在ブル・アルメニア人の祝祭日:1.新年

  さて、本書の約1/2弱は、ブル人・クリスチャン(正教徒)たちの祝祭日の紹介で、前回まででこの部分を終えたので、ようやく第2部(II.)の在ブル・アルメニア人の祝祭日に関する記述に移ります。
  今回は、アルメニア式新年の迎え方、その前にアルメニア教会の歴史の概説です。

Ⅱ.在ブル・アルメニア人たちの祝祭日

★アルメニア教会の歴史など
  数十年、或は数百年にわたるブル人と他の主要エスニック集団---アルメニア人、トルコ人、ユダヤ人、ジプシーなどとの共存、共住は、個々の集団の市民的な年間の暦、祝祭日に対しても、相互的な影響を及ぼし合った。この相互影響は、特に宴会料理、贈答品、そして特に共通のお楽しみ行事に現れている。

(1)アルメニアがキリスト教を受容(301年)
  さて、アルメニアにおいてキリスト教が公的な宗教であると確定したのは295年のことだ(注:wikiなどの資料では、アルメニア国家がキリスト教を国教としたのは301年としている)。そして、アルメニア教会は早い段階で、母体となった小アジア半島のKesariya*教会から独立し、独自教会組織となった。
  (*注:現在は、アルメニア国内、エレバン西方にNor Kesariaという町がある。しかし、古い歴史地名とみれば、古代のビザンツ帝国、或はアルメニアの地図から見て、Kappadokia地方にあったKaisareia(英語:Caesarea)町のことらしい。現在はトルコのKayseri町(アンカラから東南方向)となっている。)

(2)5世紀半ばに、ブル人もアルメニア人と共闘し、殉教者を出していた!?
  なお、451年にキリスト教会の第4回公会議がHalkedon(カルケドン、英語:Chalcedon)市で開催される少し前、民族主義的、宗教的立場故に、アルメニアはペルシアと対決することとなった。ビザンツ皇帝は、アルメニアを支持することを拒み、故にアルメニア軍は壊滅された。

  古代アルメニアの年代記作家らは、このAvaran平野(注:Van湖周辺のVasupurakan州に所在したAvarayr平野のこと。http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Avarayr)におけるアルメニア軍と(ササーン朝)ペルシア軍の決戦(451年5月26日)に際して、ブルガール族の人々が、キリスト教擁護の立場で馳せ参じたと明記している。アルメニア教会は、この戦争で戦死した人は全員が聖人だと宣言した・・・この戦争に参加し戦死したブル人達も、故に聖人と見做された。要するに結果としては、ブル人のキリスト教徒としての殉教者の最初の事例は、ブル国家がキリスト教を国教と定めた864年から数えて、ほぼ4世紀も前に、アルメニア人と共闘することで、出現していた、ということになる。
  (小生注:このAvarayrの戦闘に関して何度も検索してみたが、なかなか上記のwikiに行き当たるまでに苦労した。小生自身も、当時未だに現在のルーマニア東部地方に到達しておらず、カスピ海北岸辺りにいたブルガール族の一部にクリスチャンが居て、アルメニア軍に参加していた、と言うような話は、これまで聞いたことが無い。しかし、著者がこのように書いているからには、アルメニア古代史の中では出てくる逸話であるはずだ。)

(3)単性説(Monophysitism)
  555年(wiki記事では554年の第2回Dvin集会)、Divin*における集会で、アルメニア教会は、単性論を採用した(dyophysite=キリスト両性論を否定)。すなわち、イイスス・フリストスは「父と、その神性において同一だ」として、人間との同一性は拒絶したのだ。この解釈の採用により、アルメニア教会は、正教会と決別した。
  (*注:Divin→Dvin(http://en.wikipedia.org/wiki/Dvin_(ancient_city))は、Yerevan南方38kmほどに存在した、アルメニアの町。Dwin、Duinとも呼ばれるという。
  ちなみに、wikiによると、アルメニア教会は、単性論というより、非カルケドン派と言う分類で正教会、カトリックなどと分けるのがより正しい理解らしい。非カルケドン派(キリストにおける神性と人性は分割しがたく合体しているとの説:Miaphysitism)としては、コプト教会、シリア教会、エチオピア教会もアルメニア教会と同列という
。)

(4)その後のアルメニア教会の運命
  その後の何世紀にもわたり、アルメニア教会の運命は悲劇的だったし、アルメニア民族の運命も同様だった。まずアラビア人支配を経験し、その後ビザンツ帝国が進出し、更にはトルコ人による侵略とそれに伴う大規模な(アルメニア)民族の移動、及びローマ・カトリック教会との間における部分的な教義の統一(Union)があった。

(5)信仰内容面での正教会との相違点
  信仰形式と言う側面から見れば、アルメニア教会(http://en.wikipedia.org/wiki/Armenian_Apostolic_Church)は正教会と極めて近しいし、差異の点は、主に歴史的な経緯に立ったものと言える。アルメニア教会は、最初の3回の公会議のみしか認めない。これら公会議では、イイスス・フリストスの神性に関して議論が集中していた。また、奉神礼(典礼)の面、或は教会祭日の面でも若干の相違がある。
  アルメニア教会の最高指導者は、Patriarh katolikos(英語:Catholicos of All Armenians)というタイトルを有している。総本山は、Etchmiadzinという、首都Yerevanから22kmの場所にある。
  復活祭は、カトリックと同じく、正教会に比べ数日前に祝う。

