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zoom RSS 中国の「反日偏向史観」と「正しい歴史認識」に関する著書

<<   作成日時 : 2019/01/13 09:41   >>

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  年末から年始にかけて、小生は宮脇淳子(じゅんこ)と岡本隆司(たかし)の著書を読みふけっていた。

  極東アジアにおける日本国の存立を賭けた、これからの「奮闘の時代」に関する心構えは、歴史の真実を何とか国民が共有しつつ、中国、北朝鮮、韓国と言う「特亜三国」からの歪曲史観、誹謗中傷に反論しつつ、結局は自衛隊を強化し、日米同盟を維持して、長期戦を耐え抜く、と言う覚悟が必要だ。その意味で、「正しい極東近代の歴史」を再確認することが必要だと思う。

  そして、小生が10月頃に近くのBook-off店で見付けた上記両名の著書は、読み進めるページごとに共感できる内容に驚きつつ、改めてこれほどの高い水準の歴史研究が、日本国ではなされていること、これらを参考としていけば、ウソと捏造ばかりの特亜三国からの嫌らしい攻撃に反論できるし、惑わされることもなく、自分たちのよって立つ歴史的立場を主張していくことができるであろう、と頼もしく思った。

  本当は詳しく、もっと紹介すべきかもしれないが、小生は既に老境に入ったので、面倒だ。下記に少しは解説するので、是非自ら購入の上、学んでいただきたい。

1.『教科書には書かれていない封印された中国近現代史』(著者:宮脇淳子、2017年11月、発行:ビジネス社)
  残念なことに、我が国の文部省が認可している教科書の大部分は、GHQ支配下の時代以来の日本国における社会の左傾化、GHQと左翼による偏向史観の押し付け、と言う経緯を未だに引きづっていて、正しい歴史教科書とは言えない代物である。

  そこで近年ようやく、正しい歴史を日本国民に認知してもらおうと、一部の知識人達が独自の歴史書を書いてくれているのだが、若い人々は十分これらを読み込んでいるとはいいがたく、未だに日教組、左翼勢力がばらまいたウソがそのまま信じられているほか、極めて日本人的に、左右の両論を並べて、割って真ん中を取ればよい、という知的怠慢故に、「真実はその中間にある」程度に考えている人々も多いと思う。

  まあ、小生は上記のように、日本国民全体としての、知的怠慢を問題視してしまうのだが、そうはいっても、まじめな学者たちが、真実を描き、我々に覚醒を迫ってくれていることを有り難いことだと思う。

  さて、抽象的な前書きが長くなった。宮脇著には、それこそ初めから最後まで、よくぞここまで詳しく解説してくれたと、感動する文章が連なっているし、他方で岡本著には、我々素人がこれまで無知だった経済的視点、社会学的視点における中国の近現代史についてのまじめな史実の検証が行われている。この両著を同時に読むことで、我々はより正しい日中関係(朝鮮の近現代史を含む)の理解に進むことが可能だ。
  特に小生が注目した部分を小生が勝手に要約して引用することとし、この引用部分には「」で囲むほか、青のインクをもちいることとした。なお、それ以外の部分は、小生のコメントとか、おおまかな要約です。

(1)中国人は「正しい歴史」など、そもそも書けない
  「中国人にとって歴史は政治:紀元前1世紀に司馬遷が書いた『史記』以来、中国で書かれてきた歴史書は、前代の王朝がなぜ天命を失い、新王朝に代替わりせねばならなかったかを説明し、今史書を書いている王朝の正統性を主張するもの。従って、今中国大陸を統治している中華人民共和国の言うことは全て正義で、戦争に負けて(本当は日本は中国にではなく、アメリカに負けた)大陸から追い出された日本のしたことはすべて悪かったとされる。それが中国人にとっての「正しい歴史認識」なのです。」(p24—25)。

