自由化後のブルガリア(11)

  Ivan Kostovが、経済学者という出自にもかかわらず、見事に自由化後のブルで初めて「成功的な政治」と言うものを実践して見せました。その手法は、「バルカンの独裁政治家」特有の、独断的、独裁的手法+「金」による与党政治家らの買収でした。政治資金は、ドイツの団体からの寄付金もありましたが、大部分は、ブルのタバコ密輸組織からの献金、ロシア・マフィアからの献金、SIK組系暴力団からの献金、などでした。コストフは、汚い金を利用しましたが、自らの懐に金を収めた訳ではありません・・・・自らの政策に、与党議員らを納得させるために必要な裏の政治資金だった。

(オ)外国系マフィアの排除
  00年夏、数名のロシア人ビジネスマンが、非合法活動と非難され、国外追放されたほか、01年3月には、3名のロシア人外交官らが、スパイ容疑で国外追放された。これが、ブル政府がロシア人外交官を追放した初めての例となった。他方、1880年代にロシア人将軍達を追放した歴史上の前例を想起させるものでもあった。

  Kostov政権としては、今となっては、対露関係の悪化をさほど心配していなかった。ロシア大使館が、追放したロシア人ビジネスマンらに関する諜報情報を欲しいと要求したとき、ナデージダ・ミハイロヴァ(Nadezhda Mihaylova)外相は、「もはやワルシャワ条約は存在しないのだ、ブルは今では完全な主権国家で、独立国だ」、としてこの要求を拒否した。

(カ)ロシア・マフィア関連の余話
   汚職工作まみれの外国人の追放は、少し諸外国の前でKostov政権への信用を増したとはいえ、しかしブル国内での汚職蔓延と言うことをバランスにかけると、まだ赤字と言うほど、汚職問題は深刻だった。

  00年4月、政府報道官のミハイル・ミハイロフ(Mihayl Mihaylov)が、1万ドルの賄賂をあるビジネスマンから受領したとの罪状を突きつけられ、否定しつつも、辞職を余儀なくされた。6月には更に政府を困惑させる事件が起きた。EUとの政府主要交渉担当者であったアレクサンダル・ボシュコフ(Aleksandqr Bozhkov)が、検事総長室からKostov首相に送付された報告書に基づき、同じく辞任を強制されたのだ。Bozhkovは、以前民営化担当大臣で、その職務にあるとき、「Mr.10%」との渾名をいただいた人物だ。

  00年9月には、更に政権に痛手となる事件が発生した。Trud紙が、首相夫人のエレーナ・コストヴァ(Yelena Kostova)が運営する慈善団体が、ロシア・マフィアから8万ドルを受領したと暴露したからだ。彼女は、この報道を否定せず、むしろ居直って、「悪い金を良い目的に替えることは、悪いことではない」と反論した。
  しかし、このスキャンダルは更に悪化した。資金を彼女の団体に寄付した件のロシア人ビジネスマン(チョールニ)は、Trud紙とのインタビューで、「自分はほぼ毎月、ODS(SDS中心の連合会派、Kostov政権の与党)に対して、50万ドルも寄付していた」と述べたのだ!

  実は、上記のロシア人ビジネスマン達の国外追放とは、このようなスキャンダル的報道の嵐の直前になされたのだ。
  Kostovは4月時点で次のように謝罪した:「もっと力を入れて汚職と戦うべきだった」。そして彼は、高官達が、ある官職に在籍するとき、その最初と最後に、それぞれ自らの私有財産を公開する、という立法を推進した。
  しかし、既に手遅れで、政権の評判、信用はがた落ちとなった。市民らも、Kostov政権は、それ以前の政権に比べても、何らより良いものではない、と見るようになってしまった。

