自由化後のブルガリア(12)

  シメオン2世元国王が主導したNDSV政権は、01年――05年の4年間の任期を全うしたが、また、EU加盟と言いう自由化後のブルの政治課題を、何とか成功軌道に乗せていった(ブルのEU加盟実現は、07年1月)が、全体としてみれば、マフィア企業、汚職、組織犯罪と政治家の癒着・・・・などの欠点も目立ち、再度左派系のBSP政権の誕生を準備してしまった。
  その辺の、スキャンダルだらけとも言うべき政局の動きを見ながら、今回で「ブル歴史」シリーズは、一応最終回とします。  

(6)大統領選挙で、BSP党首が当選してNDSV政権に冷水  
  国内政治で、同じ01年の晩秋、何とBSP党首(左派)が大統領になる、という異変が生じ、NDSV(中道だが、本質は保守系、故にSDSの方が相性はよい)に打撃を与えた。

  01.11.11大統領選第1回目投票:投票率は89年以来最低の41.53%。決戦投票には、BSP、SDSそれぞれのグループが進んだ。
  11月18日第2回目投票:KB連合(BSP系)からの候補Georgi Pqrvanov---Angel Marin組が54.13%を得票して勝利。現職大統領のPetqr Stoyanov---Neli Kutskova組(SDS系)は、45.87%で敗退。パルヴァーノフBSP党首が大統領選で勝利するとは、予測を超えた驚きの結果だった。

  BSP党首の予想外の当選の理由としては、Stoyanov現職大統領に対するSDS党員の支持離れがあった。
  パルヴァーノフ新大統領は、経済改革で一番困っている人々を守りたい、また、ロシアとの関係を改善したい、と明言した。(小生所感:要するに、パは自由化、資本主義競争社会化、という新環境の中で、適合できず、自分は貧困層に陥ったとして不満を抱える社会層に対し、手を差し伸べるポーズを示して、票を稼いだのだ。

  このニュースは、政府側にとっては、困ったことだった。パ大統領が頑固に自己主張するならば、憲法上の空白というか、大統領と首相の抗争という問題が、再燃するかもしれないのだ。(注:シメオン首相は、01年7月組閣したとき、64歳で(1937.06ソフィア市生まれ)、既に老齢であるから、父親譲りの「老獪な狐」として、大人の対応で、形式的には上位にある若手のパ大統領(01.11の就任時は44歳)に対しても、しかるべく対応して、波風を起こさなかった。

(7)NDSVは寄せ集め集団で、故にシメオン党首は独裁的権限を確保した 
  シメオン首相はまた、自党内の問題にも直面した。そもそもNDSVは、異種混合的な政治運動で、その故に当初からシメオンは、自分自身が全てを決めるという、独裁的権限を主張し、確保した。すなわち、総選挙の候補者リストなども、一人で選択した。

  しかし、内閣の仕事は広範であり、何時もシメオン首相が厳しく統制するというわけにもいかない。故に党内対立が芽生えてきた。

  また、他方では、シメオン首相自身の問題として、決断が遅れがちと言うこと(注:父親のボリス王も、慎重すぎて決断を最後まで遅らせる、優柔不断、という性癖があった。)。例えば、NDSVを運動から党へと、性格を変えるという問題。02年4月に、運動→政党へと転換を声明した。とはいえ、党内の派閥間対立(基本的には、法律屋派閥と金融屋(ヤッピー)派閥の両派)は結局残った。そして次の総選挙(05年6月)が近づいた04年初頭には、多くの裏切り者、離党者が続出して、党の国会内多数派維持に困難を来したりした。

  (注:ブル政界では、自由化後の潮流変化が急激すぎたし、旧共産党系のBSP、トルコ系のDPSを例外として、政党そのものの基盤、歴史、伝統も無いため、3--4年目の任期末期になると、議員達も再選の目処が立たないので、新党結成とか、他党への移籍とか、生き残り策を模索することとなり、この故に、政権末期には何時も政情が不安定となる傾向がある。


