ブルガリア研究室

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<<   作成日時 : 2008/12/07 16:15   >>

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  10月に小生の二女が来日した際に、ロンドンで買ってきてくれたKapka Kassabova著の『Street without a name』(Portobello Books Ltd、2008年)という本を、最近ようやく読み出してみて驚いた。社会主義時代、社会主義陣営内に閉じこめられていた、いわゆる東側市民を何が悩ませていたかを再確認させてくれたからだ。まだ読み始めて1/3程度にしかならないのだが、一応社会主義時代の物質的欠乏(注:TsUM=ツムという中央百貨店ですら、妹Assiaのための「趣味の良いブーツ」を買うために行ってみると、お客が新規「供給*」品の「赤いブーツ」に殺到して、品物を奪い合い、将棋倒しとかの人身事故を防ぐために民警までが警備に出動。諦めていたのに、偶然の幸運で買えた経緯が紹介される。)、Mladost 3団地におけるあまりに殺風景で貧乏くさい、無機的な風景などが的確に描写されていて、小生の記憶も活性化されたので、少しこの社会主義体制における物資欠乏を中心に書いてみる。(*注:著者は、社会主義国には、商品を市場に「供給」してやるという概念しかなく、生産者が消費者が買ってくれそうな良品を生産・「販売」して、需要を喚起するという概念がなかった、という。)

1.著者紹介 
 著者の家族は、父親が技術大学の数学教授・エンジニア、母親がIZOT(電算機製造会社)勤務のOLという一種の「中産階級」なのであるが、一応普通の世界基準から見れば、インテリ家族で、妹のAssiaと共に4人家族で、10年以上も待った後1979年、Mladost 3団地に2DK(日本風に言えば1LDK)のアパートを獲得し、Skodaの中古車も保有する。

  Kassabova一家は、1990年(Kapkaは17歳)に渡航の自由がブル市民にも確保されると、まず英国に移民し、次いでNZ(ニュージーランド)に移民した。
  その後Kapkaは、NZからScotlandのエジンバラに再移住した。2006年、移民後16年を経て、著者は帰国し(32歳)、自由化後の祖国を見つつ回想録を書いている。

2.西側市民に対して抱いた違和感
  まずこの著書で強調されるのは、彼ら東側市民が西側市民に対し、或いは資本主義社会の「物質的繁栄」に対して、どれほどのあこがれと、羨望の念を抱いたかと言うこと。そして西側市民がこれらの物質的な豊かさを当然視して、東側市民の焦燥感、欠乏の実体にいかに無関心であるかに悩み、やりきれない相互理解の不可能性に激怒していたこと。 

  小生自身、このブログを始めた昨年の初期には、こういった社会主義体制の欠陥(消費者無視で、市民は気の利いた商品の欠乏に毎日苦しむ)を、それには全く無知な日本人達に、少しでも理解させ、現在北朝鮮の中で、ブルガリア以上に物資欠乏と自由欠如に泣いている「日本人妻」、「拉致被害者」達の境遇にも、理解を広げようという気持ちもあったのだが、いざ自分自身が日本社会の物質的繁栄の中にいると、結局10数年間もそういう欠乏社会の中で暮らした経験にもかかわらず、これをあっという間に忘れて、切実にそれを感じることが出来なくなっていることに、この本のおかげで、気付かされた。

  例えば、日本人としては、豆腐がないとか、モヤシですら手に入らないとかは、外国生活だからしょうがないという面もあるが、冬期にジャガイモさえも売っていないとか、キャベツですら厳冬期になると手に入らないし、肉類でもいつでも売っているとは限らないこと(我々の場合、住居のアパート近くにあった肉屋では、豚肉が時折入手できたほか、他の商店で鶏肉も入手できたが、牛肉とか羊肉は、滅多に入手不可能だった)には、驚きであった。