   【小生所感:(1)ロシア・マフィアが混乱期のブルに進出していた
 ロシア・マフィアの中心人物は、ユダヤ系ロシア人のマイケル・チョールニである。00年8月に同人を含む計5名のロシア人ビジネスマンが、国外追放措置となった。この国外追放は、CIAからの示唆を受けてなされたらしい。SDS党が党資金として(しかもKostov自身の裁量で)多額の資金をチョールニから受領していたらしいことは、事実らしい。しかし、毎月50万ドルというほどの多額ではあり得ない。
   <★マイケル・チョールニ(ブル語:Maykql Chorni、ロシア語:Mihael Sherney):ロシア人ビジネスマン、2000.08.18ブルガリア国家の安全を脅かしたとの理由でNSS(内務省傘下の「国家治安局」)命令で「10年間国外追放」とされた。>

 同時に同じ理由で、次のロシア人ビジネスマン(マフィア)が国外追放された:Denis Ershov、Dmitriy Shirkov、Ravyl Hayrulin、Vladimir Gorshenin。チョールニを含む5名の国外追放は、米国CIAからの示唆に基づき行われた。
 なお、チョールニは現在(05年頃)イスラエルに住んでいるが、出国禁止措置の下にある。
 チョールニはブル国内企業のRoseksimbank(03年ブル人銀行家のエミール・キューレフが買収してチョの手を離れた。同行はその後04年7月にDZI Bankと改名)、Levski(サッカー)チーム(右も03年に売却)、Standart紙の実質オーナーと言われていた。

(2)ロシア・マフィア追放で、SDS政権は愛国主義を貫いた
 Kostov首相は元来、共産主義時代に引き続き、自由化後も再びロシア勢力の跳梁を許してはならない、との愛国心を持っていたはずで、当面献金を受け容れるが、どこかの時点では切って捨てる、との決意を持っていたと思われる。その意味では、CIAの示唆があったことは、丁度都合のよい口実であったであろう。

(3)コストフ首相の指導力を高く評価する
 コストフ自身が、元来はルカーノフ元首相がSDS党に送り込んだ「共産党からの赤いエージェント」だったのに、西側路線に心変わりして、ドイツからの金銭支援を受けつつ、政権すら奪取した、寝返り政治家との評価もあり、小生もこれがコストフの正体だと見ている。そして小生は、そのようなコストフの決断と、愛国心に基づく経済・国政安定化への貢献を高く評価する。

  ちなみに、コストフ=赤いエージェント説については、07年7月の記事:http://79909040.at.webry.info/200707/article_6.htmlを参照願いたい。この証言では、コストフの政治資金の多くが、タバコ密輸マフィアからの上納金だったことも暴かれている。このタバコ密輸マフィアは、シメオン政権時にも、「金融派閥」と提携し、スキャンダルを起こした。
 
 確かに、後継政権を担ったシメオン元国王の政権も、自由化後のブル社会の安定に貢献したが、その前の4年間にわたる、より経済的に困難で難しい次期に、SDS党内での権威主義的、独裁的手法で政治を安定させ、新時代のブルガリア政治の模範を示し、ブル社会安定化への基礎を築いたのは、コストフの大功績であると考える。
 もちろん、党内の異論などを抑え、独裁的地位と権威を築く上で、マフィア企業からの裏金など、汚い金にも手をつけたらしいことは、黒い影の部分だが、資本主義社会の民主主義においては、裏金が必要だと言うことも、もう一つの真実だと思う。日本でも吉田茂首相が、石炭王の麻生財閥(娘婿である麻生太賀吉、その子息が麻生太郎元首相)に「政治資金」を依存していたことと何ら違わない。



(15)01年の動き
  ODSは、この01年の年初を、スキャンダルまみれで、しかも経済全般が停滞し、国民生活が再度低下する中で迎えた。犯罪の増加、汚職の蔓延、これによる「一部人士が他の大勢を犠牲としての繁栄、大金持ち化」という現象が進行していた。党そのものも、党内からの反逆、逃亡で弱体化が進行した。
  夏の総選挙を控えて、ODS(オデセ)は、そのライバルのBSP(ベセペ)同様に、不人気に陥ってしまった。

  他方、BSPは、雑多な勢力と連合を組んで、「ブルのための連合(Koalitsiya za Bqlgaria、KB)」という連合を結成して総選挙に備えはじめた。一部が望んだDPS(デペセ)との連合は、当時Atanasov元首相(89年当時)がトルコ系への迫害、「再生過程」に責任があることを新聞で暴露されたので、もはや不可能な情勢だった。
  結局、ODS、KB双方共に、人気が無く、その意味での接戦が予想された。