  歴史の初めから中国に従属してきて、「小中華」を気取る北朝鮮、韓国も、第二次大戦時には、日本国の一部であり、自ら志願して日本軍兵士として戦った人々も多かったほどだ。日本がアメリカ相手に敗戦後、朝鮮半島は、北をソ連、南を米国が占領し、その後北では、ソ連の傀儡政権として金日成率いる北朝鮮国が、南では、米国亡命から帰国した李承晩が大統領となって韓国が夫々一応独立国として成立したのだ。つまり北朝鮮、韓国の双方とも、元来日本に対しての戦勝国ではなく、棚ぼた式に独立国となっただけだ。

  ところが、北朝鮮も、韓国も、自ら戦争に勝って独立したわけでは全くないにもかかわらず、中国式に歴史を捏造し、自分たちは日本に対する独立戦争を勝ち抜いて、ようやく独立を勝ち取った戦勝国だという「小中華」特有の、後付けの歴史認識で武装して、事あるごとに日本を悪者にする、と言う態度で一貫している。日本を貶めることで、自尊心と愛国心を守る、或いは、「反日」イデオロギーへの忠誠を誓うことで、お互いに朝鮮人、韓国人としてのアイデンティティー、ナショナリズムを確保しようとしている、ともいえよう。

(2)日本を悪者にしないと民族主義も愛国心もあり得ない特亜三国と日本軍国主義の悪をやはり主張しないと、戦争における無差別空爆、原爆投下などを正当化でき得ない米国
  「中国も北朝鮮も韓国も、今現在国家を率いている支配層の統治の正統性は、他人の領土を侵略した悪い日本に抵抗し、自分たちの民族国家を打ち立てた、と言う「物語」にあります。だから自分たちの国内政治がうまくいかず、国民の人気がなくなりかけると、日本がいかに悪かったか、それに比べて自分はいかに正しいかを国内外に改めて表明するという宣伝行為を行う。より反日だ、と言うことで政敵に対し勝つ以外の自己正当化の方法を知らない。日本にとっては、本当に不幸・迷惑なことだ。

   同じことは実は米国にも言える。日本が悪いことをしたから原爆を落としたことは正義だったと主張して、戦後70年以上自分たちの過去を正当化してきた。もし日本がそれほど悪いことをしておらず、台湾や朝鮮半島の近代化に貢献した、植民地搾取もしていなかった・・・としたら、自分たちこそが、無辜(むこ)の民を大量虐殺した悪魔の仕業の責任を取らねばならなくなる。

   だから、史実かどうかではなく、自分たちに都合の良い説明がつきやすい方を選ぶ、ということで判断している。米国人のそういう考えを知っているから、中国人も韓国人も日本に対し強い態度に出られると計算している。南京大虐殺、従軍慰安婦という日本叩きの大ウソの宣伝は、そういう背景もあってまかり通っている。つまり、米国人、中国人、韓国人が、日本人がいかに史実を証明しても、理解して矛を収める、と言うことは期待できない。我々は、将来の日本国のために、今後も世界に向けて史実を発信し続け、中国や韓国に対しては、「歴史」を持ち出さないなら付き合いましょうと言えばよい。」
(p300—301)。

  最近、米国人のケント・ギルバート氏が日本側に立って、中国、韓国の捏造・偏向史観を弾劾してくれているが、それは同人がモルモン教徒という、若干異端的なクリスチャンであり、普通の米国人とは異なった独自の見解ができるからであろう。それは嬉しいのだが、本国の米国の主流が、何時も韓国、中国の非を認定して、日本擁護の立場に立つとは今後も期待しえない。

  米国の対外政策は、所詮究極的には国益に立脚するとはいえ、開戦に踏み切るには、いつも相手を極悪人として国民に宣伝してから・・・というイデオロギー的な要素が絡むからだ。米国は、根本的にはキリスト教過激派的な要素の強い国家であり、国益とか利害でのみ動くと国内世論からも見られたくはない。だから、やはり,ウソの歴史を捏造することもある国家だ、と言うことでは、中国、小中華の国々と違わないのだ。米国の教科書を執筆した歴史家たちが、絶対に非を認めず、教科書の改定にも同意しないわけは、そこにある。彼らも、自国にとって都合の良い歴史解釈に固執する人々なのだ。


