偉人百選:アンドレイ・リャプチェフ

  86番目の偉人は、現在のマケドニアResen町生まれで、珍しい少数民族系の出自(ヴラフ)であるAndrey Lyapchevという政治家です。同人は、Stambolovとは対立したPetko Karavelovと親交を結び、民主党、或は民主合意党の党首として、ブルの政界で重きをなした人物です。

  若い頃は、マケドニア解放運動内の最高委員会派に所属していたのですが、その後他のマケドニア・グループ人士と共に民主党に移行しました。西欧留学は、Stambolov派からの追及を逃れての「半亡命」生活でもあったという。しかし、西欧の大学で金融・経済を学んだことで、後に経済閣僚として、有益な仕事もできたようです。
  バルカン戦争にも志願して参加したが、激戦の前線には参加できず、不満が残ったという。第一次大戦末期には、蔵相の身分でしたが、Ferdinand王の意向を無視してSalonica市に赴き(米大使館員が同行したという)、協商国側との停戦協定に署名しました。
  第一次大戦後の農民党政権により逮捕、起訴されましたが、1923年6月9日のクーデターで「軍事同盟」による右派政権が発足すると、恩赦され、民主合意という政党を主導して政界に復帰しました。

  1926--31年の期間は、与党民主合意を背景に政権を担当し、左派農民党、右派「軍事同盟」政権下、憲法、或は法律無視の極端な政治が続いて混乱した世情に安定と秩序をもたらすことを心掛け、また、外交では親英路線を採用して国際借款の取り付けに成功するなど、着々と成果を挙げたのですが、世界恐慌による経済面での悪化と言う手痛い反撃を喰らい(このため総選挙に敗北)、また、自身の健康の悪化もあり、退陣を余儀なくされました。
  1933年11月にALが死亡すると、徐々に世の中はまたもや右傾していき、1935年からはBoris王が独裁体制を敷くこととなりました。AL時代がもう少し長続きしておれば、親英路線がより定着し、独中心の枢軸国側に再度参加して、第3次国家破滅を招くことは無かったのかも(??、歴史に仮定は禁物ですね!)。

86.アンドレイ・リャプチェフ=マケドニア地方生まれの、親英政策を採用した大政治家(Andrey Lyapchev、1868--1933年)
    Andrey Lyapchevの言葉:「静かに、優しく(So krottse i so blago)*」。
     (*注:ブル語版wikiによれば、この言葉には更に次の言葉が続く由:「se otiva nadaleko」・・・すなわち、「静かに、優しく歩めば、より遠くに到達できる」と言うのが全文らしい。政界内で、結局は常に「穏健派」を貫き、調停役に回った人物らしい言葉だ。)

  Andrey Lyapchevは、ブル第3王国時の、興味深く、影響力のあった政治家だ。

(1)出生、教育
  Andrey Tasev Lyapchevは、1868年11月30日、現在のマケドニアのResen町(マケ南西部、Ohrid市から東方)に生まれた(http://en.wikipedia.org/wiki/Andrey_Lyapchev)。
  (注:wiki英語版によると、ALの祖先は、18世紀にムスリム化の強制を嫌って、現在のギリシャ領北部(Edessaが中心都市)から逃れてResen町に移住したMeglena -Romanianと呼ばれる少数民族(普通の遊牧系ヴラフ(Vlah)族とも少し違うが、大きく言えばVlahの一派らしい)の陶工の家系に属するという。道理で普通のブル人とは少し容貌が異なるような気がする。
   とはいえ、同人は、ブルのPlovdiv市の高校に学び、最初はこの高校で他のマケ出身者たちと共にグループ活動したが、やがては完全なブル市民となったようだ。ちなみに、小生がマケに滞在した時も、ヴラフたちは普通のマケ人らと融合していて、少数民族としてマケ人と対立するということは無かった
。)

