オスマン統治下のブルガリア(5)

  前回も強調したように、オスマン帝国が「衰退期」を迎えつつも、色々「改革」を試みる中、ブルガリア人たちは、商人、或は職人として才能を発揮する時代となり、富裕化し、そしてその富を自国民のための教育振興、文化復興、宗教施設の再建などに投資していきます。

11.ブルガリア文化復興の背景
(1)イェニチェリ軍団の解体:ブルガリアにとっての二つの影響
(ア)畜産、縫製業の発展
 
  イ軍団解体後、スルタンと大臣達は、西欧をモデルとする正規軍の創設を決定。このような軍隊は、政府が食事を提供し、制服なども供与する必要がある。そして、帝国政府がこれらの供給源としてあてにしたのは、ブルガリアの養羊業者、縫製業者であった。

  かくして、ブルの養羊業者abaアバー:羊、山羊の粗い繊維を用いた分厚い織物=Felt生地、右を用いた外套ギルドgaitanガイタン:士官制服用のモール¬(金糸、銀糸、色糸を絡ませた飾り紐)を使った刺繍、レース類ギルドなどは急速に富裕となった。aba、gaitanの大量発注は1820年代に開始され、1848年には帝国政府は、abaギルドとの間に商業契約まで結んだ。abaの需要は極めて大きかったので、オスマン政府は1830年代末に、Sliven(スリーヴェン、注:ブル東部、バルカン山脈の南にある町)に官製aba工場を建設したほどである。またその後の数十年の期間には、Plovdiv周辺に、私有の工場が出現した。

(イ)農地税を帝国政府が直接徴収する「新契約」への移行 
  イ軍団解体と、正規軍隊の創設の・・・・二つめの影響は、帝国内の土地所有制度の改革が必要となったこと。ティマール制は、スィパーヒー武士団を養うための封土制であり、未だに土地制度はこの封土制を建前としていたのだ。spahi武士団の軍事上の役割は、18世紀において、とっくの昔に消え失せていたが、他方、彼らの所有する土地からの収益は、徐々に増大していたし、ましてや常備正規軍創設後は、養羊業などの収益は増大した。
  spahi達は元来農民から1/10税を徴税し、これらをスルタンの軍隊のために帝国政府に納付していたが、この機能も既に停止されていた。

  そこで帝国政府は、spahi所有の土地からの徴税を直接行うこととした。もはやspahiを維持する何らの理由もなくなっていたのだ。そこで、1830年代、徐々にこの制度は解消され、新たな賃貸契約が締結されていった。
  役人達はこの新契約を、公正に実行しようとしたのだが、ブルの北部、南西部では、賃貸契約が非常に複雑な形となっていたので、新契約への移行は緊張を伴うこととなった。

  また、かつては裁判権もspahi達が握っていたのだが、これも政府官吏達へと移転された。これに伴い、生き残っていたspahi達は年金を与えられて、引退せしめられた。この、引退spahi達への年金支払いも、新契約による負担となったので、ブル人農民達の怒りを買った。もっとも、農業面での不満は、「復興(ヴァズラージュダネ=vqzrazhdane)」における主要な要素ではなく、後日民族主義者らが起草した政治計画においても、ほとんど何らの言及もされていない。

(2)商人、職人の富裕化 
  北部、南西部の農民達は、新契約に伴い困難を抱えていたにせよ、多くの商人、職人達は、ますます富裕化していた。彼らの富は、彼らが続々と建設した豪邸に表現されている。現代の観光客が、Kotel、Plovdiv、Koprivshtitsaの町を往訪して目にする美しい固有の民俗調建築物*は、実は何れも、19世紀の第2、第3四半期に建てられたものである。

  (*注:「民俗調」とはいうものの、実は小アジア半島の田舎の村などに見られる家々と基本的には何ら変わらない。二階建てで、二階部分が一階よりもせり出して、面積が多くなった「頭でっかち」型で、これはブル人の説明によれば、オスマン時代の税制では、一階部分の床面積で税額が決まったので、二階部分を大きくして税額を低く抑えた、というもの・・・本当かどうか怪しいが。すなわち、オスマン時代には、欧州部分も、小アジア部分も、ほぼ同じような建築様式が存在していたのであり、「ブルガリア固有」と言うことは出来ない。

  富の蓄積は、単に個人のものでもなかった。経済活動の多く(商業、職人業)は、esnaf=ギルドの管理下に遂行されていた。故にギルドは、1830年代には、かなり多くの黒字を帳簿に抱えており、これらの余裕資金は概して公共の利益につき支出された。

