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zoom RSS 不拡大派の登用を嫌った、残念な昭和天皇の選択

<<   作成日時 : 2018/06/30 12:30   >>

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  最近、『多田駿(ただ・はやお)伝』(岩井秀一郎著、小学館、2017年3月初版第1刷)を読み終えた。これまで、日本国を滅亡させたのは、帝国陸軍、海軍のどちらにより責任があるのか、などの視点でも若干の書籍を読んできたし、2回ほど記事も書いた【「昭和期陸軍は明治期に比べ、やはりだめだった(http://79909040.at.webry.info/201006/article_5.html)」、「大東亜戦争に関する新常識!?その二(http://79909040.at.webry.info/201105/article_3.html)」】のだが、今回の多田駿という上海事変時に陸軍参謀次長(当時中将)をしていた人物に関しては、実はほぼ全く知らなかった。

  そして、この書物は、これまで日本の歴史学会、或いは軍事史学会などでも意外と無視され、よく知られていなかった多田駿と言う人物に関して、発掘して、伝記を書いたのが、1986年9月生まれ(長野県)と言う若い歴史家(2011年、日大文理学部史学科卒)の岩井秀一郎氏である。

  著者は、多田駿と言う人物を詳しく調べてみて、初めて伝記本を書いてみて、どうしてこの重要人物がこれまで埋もれてきたか?と不思議がっている。
  内容は、現代人である著者の作品だから、読みやすいし、是非皆様にも読んでほしい。小生は既に老衰の域に入ったので、まともな要約も難しいので、ほんの一部、気づいたことを下記に記す。

1.若い歴史研究家の出現
  著者のあまりの若さ(今年32歳)に、小生としては本当に驚いた。もっとも逆に、この若さだからこそ、日支戦争、大東亜戦争に関しても、より客観的な視点で書ける、ともいえる。

  著者は、まず、日本国家の日支戦争での泥沼化を招き、大東亜戦争(太平洋戦争)への道筋を決定づけた近衛内閣の「爾後国民政府を相手とせず」声明をとりあげ、それに至った大本営政府連絡会議(昭和13(1938)年1月15日)における多田駿参謀次長の奮闘ぶりから物語を始める。

  陸軍省部(中央)における不拡大派として、多田駿次長が少数の参謀本部内の部下たち以外には、ほぼ孤立無援の形で、戦線不拡大、対国民政府和平交渉継続を唱えた努力・・・これら全てが不発に終わり、日本国がどんどん日支戦争の泥沼にはまったこと・・・など、総じて言えば憂鬱な、残念な歴史の再確認となる。

2.陸軍参謀次長が不拡大派のトップだったという皮肉
  著者自身がまず取り上げた視点は、これまで日本国滅亡の元凶、最大責任を背負うと戦後の歴史家たちによって糾弾され、最大の責任を背負わされてきた陸軍参謀本部の、実質的トップであった多田駿中将が、上記の連絡会議で、涙を浮かべながら熱弁をふるい、断固として蒋介石政権との交渉継続、戦線不拡大を訴えたという事実、逆に、米内光政海相、廣田弘毅外相らが、「敵の時間稼ぎに乗るよりは、軍事的な解決を急ぐべき」と言う拡大派(陸軍省、及び参謀本部でも、拡大派が多数派だった)の議論を強く主張し、統帥部(不拡大派の多田ら)がこれ以上抵抗するならば、政府=近衛内閣は辞表を提出するしかない、と威嚇したこと。

3.米内海相が、拡大派の先鋒役だった
  戦後、一番の悪者と考えられた、陸軍の参謀本部を代表していた、その多田中将が、本当は昭和天皇と一番近い、不拡大派の視点から、政府と対立していたというのだ。近衛総理自身も、外相、海相にしゃべらせているが、本当は、強硬な交渉態度をとることでこそ、蒋介石政権を追い込めると、日本軍の武力を過信していたらしい(小生注:日本軍と国民党との泥沼の対決で、日本軍が対ソ戦を戦えなくさせる、と言うのが、コミンテルン、毛沢東らの戦略だった。)。

  多田自身は、この書物に徐々に明らかにされるが、本物の「支那通」の専門家で、中国と言う巨大な大陸を武力制覇することの難しさ、或いは、そういう武断方針では、中国の民の信用を勝ち得ることはできないし、共産党系の勢力を完全掃討することの難しさを熟知していたという。

  結局、上記連絡会議で、政府が崩壊すると脅され、多田が譲歩したことで、「蒋介石政府を相手とせず」との声明となり、不拡大派はその後、現地司令官などへと格下げなど、左遷されて、日本国の指導部は拡大派の東条英機派閥が牛耳ることとなり、敗戦へと突き進んだという。


4.石原莞爾が、多田駿の後輩ながら、多田は石原を深く尊敬していた!
  この本によると、多田駿の陸士卒業は15期、石原莞爾(いしわら・かんじ)は21期、板垣征四郎は16期、東条英機は17期となっている。多田駿の夫人睦(むつ)は、多田と同期の河本大作の妹であった由。