  よく、社会主義時代でも、特権階級には、肉類など良質の品物が、自由に入手可能だった、などと書かれた書物を見るが、我々の経験では、そのような特殊ルートでの供給体制に便乗して、牛肉を買ってみたこともあるのだが、その牛肉は決して上質ではなく(要するに、肉牛からの肉ではなく、おそらく老いた乳牛を殺害して得られた低品質の牛肉)、まずかったので二度とこのルートを使わなかった。すなわち、特権階級とはいっても、最上層部以外の場合には、特に上質の商品を買えるというようなことは決して無く、商品の品質は悪かったと断言できるし、注文から入手までに、1週間はかかるなど、便利でもなかった。

3.文明的な商品
  この本でまず出てくる面白い話しは、オランダでの仕事に父親が招待されて半年間同国に滞在し、この期間に父親が招待する形で、母親のみが(姉妹は、人質としてブルに残った)オランダに短期訪問するのだが(母親の外国渡航<出国>査証はブル当局による1ヶ月以上の審査後に、ようやく許可された)、この期間に父親は、現地で支給される外貨を節約して、貴重品を購入し、持ち帰るために、半年間毎日卵とパンとインスタント・コーヒーのみで生活し、やせ細って帰国してくるのだ。母親は、初めてオランダの父親の勤務先に行ったとき、トイレが清潔で、豪華すぎるのに驚きすぎて気絶し、更に百貨店では、あまりに豊富に商品の選択肢があることに驚き、かつ自国との格差に気分を悪くして、気絶する。ともかく、父母が一緒に帰国する際には、節約した外貨で、Phillips 社製のカラーTV(リモコンつき)、同社製のステレオ(音響機器)、気の利いた衣服、気の利いたお菓子、その他の贅沢品をしっかり買い込んできて、貧乏じみていたアパート内は急に文明化するのだ。

4.西側市民の鈍感 
 上記の翌年、父親が滞在中の同僚だったオランダ人の家族が、「ブルガリアでキャンピングを楽しみたいから、夏に来る」と連絡してくる。K家では、もてなしのために、種々の食品、食材を町中探し回って備蓄すると共に、知人達の間を探し回ってテントを入手する(黒色の野暮ったいロシア軍用テントが、なんとか借用できた)。また、遠距離の走行に備えて、毎日のようにSkoda車の下に潜り込んで、油漏れとかの修理に奮闘する。
  ところが、ある朝オランダ人達は、ぴかぴかの巨大なキャンピングカーをMladost 3団地に乗り付けてきたのだ。団地の誰も、このような近代的な車を見たこともなかったし、オランダ人達の宿舎は、これで大丈夫だが、K家としては、今更野暮ったいテントは恥ずかしくて出せないので、地方では民宿を利用することとした。

  Bansko町でキャンプしたとき、オランダ人達は、肉は既に調達済みだから、ポテトを買ってきてとK家に頼む。夏とはいえ、B町の商店のどこを探してもジャガイモは売っていない。父母が呆然としつつ、民宿のオーナーに相談してみると、「店で売っていないのは当たり前だろ、うちのを分けてやるよ」と言ってくれ、2kgのジャガイモを確保してバーベキューが成立した、という(当然、オランダ人達は、ポテトの調達だけで、どれほどブル人市民が町中を駆け回り、汗をかいたか知らない)。キャンピングカーの中では、オランダ人の子供達は、ブリキ缶の中からチョコレートでカバーされたビスケットとか、チューインガムとか、種々の菓子類を取り出して食べまくっているし、ジュースは、紙パックからストローで飲む。他方、KapkaとAssiaの姉妹は、菓子類を何も持っていないのだ(ブル人のお菓子とは、ヒマワリの種に塩をまぶした原始的な物くらいしかない)。

