataと共に、仕事していたほか、Tqrnovo市の「Sv. Nikola教会」の建設時には、同人の代理としてこの建設を成功裏に完了した。その後は、建設ギルド内で、主任職人(ustaと呼ばれる)として認知された。
   (注:1836年、36歳で主任職人=ustaとして、建築・建設業者(dyulgeri)集団(ギルド)の中での地位を確立した、と言うこと。ustaは元来アラブ語で名人、教師、教授などを意味するという。ちなみに、ブルのギルド=esnafの社会では、最初がchirak=弟子、その後kalfa=兄弟子となり、最後がusta=maystor(ブル語)となる。)
  なお、同人は会話では、ブル語の他に、トルコ語、ルーマニア語、ギリシャ語に堪能であったが、生涯を通じて文盲であった。

(3)主要な建築・建設物件
  1842年(42歳)の時KFは、Kilifarevo monastery(VT市から南に10kmほどのVT郡Kilifarevo町に所在する修道院、http://www.bulgariamonasteries.com/en/kilifarevo_monastery.html)の第3教会を建設したが、この教会にはすでに同人の独創的な建築様式が明白に示されていた。
  故郷のDryanovo町に1849--51年に建設された「Sv.Nikola教会」は、KFの設計に基づく美しい教会だ。

  一番同人の建築的価値が称えられている建築に、hadzhi Nikoli MinchooluのTqrnovo市におけるハン(ホテル兼レストラン)がある(1858年、58歳)。
  Svishtov町(VT県)の「Holy Trinity(三位一体)教会」の建物(1867年)も有名だ。
  VT市内にKFが、1874--76年(76歳)に建設したKonak(市役所)では、ブル解放後の制憲会議が開催され、ここでTqrnovo憲法そのものも採択された。

  他方で、最も人気があるのは、KFの橋梁だ:
   ①Yantra川に架かるRuse県Byala町の橋(1865--67年、67歳)。この当時、幅9m、長さ276mという、これほど大きな橋梁は、それまで建設されたことは無かったし、他のブル人建築家の誰も想像すらしなかった。
   ②もう一つ興味深い橋梁の例は、1872--74年(74歳)にOsqm川に架けられたLovech市の橋で、この橋はブルの土地における、「屋根のある橋」の唯一の事例だ。

 
  
(4)建築家としての業績・功績
  Nikola Fichev=KFは、ブル復興期の建築家の巨匠とされ、いわゆる「Tryavna(Gabrovo県東部の町、Dryanovo町から南に15㎞ほど)建設学派」の頂点に位置する人物だ。また、ブル復興期末期の一番有名な名人(maystor)だ。
  約38年間にわたる期間に、同人は12の教会、3つの橋、数件のジャミン(イスラム教寺院)、鐘楼、ハン、兵舎、住居、チェシュミー(水飲み場)(注:数件の・・・以降は全て複数形)を建設した。
  Midhat pashaがDunavski vilaet(ドナウ県)を統治したころ(1864--68年)の全ての大規模国営建設事業(オスマン朝としての)を監督した。
  
  長年にわたる建設事業での業績から、いわゆるFichevski stil(フィーチェフ様式)が生まれ、ブルの解放後(1878年以降)も長くブル全土で主流となった。

(5)特有の様式を完成
  KFの特徴は全てにおいてオリジナリティーがあるということ。KFは決してそれまでに存在した、より古い教会の建築様式を真似することは無かった。
  他方で、新しい様式はそれを維持しようとして、自ら教会の内部空間の構成に取り込んだ。KFは、それまでは常に支配的だった3層の柱列のリズムとかを、より単純に2層の柱列に縮小した。この手法で、祭壇前の大ホールの内部空間をより広く開放することとなった。そしてこの広い中央空間に対し、南北のホール空間と祭壇の空間が連結されている。

(6)晩年の悲劇
  ブル国の文化伝統の中で、KFは国民建築美の象徴として輝いている。同人こそは、復興期の末期と共に消え去る一時期の象徴だ。
  しかるに、解放後の同人の運命は悲しいものだ・・・建築家としての公的免許状を保有しないために(そもそもKFは文盲だった)、KFはもはや建築業を経営することすら許されなかったのだ。
  KFは、1881年(81歳)、Veliko Tqrnovo市で死亡し、同地で埋葬された。

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