2.『中国「反日」の源流』(著者:岡本隆司、2011年1月発行、「講談社選書メチエ」、講談社)
  この本は、中国社会の特殊性、経済的な背景、などを詳しく俯瞰して、日本(戦国時代から徳川時代)と明(みん)・清(しん)両朝時代の中国との間に存在した、あまりにも大きな相違が、その後の「反日」の源流となったということを、詳しく解明した著作だ。この本を要約するのは、今の老衰化した小生には、本当に難しいので、是非原文を読んでいただきたい。本当に素晴らしい、目から鱗の取れるような感じがする大著だ。
  小生の理解を大雑把に述べれば、次のようになる。

(1)明の初期、現物納税主義を取ったが、結局経済の商業化は阻止できなかった・・・中国の貨幣経済の再興は、日本からの銀、銅の地金輸入のおかげ
  中国は既に唐朝末期(10世紀)頃から貨幣経済時代となり、元朝の盛期には紙幣が流通する高度な商業化を達成していたが、元朝末期には紙幣の乱発で信用が喪失し、物々交換、現物主義へと経済が後退していた。故に、明朝は、現物での徴税システムを採用し、国内外での商業、交易を規制する政策だったが、徐々に政治的、経済的安定期を迎えると、貨幣への需要が高まり、銅銭(永楽銭)、紙幣(大明宝鈔=だいみんほうしょう)も発行したが、銅地金の枯渇(中国ではもはや銅鉱山が枯渇していた)もあり、銅銭の発行が不足した。大明宝鈔という、銅銭の額面を印刷した紙幣も、銅銭そのものとの兌換が不可能となって、発行ができなくなった。そこで、不足する官銭を補うために、各地のみで使用される地域貨幣としての私鋳銭、或いは銀の地金(重さで価格が決まる)の使用が広がった。

  すなわち、明における国家と社会の遊離は、貨幣制度からも始まった。
  経済規模の拡大、商業圏の拡大は、このような小規模の私鋳銭だけでは決済しえない・・・結局、金銀という、貴金属が、遠隔地との交易、貿易などでは必要だったが、既に貴金属は中国国内の鉱山では枯渇していた。そこで、貿易で輸入するしかなかったのだが、明政府は外国貿易を禁止していた。

  この故に、倭寇と言う密貿易が盛んとなった。16世紀の日本は戦国時代で、スペイン、ポルトガルなどの大航海時代とも重なり、各大名が自国領内での鉱山開発を競い、故に、金銀、銅なども大量に産出されていた。銀と銅という、中国経済に必要な貨幣資源が、膨大な数量中国に輸出されたのだ。倭寇と言う密貿易の主体は、本当は南方沿海部の中国人だった。
  明政府は、現物主義、外国貿易禁止という初代皇帝の定めた「祖法」に固執したため、倭寇による密貿易の横行を危険視し、これが「反日」思想の元となった。

(2)1644年に明と交代した清朝は、少数民族と言う自分の立場を考慮して、間接統治システムを構築した
  満洲人の総人口は、実は50万人弱で、他方統治下に収めたモンゴル人は数百万人、中国人は1億人もいた。この故に、清朝は多種族を統治する政権として、独特の形態をとらざるを得なかった・・・満洲族の首長が、モンゴルの大ハーン職、漢人たちの天子職を一身に兼ね備えたのだ。従って統治に際しても、前代からの在地在来の秩序、制度には手を加えず、従前どおりのやり方で行うこととした。

  すなわち、科挙による高級官僚の採用、中央の六部、地方の各省(注:中国の「省」は行政単位で州のようなもの)などの官僚制をほぼそっくり踏襲し、漢人を登用して統治をおこなわしめた。

  銀地金+私鋳銭(銅銭)と言う貨幣の在り方にも、何ら手を付けず放置した。
  政府は、漢人社会から税を収奪する「他者」として存在し、地域社会は搾取の対象として不可欠ではあったが、隙あらば反抗を試みる不気味な存在であった。つまり、政府と社会の関係は遊離しており、相互不信の関係しか存在しなかった。