   (注:以下は、『ブル政府百科事典』掲載のAL経歴などから引用する。)
  1877--93年(24歳で大学を終了):Bitola市、Solun(Salonica)市、Plovdiv市で学んだ。大学では、金融・経済学、歴史をZurich、Berlin、Parisで学んだ(各地の大学で講義を聞いたが、正式な卒業はしなかったらしい)。
   (注:wiki英語版によると、Solunのブル高校での教師が、後の最高委員会議長Trayko Kitanchevで、TKがPlovdiv高校に異動したので、ALも追随してPlovdiv高校に行ったという。後に、ALが最高委員会機関紙を発行したのも、Kitanchevとの繋がりが由縁であるらしい。
  また、ALは1885年の「南北合併」、セルビア・ブルガリア戦争にも、高校生ながら参加したらしい。ALはマケ出身亡命者の一人で急進的ナショナリストのDimitqr Rizovらとともに、1886--88年の期間、マケ解放運動に関し慎重姿勢のStambolov政権と対立関係に入り、投獄されそうになったので、1888年秋ころに国外に逃れ、スイスに留学したらしい。1894年Stambolov政権が崩壊したので、帰国した
。)

(2)職歴
1894--1905年(25--36歳):大蔵省に勤務。また、政界で活発に活躍した。Demokraticheskata partiya(民主党)に所属。次の二つの新聞の編集委員:『Mlada Bqlgariya(若いブル)』(この新聞はDimitqr Rizovが発行、ALは1895年から寄稿し始めた)、『Reformi(改革)』(この新聞は、最高マケ委員会(外部系)の機関紙)。
1908--1910年(39--41歳):Al.Malinov政権(民主党単独政権)で、商業・農業相。
1908--1911年、1913--33年:第14期、16期--23期普通国会で、国会議員。
1910--11年:Al.Malinovの第2次政権で大蔵相。
1912年:WienでKonstantsa Petrovich(ブル人)と結婚。(注:二人の間に子供は生まれず。KPは慈善活動に励んだ女性で、児童保護連盟総裁(1942年)にまでなった。)

1918年(49歳):Al.Malinov政権で、大蔵相兼農業・国家資産省担当。(注:この時ALはインフレ退治のための緊急措置として、一部の物品税引き上げ、緊急利潤税の課税、外貨取引・輸入を厳しく規制・・・などを採用したという。
1918--19年:T.Teodorov連立政権で、戦争相。
1922--23年(53--54歳):第2次国家破滅の責任者の一人として、BZNS政権により逮捕、起訴された。

1923年6月9日クーデター後:恩赦で解放された。また、「民主合意」の指導者の一人となった。
1926--31年(57--62歳):首相兼内務・保健大臣。
1933年11月6日(8日と言う説もある。64歳):ソフィア市自宅で死亡。

(3)マケドニア解放運動に参加:ジャーナリストとしても
  ALは、活発にマケ解放運動に参加し、記者活動を開始し、最高マケ委員会の機関紙として『Reformi』紙を創刊した(同紙は1899年1月に創刊--1905年11月まで存続)。

  (注:wikiブル語版によると、ALは1895年に新設の「マケ委員会」書記として指導部に入ったほか、1898年まで最高委員会委員だった。VMOROと最高委員会の間の対立関係の和解・調整に苦慮したという。他のVMOK(最高委員会)委員たち(Trayko Kitanchev、Aleko Konstantinov、Mihail Takev、Nikola Mushanov、Dnail Nikolaev)同様に、ALも1896年Petko Karavelovが創設した民主党の支持者となって行ったという(PKも反Stambolov派)。PKとALの関係を仲介したのは、Aleko Konstantinovであったという。1901--02年、PK内閣の時に、ALは大蔵省の直接税担当官に任命された。
  1903年、PK死亡後民主党党首にはAl.Malinovが就任し、ALとMihail Takevが副党首となった。ちなみに、AL、Takevの両名は「マケドニア・グループ」としてFerdinand王からは警戒され、1911年の総選挙で民主党が敗北すると、セルビアなどとの「バルカン同盟」結成を目論んでいたFerdinand王はMalinovに退陣を命じ、Ivan Geshov内閣に道を開いたという
。)

