偉人百選:ヴァシール・ドゥルーメフ

  87番目の偉人はVasil Drumevという、復興期末期に出現し、近代ブル文学史上で最初の短編小説家、或は最初の脚本作家として功績のあった人物です。つまり露留学時の文学者としての功績(1860--72年、19--31歳)が評価され、この『百選』に場所を与えられているのですが、その生涯の軌跡を見ると、高僧、政治家としての経歴の方が長い人物です。

  若い頃(1862年、21歳)G.Rakovskiに感化されて民族解放運動に参加したこともあるのですが、この蜂起が失敗すると穏健派へと転じて、勉学、僧職に専念しました。また、露土解放戦争時には、Ruse府主教管轄教区(正式名はDorostolo-Chervenski管区)の主教(府主教代理)として、露軍のRuse市への上陸、町への入城を歓迎しました(Kliment Branitski主教として)。

  ブル解放後は、政界に転じ、制憲会議、第1次大国民会議で国会議員、保守党幹部として憲法制定に奔走したほか、1885年にアレクサンダル公がリベラル派と結託して南北合併を強行したこと、で露皇帝を激怒させると、親露派人士としてクーデターを起こした士官らに担がれ、数日間臨時政府を率いたため、このクーデターを鎮圧したStambolovらのリベラル派に睨まれました。また、Stambolov政権時(1887–1894年)にも反Stambolov、反Ferdinandの反対勢力の運動に加わったため、遂にGlozhene修道院に1年ほど幽閉されました(1893—94年)。

  その後は、基本的には1884年以来就任したTqrnovo府主教(Kliment Tqrnovski)として、僧職を継続し、1901年7月にソフィア市で死亡しました。

87.ヴァシール・ドゥルーメフ=僧侶、政治家としても高位を占めたが、ブル歴史への貢献としては、復興期末期に出現した近代ブル最初の短編小説作家、脚本家としての功績が大(Vasil Drumev、1841--1901年)
     Vasil Drumevの言葉:「ブル人として、また自民族への愛情に取りつかれた者として・・・自分の力と時間が許す限り、自分の祖国に対して何かを貢献したいと決意した」。

  VDは、復興期の偉大な文学者だ。同人は、新時代のブル小説の基礎を自らの短編小説『Neshtastna familiya(不幸な家族)』(1860年)で築き、更に最初の成功した戯曲(演劇台本)としての『Ivanko』(1872年)を創作した。
  後者は、最初の芸術的な演劇脚本として、ブル文学の中に大きな地位を占めている。この脚本についてLyuben Karavelovは、「最初の事業だ、つまり、ブル文学の中に初めて誕生した作品だ」と称えた。
  文学以外でも、VDはKliment Branitski=ブラニツキ主教、Kliment Tqrnovski=タルノヴォ府主教、としても有名だ。要するに高僧として新生ブル国家の政界でも、一定の役割を担った人物なのだ。

(1)出生、教育
  Vasil Nikolov Drumevは、1841年にShumen市の縫製職人Drumiと母親Kerushaの間に生まれた5人目の子供(末子)であった。職人兼商人として、中程度の富裕度を有した家庭であった(http://en.wikipedia.org/wiki/Kliment_of_Tarnovo)。
  
  初等教育は、Shumen市内で復興期の教師Sava Filaretov、及びSava Dobroplodniから受けた(1847年、6歳で入学)。1849年末ハンガリーでの蜂起が鎮圧後、Shumen市に亡命してきたハンガリー人、ポーランド人の移民たちの存在故に、進歩的で自由な空気がShumen市に持ち込まれ、新しい文化も運んできたことで、ブル学校生徒たちにも大きな心理的影響があったという。また、1853--56年のクリミア戦争時、Shumen市には、トルコの同盟国として仏軍、英軍が駐屯し、更に西欧風の文化が流れ込んだという。この結果、1856年Shumen市でSava Dobroplodni作の喜劇『Mihail』が演じられたとき(ブルにおける演劇上演の最初のケースと言われる)、VDも役者(主役)として参加した(15歳)。

  Odessa市のブル人理事会(OBN=Odesko bqlgarsko nastoyatelstvo)の奨学金を得て、同市の神学校を卒業した。1858--69年の10年間にわたり、Odessa市、次いでKiev市で勉学した。この時期にG.Rakovski(41番目の偉人)と知り合い、後には同人が組織した第一次「ブル・レギオン」にも参加した(1861年末--1862年、21歳)。(注:しかし、セルビア政府とレギオンの利害が食い違い、蜂起計画は失敗し、VDは失望したほか、G.Rakovskiとも喧嘩分かれしたという(このレギオン時にVasil Levski、Stefan Karadzhaと知り合った)。かくして、ロマンチックな愛国者から、穏健な僧侶へと変身した模様。)
  1869年(28歳)Kiev神学大学を卒業し、「神学(theology)候補」の学位を得た。