  休暇が終わり、いざ帰国すると言うときに、オランダ人達は、「この団地の家具屋を見たけど、本棚もベッドも、種類は少ないけど使えそうなものを売っているし、何も問題はないように思った」と言い残して去っていく。著者は言う、「彼らは、家具屋に置いてある商品はサンプルであり、ブル市民達は、注文してから何ヶ月も商品の到着を待たねばならないし、しかも本当に注文票に記入したからと言って、商品が入手できるかは運次第ということを彼らは知らない」と。実際、上記のポテトですら、一種の「こね」(この場合は、民宿の主人と客という関係だが)がなければ入手できなかったし、あらゆる商品が、何らかのコネを経由しないと、入手できないのが、欠乏社会の有り様だった。

5.欠乏品はコネで入手
  小生家族の記憶では、昔我々が雇用していた女中が、元ツム百貨店の大物店員だったようで、何か普通に入手できないような、少し気の利いた商品は、妻がこの女中と一緒にツムに行けば、いわゆるカウンターの下から出てくるのである。つまり、商店の店員は、需要の多い商品は、棚には陳列しないで、知人とか、親戚とか、自分自身が「売りたい人」が現れるまでは、カウンターの下に隠匿するのだ。我が家の女中自身が、実はこのような商品「横流し」の専門組織家で、共産党体制の中でこれが問題化して、頸を切られ、「外国人の女中」という身分に降格されたらしい。もっとも、外国人のところで勤務すると、普通より給与はよいし、勤務時間も短くて楽なので、結局は彼女は、転職に際してもコネを利かせて「外国人の女中職」に潜り込むことに成功したらしいのだが(外国人である小生は、ある役所を経由してしか女中を雇えないので、役所に斡旋を依頼して雇用したのだ。彼女は、この役所の知人に賄賂を支払っていたに違いない)。

  もっとも、いくらコネを使っても、社会主義圏ではそもそもろくな商品が生産されていないので、結局我々のように、国外からも調達することが出来る外国人は、ブルの国外から物資を調達することとなる。ギリシャとか、ウィーン(オーストリア)からは、果物、野菜、肉、ソーセージ類、ブルにはないブルーチーズ、エダムチーズとか、すき焼き用の薄切り牛肉とかも買い込んできたし、おいしいパンまで各種を買い込んできたものだ。(外国人用小学校に通う娘達のための昼食弁当は、基本的にサンドウイッチだが、西欧製の良質な小型パンに、ソーセージ・ハム類、セロリなどの、輸入以外に入手不可能な食材が不可欠だった。だから、こういう製品を西欧で買い込み、冷凍庫まで使って備蓄することとなる。)

6.ユーゴは、社会主義なのに、ある程度必需品が買える国だった
  一番ばかばかしかったのは、我が家としては欠乏品対策として、一番近距離で手軽に行けるところとして、週末の土曜日に隣国ユーゴのピロットの町まで車で日帰り旅行して、ピロットの町とか市場で、パン、バナナ、ジャガイモ、野菜、肉、時には自家製というので興味本位にシーレネ(フェタチーズ)まで買い込んだりしたこと。同じ社会主義でも、統制の少し緩い、「東側ではない」ユーゴの場合は、農業が集団化されていないので、冬でも農産物が売られていたし、バナナとか、チョコレートといった輸入品とか、それに少しは品質がましで、種類も豊富な肉、ソーセージ類なども売っていたのだ。
  特におかしかったのが、パンですらピロットの場合、店で自ら焼いて直売するパン屋があって(ブルでは、70年代半ば以前は、店で焼いているパン屋もあったのだが、その後は工場で大量生産したパンしかなくなった)、午前中には、焼きたてでおいしいパンが買えたのだ。但し、このパンは、ブルと基本的には同じ、低品質の小麦粉(ベータ種というらしい。北米とか日本は、アルファ種の小麦粉である)なので、翌日には不味くなるので、ピロットからソフィアに帰る車内でほとんど2/3ほど(1個が1kg近くある大きいパンである)は、子供達と小生夫婦4人で、食べ尽くすのだった。