1.1月1日:Gahant(新年)
(1)由来
  アルメニア人たちは降誕祭を1月6日に祝い、よって新年は降誕祭前にある、というのがアルメニア使徒教会(Armenska apostolicheska tqrkva=Armenian Apostolic Church)による暦だ。
  この故に、新年はクリスマスの40日間の断食(精進料理)期間であり、それほど盛大には祝われない。

(2)風習
   新年の御馳走は、上記故に、精進料理のみである。
   ①インゲン豆、レンズマメ、米を甘くした水で茹で、シナモン(kanela)を振りかけたもの。
   ②ついで、アシュレーashure'=英語:frumenty(香料と干しぶどうと砂糖を加え、ミルクで煮た小麦料理))という、凄く甘い、穀粒、乾燥果実、ヒヨコマメ(nahu't)のピュレーなどを加えた食品。
   ③他に食卓には、デーツ(furma')、ピーナツ(fqstq'tsi)、干しぶどう(stafi'da)、クルミ(o'reh)、乾燥果実、などが置かれる。

(3)ブルの風習との接点
(ア)銀貨(占い用)の入ったバーニツァを作る

  上記の他には、食卓にバーニツァも上る。中に銀貨とハナミズキの芽を入れたバーニツァ(banitsa)だ・・・こういうバーニツァを添えるというのは、ブル人の新年料理の習慣から採られたやり方だ。他には、バーニツァの中身をsirene(フェタチーズ)抜きで、カボチャ、或はホウレンソウで作るやり方の場合もある。
   (注:banitsaはトルコ語ではborekと言い、セルビア語ではburekと言う。)

(イ)スルヴァカーリを受け入れる
  なお、アルメニア人家庭は、自分たちの知人である子供たちが、survakari(ハナミズキの枝で、「surva、surva」と歌いながら、人々の背中を叩いて行う新年の健康祈願儀礼。子供が戸別訪問して、押し売り的に褒美をもらうというやり方が、西欧のHalloween行事と似ている)として来訪すれば、快く迎える。

(ウ)ブル語の新年の歌を覚えていた
  老齢のアルメニア人女性らは、ブル語の新年の歌を覚えていた:
    Nova godina doyde, 新年がやって来た、
napqlni dzhobovete ni s plodove,   我々のポケットを果物でいっぱいにしてくれた
mama bqrza da prigotvi        お母さんは、準備を急ぐ
i posreshtne tatko s podarqtsi ----   そして、父さんを贈り物と共に出迎える・・・
Dobqr tatko, mili tatko,          いいお父さん、愛するお父さん、
idvay bqrzo vkqshti,           早くおうちに帰ってきてね、
da posreshtnem Novata godina ----     一緒に新年を迎えるために・・・

(4)ブル風習との相違点
  新年が未だに断食期間ということもあり、アルメニア人たちはこの日に親戚たちの家にお客として行くことは無いが、自分の家族成員たちの間では、小さな贈り物を交換する。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

mugi
2015年03月11日 23:16
こんばんは。

 ブルにもアルメニア人がいるのですね。彼らがアルメニア語を文字表記するのは、キリスト教が布教されて以降のことなので、それ以前の史料は残っていないそうです。ペルシアとローマという二大国にはさまれ、古代も苦労していたようです。

 アルメニア人の信仰はキリスト教になりましたが、中にはキリスト教に改宗せず、古代の宗教を守り続けた集団もいたそうです。彼らは「アレウォルディク(太陽の子供達)」と名乗り、改宗に応じなかったとか。「太陽の子供達」はトルコによる大虐殺当時までは生き残っていようですが、現代は消滅しています。ゾロアスター教との繋がりもあるようだし、「太陽の子供達」という名称はいいですね。アルメニア人もアーリア系、古代は多神教でした。
2015年03月12日 13:26
こんにちは、
 お久しぶりです。
 アルメニア人たちが一番集住していたのが、ブル第2の都市Plovdiv市の旧市街(小さい丘の上)で、そこにあった裕福な商人たちの邸宅の一部が、アルメニア人の邸宅だった。今でもPlovdiv観光の目玉です。それら豪邸の多くは現在は何らかの文化遺産とか、博物館とかになっています。
 新生ブル(トルコから独立後)でも、アルメニア人たちは同じクリスチャンと言うことで、それなりにブル人社会と共存できてきた。以前、http://79909040.at.webry.info/200801/article_5.htmlで述べたように、オスマン帝国でアルメニア人は財政を牛耳っていました。仏歌手のシルヴィー・ヴァルタンがブル生まれのアルメニア系であるという記事(http://79909040.at.webry.info/201106/article_1.html)を書いたこともありました。謎の多い民族で、小生も時には関心が強くなって、一度旅行したいと思ったこともありますが、未だに実現していません。
 「太陽の子供たち」という少数派宗教があったとは知らなかった。小生が思い出すアルメニア人としては、ベラルーシ時代、アルメニア大使館員の若手の顔が一部のトルコ系の人々と全く同じ浅黒い肌と、がっちりした体格で、驚いたことがある。長く共生していると、どこかで血液が混ざるに違いないと思う。
 ブル在住期に知り合ったアルメニア系の人も、それなりに優秀とはいえ、人間として尊敬できなかった女性、そしてもう一人は、大いに好感をもてた女性の二人で、どこの民族も同じだ、と言うのが小生の気持ちかも。ブル人の場合も、尊敬できる人間と、そうでない人間に分けることができた。

この記事へのトラックバック