  初期のオスマン統治期には、キリスト教徒らは、公共建築物を建てること、教会ですら修理することも禁じられていた。しかし、19世紀になると、これらの規制は緩和されていて、ギルドが保有する余裕資金により、1830年代には、続々とより大きい教会へと建て替えられていった。修道院も、自らの土地からの収益が増えたほかに、ギルドからの寄進も増えて、修理、改築が行われた。特にRila monasteryは、1833年の火災後、より壮麗に再建され、ブルガリア文化復興のシンボルとなった

  宗教施設のみではなく、経済ブームの裨益者としては、市民施設もある:屋根付きの市場への改装、水飲み場の設置、町の中心部に時計塔=ムスリム式の時刻計と異なる、クリスチャン式の時刻計であった。


12.文化復興:教育、識字率、文学
(1)学校教育の普及
  慈善資金のもう一つの投資先は、教育だった:学校の建物、或いは読書室注:チターリシテ=chitalishte、図書館、講演会室、会議室、演劇場、などの機能を兼ね備えたもの。小規模文化会館と考えても良い)、学校備品、教科書、更に後世には秀才達への留学奨学金露、帝都、西欧への留学資金)、など。
  1867年にはPlovdiv市は5名の学生をパリ市に、4名をウィーン市に、2名を英国に、7名をロシアに、40名!をイスタンブールに留学させていた。

  教育運動がなければ、文化復興は不可能であっただろう。修道院付属の寺子屋として発足し、その後一部の村にも普及した寺子屋は、完全になくなったわけではなかったが、1820年代には、19世紀の地元学校施設としては、既に全く不十分と見なされた。

  既にかなり多数のブル人達が、外国、特に多数者がロシアで教育を受けており、他にも、プラハ市、その他の中欧のSlav系の文化中心地で教育を受けていた。仏革命と、ナポレオン戦争が、世俗教育という概念をバルカン半島にも普及せしめていた。一部の「革命」(注:社会主義革命ではなく、フランス革命的な意味での革命。民族主義的「解放、独立」という意味の方が強い。)主義文学が、ワラキア、モルダヴィア(モルドヴァ)、その他に頒布されていた。

  その上、一時的とはいえ、仏軍は、ダルマチア海岸部、イオニア諸島、などを占領した。イオニア諸島は、その後1815--1864年の期間英国信託領として、大英帝国が支配した。一部の冒険主義的ブル人らは、ギリシャにおける独立戦争に参加し、そこでも新しい西欧の、一般国民教育という概念と接触した。ギリシャ人が独立を達成後には、多くのブル人達が、ギリシャの学校、大学に留学した。・・・これらの経験が、ブル人の間で、より高度な教育が必要であるとの意識を拡大した。

  Sofroniy Vrachanskiの弟子で、修道僧であったネオフィット・ボズヴェリ(Neofit Bozveli)は、1824年に、スヴィシュトフ(Svishtov、ブル中北部、ドナウ沿岸の町)神学校において、スラヴ語による典礼教育を導入したが、多くのブル人若者達にとっては、今や、自国語による教育は、宗教教育ではなく、世俗教育であるべきだった。

  しかし、実際に最初の世俗教育がブルにおいて実施されたのは、10年後の1834年のガブロヴォGabrovo、ブル中部の町、商人の町として有名)であった。本件Gabrovo schoolは、Vasil Aprilovが設立し、Bell- Lancaster system(年長の少年が、年少の少年を教えるやり方)にて指導された。その後世俗学校は1840年までに13校に増え、更に1850年には、ほぼ全てのブルの郡(注:郡=オプシチナーのこと。ブルにおける自治体の中核的な単位であり、日本で言えばほぼ市町村の単位と思えばよい)において世俗学校が存在するようになった。

  1840年にプレーヴェン(Pleven、ブル中北部の町)では、最初の女子校が開校され、他の町でも女学校の設置が競われた。

  大部分の学校は、初等教育しかカバーしなかったが、中等専門教育学校もいくつか設置され始めた:(ア)Svishtovの商業専門校、(イ)Prilep、Shtip町(注:プリーレップ、シュティップ、二つの町共に、現在はマケドニア共和国の領域)の教員養成学校、(ウ)Samokov町(ソフィア県)、Lyaskovets町(ヴェリーコ・タルノヴォ市のすぐ東)のPetropavlovsk monastery系列の神学校。

  1878年のブル独立までには、ブル全土に2000もの学校が存在した。これらのほぼ全てが、現地のギルド、或いは村役場、或いは町役場によって資金提供されていた。

(2)ブル語文法、標準語、正書法の採択
  上記のような、教育面での達成は、教育運動が開始されたときの低い水準に鑑みれば、まさに驚くほど急速な発展といえる。1820年代には、教材すら何もなかった。