  ところが、01年初頭に、元国王のシメオン2世が、亡命先(スペイン)から帰国して、この年の後半に行われる大統領選に出馬する、との噂が流れ、情勢が激変した。
  憲法規定によれば、大統領選に出馬する資格として、「選挙の前の5年間ブル国内に居住していなければならない」、となっているので、理論上これは不可能だったのだが。

(16)NDSVの結成、躍進 
  シメオンは実際に01年4月に帰国した。シは帰国声明で、自分は「NDSV(エンデセヴェ、シメオン2世国民運動)」党を結成して、夏の総選挙を戦う、と述べたのだ。すなわちシメオンは、憲法上出馬できない大統領職ではなく、首相職を狙うというのだ。

  NDSVの綱領は、「恥ずべきほどに」民意迎合主義的だった。3つの基本的目標を掲げていた:①政治的党派主義を終結する、②汚職を除去する、③生活水準を短期間で改善する。
  最も怪しいというか、凄い公約は、経済を直ちにEU並の市場経済に変換し終えて、政権掌握後「800日以内に、国民の生活水準を大幅に改善する」、と元国王は宣言したのだ。

  新国民運動は、特に青年層、女性層に受けた。シメオンは、この二つの階層からの候補者を党のリストに多く載せると約束した。事実シメオンの取り巻きには、TVキャスター、ポップ歌手、その他の若手がいたが、特に目を引いたのは、欧米で成功した経歴を持つ、若手の金融専門家、エコノミスト達で、彼らがシメオン運動の経済綱領を書いていた。
   (注:これらの若い、金融業などで高収入の専門的職場を確保した、成功した青年達は、英語でyuppy(ヤッピー、young,urban,professionalの頭文字を取ったもの)と呼ばれ、ブル語ではyupi(ユーピー)と呼ばれた。シメオンは、自らの出馬前からロンドンなどでこれらヤッピー達と接触し、彼らの帰国、出馬を説得していたという。

  同党の綱領で示された経済政策は、未だ不明瞭とはいえ、中小企業の育成、利潤再投資の奨励、資本市場、株式市場の発展、などで全般的な経済成長を促進する、と謳っていた。更には、年金、育児手当、教師給与の早期引き上げを公約した。
  同党の民意迎合主義(populism)は、内包的で、排他的ではなく、人種差別的でもなく、全てのエスニック・グループ、社会階層にアピールした。要するに、党の綱領は、曖昧で、単純で、しかし、驚くほど成功した!!


(17)NDSVが総選挙で勝利 
  NDSVは世論調査で瞬く間にトップの座を占め、01.06.17の総選挙でも、世論調査通りに、国会議席の半分(120議席)を確保して、大勝利した。 
  自由化後5回目の総選挙(39.ONS=第39次普通国会)結果:NDSV=42.74%(120議席)、ODS=18.17%(51議席)、KB=17.24%(48議席)、DPS=7.45%(21議席)。

  01年選挙の特徴の一つは、女性議員が増えたこと。これまでの歴史では、せいぜい10%が最高数値だったが、今回の女性議員比率は25%を超えた。しかも、その大部分がNDSV議員として選出された。同党の場合、議員の4割が女性だった。
  NDSVは、全ての有権者層から、まんべんなく得票した:都市部、農村部、インテリ・専門家層、労働者階層、高齢者、青年層。

  この選挙はまた、ブル系トルコ人の有権者を活性化した:国内在住のトルコ系だけではなく、既にトルコに移民した者達も、帰国して投票した。94年選挙で、移民者の投票は2000票のみ、しかし、01年の場合、55000人が一時帰国して投票した。その多くが、伝統的なブル・ムスリムの国王支持の気持ちから、NDSVに投票した。
  (注:05年総選挙でも、トルコ各地に移民したトルコ系は、DPSがアレンジしたバスで一時帰国して投票するようになった。DPSの場合、支持基盤がトルコ系にほぼ限定されるから、得票を確保するためには、移民した同胞の一時帰国投票、或いは在外投票に依存することとなる。トルコ系移民達には、ブル市民権は留保・継続されているから、選挙権があるのだ。なお、ブルは、二重国籍を容認している。