(8)EU加盟のための努力の進展
(ア)司法界側が抵抗勢力

  EU加盟交渉の道筋におけるもう一つの障害は、ブラッセル自体の突きつけた条件がきつすぎたこと。特にこれは、コズロドゥイ原発問題で顕著。シメオン政権は、その後、BSP、パ大統領から、益々圧力を受けたし、国内からも、原発閉鎖条件に関しては再交渉すべきとの世論の圧力が大きかった。
  ついに、03年3月には、最高行政裁判所が、原子炉の3号機、4号機閉鎖は、憲法違反だと判決した。

  このケースは実は、政府と司法の間の権限論争の一つでもあった。02年年末には、大規模民営化のBulgartabak(タバコ公団)BTK(通信事業公団)のケースに関し、裁判所は、双方の売却、民営化は、不適切で無効だと判決した。政府は、民営化などにつき司法側の権限を制限しようとしたが、これは双方の塹壕戦を惹起したのみ。結局1年にわたりすったもんだして、両社の民営化がこの期間凍結状態になった。
  ブラッセルは、司法に対する不信感が証明されたと主張し、政府も腹を固めて、司法の権限を規制する改革法案を成立させた。関連法の修正が03年9月に立法された。

(イ)ロマ(ジプシー)の教育改善措置
   01年秋には、ロマ問題に関し、幾つもの譲歩がなされた。Kostov政権時(99年)に採択された「ロマのブル社会への統合化に関する基本方針(framework programme)」の履行が加速され、この一環で03年には、16歳以上の文盲のロマを助けるため、Veliko Tqrnovo大学、Stara Zagora大学にロマ児童を教育する教師を養成する、特別コースを開設する政府スキームなどが実施された。また、03年9月には、総括的な差別撤廃法が立法された。後者は特に、ブダペストに本部を置く、European Roma Rights Centerの称賛を得た。


(9)実態経済面での進展 
  マクロ経済面では、実質的な成長もあった。02年までの5年間連続して、GDPの4%成長が実現された。故に、02年には、ブルのクレジット格付けが5倍も上昇し、Milen Velchev蔵相には、Euromoney Finance Ministre of the Year awardが授与された。国家歳入は、予測より1.57億ドルも増加した。また関税収入も、01年に適用された改革のおかげで、予測より92%も増大した。
    (注:Velchev蔵相の採用した政策は、ともかく緊縮財政に徹し、各省庁からの要求には一貫して税収不足、財源不足を指摘して、当初予算案を超えての「追加予算、補助金」などの支出を断固拒否する、ということ。Mr.Noに徹する、という方法で、同僚政治家らからも嫌われたし、ある意味その後のNDSV政治家らの「団結心」などを育成できなかった、ということで、NDSV党そのものの魅力を無くすことに結び付き、政党としての存続基盤を築くことに失敗した、とも言える。仲間に、ある程度お金を融通する、ということは、政治家同士の結束、友情を築くうえで重要な要素であり、これを合理主義に基づきすべて拒否するようでは、組織としての団結力が低下してしまう。実際にNDSV党は、05年夏の総選挙ではほんの少数が生き残ったが、09年の総選挙に際しては既に消滅していた。

  失業率さえも減少傾向を示した:02年4月=17.85%→03年4月=14.9%。インフレ率も減少傾向を記録した:03年11月には、年率2.5%へと低下。

  03年8月には、一つだけ国有のまま残っていた銀行、すなわち国内2位のState Saving Bank(ブル語略称はDSK:デセカ)が民営化された。この時点で既に、民営化すると決まっていた国有資産の82.3%が、実質的に民営化を終えた

(10)EU加盟のための努力 
  国内的には必ずしも人気がなかったが、政府による、EUがブルを加盟させても良いと考える所へと舵取りしていく、との努力は、効果的だった。
  02年12月にEUのCopenhagen conferenceは、ブル、ルーマニア両国と、加盟に向けた真剣な交渉が開始されるべきで、目標は07年の加盟、と決定した。