  1824年ブラショフ(Brasov、ルーマニアのトランシルヴァニア地方南東部の町)で、ペータル・ベロン(Petqr Beron)が、Riben Bukvar(Fish ABC)と呼ばれる「国語教科書」を出版した。この教材は、ギリシャ語の教科書をモデルとしたもので、文法指導の概説、一般情報、などを含んでいたが、教室で直接使用するには適していなかった。ギリシャ語教科書をモデルとした、他の教科書も、次々に考案、出版された。しかし、ブル語に関しては、未だに標準正書法、文法が確立されておらず、この故に、標準教科書の作成が困難であった。(小生注:このベロンの著作した『魚の教本』は、実質的にはギリシャ語の教科書の模倣に過ぎない・・・その他の学術的には厳しい評価もあるものの、出版当時には『初等教科書』として一番ブル人一般の間で歓迎され、広範に印刷・普及された本であった。その初等教科書として果たした影響力の大きさは、無視できないはずだ。

  修道院の僧侶達が、当時の言葉で文章を書く場合、一つの文章の中においてすら、一つの原則に沿って書くことができなかった。標準語、標準文法、などを確定する必要性があった。正書法・文法を議論しているとき、文語においては名詞の格変化(口語体では既に格変化は消失していた)を維持して書くべきかどうか、或いは口語で既に確立されていた後置定冠詞を文語でも認めるか、が大きな議論の的となった。

  Venelinは、ブル語をロシア語などの他のスラヴ語と近づけるために、後置定冠詞は廃止すべきだと議論した。右議論は、後の教育運動家で、ロシア警戒論者のIvan Bogorovによって、激しく論駁されている。
  1844年Bogorovが出版した文法書が、一般的な支持を得た。

  1870年代に、標準文語に関して、合意が得られたが、標準語としては、「東ブルガリア」*のGabrovo方言が主として採用され、基本的にBogorovの説を採用していた。

  【*注:ガブロヴォ市は、現在のブルの版図から見れば中部だが、独立前の当時、ブル人の居住地域概念は、今日の「マケドニア地方(西部)」も含んでいたので、その意味では、ガブロヴォは極めて「東部」に偏った地域と言えた。
   やはり西部のひとつ、ソフィア地方も、特殊な「ショーピ方言」で知られる地域だったから、もちろん標準語には向かないが、マケドニア地方の方言を無視して、東部方言を標準語に採用したのは、当時のブルの経済、文化の中心地が、イスタンブールにより近いブル「東部」にあったからと思われる。当時のインテリの多くが、「東部」の山間部の都市の出身者なのだ。

   もっとも、マケドニア地方のインテリ達も当初は、このガブロヴォ方言に基づいた標準ブル語を受け容れ、主に右に基づき著作していた例が多いのも事実であり、その後の歴史で、セルビアがヴァルダール(Vardar)渓谷のマケドニア地方を併合し、現地のブル人住民を教育して、「マケドニア人」という別民族を徐々に創設していったという経緯さえなければ、「二つのブル民族」(ブルガリア人とマケドニア人)が生まれる、という不思議なことにはならなかったであろう。


(3)読書室=チターリシテ=Chitalishte
  読書室は、独語のKulturheime、英語のCommunity Centre的なものと考えてほしい。図書、新聞などを読むことができるほか、講演会、演劇上演、秘密会議、陰謀、などにも活用された。また、成人用の識字教育も開講されていた。最初の読書室はセルビアに出現したが、ブルで最初の例は、1856年Svishtov町に建てられた。急速に普及して、1878年までに、186の読書室が存在した。

(4)出版 
  最初の近代ブル語出版物は、Sofroniy Vrachanskiによる日曜説教集で、『Nedelnik』の題名で、1806年ブカレストで発行された。(注:Nedelnikとは「日曜説教集」という意味。ギリシャ人僧侶のNikifor Theotokosによる「Kiriakodromion=(ブル語)Nedelnik」という著書にもとづく。この説教の中で引用された聖書テキスト部分に関し、モスクワで発行された「教会スラヴ語版聖書」のテキストの文章の一部を、思い切って当時(19世紀初頭)のブル語口語に翻訳した形で印刷した。当時の一般ブル人には、既に「教会スラヴ語=古ブル語」は難解だったから。

  同年から1834年までに、ほぼ毎年1冊弱の割合でブル語出版物が刊行され、一番多い年で、年間3冊だった。但し、1820年代の経済回復に伴い、その後は出版数が増え、1821--30年の期間=9冊、1831--40年=42冊、1841--50年=143冊、1851--60年=291冊、1861--70年=709冊と増えた。