(4)政治家としての活動
  ALは、民主党幹部として成長した。1908--11年、及び1918--19年には、大臣職を務めた。
  ブルの第一次大戦への参加に終止符を打つため、Solun(Salonica)停戦条約にブル代表として署名した(1918年9月29日)。
  更に、Solunから帰国直後国会での演説で、ALは第2次国家破滅の責任者として、Ferdinand国王の廃位を提唱した:「自分は、マケドニア地方の生まれだが、自分の祖先の土地(Rodina)の上に置く墓石に署名せざるを得なかった。我々にはもはや、ブルの土地しか残っていない。その将来のことを考えるべきだ。Ferdinand王にはブル国民の満足心を満たす責任がある(注:自分の廃位で)」。

  第一次大戦直後、ALは「ブルでは初めての文民出身の戦争相」となった。また、BZNS政権が成立(1919年10月--1923年6月9日)すると、Al. Malinov内閣の他の大臣らと共に、第2次国家破滅の責任を負わされて、起訴された。

  1923年6月9日クーデター後には、ALは「民主合意(Demokraticheski sgovor)」党の創設者の一人となり、更には、第2次「民主合意」政権(1926年1月4日--1931年6月29日、44--46期政府)の首相となった。また、この政権時には、外交政策として、伊、英両国(旧協商国側)との接近政策を採用し、英国の保守党政権からも高く評価されたという。

(5)功績
  この『百選』でALの座席が確保される理由は、同人の統治手法が、2回にわたる国家破滅の結果、疲労困憊していたブル社会内の緊張を緩和し、人々に一定の平安をもたらしたからだ。

  ALが統治した時期は、外交的に外からは孤立し、国内では混乱が続いていた、そういう極めて困難な時期であった。Aleksandqr Tsankov政権が崩壊したことで、国会内での手続きを経ず、力ずくで政権を奪った、いわゆる「6月9日世代」が葬り去られたのだ。そして今回のALが率いる政権は、「他の世代の政治家たち」の統治を意味した。この世代は、議会制民主主義の理想と原則を吸収してきた世代なのだった。

  ALとその内閣は自らの統治に際して、次の3つの方向において相当な前進を遂げることができた:①亡命して来た移住者たちを定住させること、②国際金融機関から借款を取り付けること、③ブル国軍を再生すること。

   (注:②に関しては次の2回の国際借款がある:
(1)1926年末に、国際連盟が保証する「亡命・移住者支援借款」につき戦勝国側と合意に達して、25万人に上る亡命者たちに資金援助する(同年12月に国際金融機関とブル政府の間で借款が合意された)ことが可能となった由。ALが、対英接近策で英国との間に信頼関係を築いたことが奏功したのだ。

(2)また、1928年末には、またもや国際連盟の支持する「安定化借款」が決まり(国立銀行資本金を補充するのが目的)、ブルのレフ(Lv)貨幣の安定化、交換性回復が達成された。ちなみに、この借款は、英米両国が、ブルに対し「反ソ連政策」を継続するよう縛るための資金援助でもあったという
。)

  上記の結果は、10年ほど後に、大都市近辺に出現した巨大な亡命者の住宅地域に見えている。何十万人ものブル人達が、数次の戦争を経て(バルカン戦争+第一次大戦)、祖国に避難場所を求めたのだ。彼らは、生存のための職場も、住居も、農業用の道具も、或は金銭も無しに、逃げてきたのだ。これらの大勢の人々のために、ブル国内に居場所を提供せねばならなかった。2回の国家破滅の結果として、領土を奪われ、高価な賠償金を課されたブル国民にとっては、重い負担であった。国際社会内で孤立し、全ての国境は敵意に満ちた隣国によって包囲されていた。

  その上、ALは全ての仕事を、国会における審議を経過しつつ遂行せねばならなかった。実は、第22次普通国会は、その立法活動の面では、極めて専門家的に機能したとも言える。なぜなら、272名の国会議員のうち、146名が大卒だったし、103名は法学部卒だったから。  