  第2の大きな一歩が03年11月に記された:EUは、ブルが、ルーマニアと違って、「機能している経済の地位」を達成した、と声明したのだ。この時点までに、26憲章チャプターが閉鎖されていた(注:EU憲章チャプターの閉鎖とは、EUが加盟申請国に課した課題=憲章チャプターの26項目につき、EU側が満足して、OKと言った、ということ)。そして、07年にEU加盟という希望は益々近づいたように見えた。

  更には、04年2月に欧州議会もブルの加盟に関し、勇気づけるようなメッセージを発してくれた。同時に、欧州議会は、ルーマニアの加盟については疑問符を付けたのだ。

   上記2回にわたり、欧州側が、ブルとルーマニアを別個に扱ったことは、ブル国内から安堵のため息を呼び起こした。
  そして遂に、04.06.14にEUとブルの間の交渉は、ルクセンブルクで終了した。予想として、加盟実現は07.01.01となる予定とされた(注:その後予定通り07年正月にルーマニアとともに加盟が実現)。もっとも欧州委員会は、コ原発関連での履行(原発の一部閉鎖)を怠れば、この期日の延期もあり得ると、脅しもにおわせた。


(11)NATO加盟の方が、より容易だった
  01年のアフガニスタン作戦時、米軍のKC-135(Stratotankers)給油機が、ブル航空基地を利用したことで、ブルの価値が上がった。しかし、02年2月にNATO事務総長はソフィアで、ブルはNATO加盟に向けて、かなり前進したが、「未だに多くのことをなす必要がある」と警告した。
  ブルがこれまでしてきた努力とは、国軍関連施設の縮減、組織のスリム化、など。要するに、徴兵制の軍隊から、職業的(志願制)軍隊への転換。

  02年11月までには、十分な国軍リストラが成り、NATOはプラハ会議で、ブルをメンバー国として招致すると決定した。03年3月ブル国会は、NATO加盟に必要な議定書を可決した。議定書採択という立法措置が下されている頃、ブルガリアは、第一次大戦以降の歴史で、恐らく他に匹敵しうることがないほど、国際社会で重要な地位を占めていた。イラク問題が熱心に討議されているこのときに、ブルは安保理の非常任理事国だったのだから。 

  そして、いったん対イラク戦争が開始されると、その地位はもっと高くなった。ルーマニア、ブルガリアの両国共に、多国籍軍軍用機に燃料補給用の空港施設を提供したのだ。
  ブルがこの時提供したのは、Burgas市近郊のSarafovo空軍基地だ。ブル、ルの空軍基地は、トルコが米軍に対し、自国領土を通過してイラクに進出することを拒否した後は、益々重要な意味を有した。 

  【注:トルコは、戦時に自国基地、道路、などを米軍が使用する場合、高額の金銭的代償を要求する癖があった。ところが、米国は既に、トルコ陸路を迂回して、ル、ブル両国基地を経由して、空路のみでも部隊投入出来ると言うことを示し、トルコの高額要求を蹴った。

 トルコでは、それなりの民主主義的進歩というか、国軍が国家の上にあり、アタチュルク体制=世俗主義を国是として、宗教勢力を抑える、と言うことが内政的に徐々に困難となり、同じイスラム圏に対する米軍の軍事行動に荷担することが、益々難しくなってきた、と言う国内事情もある。

 要するに、トルコは、米国+イスラエルという、旧来の中東における覇権体制への協力をしなくなってきたのだ。その意味では、米国にとっても、ルーマニア、ブルガリアを軍事的に利用できるようになったことは、タイミングの良い国際情勢の変化でもあった。


  戦闘終了後、ブルは、イラク占領軍にブル部隊を派遣することを承諾した。結果として、Kerbala(ケルバラ)所在のポーランド軍指揮下に、ブル部隊500名が派遣された。03年12月、派遣部隊はテロリストの攻撃に遭遇し、5名が死亡、60名が負傷した。この犠牲ももちろんブルの評価に加算され、04年4月に、ブルはとうとうNATO同盟への参加を許可された