(3)18世紀の清朝は、生産、輸出が増え、西洋から膨大な銀が流入し、インフレ好況となった
  1660年、日本の銀鉱は枯渇し、中国への輸出が無くなった。日本は、そこで、銅を主要輸出品とするようになったが、以前ほどの貿易拡大は見込めず、故に日本国内では、中国産品の国産化が進んだという(陶磁器、綿花・木綿、生糸・絹、漢方薬、砂糖、サツマイモ、タバコ葉、など)。

  それに代わって、西洋諸国が清から陶磁器、お茶、綿花、生糸、砂糖などの輸入を増やし、西欧から清への銀の流入が増えて、乾隆帝後期の中国経済は、世界のGDPの1/3を占めるほどの隆盛を極めることとなった。

(4)社会構造と中間団体(p78より)
  明代の15--16世紀に「商業革命」が起こり(中国の生産物量の増大、流通網の拡大)、中国社会は商業化が進展したものの、これらはあくまで民間部門における自律的な動きで、政府の施策などとは無関係だった。故に中央政府の側では、北虜(ほくりょ)・南倭(なんわ)と言って、北の遊牧民、南海地方の倭寇と言ったような軋轢ばかりを気にしていた。すなわち、民間部門での交易の発展、対外貿易の拡大は権力とは無関係に、勝手に進行したのだ。しかし、貿易の拡大は、国内に流入する銀地金、銅地金の増大などで、更なる経済拡大を招来していた。

  18世紀清代になると、西洋諸国、イギリスからも銀が流入し、経済規模が拡大したほか、国内の生産拡大もあって、人口も増大し(18世紀半ばに3億、19世紀には4億人を突破した)、この故に、漢人たちは、これまで未開だった江西、湖北、湖南、四川などの山地に移住するようになった。これら増大した人口を支える役割を果たしたのは、同じく西洋諸国から入ってきた新たな作物、タバコ、トウモロコシ、甘藷(サツマイモ)、ジャガイモなどで、これらの作物は、傾斜地、痩せた土地でも栽培が可能だった。

  清朝政府は、民間の経済活動に介入しなかったが、経済活動には一定の秩序・制度が必要で、ルールを定めることで財産の保護、約束の履行が担保できる。この役割を担ったのが、同郷同業団体・・・・幇(ほう)、行、会=郷団・・・であり、その施設を会館、公所と呼んだ。例えば上海の寧波(ニンポー)幇と言えば金融業者の団体であった。郷団は、相互扶助組織でもあるが、同時に、私法の制定・行使の役割を担う「小さい国家」であった。政府当局が接触するのは、同郷同業団体の上層部だけであり、徴税も彼らを通じて行われる。

  すなわち、政府が関与する相手は、大商人、地主であり、税金は彼らからしか徴収されないのだ。また、税を納付する彼らの経済活動以外は、全て違法であり、この故に清代には、塩の専売、貿易の独占、有力地主による土地兼併などが出現した。同郷同業団体内でしか信用関係が成立しなかったので、富裕なはずの独占商人ですら、絶えず運転資金の欠乏に苦しんでいたという(西洋式の銀行とか、株式会社の制度がなく、資本の随時的な公募が難しかった)。

  いずれにせよ、中国社会の特徴は、地主、中間団体などが支配する下部構造と、異民族、或いは皇帝一人に忠誠を誓う漢人官僚たち上層部の間の、とんでもないほど懸け離れた「相互懸隔」ということ。つまり、民と主権者(君主)との間には、埋めようのない懸隔があり、日本、西洋社会が実現したような、君民一体、一心となる、との目標、感覚、共感、政府と市民との間の相思相愛という「国民感情」はあり得ないものなのだ。

  著者は、勝海舟の『氷川清和』から次のような中国社会の在り方に関する言葉を引用している:「支那人は、一国の帝王を、差配人同様に見ているよ。地主にさえ損害がなければ、差配人はいくら代わっても、少しも構わないのだ。それだから、開国以来差配人を替えること十数回、こんな国状だによって、国の戦争をするときには、極めて不便な国だ。しかし、戦争に負けたのは、ただ差配人ばかりで、地主は依然として少しも変わらない、と言うことを忘れてはいけないよ。二戦三戦の勝ちをもって支那を軽蔑するは、支那を知るものにあらず。」(p232)。