(6)議会制民主主義を実践した
  ALの一番大きな功績は、国政を遂行するに際してしっかりと原則を貫いたことだ。今でもこれらは、模範となり得るものだ。
(ア)第1の原則:行政部門と国会の間の相互信頼関係
  同人は、執行(行政)部門と立法部門の間の相互関係をきちんとした基礎の上に置いた:担当省庁を率いて責任を負う大臣たちと、立法権を握る国会と言う、二つの権力の間の関係だ。
  まず同人が強調したのは、信頼関係だ。ALは次のように述べた:「ある大臣が、もし、国会院内で多数派を構成している人々の願望と傾向をきちんと勘案しないならば、同人は長く大臣の椅子に席を占めることはできない。立憲主義国家では、国会議員と内閣の間に、相互信頼に基づく、誠実で恒久的な合意が存在しないならば、良き統治は不可能だ」。

(イ)第2の原則:強制力を使うな
  ALが掲げた第2の原則は、大臣たちが国政担当者として保有すべき資質と政治家としての職業倫理だ。今後もブルの政界用語として永遠に残るべきは、同人が言ったと言われる次のフレーズだ:「一番良き統治とは、強制力無しで、むしろ『静かに、優しく』実行される統治のことだ」。

  ALの大きな功績としては、1923年以来、各種の政治組織間で戦われた、相互敵意むき出しの論争を経て蓄積されていた巨大な社会的緊張を緩和したことがある。もし、本格的な内戦がブルで勃発していたとしたら、どれほどの悪い結果がもたらされたかに関しては、単に推測するしかないのだが、次のことは確実に言えよう:もしこのような内戦が生じていたら、既に多くの戦死者を出し、経済的困窮に喘いでいた国家にとって、国民の将来は無かったかもしれない、と。
  (注:1926年2月に、AL政権は大規模な恩赦を実施し、1923年6月9日以降に逮捕、投獄されていた7千名以上を解放したという。内、1千名強ほどは、Tsankov政権が、「国家防衛法」で裁いた人々であったという。恩赦の結果、国外逃亡していたBZNS系を含む亡命者らが帰国できたという。また、ALは共産党系に対しても寛大な措置をした。)

(ウ)第3の原則:小規模金融で民生を支援
  もう一つ忘れてはならない功績は、ALがイニシャチブを採って創設された「中央協同組合(TsKS)銀行」の設立だ(1910年蔵相として)。この金融機関を通じて、多くの小規模組合企業が融資を得ることが可能となった。
   (注:wikiブル語版によれば、1910年の蔵相期、ALは、自治体(郡)の財政的自立性向上にも寄与したという:家畜税(beglik)、学校での授業料、道路税を自治体財源とした。)

(7)総合評価
  極めて困難に満ちた時期にALがブルの発展に対して成し遂げた功績として、一番重要なことは、「政治的現実主義の感覚」をもたらしたということ。この感覚が、国内情勢の安定化に寄与したし、正常な欧州国家として立て直したのだ。
  ALほどのランクで、かつ同人ほどの貢献を成した人物は、ブルの歴史においてそう多くは存在していない。この故に、我々は、今回ALをこの『百選』の中に席を設けたのだ。
   (注:wikiによれば、総体的には穏健な統治を心掛けたALだが、他方でその出自(マケ出身)、及び若い頃の経歴(マケ解放運動家でもあった)からか、ALはVMRO活動に対して寛容であったので、隣国のユーゴ、ギリシャからは非難されたという。)

  
(8)死亡
  1931年6月の総選挙に敗れて政権を失った(世界恐慌と言う国際経済情勢の悪化が大きく影響した)ほか、その後健康が悪化し、Berlinで診断を受けたところ、肺ガンと判明した。
  1932年3月帰国し、5月に民主合意の党大会が開催され、この大会でAl.Tsankovのグループが離党した。他方、ALとAtanas Burovの派閥が民主合意党主流として残った。
   (注:ALが健康で活発なころは、妥協、融和が得意なALのおかげで党内の亀裂は避け得たのだが、ALが病気で不活発となると、民主合意内のTsankov派閥は抑えきれなくなり、離党していったようだ。)
  1933年秋、再び独のBerlin市、Kiel市で治療を試みたが治らず。
  同人は、1933年11月6日(65歳の誕生日直前の64歳)に、ソフィア市で死亡した。
 

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