  また、ピロットで感心したのは、個人農家用に、エンジン付きの耕耘機(日本で言えば旧式の手押しの小型耕耘機)とか、自動車用部品、大工道具、ペンキ類など、日用品、DIY商品に近いものとか、要するに消費者に必要な商品も売っていたこと。ブルでは、基本的に、消費者が必要としそうなものをほとんどどこでも、まず売っていないと覚悟すべきだったのに、ユーゴでは、ある程度の消費物資が調達できるようになっていたのだ(この本でも、K家は、マケドニアに住む祖父の家に旅行して、バナナが食卓に置かれているので、驚く様が描かれている)。マケドニア人は、ユーゴによる偏向教育によって、ブル人とは別の人種とされるようになったのだが、90年以降でも、多くのマケドニア人はブル人を軽蔑していた。その理由は、出稼ぎに外国へ自由に行けたユーゴの一部であったマケドニア人達は、家族の一部が西欧とか、豪州などに移民したり、出稼ぎしたりして、故郷に残っている親戚を「外貨で」支えたので、彼らはそれほど西側社会との格差を感じない程度に、物質面で恵まれていて、その故に「豊か」だったのに、ブルから会いに来るブル人の親戚達は、衣類にせよ、持ち物にせよ、ダサイもの、野暮ったいものしかなかったし、ブルの親戚の所に往訪してみると、自分たちよりずっと貧しい、悲惨な暮らしぶりだったからだ。

7.マケドニアの優位は、共産圏崩壊と共に消失
  歴史の皮肉というか、90年の自由化以降は、マケドニアの優位は消え失せ、ブルガリアが優位に立つことになった。もちろん、90年代の後半まで、相対的にはブルの方が貧しかったのだが、それでもブルの場合は、EUへの加盟が許されることが明白だった。すなわち、ブル人はマケドニア人より先に「EU市民(欧州市民)」となることが決まっており(07年に加盟が実現)、これに比して、マケドニアそのものは、いつEUに加盟できるか、見通しすら立たないのだ。(注:マケドニア共和国が、EU加盟できないおおきな理由の一つが、ギリシャとの二国間関係で問題となっていて、解決の糸口が見えない「国名論争」だ。ギリシャ側は、「マケドニア」という用語は、古代に「マケドニア帝国」を築き、ペルシャ、エジプトなどまで占領した「ギリシャ人の一派であるマケドニア人」という歴史から、ギリシャ人のみが自由に使うことを許されるべきであり、古代のマケドニア王国領域の一部であるヴァルダール・マケドニア地方を領域とするが、原住民たるギリシャ系ではなく、6世紀以降に入植したスラヴ系の子孫である現代の住民達が、「マケドニア共和国」という国名を名乗るのは、僭越至極である。最大限譲歩しても許容できるのは、「スコピエ・マケドニア共和国」、「北マケドニア共和国」という名称だと強硬に主張し、埒があかない。EUなどの国際機構において先に加盟国であるギリシャが断固反対し拒否権を行使するので、マケドニアの外交的活路が開けないのである。この理由で、国連におけるマケドニアの正式国名は、旧ユーゴ連邦マケドニア共和国=FYROMなのだ。)

  00年以降、ブルの新聞では、マケドニア人達がブル旅券を入手しようとして、色々賄賂を使ったりするようになったことが報道されていた。ブル人は、EU加盟候補国として、比較的容易にEU諸国の出入国手続きを通過できるのに、旧ユーゴ人のマケドニア人達は、「今後も域外国」の市民として、査証取得における旅券審査も厳しく、西欧への出稼ぎ労働も厳しく制限されてしまうからだ。冷戦時代には、ソ連と仲の悪いユーゴとして、西側諸国がユーゴ人を優遇して、出稼ぎ労働を認可したのに、ユーゴ内戦の頃から、ユーゴ人は、西欧では必ずしも歓迎されない市民になってしまったのである。


  

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