48-50.10月の祝祭日

   今回は、10月の3つの祭日をまとめました。

48.10月14日:聖ペトカ祭(Prepodobna Paraskeva –Petka Tqrnovska、Petkovden)
(1)由来
  10月14日、ブル正教会はParaskeva猊下、すなわちPetka Epivatska-Tqrnovskaという10—11世紀に生存し、後に列聖された人物(女性)に敬意を表する。
  ブル国民は、このPetkovdenを生産活動の最後の日と見做し、収穫はこの日までに終えるのだった。

(2)風習
  この日からいわゆる秋と冬の暦による祝祭日が始まり、また、各村での集会とか、教会における種々の聖人に因んだ祭日が始まる。
  そしてまた、これ以降には、若者たちの合コン(sreshta)、お見合い(sgle'da)、婚約、或は結婚式の計画も盛んとなる。
  一部地域では、Petkovden前の土曜日、或は週初めの月曜日に、黒い鶏を屠殺し、これで「黒い病気」・・・疫病(chu'ma、ペストを含む)を宥めようとする。他の地域では、「黒い病気」は癲癇(epile'psiya)だと考える・・・もっともこの病気はより稀な病気だし、疫病ではないので、元来「黒い病気」とは言えないのだ。

(3)伝説
  聖Petkaに関しては、次の伝説が語られている:
  「マルモラ海沿岸のEpivat町*に、ブル人の両親から生まれた(*注:現在はトルコのIstanbul市の西郊部に所在し、マルモラ海に面したEpivates区)。彼女は早い時期から神に生涯を捧げることを決意した。故に両親が死亡すると、すべての資産を売却し、貧者たちに分け与えた。その後帝都(Istanbul市)に出かけ、更にほどなくしてパレスチナの荒野へと旅立った。この荒野の中で、かなり長期にわたり、隠者(otshelnitsa)生活をした。
 
  相当長い時間を経て、Epivat町に戻ったが、既に町の住民たちは彼女のことを覚えていなかった。ある修道院で修道尼として余生を送り、そこで死亡した。
  死後、彼女の遺品は奇跡を起こし始めた:遺品に触れたものは、病人の場合は健康を取り戻したし、盲人なら視力を回復した。もしびっこ(hrom)なら足が正常になった。
 
  Ivan Asen II王がこの女性聖人の引き起こした奇跡話を聞き、Preslav府主教Markoが率いる使節団を派遣した・・・彼女の遺品(moshtite)をTqrnovoの都に持ち帰るため。またT市には、彼女の名前を冠した教会を建立した。女性聖人(svetitsata)は、王室の庇護聖人と考えられた。

  Tqrnovo市が、オスマン・トルコ軍の進軍により征服されると、聖Petkaの遺品はVidin市に移された。しかしVidin市で最後の抵抗をしたVidin王朝も壊滅すると、遺品はセルビアにより収蔵された。その後、Syuleiman大帝がこの遺品を帝都に戻すべく命じ、帝都の東方正教会総主教座が保管することとなったが、総主教座はオスマン政府(Visokata porta)への滞納税を代替して支払ってくれたワラキアの総督に売却してしまった。
  以上の経緯を経て、今日聖Petkaの遺品は、ルーマニアのIasi(ヤシ)市のある教会に安置されている」。
   (注:Iasiは、モルドバのキシナウ(Chisinau)市の西方に所在。ブル人亡命者たちが多く居住していた、Bolgrad(ロシア領オデッサ州西部)、Galati(ガラツ)、Braila(ブライラ)、及びTulcea(トゥルチャ)・・・(これら3都市はドナウ河口部でBolgradとも近いが、ワラキア領内)・・・の4都市からはまっすぐ北方に位置する。)

(4)この日に名前の日を祝う洗礼名
  Pena、Penka、Penko、Paraskeva、Parashkev、Petka、Petkan、Petkana、Petko。

49.10月19日:聖Ivan Rilskiの日(Prepodobni Yoan Rilski Chudotvorets)
(1)由来
  10月19日に、ブル正教会の教会は、特別の奉神礼、及びIvan Rilskiの伝記を読み上げることで、聖Ivan Rilski Chudotvorets(イヴァン・リールスキ奇跡者聖人)の言行を祝う。

