ムスリムの祭日:ハジとアーシュラー祭

   今回は、メッカ巡礼と言うう義務を果たして、ハジと言う尊称を得る習慣と、アーシュラー祭についてご紹介します。

5.ハジ(英語:Hajj)とは?
(1)由来
  Hadzh(ブル語、トルコ語:hac)とは、Kurban bayramの祭日時期に実行される儀式、慣例である。

  全ての富裕なムスリムにとっては、生涯に一度は、礼拝のためMekaとMedina(サウジアラビアに所在する町)をKurban bayramの祭日の時期に、巡礼に往訪することが義務なのだ。
  債務、論争が残っておらず、金銭的にも礼拝・・・hacに行くことが可能であるにもかかわらず、hacに行かないならば、更には犠牲の献呈も行わないならば、彼らは真のムスリムではない。今の時代では、hacには、女性でも行ける…幾つかの要件に合致し、近親者の男性が付き添うことが可能ならば。

(2)Kaaba神殿
  イスラム教の教えによれば、Allah神はムスリムの父祖であるIbrahim(Abraham)に対し:「自分(神)の名誉のために、一つの家を作れ。自分(神)を愛する者たちは、この家に来たりて、自分(神)の名前を称えよ」と命じたと言う。

  そこでIbrahimは、ノアの大洪水(Potopa:ブル語)以前の最初のKaabaがあった土地に、今日のKaaba神殿を建て、人々や動物たちに、この神殿に来訪するよう招待した。    
  他のイスラム教の教えによれば、天国から追放されたAdamとEvaは、長い放浪の末に、Arafat山上で出会い、そしてこの場所に、伝承によれば、最初のKaaba神殿が建てられたという。もっともこの神殿は、ノアの大洪水(Potopa)によって完全に破壊されたという。

(3)現代のMeka巡礼記
  Meka市所在のジャミー(cami、モスク)に巡礼し、礼拝するということは、それが可能な状況にあるムスリムの全てにとっては、神への義務である。そこで、以下に、現代におけるメッカ巡礼記録を掲載しよう:

  「―――Mekaの聖地とされる土地(複数)と寺院に礼拝することは、「大いなるお祭り」だ。この聖地に向けては、全ての信者がお祈りすべく、指向していく。現地には、7本ものそれぞれが90mの高さを誇る尖塔がそびえる大寺院が建てられており、その尖塔には「これらの聖地に入ったものは、あらゆる危険性から守られよう」と書かれている。
  しかし、ここでいう礼拝とは、El homranと呼ばれる、年間のいつでもできる、ジャミーの指示に従えばよい、数時間で済むような「小礼拝」のことではない。最後の月の月間の3日目から13日目にのみ行われる、その礼拝のことなのだ。

  ―――礼拝の第一段階は義務的ではない。これは、「預言者の都市」Medinaに所在する。この町では、紀元622年にMohamedが、その支持者たちとともに、Meka市の不信者たちにより追われて、亡命先として隠れ場所を求めた。この場所に、現代の信者たちは、神の御慈悲を受けに行く。その後には、Mohamedの名前を冠したジャミーの中にあるAl Haramの大理石のお墓を往訪し、墓石に触れる。

  ―――その後、巡礼たちは、巡礼に義務付けられているガイドから、細かくMekaにおいて必要な儀式、形式の説明を受けてから、同地に入る。Mekaでは、各人は、全ての縫製された衣類を脱ぎ、2枚の白布(縫い目、結び目が無い)に身を包み、普通のサンダルを履く。これら巡礼たちの真ん中にKaaba神殿が存在する・・・「球体(kub)」を意味する・・・寸法は、縦12m、横10mで、高さは6mだ。巨大な赤い金襴(ブロケード生地)を屋根とし、この生地は黄金のカリグラフィーで刺繍されている。また、この金襴は、毎年巡礼期が終わると、新しいものと交換される。ちなみに、まさにこの神殿の南東の隅に、有名な「黒い石」が存在する。この石を全ての信者が少しでも触りたいと試みる。実は石は、相当ずっしりとした銀塊の中に埋め込まれているほか、地上約1.5mの高さに置かれている。この石は、最初のKaaba神殿(ノアの洪水以前から存在した)の頃から保存されてきたものだと考えられているし、大天使Gavril(Gabriel)がIbrahim(Abraham)に伝えたものだ・・・この聖なる神殿から消えたものを、神の命令に従い再生したもの・・・と信じられている。
      (小生注:ちなみに、このKaaba神殿は、世界最大のモスクMasjid al-Haram寺院の中庭内に所在する。http://en.wikipedia.org/wiki/Masjid_al-Haramhttp://en.wikipedia.org/wiki/Kaaba。)