  当初ブル語出版物は、オスマン帝国の外で印刷され、基本的には教師用のマニュアル、教科書などだったが、印刷設備が増えるにつれ、その他の本も発行され始めた。

  オスマン帝国内における最初のブル語印刷機は、ようやく1840年に、小アジア側のSmyrna(Izmir)市に出現した。右印刷所は、ギリシャ人が所有し、Slav語用活字を米国から輸入したが、右輸入を依頼したのは、British and Foreign Bible Societyだった。同年、帝国欧州部では、サロニカ(Salonika、今日のテッサロニキ)にブルガリア語の出版所が設立されたが、これも同様に、宗教目的で、初めてブル語口語の聖書、その他の宗教書を大量生産することが目的だった。

(5)定期刊行物 
  他方Smyrnaの印刷所は、世俗的出版にも使用され、1844年Konstantin Fotinovは、Lyuboslovie(Love of words)を出版するのに、同印刷所を使った。この雑誌は、ブル語による最初の定期刊行物といえるものだったが、2年しか続かなかった。人気がなかったのは、古ブルガリア語を使用していたからかもしれない。

  実質的な、最初の新聞といえるのは、イスタンブール在住のブル人社会が購入した印刷機を使って、Ivan Bogorov編集の下同地で製作された『Tsarigradski Vestnik(Constantinople Gazette、帝都新聞)』である。同紙は、1848年創刊され、1861年まで発行された。このように長続きした新聞は、珍しかった。解放(1878年)までの期間、ほとんどの雑誌、新聞は短期間しか存続できなかった:1844--78年の期間に、90の定期刊行物が出現したが、33件のみが1年弱続き、10件のみが5年以上続いた。90件のうち、56件が新聞で、34件が雑誌。また90件のうち、34件がオスマン帝国内で出版され、56件は外国のブル人社会で出版、後者のうち、43件(77%)はルーマニアで出版された(21件がブカレスト、13件がBraila)。

(6)学者らの支援 
  教育、文化復興の運動には、学界からの支援も忘れてはならない。1823年ブラショフ(Brasov)市(独語ではKronstadt)で、Vasil Nenovichが、ブル語を文章語として使用すること、ブル語での出版を促進するために、言語協会(Philological Society)を創設した。もっとも、この段階では、ブル語標準語、文法などについて、いかなる合意もできておらず、かつブル語の活字、印刷機もなかったので、自然消滅した。

  1856年イスタンブールで創設されたブル語文学協会(Society for Bulgarian Literature)は、よりタイムリーな試みであった。同協会は、1857--62年の期間に、隔週刊の『Bqlgarski Knizhitsi(Bulgarian Papers=ブル書籍(雑誌))』を出版し、最盛期には600名もの購読者を誇った。
  同種の協会で、最も成功したのは、Brailaに1869年に創設された「ブル文学協会(BKD=Bulgarian Literary Society)」であり、右は後に「ブル科学アカデミー(Bulgarian Academy of Sciences)」へと発展した。

(7)インテリゲンチャの出現 
  教育の普及と、識字率の向上は、ブル人社会内に、新しい階層の出現を促した:インテリゲンチャである。右には、僧侶、専門職グループ(中でも教師)、などが所属し、自分たちの多くが出自した農民層との関係を維持していた。インテリと農民との連携こそは、19世紀後半におけるブル民族成功の基盤であった。

(8)近代ブル文学の創設 
  1840年代に、近代ブル文学、特にDobri Chintulovによる詩の創造への動きが見られた。1870年代には、対オスマン蜂起でその後すぐに落命するHristo Botevが、真に詩の名に値する作品を生み出した。

(9)近代ブルガリア芸術 
  1840年代には、それまでの形式主義を打ち破って、近代絵画が生まれ始めた。新しい色彩感覚と、それまでは題材として取り上げられることのなかった民俗的題材が絵画とされるようになり、このことが宗教画にさえも新たな生命を吹き込んだ。また世俗絵画においては、Zahari Zograf*が、実在的な人物像を描き始めた。(*注:Z.Zograf自身は、フレスコ画、イコン画などの宗教画家だが、個人的に、母親像、自画像、友人像などの肖像画を描いていた。肖像画に関しては、仏人画家などから学んだ手法も採用した。

  ブルガリア的な木材彫刻では、民俗的な題材が、新しい傾向を生んだ。教会音楽でも、18世紀末頃には、明白にブルガリア的な形式が確立され、1840年代には、最初のアンサンブルが結成された。
  1840--60年の期間に、ブルの文化的、芸術的な活動のほぼ全てが、大きく変化したが、その目的は、自民族の教会(ブルガリア正教会)の創設と、近代ブルガリア民族の形成であった。



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