  【小生注:ちなみに、なぜ10月19日がIvan Rilskiの祭日なのか?と疑問に思ったが、例のブルの祝祭日カレンダーのサイトhttp://www.orgsites.com/wa/facab/_pgg7.php3によれば、この日の名称をRighteous John, Wonderworker of Kronstadtと書いてある。更にこの名称で検索したら、Kronstadt(チェコ北部、Praha市東方。地図検索のgetamapでは次を参照:http://www.getamap.net/maps/czech_republic/czech_republic_(general)/_kronstadt/)市の聖堂に勤務し、Ivan同様に奇跡施行で知られるロシア人僧侶(英語名John of Kronstadt)が1929年10月19日生まれであることが分かった(次を参照:http://orthodoxwiki.org/John_of_Kronstadt)。つまり、ロシア正教会によってようやく1990年に列聖された19世紀の聖職者の生誕日をブルの聖人の祭日にも転用したようだ。

(2)伝記、歴史
  年代記作家たちによれば、生まれは876年で、死亡は946年8月18日だ。
  修道僧にして隠者であった同人は、初めて「ブル人修道僧のための規則」を著作した。また、同人は、有名なRila修道院*の創設者でもあり、中世期を通じて、ブル国民の庇護者として尊敬された。
  同人の記憶、及び質素な生活ぶりと、他方では奇跡を産みだした人生は、国民の意識を明るくした…特に隷従下に置かれた苦しい年月において。また、修道院はブル文学と教育の燭台(svetilnik)となった。
  (*注:1371--1393年までブル国王として統治したIvan Shishmanは、1378年にRila修道院に対し勅許状(hrisovul、gramota)を公布した。いわゆるRilska gramota(Rila修道院への勅許状)と呼ばれる特権許可証には、I.Shishman王の黄金の玉璽が押されている他、修道院の封建時代的所領として20カ村以上(僧坊と農地=ze'mlishteを含む)が与えられた。
  この勅許状の最後では、I.Shishman王は、自らをAsen王朝の子孫と自己紹介するとともに、王位継承の順番規則(第1子、兄弟の一人、或は王族)も記している。
  なお、Rila修道院に対しては、Ivan Asen II王(1218—1241年)、及びKaliman王(1241—46年)によって寛大な寄付が贈与された。
  この修道院では聖Ivan Rilskiに捧げられる奉神礼が、3つの機会に統合されて存在している:7月1日、8月18日、及び9月19日。


  Ivan Rilskiは既に、927--969年ブル国を統治したPetqr王の時代に、聖人として列聖された。同人がRila山に入ったのは有名な隠者に会うためだったが、会うことは許されなかった。故に、Ivanは今日Tsarev峰と呼ばれる高い峰に登って、この山頂から隠者に対し参拝を捧げたという。
  また、Ivan Rilski聖人の死後、遺品はRilaからSredets町(現在のSofia市)へと運ばれ、1180年までこの町で保管された(これはブルがビザンツ帝国の支配下にあった時代だ)。Sredets町をハンガリー王が制圧した時、遺品はハンガリーに持ち去られたが、間もなくブルへと返還され、1195年にはTqrnovo市、すなわち第二次ブル王国の首都にもたらされた。
  1469年、遺品はTqrnovo市から、華麗な行進をもってRila修道院へと返還され、今日に至っている。

(3)ブル・ナショナリズム精神高揚に貢献した先駆者たちの祭日でもある
  聖Ivan Rilskiを記念する祭日に、言葉、著書などでブル国民としての精神の高揚、或はブル人の精神的水準の上昇に貢献したすべての人々も、同時に祝うことが決定された。
  故に、この祭日は、「国民の先駆者の祭日(Praznik na narodnite buditeli、Den na norodnite buditeli)」でもあるのだが、1916年以降、先駆者の祭日は11月1日へと、過って移行されてしまった。(注:現在も、先駆者の祭日は11月1日のままのようだ。)


50.10月26日:聖デメトリウスの祭日(Dimitrovden)
(1)由来
  聖殉教者デメトリウス(Sveti Dimitqr Mirotochivi Solunski)の祭日は、5世紀頃から早くも10月26日に祝われてきた。
  同人は、Salonica市の庇護聖人で殉教者と見做されているが、同人を自分らの庇護聖人と見做す点では、ギリシャ人の他、セルビア人、ブル人、ロシア人も競争相手だ。
   (注:聖デメトリウスは次のサイト記事によれば、Salonica(ブル語ではSolun)生まれでSalonica市長だったが、キリスト教に帰依し、信仰を捨てなかったので殺害された殉教者とされている:http://bnr.bg/en/post/100476630/dimitrovden-st-demetrius-feast)。

(2)伝統、風習
  ブル国の伝統では、この10月26日は冬から春にかけての6ヶ月(半年)の初日と考えられている。この日に、家畜を放牧させる人(pasti'r)、畑で働く人(rata'y)など、5月6日のGergyovden(夏の初日で、夏~秋にかけての季節=半年の初日)に雇用された人々は、勤務を終了することとなっていた。同時に、来年のGergyovdenまで半年間働く従業員を求人する日でもある。その昔、求人するに際しては、労働者に対して、毎月の定額賃金の他に、毎月付加給付品として、一組の衣服、一対の草履(tsqrvuli)も与えた。