  イラク多国籍軍への参加は、これに距離を置いた仏、独両国との若干の摩擦を産んだが、ブルはこの隙間を埋めるため、迅速に動いた。国際刑事裁判所(ICC)に加盟していない米国から、両国の市民をICCからの訴追において、相互に免除するとの協定締結を迫られていたのだが、これを拒否したのだ。結果として、一時的に米国からの軍事援助金を差し止められたが、ブルとしては、欧州側への忠誠心を見せつけることが出来た。


(12)EU加盟:残った障害---汚職、組織犯罪 
  汚職と組織犯罪が、ブルのEU加盟の障害として、最後まで残った問題。
  シメオン政権は、双方に対し活発に対処した:01年10月に、汚職対策国家戦略を採択、02年2月には、内務省に対組織犯罪局を設置するなどの全国行動計画を策定。
    (注:実は、組織犯罪対策局=NSBOP<ネセボップ>は、ずっと前から存在した警察組織である。もっとも、マフィアと戦うはずが、NSBOP幹部らは、逆にかなり頻繁にマフィア企業と仲良くして、賄賂も受け取っていた。

  なお、英国警察のScotland Yardは、内務省、及び警察内部の汚職とどう戦うかに関して、教示するように支援を求められた。この支援は、かなりの成果を生み、03年9月だけでも200名の職員が解雇された。解雇までには、1800名の官吏が尋問を受け、内700名は内務省の官吏だった。

  04年3月にCorruption Transparency Indexは、ブルを113カ国中54位とランクづけた。これはチェコとほぼ同等で、スロバキアよりましだった。ルーマニアは、何と83位だった。そしてこれらの数字を比べてみると、汚職は必ずしも、ブル特有の現象ではない。もっともブルにおいて顕著な点は、犯罪グループと、ビジネス・行政の腐った要素の間の連携ぶり、特に地方レベルにおけるその連携ぶり。
  あるNDSV議員は、「小国の中でもブルは、重武装した犯罪ギャング連中が享受している、高い社会的地位で、ユニークだ」と自嘲気味に主張した。

  そして、これらギャング達が、まるで映画さながらの暗殺劇を、頻繁に引き起こしているのが、21世紀最初の10年間の、特にその前半のブルにおける特徴なのだ。03年3月に、Iliya Pavlovが、ルカーノフ暗殺(96年10月の事件)事件裁判に関連して、被告の犯人容疑者らに関し証言した、その1日後に、自分の会社の出入り口で射殺されたのだ。Pavlovは、ブル一番の金持ちビジネスマンで、Multi group(MG)コングロマリットのボスだった。

(13)司法界の腐敗
  Pavlov暗殺事件も、司法界の怪しさを臭わせる部分もあったのだが、他にも検事次長が、フィルチェフ(Nikola Filchev)検事総長を汚職と非難する事例もあったし、02年12月のNikolay Kolev検事(高位の検察官)暗殺事件も、検察内部の抗争の結果、殺し屋にやられたと見られた。もちろんこれら噂の信憑性には問題があるが、それでも司法界に渦巻く怪しげなイメージを証明しているとも言える。
   (注:Filchev検事総長は、大物マフィア達の庇護者として有名で、検察組織のボスとして君臨していた。裏取引で、多くのマフィアを秘かに庇護したりして、多額の賄賂を稼いだとされる人物。同人の愛人が暗殺された事件は、迷宮入りしたが、フィルチェフ自身がマフィアに依頼してこっそり始末させたとの疑惑が新聞でも報道された。

(14)ボリーソフがシメオンに失望
  03年1月に、Boyko Borisov内務官房長内務省制服組トップ)が、自国の指導部(注:ボリーソフが喧嘩していた上司のペトカーノフ(Georgi Petkanov)内相のみならず、シメオン首相すらも暗示していると見られた)、司法組織、双方とも、自分の対マフィア闘争を支援してくれない、と糾弾したことも、ブルの司法界のイメージをどん底に突き落とした。