(5)小生コメント
  日本国では、幕藩体制の中、300ほどの各藩が町村の経済、治安を含め、全てをコントロールしていたので、政府(藩庁)と町民、農民との距離は極めて短く、相互の意思疎通も頻繁だったし、飢饉の年などには、領民への救済措置なども採られた。為政者側にも、民の生活水準の向上、自分の藩の産業振興・所得増大→税収増への関心も強かった。この故に、民と政府との距離が短く、双方向の意見の交換もあり、近代民族国家・国民国家への転換も可能だった。

  他方で、中国政府においては、為政者側には、科挙秀才と言う自尊心、文化人としての尊大な気風はあっても、現実には、科挙で採用された官僚たちは、古典の読み書きに通じたい「教養人」と言うだけで、実学とか、特に近代社会に必要な統治手法、法学、軍事、経済、技術などへの関心が低く、実際の行政面でも、元来が国家として民間経済に不介入の原則だったように、近代的な国家としての機能を欠いていた、ともいえる。更には、結局は皇帝一人、或いは、皇帝を抑えて権力を把握した西太后のような主権者が、独断で全ての判断を下しうる体制だから、近代的な、知識に裏付けられた官僚が行う西洋式の統治とはかけ離れている。
  
  そもそも、善政の概念が、優れた皇帝による「徳治」という、神話的、抽象的概念でしかなく、議会、独立の司法などが行政権をも制御するという、近代的な統治制度に対する理解は、中華世界ではいまだに浸透していない、と見るべきかもしれない。

  これらは、明、清という14世紀以降の近世の中国を統治した二つの中央政権が、いずれも、結局は、税金の中央への収奪を最重視し、民の側における経済活動そのものに対する理解、関心を持っていなかったこと、この故に、政府と民の間には、単に中央、地方の行政官庁の壁のみではなく、当局と民の間に、同郷同業団体、或いは、地主層などの中間団体が介在して、これら下部の中間団体こそが、「小さい国家」として、統治の主体化していたのだ。

  清末には、中間団体の一部が、新興宗教(太平天国)となって武装化し、反乱したほか、清国中央政府の軍事力衰退を補うため、地方大官が編成した自前の軍隊=郷軍が発達した。この郷軍は、実は中国社会特有の中間団体と構成員がほぼ同じで、結局反乱し、討伐される側にいた同じ種類の中間団体の人材を、地方に派遣された漢人の大官たちが、現地の商人、地主に課税したりして集めた金で徴募した私的軍隊だったという。この郷軍を率いた最大の軍閥が李鴻章である、という。

  西洋式の国民国家の建設に成功した、アジアにおける唯一の例外国家であった日本と、元来が私的軍閥組織に過ぎない淮軍・北洋軍(李鴻章の郷軍)との戦争に、日本が勝利したことは、軍人、兵士の教育程度、或いは、軍隊組織の近代化の度合い、軍事技術への習熟度の違いなど、あらゆる角度から見ても、当然の成り行きだったと言える。

  李鴻章自身は、日本の近代化、日本軍の脅威をよく意識していたらしいが、皇帝への報告書などでは、日本と倭寇を同一視して、警戒するなど、やはり中華意識から抜け出すことはできなかったらしい。  

  しかし、日清、日露戦争を経て、中国からは日本に大量の留学生が送り込まれ、日本における言文一致の近代国語の成立、洋書の和製漢語での翻訳などに接した中国人は、日本語をヒントとして、白話体という現代中国語(標準語)を作ったり、和製漢語(漢字の新熟語)の輸入(注:明治日本が発明した和製漢語は現代中国語の何割にも上るという)、影響を受けて、西洋事情を学び、国民国家とか、国境を伴った国土とか、そういう近代国家の概念に目覚めたりした。以降民族主義、愛国主義と言う概念も生まれて、このことが逆に、日本国を脅威として意識しての民族主義、愛国主義と言う運動となり、倭寇と言う明時代の意識も復活して、「反日」運動が20世紀を通じ、漢民族意識、国民意識、民族主義などと深く連携しつつ、浸透していったという。