  ―――また、イスラムの父祖と考えられるIbrahimの家は、10mほど先に所在する。
  ―――巡礼者たちは、大きな集団に分けられて、神殿の東端から出発して、「神は偉大なり」と叫びつつ、7回Kaaba神殿を周回する。これは、Adamに対し敬意を表するためだ。Adamは神殿の最初の建設者と考えられ、同人に続き、Ibrahim、Ismail、そしてMohamedが一神教の信仰の基礎を築いたとされる。彼らを取り巻いていた人々は、全てが偶像崇拝者たちという時代ではあったが。
    (注:ブル語で、一神教信徒=monoteist、偶像崇拝者=idolopoklonnikとある。

  ―――その後、皆がZemzem井戸から汲まれた「浄化された水」を1杯飲み・・・もし可能であれば、二つの対峙する丘As –SafaとAl –Maruaの間を7回走り抜ける。
  ―――なお、周回と同時に巡礼者たちは、祈祷を唱える・・・もし古代アラブ語を知っていて、可能ならば、この言葉で・・・HadzherとIbrahimの使用人女性、即ちIsmailの母の記憶のために、祈祷するのだ。

  ―――この聖なる期間に、巡礼者たちはまた、近くの谷間Minaも往訪する。登山してArafat峰に到達する。そして、日没に際して、Allahに祈りを捧げる。悪魔(Satana)と罪悪への有罪人をめがけて石を投げる。
  
  ここですることは、Mohamedが死の直前に行った、最後の許しを請う礼拝を想起することだ。Arafat山から降りて、Minaと言う土地で、それは行われた。当時は、63頭ものラクダが、犠牲用動物としてMohamedにより献呈された・・・同人が生きた1年に対し、1頭のラクダということ。

  その後Mohamedは、自分の頭を剃り・・・これは、Hac儀礼の最後の部分だ・・・その後Kaaba神殿での祈りに出かけたのだ。この故に、巡礼の最後の10日目に、皆は1匹のoven(去勢されていない雄羊)を屠殺するのだ・・・そして、これは大量の血のプールを産みだすし、山のように大量の食肉が生じる・・・結局これらの大部分は、消費されないまま、トラックで砂漠の中に運ばれ、そこに廃棄されるのだ。

  ---この最後の犠牲動物の献呈後には、Zemzem井戸からの水の最後の一口がある。巡礼者たちは最後の足を運び、その後寺院を去り、体を洗い、髭を剃り、巡礼を始めるまで着ていた、縫い合わされた衣服を身に着ける・・・そしてこの時までには、初めて生まれた時のような「清浄さ」を手に入れたし、Allahの表現しがたい声を聴いたと確信している。」
   (注:以上の記述は、『気質の歴史(Istoriya na nravite)』第1巻による。)

(4)Meka詣でを終えたらHadzhiと名乗れる
  上記のように、Mekaへの巡礼を終えたら、その人はハジ(hac)と言う尊称を名前に付けることができる。同様に、クリスチャンでエルサレム巡礼を終えれば、同じくハジ(Hadzhi:ブル語表記)を名乗れる。

   (小生注:東欧圏では、クリスチャンでもハジを名乗る習慣が18--19世紀頃から存在することを、小生は最近まで知らなかった。なぜ、反トルコ闘争に立ち上がった人物がHadzhi Dimitqrとか名乗るのか?と不思議だったのだ。もっとも、オスマン帝国から解放された現在のブルで、ハジを名乗るクリスチャンは聞かなくなった。エルサレムに巡礼しても、もはやムスリムたち同様に、ハジと名乗ることのメリットが考えられない世の中となったのであろう。)

  Mekaへの巡礼を終えた者は、全イスラム世界で尊敬される。しばしばこの「犠牲の動物を献呈する祭日」は、盛大なお祝いで継続される・・・巡礼者・ハジ殿が故郷に御帰還して、そのお祝いが再度故郷で開催されるのだ。

  ブルでイスラム教徒である住民たち・・・トルコ人とポマックたちは、Kurban bayramの祭日を尊敬している。しかし、その様はまるでコラーンに書かれている教えすら念頭に置いていないかのようだ・・・富裕な者は、ハジの習慣を守る義務があるし、犠牲の動物の献呈を必要とするような全ての儀式と慣習を、喜んで準備し、実行すること、と明記されているのだ。