(2)職歴
(ア)ブル文学協会で実質指導者

  1969年、VDはBraila市(注:ワラキア北東部、ドナウ河口の町。Tulcea市,
Galati市と共に、ブル人亡命者たちが集合していた町
)で、ブル文学協会(Bqlgarsko knizhovno druzhestvo=BKD)の創設者の一人となった。また、3名の現役会員に選ばれ、Marin Drinov(31番目の偉人)議長が外国に滞在していたので、代理としてBKD議長役を引き受けた。
  また、頻繁にBKD機関誌『Periodichesko spisanie(定期雑誌)』に記事を書いた。VDのアイデアで、この雑誌のために「特別評論部」が設けられ、復興期の文学評論文が掲載された。

 
(イ)僧職における経歴
  1873年6月(32歳)、修道輔祭(yerodyakon=英語ではhierodeacon)に叙任された。
  1874年(33歳)には、「Branitski」主教(episkop=bishop)・・・Dorostolo-Chervenski*府主教(Grigoriy)傘下の属主教(vikaren episkop = suffragan bishop)に叙任された。同主教としては、Dorostolo-Chervenski(Rusenski)府主教区(eparhiya)管内で、ワラキアのTulceaに中心地(本拠地)がある北Dobrudzha部分を担当した。

  1877--78年(露土戦争時):Ruse(正式名はDorostolo-Chervenski)府主教のGrigoriyが帝都に呼ばれ、Kliment Branitskiが、Ruse市で府主教代理職を遂行。1878年2月8日、Ruse市で露軍の上陸を歓迎。
  1884--1901年(43--60歳):Tqrnovo府主教管区(eparhiya)府主教。

     (*注:Dorostolon=現在のSlistra市。Cherven=12--14世紀に栄えた城砦都市。現在はRuse県Ivanovo郡Cherven村。
   なお、Branitsa村は、Haskovo県Harmanli郡に所属するが、このBranitski主教の名称と関係があるかは、不明。ただし、Tulcea市付近にはHaskovo県東隣のYambol県内のTenevo村から移住した大勢の亡命者がいたので(63番目の偉人Aleksandqr Malinovの項を参照)、同様にHaskovo県Branitsa村からの移住者村も存在したのかも。なお、下記(オ)の経歴1874年の項にあるように、Tulcea市に本拠を置く主教として「 Branitski」という肩書を貰ったのだという。やはり、北ドブルジャにBranitsa村出身者らも存在したから、このような肩書となったのではなかろうか。


(ウ)解放後、政界でも活躍
  1878年(37歳)のトルコからの解放後、Kliment府主教*は自由ブルガリアの制憲会議、或は第1次大国民会議(1.VNS)に活発に参加した(保守派として)。また、1879.11.25--1800.3.24の第2期政府では、首相兼教育相であった。
    (*注:正式に府主教となったのは、1884年のはずだが、上記第2期政府で首相となった時の名称としては、Mitropolit Kliment Tqrnovskiと書かれている。こういう公式名簿には、後に記載するときに、遡って上の肩書(博士、教授、将軍なども)を書くのがブルの儀礼らしい。)

(エ)南北合併期(1885年以降)
  1885年9月(44歳)に、ブルで南北合併が強行されると、Kliment府主教はブル代表団を率いてコペンハーゲンに赴き、露皇帝(Alexander III)から支持を引き出そうと外交努力した。
  しかし、親露路線を一貫して歩んだKlimentは、結局翌1886年8月9日の親露派ブル人士官と露外交官らによるアレクサンダル公に対するクーデター事件後の臨時政権首班に担がれた(1886年8月9--12日)。
  このクーデターが、St.Stambolov国会議長と義兄のSava Mutkurov中佐によって鎮圧され(8月10--12日)、敗北に終わったのち、Kliment府主教はTqrnovo府主教教区に戻るしかなかった。しかし、摂政府を主導したStambolovから睨まれ、結局Glozhene修道院に幽閉された(1893年、52歳)。

   (注:Glozhene monasteryは、Lovech県Teteven郡Glozhene村に所在。お菓子の町として有名なYablanitsa町から南東方向に所在し、険しい山道(車1台しか通れない狭い山道)の最奥部の崖の上に所在する修道院で、眼下には平野が広がり見晴らしは良いが、結構交通は不便な山中の僻地、と言う感じの場所にある。小生は危険な山道で、途中から引き返すUターンもできず、何とか冷や冷やしながら修道院にたどり着き、ほっとした経験がある。修行僧にはある意味素晴らしい環境でもある。http://en.wikipedia.org/wiki/Glozhene_Monastery

(オ)経歴
    (注:『ブル政府百科事典』に掲載されているKlimentの公式経歴は次の通り。)
 名前:Vasil Nikolov Drumev(Branitski主教、府主教Kliment
1840年頃(『百選』、wikiでは1841年)Shumen市で生れた。
1849--56年:Shumen市内の学校で、Sava Dobroplodni教師に教えを受けた。
1856--57年(1857年、16歳):Shumen市内の学校で、助教(相互授業方式なので、年長の優秀な生徒が助教となって、下級の生徒を教える制度)。