  4月になり、あるビジネスマン(Ivan Todorov -Doktora:タバコ密輸の元締め、渾名:ドクトラ)が暗殺されかけたとき、この暗殺未遂事件には、ある写真が関係していて、この写真(モナコで、豪華ヨット上で交友している図柄)には、元政治家、現役政治家(Velchev蔵相、Petrov運輸相、Sevlievski議員)、闇世界のボス(ドクトラ)、などが一緒に映っていたのだ・・・と新聞が暴露した。
  ともかく、このような暴露合戦、非難合戦の中で、司法界(フィルチェフ検事総長がドクトラの庇護者とされた)のイメージは更に悪化したが、同時に、プラスの効用としては、政府の司法制度改革計画の推進が容易となったこと。

  【注:上記の「モナコ・ヨット写真」は、結局新聞に流れ報道された。この写真をNSBOP(ネセボップ、組織犯罪対策局)からメディアに流し、暴露させたのは、ペトカーノフ内相(NDSV党内法律屋派閥)らの陰謀と見られ、警察制服組トップのボリーソフ内務官房長は、Velchev蔵相ら(金融屋派閥)に、写真暴露の黒幕は、法律屋達だと話したらしい。
  何れにせよ、シメオン首相は、ペトカーノフ内相らの法律屋、及びヴェルチェフ蔵相らの金融屋、双方の派閥均衡の上に立っていたので、法律屋達を処断することは出来ず、この故にボリーソフは、シメオン首相にも失望したとされる。
  後にボはNDSV党から離れ、05年総選挙でNDSVがBSPに敗退後、ソフィア市長選に当選し、更には自前の政党GERBを立ち上げ、09年夏の総選挙で勝利して、自ら首相となった。



(15)犯罪組織と、これら組織から賄賂を受け取る官僚・政治家・法曹人達の汚職  
  要するに、犯罪と汚職という双子の問題が、ブル国民の意識に悪影響を及ぼしたことは確かだ。
  03年頃には、国民の間で、結局「マフィア」達は、再登場したというはっきりした感覚が生じた。「再」登場ということが重要。その前には、一時的だが、犯罪と汚職の問題は、ボリーソフらの活躍で、封じ込めが出来る、という意識があったのだが、再び登場したと言うことで、絶望感が生じたのだ。

  【注:ボリーソフこそが、犯罪撲滅のヒーローと一般国民から期待された人物だったが、NDSV政権におけるボの地位(内務官房長で、内相の配下の制服組トップというだけ)では、十分に「撲滅」出来ないことが明白となった。
  もっとも、元来ボリーソフ自身も、筋肉系マフィア(mutra:ムトラ)の一人であったから、どの程度本格的に組織犯罪撲滅に、本当の努力をしたのかは疑問でもある。マフィア退治がいかに難しいことかを、身をもって知っているのも、ボリーソフ自身なのだ。



(16)一般市民は、経済改善の恵みを享受していなかった
(ア)大部分の市民は貧困に喘いだ
 
  国民の意気が下がったもう一つの要素は、経済的要因。まあ、どの国でも一般的にそうなのだが、マクロ経済的な「得点」は、ミクロ経済的な「痛み」を伴うのだ。国際機関とか、EUが注目した「得点」は、国民大衆には「感知できないもの」だった。

  03年度のUSAID年次報告書を見よう:平均的なブル人は、貧困、失業、低生活水準に苛まれている。平均的な労働者賃金は、134ドル(月給)で、平均的な年金は50ドルだった。一人当たりGDPも、未だにEU平均の1/4にすぎない。