    (注:この最後の文章は小生にはやや分りにくい。現代の在ブル・ムスリムのかなりの人々が、既に十分富裕であるにもかかわらず、Mekaへの巡礼義務を果たしていないし、最近は犠牲の動物の献呈という慣習すら、十分守っていない、と言うお叱りのようなのだ。
   ブルのムスリムたちは、酒も飲むし、実は中東のムスリムたちに比べて、信仰に甘いところがあり、必ずしも巡礼と言う苦行(?、日本の仏教修行に比べれば、上記の巡礼に大きな苦行は見えないのだが)には行きたがらないのかも。また、現代では、自分たちで屠殺儀式をきちんとこなせる人々も減ってきたのかも。玄関とか家畜小屋の入り口の板に犠牲の羊の血液を塗るとか、そういう風習も、衛生概念の異なる今日では、必ずしも厳しくキープできないかもしれない
。)

6.Ashura bayram(アーシュラーの祭日)
(1)由来
  Asura bayram(英語:Ashura、アーシュラー、Muharram月10日にスンニー派信者が自発的に守る断食日、シーア派ではフセイン殉死の日として、聖地Karbalaに巡礼し、服喪する)は、Kurban bayram祭日の30日後に祝われる。この祭日は、事実上はユダヤ教の幾つかの祭日の継続と言えるもので、特にYom Kipur(大贖罪日)の継続形と言える。Mohamedは、Medinaに移住後も、この祭日を継続、保持したのだ。

  Mohamedが完全にユダヤ式と決別した後、預言者MohamedはRamadan月を飢餓用と定め、他方ではこれ以降、いかなる宗教的義務も撤廃した。かくして、Asuraは、自発的な飢餓の日と位置付けられるようになった。この祭りは今日では、イスラム世界各地で、種々の方法で祝われている。また、この祭日は、Mohamedの孫、イマームHusein(英語でHussein、FatimaとAliの間の子息)の殉死と関連付けられ、ほぼすべての国で、同人の死亡は、悲嘆されている。

(2)慣習
(ア)スンニ派

  スンニ派の人々にとって、Asura bayramは、貧者と子供の祭日だ。子供たちは通常小さい贈り物、だいたいは玩具を受領する。また、困窮者たちは、ムスリムか否かを問わず、施しもの(ブル語milostinya、英語charity、アラブ語zakat、トルコ語shefkat)が与えられる・・・これは一種の社会税、宗教的義務と言える。

  この期間、旅行者たちは、各家の主人たちから好意として、無料の宿泊が可能となる。このAshuraの日には、人々は墓場に出かけ、自分の家族の中から出た死者に対し、コラーンから引用した詩文を唱える。この日には、誰も忘れられることは無い。貧者も、富裕者も、子供も、成人も・・・皆がいい気分であらねばならない、そして喜びをもって「新年」の到来を迎えるべきなのだ。

(イ)ashureの料理
  一部のムスリムにとっては、Ashuraの日は、Noah(英語、ブル語Noy)とその子息たちの記憶を祝う日だ。この故に、特別の儀式用の食品を料理する。御馳走の原材料は7種・・・大洪水に際して、存在した植物の果実はこれだけだったのだ。小麦(zhito、注:植物名は全てブル語)、干しぶどう(stafida)、ヒヨコマメ(leblebiya)、トウモロコシ(tsarevitsa)、インゲン豆(bob)、ピーナツ(fqstqk)、及びソラマメ(bakla)。実際には、これらに時折次も追加される・・・クルミ(oreh)、リンゴ(yabalka)、花梨(セイヨウカリン、dyulya)。
  これらの全ては、別々に煮込まれる。最終的には、「混色の食べ物(ブル語:shareno yadene)」が出来上がる。時にはまるでスープのようになる。全ての茹であがった食品を混ぜて、牛乳、砂糖、糖蜜(rachel=molasses)で味の調整をするのだ。この食品は、皆が分れる前に、Noahとその子息たちは、全ての残された穀物を使って料理を作った、との伝説に基づき、作成されているものなのだ。