1858--65年(17--24歳):Odessa市で神学校を卒業。
1858--62年(17--21歳):『Bqlgarski knizhitsi(ブル書籍)』誌、『Tsarigradski vestnik(帝都新聞)』の寄稿者。
1860年(19歳):最初の短編小説『不幸な家族』を執筆。
1862年(21歳):「第一次ブル・レギオン(義勇軍)」に参加。

1864—65年(23--24歳):Odessa市で第2の短編小説『Uchenik i blagodeteli(生徒と支援者)』を執筆。
1869年(28歳):Kiev神学大学卒業(1865年入学)、「神学候補」学位を取得。Braila市に創設された「ブル文学協会(科学アカデミーの前身、BKD)」の実質議長。
1869--73年(32歳):Braila市所在ブル学校教師兼校長。
1872年(31歳):歴史戯曲『Ivanku,ubietsqt na Asenya I(Ivanko、Asen Iの殺害者)』(5幕ものの脚本)を完成。

1873年6月6日:Tulcea(トゥルチャ)市の修道輔祭(yerodyakon)に叙任された。僧名としてKlimentを貰った。その後急速に昇進し、yeromonah=hieromonk=修道司祭→arhimandrit=archimandrite=大僧院長(管長)(7月18日)→protosingel=coadjutor=補佐司教(1873.07--1874.04)となった。(小生注:急速、異例な僧侶としての昇進には、Dorostolo-Chervenski府主教Grigoriyの庇護があったほか、1872年に帝都にブル総主教代理座が発足し、ギリシャ人僧侶たちを早急に追放し、ブル人高僧で代替する必要性があったからであろう。) 

1874年4月:Ruse市「三位一体教会」にて主教(episkop=bishop)に叙任され、肩書きとしてBranitskiを賜った。Vikariy(属主教)として、Dorostolo-Chervenska eparhiya(Ruse府主教管轄教区)の内、Dobrudzha地域(Tulceaが本拠、よってルーマニア領の北ドブルジャがメーン)の指導を担当。
1878--84年(37--43歳):VT県Lyaskovets町の「Peter -Paul神学校」校長。BKD会員。

1879--81年(38--40歳):制憲会議、第1次大国民会議に保守党側(主な主張点は、2院政、参政権を教育程度で規制)として参加(1884年に府主教になる前なので、この頃はKliment Branitskiと呼ばれていた)。第2期政府(1879.11.24--1880.03.2)において、首相兼教育相。
1881--83年:アレクサンダル公による「全権委任体制」時、Tqrnovo憲法の効力停止措置に反対し、民主派人士たちからも一定の尊敬の念を勝ち取った。

1884--1901年(43--60歳):1884年5月27日Tqronovo府主教管区の最高僧侶(kiriyah=vladika)=Tqrnovo府主教管区(eparhiya)府主教(mitropolit=metroplitan)に選出された。また、同1884年秋、総主教代理座からの代表としてソフィア府主教管区に派遣され、一時臨時担当者(ソフィア府主教代理)。

1885年(44歳):露皇帝Alexander IIIの元にブル政府代表団員として、南北合併承認を要請するために赴いた(コペンハーゲンへ、9月)。ブル赤十字社初代総裁(1885--87年)。
1886年(45歳):アレクサンダル公退位強制クーデター後、数日間臨時政府首相(第11期政府:1986.08.9—12)。
1887--94年(46--53歳):Stambolov、及びFerdinand公に反対する政治闘争に参加。この故に有罪判決を受け(刑期2年)、Glozhene修道院に幽閉された(1893--94年)。

1894年(53歳):幽閉を解除された。(注:1894年5月、Stambolov政権が崩壊し、後任首相にKonstantin Stoilov(73番目の偉人)が就任したため、解放されたのだ。)
1895年(54歳):露皇帝Nikolay IIの就任式典に参加し、ブル公国と露との間の外交関係を再建するための、訪露ブル政府代表団を率いた。
1898年(57歳):BKD議長。
1901年7月10日(60歳):ソフィア市で死亡。

(カ)Stambolov政権崩壊後(1894年5月以降)
  Stambolov政権崩壊後は、Klimentは自分の府主教区に戻った(同人は、1884-1901年の期間、Tqrnovo府主教であった)。
  また、KlimentはKonstantin Stoilov内閣時代(1894.05.19--12.9の第16期政府と、1894.12.9--1899.01.18の第17期政府)に、再度国政に参加した。KS内閣は、外交の基本政策として、露との外交関係再開を目指した。(注:露は1886年11月に、親露派士官らのクーデターが鎮圧されたことに激怒して、対ブル外交関係を断絶していた。)
  対露関係再興の最初の一歩は、Alexander IIIが死亡した後に成された。後継としてNikolay II皇帝の即位祝典に参加するために、Kliment府主教が率いるブル政府代表団がPeterburg市へと派遣されたのだ(1895年、54歳)。

(3)死亡
  Kliment府主教=V.Drumevは、1901年7月10日(新暦では7月23日、60歳)、ソフィア市で死亡した。

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