  そして、満洲事変を首謀したとはいえ、日支間の戦争拡大を断固阻止し、満洲経営の安定と対ソ連警戒、対ソ軍備の充実を志向していた石原莞爾と全く同じ考えで、相互に信頼し、不拡大派を率いていたのが多田駿だという。多田は、6期も後輩の石原莞爾と言う天才の思想、戦略を深く理解し、終生交流したという。


5.日中戦争不拡大派だった昭和天皇が、なぜ、石原、多田らを嫌ったのか?
  著者は、不拡大派の石原、板垣、多田らの考え方と、昭和天皇の意見は同じだったのに、なぜ天皇は石原、多田らを信用せず(嫌って)、中央からの排除を許容し、逆に、拡大派の東条らを登用したのか?と言う謎に関し、2回ほど言及している。

  p34—35では、次のように昭和天皇と、石原・多田らの不拡大派の間の不幸な溝について説明している:
 「実は昭和天皇もまた、日中戦争を巡る幾多の場面で、戦線の不拡大を希望していたことが記録に残されている。・・・・しかし、昭和天皇は、満洲事変を独断で主導した石原や板垣征四郎ら陸軍参謀の一部に対して根強い不信があったと言われる。更に多田はその後、陸軍三長官会議にて正式に陸軍大臣に推薦されたが、この人事も昭和天皇の意向によって流れ、幻となってしまう。結局最後まで昭和天皇が石原や多田を支持することは無かった。大本営政府連絡会議と、そこに至る道―――それは日本が破滅に向かう大きな分岐点だった。多田は歴史が辿ってしまった道とは反対の方向に舵を切ろうとし、戦い、敗れた。」

  p248では以下の通り:
 「多田・石原が東條に敗れざるを得なかった理由はいろいろあるだろうが、重要なものの一つに「天皇との距離」があるのではないか。よく知られているように、東條英機は「臣下」の中では相当に高い信頼を勝ち得ていたのだ。この点について、現代史家の秦邦彦が作家の半藤一利との対談で興味深い考えを述べている。
   『天皇は自然科学者ですから、理論的にきちっと整理した報告をする人が好きなんです。アバウトな人間はもちろん、石原莞爾のようなハミだし型の人間も嫌う。石原が中央を追われたまま、最後まで浮かび上がれなかった最大の原因はそこにあったと思います』(半藤著『日本参謀論』)。

  天皇が性格的に共感するところがある東條に信頼を寄せ、逆に陸軍でも異端児であった石原を好まなかったのであれば、多田はどうであろうか。恐らく多田もまた天皇の覚えが良かったとは言えないだろう。多田は、参謀次長時代、「陸軍がペシャンコ」になった張鼓峰事件の事後処理について上奏する役回りを担当したほか、板垣陸相の後継候補として名が挙げられたときも、天皇は多田ではなく畑俊六を選んだ。その板垣さえ、天皇から何度も叱責され、辞任を申し出ることが繰り返された。石原、板垣、多田の何れもが、天皇に認められることが無かった。それが「一生懸命仕事をやる」と天皇から好意的な評価を受けた東條との、一つの大きな差でもあった。」

  本当に残念なことだが、石原の高度な戦略家としての才能、或いは「支那通」としての多田の日中友好への真摯な志(こころざし)、などは天皇の視野、耳には入らなかった。当時の陸軍軍人としては、多田も、石原も、軍国主義者と言うよりは、哲学的で、禅僧的で、平和主義的な思想の持ち主で、弱い者いじめを嫌い、本当の意味での民族間の融和・協調を願い、満洲での王道楽土建設を願った・・・「軍人らしからぬ」と当時の世論からは見られた、常識人で、善人たちであったようだ。当時の時流から言えば、こういう人間は、陸軍部内で「変人」扱いされ、主流派を構成し難かったのであろう。逆に、時流に乗ってイケイケで、陸軍内で統制派と言う主流派を率いたうえで、他方で天皇の前では殊勝に「勤勉な正直者」を演じることができた東條を、天皇は信用されたのだ。残念な「ボタンの掛け違い」が起きてしまった、と言うしかない。

6.仙台陸軍地方幼年学校(仙幼)が共通のルーツ
  多田は、仙台藩士の子息で、明治30(1897)年、16歳(数え)で開校間もない仙幼の第1期生となった。多田は、明治15(1882)年2月24日仙台市生まれ。
  仙幼からは、2期生として後の陸相である板垣征四郎、土肥原賢二(どいはら・けんじ)、6期生として石原莞爾を輩出した。石原は明治22(1889)年1月18日山形県鶴岡生まれ。(注:つまり石原は、多田より7歳も年少だが、多田は親友として石原と生涯付き合った。

  ちなみに、東條英機は東京生まれながら、東條家は江戸時代には盛岡藩に仕えた能楽師の家系であるという。つまり、東條も東北に根を持っていたようだ。
  とはいえ、多田、石原、板垣が、仙幼出身者として、仲間意識を共有したのに対し、東條は統制派の軍閥として永田鉄山などに組みしたことから、同じ陸軍でも相互に敵対してしまった。統制派が、一種の社会主義的経済統制思想だったという点は、以前小生も問題視したことがある。

  近衛もスターリンの秘密工作員(スパイ)だったゾルゲに裏から操作された側面があり、やはり石原・多田の両名に比べるとわきが甘いし、広い視野とか、信念とかに欠けている。


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