    【注:1月14日追記:ちなみに、中国では、政府と民間との距離が遠かったので、岡本氏は、社会構造が極めて柔構造であったという(p130)。対外関係に関しても、明、清時代には、@北方、西方との関係(ロシア、中央アジア諸国)、A朝貢国(朝鮮、ベトナム、琉球、シャム、ビルマ)、B朝貢せず、貿易のみの「互市国」(日本、西洋諸国)、の3種を区別して、それぞれ別の付き合い方をしていたという(p126)。また、政府が正式の交易を禁じても、民間では、必要があれば密貿易を勝手に行っていた。

   柔構造の中国では、西洋諸国からの接触に関しても、ある意味で政府、民間双方ともに感性が鈍く、鋭い反応とはならなかったが、がちがちの剛構造だった徳川社会の日本は、黒船の来航に最大限の危機感を抱き、国家体制、社会全体の変革、西洋文明の導入が必要と考えたから、変革が早く、近代化に成功したという。
   小生が思うに、このような日中の相違故に、中国では自己変革して、欧米社会からの侵略、富の収奪に対する対応が遅れたのだ。

   その上、中国式では、上記のように対外関係も3種の諸国に対し別々だったから、外交の意味が複雑すぎて、内政との区別も必ずしも明確ではない、という欠点があると思う。それに、政府と民間との「懸隔、距離が遠い」故に、政府は常に国内配慮(民に対するカッコウ付け)を、外交よりも優先せねばならない場合も多く、外国に対する配慮、国際条約の順守などには誠実ではないという欠点ともなっていると思う。つまり、国内的対面、面子に拘ることで、民に対する威厳を維持しようという感覚が強く、国際社会における信用維持に関しては、諸外国から不誠実とみられる・・・と言う側面もある。最近の韓国政府を見ていると、国民の前での対面、面子ばかりを気にしていて、日本国政府が激怒したり、米国も激怒の一歩手前、と言う状況にも無関心に見える。要するに、国内の民との距離が遠く、君民一体と言う安定感が政治に付随しないがゆえに、対外的に虚勢を張り、国際的に孤立することには、感性が鈍いという欠点となっている。

   特に、第3種の対外関係でも、白人で鼻が高く、外見が全く異なる欧米人に対しては、あまりの違和感から、さほど腹が立たないが、元来「倭」(小粒と言う軽蔑語)とか言って見下していた日本相手には、些細なことでも対等に付き合うことは嫌だし、腹が立つらしい。要するに、華夷秩序感覚で「東夷」である日本に対しては、「朝貢」さえしなかった怪しからん「夷狄」と言う感覚が残っているらしい。

   結局、結論としては、同じような東洋人で、しかし、東夷だった日本相手に、「対等」の関係などは考えられない、特に国内の民の前で、そういう恥ずかしい態度はとれない・・・・これが儒教に凝り固まった中国、韓国の「外交、国際感覚」面での「常識の無さ」なのであろう。】

  とはいえ、歴史を都合よく一方的解釈で組み立てて相手を誹謗中傷する手段とする、と言う、歴史と言う学問の中国、韓国での在り方は、相変わらずであり、そもそも「正しい歴史」だとか、そういう言い方そのものが、客観的に歴史を論じるとか、学ぶとか、そういう意識が皆無なことを示している。

  なお、著者(岡本)は、大戦中にはやった「暴支膺懲(ぼうしようちょう、暴虐な支那を懲らしめる)」などと言う用語に見られるように、日本側にも日清戦争に勝利以来の、一方的に中国を蔑視するような史観も存在しているとして、注意を喚起している。小生としては、今の日本国民で、この暴支膺懲などと言う言葉さえ知っている人の割合がどれほどあるだろうか?と疑問ではあるが。

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