  Dimitrovdenは、ほぼ同じような尊敬心でブル人によっても、トルコ人によっても祝われ、この日には羊の肉をゆでたkurban料理が作られた。また、多くの教会、修道院がDimitrovの名称を冠している。

  ブル国民の間に流布している迷信(sueverie)では、Dimitrovdenから、いわゆるmishi praznitsi(ネズミの祭り)が始まる。女性たちは、いかなる女性の役割とされる仕事もしない・・・糸紡ぎしないし、毛糸を編まないし、機織りもしない。ネズミたちの機嫌を損ねないように、糸巻き棒(hurka)、紡錘(vreteno)には触らない。ネズミたちが安心して、この年中に働いた産物を全て食べつくすように。男たちも、倉庫から小麦を掻き出したり、トウモロコシの穀粒を穂軸から外したりはしない。その代り、ネズミたちの目を眩ますと信じて、倉庫の壁、家の戸口、角っこ、籠に泥を塗りたくる。

(3)伝説
  ブルにおける伝説では、12世紀にAsen兄弟たちがギリシャへの隷従(ビザンツ帝国による支配)からブル国民を解放すべく蜂起した時、Tqrnovo市では聖DimitqrがSolun市を去ったとの噂が流れた。なぜなら、Solun市の偉いさん方や商人たちの正しからざる生き方を苦々しく思ったからだ。そして、同人は奇跡を引き起こす自分のイコン画と共に、Tqrnovo市に移住してきた、と。この故に、Tqrnovo市内には、聖Dimitqrの名前を冠した教会が建立され、208年間もの間(ブル第2次王国期)、この教会でブルの国王たちが戴冠し、結婚式を挙げるようになったのだ。

(4)Besarabiya地方(注:ロシア帝国領だった現在のモルドバ+若干のウクライナ領)に亡命していたブル人の間で歌われていた民謡
  Sveta Petqr i Sveti Dimitqr si zavizhdat   聖ペータルと聖ディミータルが、相互に嫉妬した

  Nared sedat dvama brata,        並んで、二人の兄弟が座っている、
po Dimitrovi ravni dvori,        ディミータルの平らな内庭で、
kak si sedat , em si yadat,        座って、そして食べている、
em si yadat sharo* agne,         座って、そして赤く焼けた子羊を食べる、
  (*注:希少語辞典:shar=色彩、色取り。→sharoは現代語のsharenと言う形容詞とも関連がある語で、斑(まだら)とか、多色性の意味。ここでは、焼け焦げのむらがある様子を言うと見られる。丸焼きされ、赤く焦げているところと、焦げてはいないところが斑になっているのであろう。)  
sharo agne prepecheno,        よく焼かれて赤くなった子羊を、
i si piyat royno* vino,        そして、美味なワインを飲む、
  (*注:royniy,royna,royno=ワインに関し、美味で、純粋な・・との誉め言葉:N.Gerovの辞書。
royno vino prekipyalo         よく発酵を終えた美味なワイン
i rakiya trigodishna;         そして3年寝かせたラキーヤ、
edin drug si zavizhdaha.        お互いに相手に嫉妬した。

Otgovarya svyat Dimitqr:        聖ディミータルが言った:
----Blaze tebe, sveti Petre,       「幸運だなペータルさんよ、
che ti y denya v dobro vreme,      お前さんの場合、気候も良かった、
v dobro vreme , lyatno vreme,       夏の気候が良かった、
zhqlto zhito po nivyata,         畑には、黄金色の小麦が実り、
cherno grozde po lozyata!-----      ブドウ畑では、ブドウが黒く熟成した!」

Otgovarya sveti Petqr:         聖ペータルが応えた:
----Blaze tebe, svyat Dimitre,     「あんたこそ幸運だよ、ディミータルさん、
che ti y denya v dobro vreme:       気候が良かったし、
zhqlto zhito vqv ambari,        倉庫には黄金色の小麦がいっぱい、
royno vino vqv bqchovi!----       ワイン樽には、美味なワインがいっぱい!」

Nazdrave vi,dvama bratya,        乾杯しよう、二人の兄弟たち、
po Dimitrovi ravni dvori!        聖ディミータルの平らな内庭で!

  
(5)この日に名前の日を祝う洗礼名
  Diman、Dimana、Dimitra、Dimitrana、Dimitrina、Dimitrichka、Dimitqr、Dimka、Dimo、Mitra、Mitran、Mitrana、Mitre、Mitqr、Mityo。

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