  ODSは、選挙戦術で過ちを犯した。NDSV綱領の弱点につき攻撃を繰り返す、というネガティブ・キャンペーンを主体とし、自らの綱領の優位性をきちんと訴えなかったのだ。もっとも、4年の任期中に犯した多くの過ちで、ODSは既にいかなる信用も失っていたのが最大の弱点。

  NDSV勝利の要因は、ODSの弱さに助けられた側面もあるが、やはり急造の割にはしっかりした組織、そして、何と言っても絶大な人気に支えられた、元国王の有権者に対する磁力、という要素も極めて大きい。
  個人的な魅力を持っていて、ブルを世界に売るためにも、この元国王の魅力が有用と見られた。そして、一番重要なことは、シメオンは、他のどの政治家とも違い、「共産主義時代は亡命して国内にいなかったから、旧体制に絡む弱点がゼロであり、その上自由化後のSDS、BSP二つの流れとも無縁だ」、ということ。更に付加するなら、シメオンは、個人的な汚職疑惑とは全く無縁、というのも、大きな資産となった。


2.元国王の政府:EU、NATOへの道:2001.06--2005.06
(1)王政復古の意図を否定
  亡命した元国王が、共産主義政権が統治していた国家に帰国し、政府を率いることになる、というのは、全く奇跡のようなことだった。そしてこの政権が、かなりの国内的困難を乗り切って、ブルをNATO加盟国に、更にはEU加盟の一歩手前まで、導き得たことも、やはりすばらしい成果と言える。

  なお、シメオンは、ブルに帰国後は、公式のブル語式の姓としてはSaxecoburggotskiと言う名称を使用した(注:実際には、ドイツ語、英語式のSaxe-Coburgとの姓を名乗ることの方が多かった)。ともかく、国民は通称として「ツァリャー:tsarya(king)」と呼んだ。

  国民の一部には、未だに、シメオンの真意は、王政復古だと疑う向きもあったが、シメオン自身は、政治潮流の流れを読むのに敏感で、王政復古を早期に実現できるなどと夢想することはなかった。
  従ってシメオンは、「自分の意図するところは、長期的、憲法的な構想ではなく(注:要するに憲法改正して王政に復帰するというような構想はない、と否定したのだ)、経済再生と社会刷新という、より直接的、短期的なことである」と主張したのだ。

(2)主要閣僚は、ヤッピー達 
  Simeon内閣には、NDSV党員のみではなく、二人のDPS党員、更に二人のBSP党員を含んでいた。

 【注:★第一次シメオン・サクスコブルクゴツキ内閣:2001/07/24--03/07/16
 大臣名      職掌               
Simeon Saxe-Coburg、首相              
Kostadin Paskalev、副首相兼地域開発・公共事業相(BSP系)
Nikolay Vasilev、副首相兼経済相              
Lidiya Shuleva、副首相兼労働・社会政策相(女性)        
Vladimir Atanasov、教育相                
Solomon Pasi、外相(ユダヤ系)                  
Bozhidar Finkov、保健相                
Dolores Arsenova、環境・水相(女性)               
Bozhidar Abrashev、文化相               
Georgi Petkanov、内相                  
Mehmed Dikme、農相(DPS系)                
Nikolay Svinarov、国防相                  
Plamen Petrov、運輸相                   
Milen Velchev、蔵相                    
Anton Stankov、法相                    
Dimitqr Kalchev、国家行政相(BSP系)           
Milko Kovachev、エネルギー相               
Nezhdet Mollov、無任所相(DPS系)  】 

  外相のSolomon Pasiは、ブル国内の極めて小さなユダヤ人コミュニティーの人物で、自由化後は、NATO加盟運動の中心人物(91--01年Atlantic Club総裁)として活躍してきた。