(ウ)風習
  ブルのムスリムたちは、儀礼を守り、上記の穀粒系、及び果実系食品で、甘いお粥みたいなものを作る。更に、最近20年ほどの傾向では、別途、この日のためにKurban bayram時から保存しておいた肉・・・しかも、犠牲の動物のしっぽの部分を使っての肉料理を作る。尻尾肉をインゲン豆、トウモロコシ粒、及びソラマメと一緒に煮込む。
  特に大きな満足感を味わえるのは、誰か非常に飢えている人に御馳走できる時、旅人をもてなせる時、或は民族、宗教に関わりなく、誰かお客を家に迎えることなのだ。もしお客が、御厚意に感謝いたします、などと謝辞を述べ始めたら、答えはいつも次の通りだ:「とんでもない、此の世の何らかの動物であろうとも、誰かが、我が家にお泊りいただけるとは、この上ない満足でございます」。

(3)シーア派の場合
(ア)伝説

  Alianite(アリー派の人々)におけるAsure bayram、或はMetem bayramは、服喪的な祭日だ。アーシュラー祭りを通じて、Ali(Ali ibn Abi Ṭalib、http://en.wikipedia.org/wiki/Ali)、及びその子息のHazreti Hyusein(Husayn ibn Ali、http://en.wikipedia.org/wiki/Husayn_ibn_Ali)の虐殺事件を記念し、追憶するのだ。

  伝説によれば、Hazerti Hyuseinは逮捕され、監獄に入れられた。9日間、同人には食物とそして水の代わりに塩が与えられ、この故に非常な苦痛の中で死亡した。

(イ)習慣
  弔いは9日間続く・・・3月28日---4月8日まで。4月8日に、Husaynは死亡したと言われている。この祭日前には、10--12日間断食を行い、この期間は水も飲まない。Ashure bayramの20日前には、gecheme malesi、即ち全ての長老・父親をcema(ジェーマ=宗教共同体)の主任baba'(ここでいうトルコ語のババーとは、宗教共同体の指導者)の下に集める・・・これは、祭日の施行に関し、指示を仰ぐためだ。
  Saz(原注:弦楽器)を楽器入れ容器(ケース、kalqf)に入れ、これは縫い合わせる・・・・祭日まで演奏できないように。鏡は壁の方に向け、見えないようにする。酒類、水を飲むことは禁じられ、髭剃りも禁止、入浴も足を洗うことも禁止、陽気な会合、女性の夜の集まり(sedenkiという、女性たちの夜の女子会)、家族的習慣、なども禁止だ。夫婦も、別のベッドで寝るし、村から出ることも禁止。

  祭日当日は、ジェーマの全てのメンバーは、腕に抱えられるだけの材木、小麦、植物油1杯、鶏、パンなどを持参する。
  祭日1日前に、Hadqma(原注:料理の準備を組織する主任料理人の女性)役の女性は、小麦を脱穀し、煮込んで、AshとKeshkekを作る。Keshkekは、小麦と鶏肉から作る。そこで、Hadqma役の女性たちは、持参越された鶏から料理を作る。子供、若者、娘たちは、スプーンを手にジェーマからジェーマへと渡り歩いてashを食べる。
  (注:keskekというトルコの伝統食に関しては、次を参照:http://balkon3.com/en/food-for-the-whole-village-%D0%BAeskek/。また、Ashに関しては、イランの伝統食との記事がある:http://en.wikipedia.org/wiki/%C4%80sh。スープよりは濃いというから、穀物による粥状の食べ物と言うことらしい。)

  主任baba'は、AshとKeskekをバケツに入れる・・・baba’が食べた残りの、これらの食物を家から家へと運んで、皆が食べることができるようにする。
  夜になると、ジェーマの成員が集まって、皆で食事会だ。また、皆が、ラキーヤを持参越している(注:rakiyaとは、果実系蒸留酒で、ブドウ、或はスモモ=slivaを原料とする場合が多い)。多くの年寄りたちは、やや忘れかけている記憶だが、Asure bayramの祭日には、昔はワインも飲んだ記憶がある。しかし、これらの飲酒は、コラーンでは完全に禁止事項なのだ。

(ウ)Kyofyur祭(春祭り)
  Kazqlbashite(シーア派)は、Kyofyurと言う春祭りも祝う・・・この祭りは、キリスト教の復活祭直前に祝う。夕食としては、牛乳系banitsa・・・dzhadq gyozyuと呼ばれる・・・を食べる。