   【注:統計的な数字のみで、自由化後もブル庶民が貧しい、と言う言い方には、小生は疑問を感じる。同じ134ドルでも、社会主義時代の物資欠乏時に、この金額で買えたのは、不味い食物に、ダサイ衣料品のみ。しかし、自由化後には、美味な食品と、安価でもかっこよい衣料品や靴、上質な化粧品、昔はなかった生理用品、携帯電話、気の利いた室内装飾品、効率的な断熱材、質の良い建材・・・・・などなど。すなわち、生活内容は明らかに改善されたはずなのだ。モノが溢れていても、十分買えない、と言うのが新しい事態。社会主義時代には、金があっても、買うべきモノがなかったのだ。


(イ)青年層の失業→外国へ移民
  そして、02年に失業率が少し改善されたとはいえ、長期的な失業者は11.9%という高率。同年全般的失業率は、18.1%だったが、25歳以下の青年失業者は35.6%という高率だった。国内における雇用の難しさと、外国における就職のより広い可能性、という条件の中、学歴の高い青年達の移民が盛んとなった。
  01年のある調査では、自由化後に、約70万人のブル人が国外に移民したし、その多くが青年層だった。02年の世論調査では、29歳以下で近く移民しようと思っている者は、12--15%を占めていた。

(ウ)国内年齢ピラミッドの悪化 
  1990年代半ば、経済危機で欧州最低の出生率だったことと、青年層の活発な移民の結果、国内の年齢ピラミッド構造には、危険な傾向が生じた。1976年、60歳以上の国民は人口の16.0%だったが、99年にはこの数値は19.1%へと上昇した。年金負担の増加という視点でも、困った見通しなのだ。
  もちろん、これら国外移民組が、その後数年して、より高い技術水準を獲得し、かつ、貯金を貯めて帰国するならば、ブル国内への投資と見れば、頼もしい限りである。他方で、家族、友人、などへの精神的ダメージは、計量しがたいマイナス面を持つ、とも言えよう。

(エ)格差社会という癪の種、しかし、他の選択肢はない 
  国民の全般的な意気消沈に拍車をかけたのが、大部分の人々は生活環境の改善をほとんど感じ得ないのに、一部の少数者達が、極めて富裕となってきたこと。長い歴史を通じて平等主義の伝統(egalitarian tradition)を育んできたこの国で、このような格差の拡大は、飲み下しにくい劇薬だ。

  ブル国内でも、世界の中にも、ブルガリアは、この欧州・大西洋体制への組み込み、という選択肢以外に何があったか、示しうる人間はほぼいないはずだ。同時に、多くの人々は、NATO加盟とEUとの交渉の終結は、シメオン首相の政府の主要な達成だ、ということに関し、あまり疑いを持たないだろう。

  また、欧州・大西洋コミュニティーで掲げられている価値観と、バルカン半島で育まれてきた社会・心理学的価値観との間には、将来矛盾が生じうる、として、この差異を重視する者も、少数に過ぎない。
  少数の富裕者と多数の貧困という矛盾の克服も、ブルがEU加盟国として、きちんと席に着いた後に、やがては解決されねばならない「多くの問題の一つ」に過ぎないだろう。

  (注:3月以来続けてきたこの「新版・ブルガリアの歴史」シリーズは、今回で最終回となります。
    ブルガリアの現代史は、その後も興味深い展開を示していますが、基本的には、このブログで、ブルの現代政治などとして、書いてきました。Boyko Borisovという警察官僚出身の政治家が今もブルの政治を主導していて(第3次ボリーソフ政権)、いわばブルの政界は安定期に入っているようです。
)      
                                               
           (了)


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この記事へのコメント

trip partnerスカウトチーム
2020年05月01日 15:39
はじめまして。 弊社はTrip-Partner(https://trip-partner.jp/ )という旅行・夜遊び情報メディアを運営しております。 ブルガリア研究室様のような内容に富んだブログとの相互リンクし、お互いに訪問者数を増やせればと思っています。 もしご興味ありましたら範國(ノリクニ)宛(japan-director@trip-partner.jp)にメールを頂けますでしょうか? その際メールにブログのURLを記載頂ければ幸いです。 宜しくお願い致します。 下記ような記事を作っておりますので、読んでみてください。 https://trip-partner.jp/15 https://trip-partner.jp/2099