  閣僚として一番有名だったのは、西欧の金融界で成功を収めていた(financial technocratとしてロンドンで高給取りだった)二人のyupi達。一人は31歳のニコライ・ヴァシーレフ(Nikolay Vasilev)で、副首相兼経済大臣となった。もう一人は35歳のミレン・ヴェルチェフ(Milen Velchev)で、蔵相となった。

(3)政策目標は、生活水準の向上、しかも800日以内!? 
  新政権の政策目標は、実際の所はKostov政権の目標と殆ど変わらなかった:EU、NATO加盟実現に向けて前進すること、生活水準の向上、犯罪の削減、汚職の除去。
  最優先課題は、800日と限られた期間に経済成長をしなければならないので、経済改革を推進すること。
  01.08.02にVasilev大臣は、エネルギー市場を自由化する、発電所などの国有資産民営化を加速する、と約束した。
  10月には、小企業を支援するために、マイクロ・クレジット用の2千万Lvの基金が設置された。

(4)税関改革など
   シメオンはまた、税関改革を実行することも約束した。税関吏達は、マフィアと共謀して、自らの利益のためにのみ働き、国家の利益を図っていなかった。

   【小生コメント:税関改革を指導するために、ブル政府は相当高額の「指導料」を払い、英国のコンサルタント企業Crown Agencyと契約して、透明性ある税関システムを構築し、税関内部の腐敗、汚職、マフィアとの関係を断ち切ろうとした。

 しかるに、英国から派遣されてきたコンサルタントらも、マフィアから命への脅迫を受けて指導を徹底できないなど、思いがけず苦戦した。英国人らは、ブル・マフィアの気迫、残虐さを前に、効果的な規制を徹底できなかったのだ。

 結局、ブルにおける複雑なマフィアとの人間関係ネットワークは、警察、税関、法曹人らも含めて、不正・汚職のシステムを構築していて、簡単に排除できるほどたやすいシステムではなかったのだ。

 ブルのマフィア達は、タバコ密輸スキーム(西欧から輸入した米国・英国製タバコを、いったん無税でブルの港湾で荷揚げした後、再度秘かにモンテネグロ・マフィア(実は、モンテネグロの首相自らがタバコ・マフィアの親玉だった)を経由して、西欧の港湾に密輸出するという手法で荒稼ぎする。全体のコントロールは、イタリア・マフィアの担当であったらしい)で巨額の利益を上げて、これをコストフ政権、警察・税関幹部にキック・バックしていた。

  90年代半ばから急増した中国製品(衣料品、安物家電製品、靴、傘、雑貨など)の密輸入では、ソフィア市北部の「イリヤンツィ市場」を中心に活躍していた中国人商人達が、ブルの密輸関連マフィア<VIS組傘下のサモコーヴェツァ親分など>と提携していた。


  またシメオンは、民営化過程から汚職を除去する措置を執るべき、とした。社会面では、10月1日から、最低賃金月額を100Lvと定めた。(注:1Lv=1DM<ドイツ・マルク>→その後約1/2ユーロ)。

(5)EUはブルの改革に不満で、要求を追加
  エネルギー市場の自由化と、汚職除去努力は、EU加盟確保のためのキャンペーンでもあった。EUとの交渉過程は、複雑で、フラストレーションに満ちたプロセスで、ブラッセルは時には冷淡に、時には暖かく接した。また、国内要因が時として、障害となった。
 
  01年10月にブラッセルは、対ブル交渉で、31の憲章チャプターが閉じられたが、未だにブルには、「機能している市場経済」という必須条件が欠けていると宣言し、冷水を浴びせた。
  その後の数ヶ月も、ブラッセルは、対ブル要求を強め、汚職排除のための措置、司法改革、対ロマ(ジプシー)差別の削減、などを次々と要求した。

  この故に、01年12月のEUのLaeken会合で、ブルがEUの第一次拡大措置候補国とならなかったことは、もはや驚きではなかった。ブル政府としては、EU要求を満たすために、努力を追加するしかなかった。12月国会は、ブルを更にEU側要求の方向へと改革促進するための措置を承認した。
  しかし、シメオン政権の、EU規格の背広にブルを合わせていくという努力は、益々強い抵抗に遭遇した。




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