  また、麦わらを集め、7つの山を築き、火をつけて、それぞれの山を、一人一人が3度飛び越えねばならない。一部地域では、焚火は9個に増える。年寄りの女性が、一つ一つの山から灰を拾い、一人一人の子供、或は若者の額にこれらの灰を付ける・・・・・悪霊とか、病気が取りつかないようにする魔除けなのだ。この灰では、納屋、家畜小屋、鶏小屋の扉に、丸、印、或は十字などを描いて、同じく魔除けとする。同じく、家畜の背中に印を付けることもある。

  国民は次のように信じている・・・一部の魔女は、火葬されたにもかかわらず、十分に消失せず、一つ目を残して、半盲目のまま生き残り、健康者を呪って、家畜に悪さをしに来ると・・・。家畜こそは、人間の生活における第一の協力者なのだ。家庭の主婦は、キビ(proso)を水に浸けたものを全ての農業用の建物にばら撒いておく・・・これは、魔女が騙されて、キビの粒を拾い集め、数えるように仕向けるのだ。しかし、魔女は、角の無いoven(去勢されていない雄羊)を見るといつも計算を間違うのだ。そこでまた初めから計算をやり直して・・・そしてまた間違って・・・・。朝の雄鶏が鳴くまで、この計算のやり直しが繰り返されるのだ・・・。雄鶏の声に驚いて逃げるのだ・・・家畜に何ら悪さをし終えることなく。

(エ)Kyofyur関連禁止事項
  アリー派の人々は、Kyofyur当日の他、この祭日前の木曜日にも、家畜に頸木を付けることはしない、と言う禁止を厳格に守る。牛乳や卵を茹でないとか、何も仕事をしない、という決まりも厳守する。
  これは、家畜の乳が焼けないようにとか、鶏が卵を産まなくなる、などと言うことが無いように、決められたことなのだ。
  Kyofyur当日には、ブランコを作り、健康を祈ってブランコ遊びをし、茹でたトウモロコシを食べるのだ。
    (小生注:茹でたトウモロコシの粒そのままでは、固すぎて食べ辛いであろう。石臼で粗びきして、トウモロコシの粉とし、これを茹でると、kachamakというトウモロコシの粥のようなものができる。これに、ヨーグルトをかけるなどすると、酸っぱい味もついて、少しは食べやすくなる。
    大きな木の枝にブランコを付けて遊ぶというのは、朝鮮半島などでも見られる光景だが、バルカン半島でも、結構好まれる遊びであった。基本的には、健康を祈る行事としてブランコ遊びは位置づけれられている。山の斜面のブランコだと、益々景色が良い
。)

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この記事へのコメント

mugi
2015年05月09日 20:49
こんばんは。

 ブルのムスリムは富裕であるにも拘らず、メッカ巡礼を果たしていないとは意外でした。本国のトルコ人も何かと飲酒しますが、ブルのムスリムはさらに世俗的なようですね。
 そしてブルのムスリムにも、スンニ派とシーア派双方がいるのは面白いですね。前者を国教としたオスマン帝国バルカン領でも、シーア派は存在していたとは。

 イランのアーシュラー祭日をТVで見たことがあります。上半身裸になった男たちが鎖や鞭で自分の身体を打っているのです。当然体は血塗れ、中には頭から血を流している者もいました。マゾヒストの集団行進さながらだし、スンニ派もこの行為をキチガイ沙汰と言っているそうです。
 トルコのシーア派もアーシュラー祭日で、同じく男たちが身体を傷付ける行進をするとか。ブルではそこまではやりませんよね。
2015年05月13日 17:19
こんにちは、
 アーシュラー祭に、自分の体を鞭、鎖で撃つ荒業は、見たことが無い。ブルのシーア派は、基本的に少数派で、さほど目立たないと思う。

 もちろん自由化後に、富裕となったムスリムたちが、実はブルではもはやハジの称号に関心も無くし、わざわざメッカ詣でをしないというのは、社会主義時代に無宗教化教育を強いられたせいで、宗教への関心が減退した、と言うことにも原因があろうかと思う。
  クリスチャンも、オスマン時代には、エルサレムまで巡礼して、同じように「ハジ」の尊称を得る(行った証拠さえあれば、勝手に「ハジ」と名乗れたと思うけど)ことに関心があったが、今はそういう関心は薄れているように見える。むしろ、東方正教徒としては、ギリシャのテッサロニキ市東方の半島にある、「Athos聖山」が巡礼先として好まれるようです。Athos巡礼では「ハジ」の称号は得られないが、いずれにせよ、ハジを名乗る習慣は、オスマン時代のモノで、今はそういう関心が無いと思われます。

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